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第21話 その夜の真実と翌朝の事実

11 その夜の真実と翌朝の事実  夢かうつつか、枕元で皆が輪になってドーナツを食べている。  甘い脂の香りまで漂っている。  清川婆様は両手で持ったドーナツからクリームをはみ出させながら、 「本城駅の駅ビルには何でもあるだねえ」  と、かぶりついている。  きっと直己が死んだ後だから皆ドーナツで饗宴をしているのだろう。輪の中央には直己の亡骸があるに違いない。  直己に背を向けた松吉の黒いジャージには〝本城一高書道部〟と金色の文字が書かれている。直己が高校生の頃に部活で揃いで購入したものである。一度も袖を通さなかったが。 「そんな物どこで……」 「応接室の段ボール箱に入っていた。パジャマにさせてもらうね」  得意気に言って松吉はスマートフォンを枕元に置いた。 「充電したから。もうスルーしないでね、先生」  LINEのスルーが続くので心配になったのは松吉とエステル嬢で、医院がいつまでも休診なのを案じたのが清川の婆様で、三人がここに集うまでに何があったか……  いろいろ聞いたが全て夢のような気もするのだった。  嗜眠。辛い時に眠りに逃げる人間がいる。直人は六日間寝ていたらしい。  けれどまだいくらでも眠れた。  目を覚ますと、部屋の明かりは豆球になっていた。橙色の薄明りの中で黒いジャージの松吉が隣の布団に正座をしている。  清川の婆様もエステル嬢も、もう帰ったらしい。室内に満ちていたドーナツの甘い香りは消えていた。  どれぐらい眠っていたのかわからない。松吉は正座した膝に手を置いて、ぼそぼそと一人で何事か呟いている。右を見たり左を見たりしては小声で話す。 「七重八重花は咲けども山吹の実のひとつだになきぞ悲しき」  和歌のようなものが聞こえる。松吉の声はなだらかな若草色の丘をゆっくり歩いて行くような調子である。静かに心を落ち着かせる声音。  直己はその声音を聞いているうちに、頭の中で混沌としていた思考が次第に収斂して行くのを感じた。そして唐突に悟った。 「今まで誰も訊いてくれなかった」 「……何か言った?」  松吉の静かな声がこちらを向いた。 「訊いてくれたのは松吉だけだ」 「訊く?」 「僕が未成年者にいけないことをしたかどうか。誰も訊いてくれなかった」 「誰も訊かなかったの?」  と声だけでなく身体もこちらに向けて松吉は問う。 「同性愛者かどうか訊いて、それで……それだけでもう僕が犯人みたいに……」  校長も医師会長も日野巡査もそば屋の和助も誰も彼も。訊きもしないで責めたり諌めたりした。  訊く以前に離れた者もいた。安田看護師は未だ出勤しない。豊川婆様や山川爺様はもう診察に来ない。  だが、それらは所詮赤の他人だ。そんな有象無象が何を言おうと構わない。けれど……。 「お母さんも訊いてくれなかった‼」  声は悲鳴に近かった。  母は一言も直己に確かめなかった。確かめる以前に噂を信じて直己を見捨てた。兄のいる金沢から帰って来ない。 「じゃあ、もう死ぬしかないじゃないか‼」  直己はこれまで言い訳も弁解もして来なかった。  だって赤の他人にそんなことをして、信じられたらどうするんだ。母が信じてくれるかどうか知れないのに。  だからずっと誰にも何も言わずに黙っていた。  でも全部無駄だった。  母の香水の残り香を嗅いだ時、天地がぐるりと回ってしまったのだ。  あの時から直己は死ななきゃならなかった。  にわかに顔が熱くなり目から涙が噴き出した。直己は両手で口元を押さえて嗚咽を堪えた。 「松吉は何で訊くんだよ⁉」 「えっ?」  松吉がぎょっとする。直己の身体に手を掛けてじっと顔を覗き込んでいる。 「何で信じるんだよ! お母さんが信じてくれないのに‼」 「…………」  松吉は言葉を失っている。わかっている。この理屈は捻じ曲がっている。  けれど直己の中では正解なのだ。  まず訊いてくれるべきは、信じてくれるべきは母なのだ。  なのに、松吉が信じた。エステル嬢も清川の婆様も信じた。  赤の他人だけが信じるなんてことがあっていいのか。  だから直己は松吉を許してはならなかった。 「何で松吉が……松吉よりお母さんが……、どうしてお母さんは信じてくれないんだよ⁉」 「ごめん……ごめんなさい」  訳がわからないのに松吉は謝っている。直己の身体に縋って頭を下げている。  おそらく松吉が理解しているのはただ直己が傷ついている、そのことだけである。  おおんおおんと奇妙な音が聞こえるのは直己の慟哭だった。  松吉が身体を抱き締めてくれる。けれど、震える身体も涙も止まらない。幼子のように握った拳を口に入れて泣いていた。  そのまま泣き寝入りしたらしい。  また目が覚めると夜明けだった。松吉に背中を預けて眠っていた。身体に腕を回されている。耳元に微かに聞こえていた寝息が欠伸に変わった。障子の和室は夜明けの薄明りで白くなる。  遠くに汽笛が聞こえる。ごとごとと始発が遠くからやって来る。  ジッと驚いたように鳴った声がやがてジーと長く鳴いた。気の早い蝉が土の中から出て来たらしい。  ごそごそと松吉が布団から出て行く。 「じゃあね。始発で帰らなきゃ」  と書道部のジャージを服に着替えている。  布団の中の空白に気づいた時、直己は素早くその服の裾を掴んだ。まるで母親の後追いをする赤子のように言葉もなくしがみ付いている。 「すぐ戻って来るよ。ずっと直己さんのこと思ってるからね」  と抱き締められる。 「直己さんて言うな‼ それ一番嫌いだ!」  今まで一度も言わなかった真意である。   母は次男は〝直己さん〟と呼ぶのに何故か長男は〝お兄ちゃん〟〝正ちゃん〟である。  別にただの呼び方に過ぎないが何故自分は〝直ちゃん〟じゃないのか、内心ずっと疑問だった。  だが今更松吉に、 「じゃあ、直ちゃん」  と言われれば顔が強張ってしまう。それに気づいたのか松吉は、 「じゃあ、梅吉にしようか?」  と謎の名前を言う。 「私は松吉だから、先生は梅吉」 「弟子みたいだ」 「そうだね。松吉一門の一番弟子の梅吉くん」 と笑っている。直己いや梅吉は、こくりと頷いた。 「いい? 私は今日これから仕事で四国に行く。あさって東京に、梅吉の所に戻って来る」  また頷く。 「梅吉はそれまで絶対に生きてること」  松吉の顔を見た。昨日泣いたせいか、何がなし目が腫れている松吉は、その目でじっと直己を見つめている。なので「うん」と頷く。 「弟子には宿題もやってもらうよ。テーマ、梅吉は何で死にたいのか?」 「何でって、それは……」 「話じゃなく、文章にして送って。私は梅吉みたいに頭が良くないから。ちゃんとわかりやすく説明してよ」  直己は既に頭の中に文章を拵えながら頷いた。  それを松吉はぎゅっと抱き締める。起き抜けのせいか松吉の若草のような香りがより強く感じられる。直己はその身体を嬉しく抱き返す。 「自殺はご法度。破門だからね」 「そんなの嫌だ」 「大丈夫。梅吉が大好きだよ。ずっと生きてるよね?」  松吉は猫がちろりと舌で舐めるようなキスをする。唇を合わせたまま「うん」と頷いた。  

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