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第22話 その夜の真実と翌朝の事実

 二度寝をしている直己を起こしたのは、ご飯を炊く香りだった。ダイニングキッチンからトントンと規則正しい包丁の音がする。  立ち上がってみる。宙に浮いているようなふわふわした足取りでキッチンへ行く。  清川の婆様が花柄の割烹着を着て三角巾を付けて料理をしていた。 テーブルには皿や小鉢が所狭しと並んでいる。  ご飯に味噌汁。具は筍と若芽。鯵の開き。蕗と油揚げの煮物。新じゃがの煮っころがし。青海苔入り卵焼き。葱とアサリのぬた。茄子の辛味噌炒め。もろきゅう。茄子と大根の糠漬け。 「旅館の朝食みたいだ……」  ぼんやり食卓を眺めている直己を見て婆様は笑った。 「先生の好きな物がわからんで。いろいろ作っただ」  顔を洗って来るように促され、またふらふらと洗面所に行く。  鏡に映っている顔はまるで土偶だった。夕べ散々泣きじゃくった顔には乾いた涙が白い塩になって張り付いて、目は倍ほどにも腫れ上がっている。  少なくとも亡き父に見間違えることはあるまい。何度も顔を洗う。  そしてダイニングキッチンに行く前に、にわかに思い出して母の部屋に向かった。  廊下の床に貼り付いているのは付箋紙のメモ用紙である。金沢の母親が必要だと言って来た荷物を送らなければ。  孫達と出かけるお茶会に着る着物や帯。義姉に贈る宝飾品。祖父が長年校医をした功績で受賞した勲章、瑞宝双光章。その時の記念写真……これが今必要な物なのか?  今、  自分は、  これらを、  宅配便で、  送らなければ、  ならない、  のか?  頭がくらくらして来た。  また地が回転する。  診察控室に行きたくなった。  あそこの戸棚にある素敵に光るメス。あれを首に当てなければ。  祖父があのメスを残したのは、喬木医院の名を穢す同性愛者が自ら命を絶つためなのだ。  母もきっとそれを望んでいる。  いや、もし仮にそうだとしても……  明後日までは我慢しなければならない。  何故ならば、明後日まで生きていないと松吉一門から破門される。自分は梅吉なのだから。  松吉が帰って来てから死ねばいい。宿題だってある。  そんなことを考えているだけで身体が動かなくなった。  廊下に立ち竦んでいると、 「先生。何しとるだ?」  背中に清川婆様の両手が当てられた。直己の胸より低い身長の老婆。  ぼんやりそれを見下ろして、 「だって死ななきゃ。でも松吉が帰るまで生きてなきゃ駄目なんだ。破門されるんだ」 「ご飯を食べりゃいいだよ。先生はお腹が空いとるで変なことを考えるだ」 「……うん」  婆様に背中を押されてダイニングキッチンに戻る。  贅沢な食卓を眺めながら、けれど食欲は殆どなかった。 「明日までどうしよう……」  味噌汁に入っていた筍をいつもでも咀嚼しながら呟いた。  婆様は残った料理を密封容器に入れたり、冷凍用ジッパー袋に小分けしたり保存作業に忙しい。 その合間に差し出したのは、ガラスの器に入った黄色い大根おろしのような物だった。 「先生。これなら食べれるら」 スプーンで一匙すくって口に入れてみると、 「……りんご?」 「りんごの擦りおろしだに」 「りんごを擦りおろすんですか?」 「あれ。お医者の先生なのに知らんかね。風邪をひいた時に、母さんが作ってくれただよ」  母はそんな手のかかる事をしてくれなかった。直己が風邪をひけば、医者の父が注射を打ち薬を出してくれる。そして父はそれ以外は常に診察室か庭に籠っていた。  母にとって直己は父と同じくただ鬱陶しい男で、誇らしく寄り添うべきは兄だけである。  いや、今が今考えなくてもいいことだ。  直己が今考えるべきは松吉のことだけである。  りんごの擦りおろしは確かに口に優しく食べやすかった。  ガラス容器を空にする直己を眺めながら婆様が言った。 「松吉さんは先生の恋人かね?」  何と答えればいいのかわからなかった。うつ向いてスプーンを口に運んだ。 「先生はわしの一番上の兄さんと同じだ」 「清川さんのお兄さんて、海軍に行った?」  婆様は冷蔵庫や冷凍庫に料理をしまいながら頷いた。 「兄さんにも男の恋人がいただよ」  直己は口中の擦り下しりんごを飲み下した。 「戦争が終わって次の年の春。わざわざ家まで来てくれただよ。わしはまだ学校にも上がらん子供だったけえど、大人になってから恋人だとわかっただよ」 「清川さんのお兄さんは海軍で、訓練中の事故で亡くなったんですよね」 「ああ。家族みんながそう思っとっただよ」  婆様は冷蔵庫も冷凍庫も扉を閉じて、そこに背中を預けた。 「けえど、恋人の人が兄さんは虐められて殺されたと教えてくれただ。仲間や上官達に、特訓だって言っちゃあ殴る蹴る……みんなして寄ってたかって……」  婆様は明るい花柄の割烹着の前で、皺だらけの指を組んでは動かしている。 「何でかって、兄さんは男の人が好きだったで」  直己はりんごが入ったガラス容器とスプーンを持ったまま身を固くした 「知らせに来てくれた人が恋人だっただよ。同じ海軍の将校さんで。虐められるのを止められなかったって泣いて謝って謝って……」  婆さんはゆっくり椅子に腰を下ろした。  直己の斜め横に座って、ガラス容器を持ったままの直己の腕に手を掛けた。 「けえど、わしの父さんや母さんは、その人を追い返しただよ」 「何で?」 「うちの兄さんは、お国のために働いて名誉の戦士をしただ。立派な陛下の臣民だ。  男と乳繰り合うような変態じゃない。そんな悪口を言うなって」  婆様は乾いた表情で直己の腕を撫でている。 「わしゃ、その人を追いかけただ。優しい兄さんが好きだったで。けえど、わしゃ何も言えなんだ。その人は写真をくれただよ。兄さんと二人で白いセーラー服で写っとる写真だ」  直己も婆様と同じ乾いた表情だった。擦りおろしりんごの最後の一口を口に入れてスプーンを置いた。 「ほいで次の日……近所の桜並木で桜の木に……その人が首を吊ってぶら下がっとっただよ」  婆様は唐突に微笑んだ。 「桜がピンク色で綺麗だったに」  この上もなく悲しい笑顔だった。  ひっと妙な音がした。直己はにわかに視界が曇るのを感じた。涙が滂沱と溢れ出て来る。妙な音は自分の嗚咽だった。 「もしあの時わしが……父さんや母さんがひどいこと言ってすまなんだ。兄さんが目の前でなぶり殺しにされて悲しかっつら。そう言えとったら……」  そう言って婆様は泣いている直己の肩を撫でた。皺だらけの骨ばった指が震えていた。 「死んだらいかん」  直己は頷くようにテーブルに突っ伏して泣き続けた。 「先生は男の人が好きなだけだ。松吉さんが好きなんだら?」  肩に掛けた手が答えを促すので頷いた。一度では足りないような気がして何度も頷いた。 「先生は嫌がってる子に変なことをする人じゃない。だのに何でみんな、あんな落書きをしたり悪口を言ったりするだ」  婆様は何度も繰り返した。 「死んじゃいかん。男の人が好きなだけで死ぬことはないだよ」  顔を上げても涙に濡れた直己の目に見えるのは花柄の割烹着だけだった。  自分が死にたいのは同性愛者だからか?  いや、そうじゃない。  けれど、それも一部であるような気もするのだった。

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