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第23話 記憶力と文章力のせめぎあいの件

12 記憶力と文章力のせめぎ合いの件  一日中スマートフォンを眺めていた。次々とメッセージや写真が届く。  様々な航空会社のロゴを付けた飛行機が並び合間を貨物車が走っている写真。 〈羽田空港定刻通りの出発。しばらく機内モードだよ〉 〈十五分遅れて高松空港到着。師匠はもううどんを召し上がってる〉  強面の男が大口でうどんを啜り込んでいる写真。松吉は何を食べたのか? 〈見て! 主催者様に栗林公園に連れて来ていただいた。夕方から近くのホールで師匠の独演会だよ〉  和風庭園をそぞろ歩く強面師匠。そして抹茶と和菓子の写真。だから松吉は? 〈ホールで調整中。今日は開口一番で〝道灌〟を勉強させてもらうんだ。しばらく電源は切るね〉  人のいない大ホール客席の写真。だから松吉はどこにいるのだ?  等々、松吉は自撮りなしで地方公演の様子を細かく伝えて来る。  直己は少しずつ文章を打ってみる。松吉が帰るまでに与えられた宿題を仕上げておかねばならない。  その夜は座敷に敷きっぱなしの松吉が寝た布団に入った。本城一高書道部の黒いジャージも畳んで置いてある。もうずっと松吉と共に寝ているような気がする。  頭の中の時系列が滅茶苦茶だが、 「母の悪口を言うな! 何も知らないくせに!」  と自分が叫んだのは昨日だったか。 「ねえ先生。家に一人なの? お母さんはいないの?」  松吉はただ質問しただけなのに。 「お兄さんの所に行ってるんだ。でも、先生がこんな大変な時に……」  と言いかけた時点で遮ったのだ。何故なら直己こそが言いたかったから。 「こんな大変な時に何故帰って来て庇ってくれないのだ?」と。  庇ってくれるはずもない。  初めから愛などなかったのだ。  そんなことはとうの昔に知っていた。  三十四年も生きて来たのだ。  それは自分が同性愛者だからかと疑った時期もあった。だからこそゲイ認識が随分と遅れたが、おそらく母は直己が異性愛者であったとしても同じだったろう。  ないものはないのだ。  父に似ているせいかも知れない。それだって別に直己のせいではない。婿養子に入った父が気に入らなかったのか。家のために嫌々祖父の部下と結婚したのか? その辺は知る由もない。  けれど、愛がないなどと認めてしまっては生きて行けない。  会ったばかりの松吉でさえすぐわかることなのに、気づかないふりをして来た。  こんなにも長い間。  せっかく知らんふりをして来たのに、ばれてしまった。  じゃあ、もう生きては行けない。愛はどこにもないのだから。 「死ぬしかないじゃないか!!」  直己は一人で泣いている。子供のように両の拳を握っている。嗚咽が止まらない。松吉の香りがそれを宥めてくれる。  スマートフォンに今考えたことを脈絡もなく書いている。これで松吉にわかるだろうかと首を傾げる。  何度も見返すのは削除しなかったメッセージである。 〈愛してる〉 〈めっちゃ愛してる〉 〈ものすごく愛してる〉 〈世界一愛してる〉 〈宇宙一愛してる〉 〈誰よりも愛してる〉 〈一番愛してる〉 〈死ぬほど愛してる〉  ふと書いて見る。 〈愛されたかった〉 〈めっちゃ愛されたかった〉 〈ものすごく愛されたかった〉 〈世界一愛されたかった〉 〈宇宙一愛されたかった〉 〈誰よりも愛されたかった〉 〈一番愛されたかった〉 〈死ぬほど愛されたかった〉  書き連ねる程に涙が溢れ出る。  そしてまたしばらく泣き続ける。  今ここで自死をしては清川の婆様に対しても申し訳がない。  生涯の秘密を打ち明けてくれた婆様に対する裏切りだろう。  婆様にとって〝同性愛者〟とは大好きだった長兄と喬木医院の若先生の二人だけなのだ。  二人とも死んでしまうなど惨いにも程がある。  明日まで生きていればいい。そうとも。松吉一門に破門されないために梅吉は生きるのだ。  真柴駅の改札口には駅長の加藤がいた。腫れた目の直己にちらりと目を留めたが黙ってSuicaで改札口を通るのを見ていた。  いったん本城駅に下り、急行で新宿に向かう。平日昼間の電車なのに座席は七割ほどが埋まっていた。  直己は座っている間、何故か居ても立ってもいられずに膝の上で両手を握り締めてじっと耐えていた。動悸が激しくなり、額に脂汗が浮かぶ。  一旦降りて休憩しようと思うのだが、急行は駅と駅の間が長い。閉塞感に絶叫しそうになる。  必死でスマホを取り出して、宿題の文章を綴る。 〝何故私は死にたいのか〟と書いて、しっくりせずに〝何故私は死ぬべきなのか〟と書き直した。この方が心に添う。直己は死ぬべきなのだ。  揺れる電車で小さなスマホ画面を見つめているうちに車酔いをしそうになる。新宿駅で下車する頃には真っ青な顔になっていた。  同じドアから降りた見知らぬ女性が、 「大丈夫ですか?」  と声をかけてくれた。 「大丈夫です。ありがとうございます」  久しぶりに大人の言葉を発した気がする。  あの家でずっと直己は幼児返りしていたのだ。  そんなことを顔見知りの精神科医に話した。  新宿セントテレジア総合病院精神科での担当医は、時々院内食堂で世間話をする顔見知りだった。構えることなく話が出来た。人心地つく。外科の医局で無断欠勤を謝り、しばらく休むと伝えて病院を出る。  処方された精神安定剤、抗鬱剤、胃薬などを薬局でもらうと駅に向かった。下り電車に乗る前にペットボトルの水でそれらを飲む。  薬を飲んだから大丈夫。  自分に言い聞かせて、けれど今度は駅間の短い各駅停車に乗った。  そして松吉に送る文章を書き続ける。自分にも隠していた思いを白日の下にさらけ出す。 他者に理解してもらうために。  その他者の中には実は自分も含まれているのだ。知らんふりを貫いていた自分自身も。  真柴駅に着く頃には学校の下校時間と重なって、車内は電車通学の中高生で込み合っていた。  また動悸が激しくなり、閉塞感に叫び出したくなる。  学生達のひそひそ話が聞こえる気がしてならない。「ホモ」「未成年者」「強制猥褻」「変態」「校医」等々。  気のせいだと自分に言い聞かせて真柴駅で下車する。  乗客に押されるように改札口を出ると、駅舎の前にあるベンチに座り込んだ。  また額に脂汗が滲む。息が苦しい。  ペットボトルの水で口を潤す。  座っていられず、ずるずるとベンチに横になる。  実のところ直己は籠りきりの間に伸びた髭をまだ剃っていなかった。髭だらけで泣き続けた目は腫れて、よれよれの綿シャツに膝の出たチノパンの男が駅前のベンチにぼろ屑のように横たわっている。  これこそが先代、先々代にわたり真柴本城市の地域医療に貢献して瑞宝双光章を受勲した喬木医院の現院長、喬木直己であった。

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