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第20話 時間も次元も錯綜する自宅

 布団の傍らに白衣の大男がいた。直己が使っているドクターコートではなく、丸首のいわゆるケーシータイプの白衣である。  お粥を食べる前だったか後だったか。 「初めまして、喬木先生。牧田産婦人科クリニックの田上です。エステルさんに呼ばれて参りました」  と一応正座をしているが、横の松吉の美しい正座とは比べようもない。妙に誇らしく思う。 「産婦人科……?」 「大丈夫です。僕は外科医ですから。失礼します……」  かすかに口角を上げたのは笑ったらしい。  手際よくパジャマの前を開けられて触診される。  続いて聴診器を胸に当てられる。  聴診器を左胸に当てられているのは確かに自分だけど、イヤーピースで心音を聴いている自分は誰なんだ?  これは落語の台詞だ。知っている。 〝抱かれているのは確かに俺だけど、抱いている俺は誰なんだ?〟  何てタイトルだっけ?   いろんな落語を覚えたのだ。松吉に負けないぐらいに勉強した。  なのにタイトルが思い出せない。  座敷の布団に起き直って直己は一口ずつお粥を食べた。婆様は湯気の立つお粥に甘酸っぱい梅びしおをのせて一匙ずつふーふー吹いて口に運んでくれる。  身体がふらつく直己を背後から支えているのは松吉である。  食物が身体に入り、体温が上がる。多分頭の血管にも血が巡り始めたのだろう。眠気が少し薄れる。改めて枕に頭をつけて横になるが、自分の脈動がどくどくと新鮮に聞こえる。  清川の婆様が盆を持って座敷を出て行く。襖を閉める静かな音は時を切り分ける音のようだった。  枕に頭をのせて寝ると、横に正座した松吉がそっと掛布団を直してくれる。直己はその手を撫でながら、 「……怒鳴ってごめん」 「私こそ、余計なことを言ってすみませんでした」  頭を下げる松吉の手を強く握って指を絡ませる。何やらそれで少し謝った気分になる。頬を緩めた直己に松吉は言った。 「ねえ。ひとつ訊いていい?」  今度は松吉が直己の手を両手で握っている。 「先生が死にたいのって……もしかして、死んで身の潔白を証明するとか思ってる?」  直己は松吉の大きな瞳をじっと覗き込んで、 「まさか」  と、かぶりを振った。 「じゃあ、何で?」  問われても直己自身もわからない。答えようがないまま目を遠くにさまよわせていると、 「ねえ。僕は先生を信じている。でも、念の為に一度だけ訊かせて」  と、更に強く手を握られた。 「先生は嫌がる未成年者に無理に……猥褻行為をしたの?」  直己は思いついたように松吉の目を直視した。 「君にはした。嫌がってるのに無理に……ごめん」 「僕はいいんだよ。僕の事じゃなく。未成年者のことを訊いている」  松吉は一人称が僕になっていることに気づかない。まして直己をや。  ふいと松吉から目を逸らして、 「君には関係ないだろう」  にわかに強張った声で言った。慌てて松吉は、 「疑ってるんじゃないよ。僕は先生はそんな人じゃないって知ってる。でも、ちゃんと先生の口から……」 「だから、関係ないって言ってるだろう!」  唐突に直己は激しい怒りを感じて怒鳴っていた。意味が聞き取れない程の大声である。  にわかに飛び起きて、また松吉の身体を突き飛ばした。けれど正座していた松吉は揺らぎもせずに両手で直己の身体を押さえ込んだ。   「信じてなんかいらない‼ 君なんか何の関係もないのに! 帰れよ‼ 帰れってば‼」  髪が逆立つ程の憤怒だった。一体何が気に障ったのか自分でもわからない。殴りかかろうとするのを松吉は唇を噛みしめて押さえつけている。 「また先生は何をやっとるだか!」  襖を開けてやって来た清川の婆様が直己を怒鳴りつけた。 「あらあら。大変な騒ぎですね」  襖の陰から顔を覗かせたのはエステル嬢だった。 「エステルさん、ありがとうございました。牧田クリニックの先生が診てくださいました」  松吉が直己から手を離して背を向けた。途端に直己は背後から、 「帰れ‼」  と松吉を突き飛ばした。  今度ばかりは松吉もバランスを失って畳の上に這いつくばった。そして、凄まじい勢いで振り向くと直己を睨み付けた。目には涙がぎらぎら光っていた。  物も言わずに部屋を飛び出して行く松吉を、婆様があわてて追いかけて行く。  にわかに怒涛の罪悪感が押し寄せたが直己は知らんふりで顔を背けていた。  座敷に残っているのは直己とエステル嬢だけだった。 「痴話喧嘩ですか?」  枕元に座りながらけろっとした顔で尋ねるエステル嬢である。  何故この女性が松吉を知っているのか。今何故ここにいるのか。いろいろ謎だがもう問い質すのも面倒になっていた。 「田上先生に処方箋をいただいたので、精神安定剤を持って来ました」  ガサガサとレジ袋に入った薬袋を差し出すエステル嬢である。直己は黙ってそれを受け取ると、錠剤を出して適当に口に放り込んだ。  こんな薬剤なら診察室の棚にどっさりある。死ぬ方法としてまるで思い浮かばなかったが、保管してある薬全てを飲んでしまえば死ねるかも知れない。 「希死念慮があるそうですね。清川さんが心配してましたよ」 「みんなして人のことを勝手に噂して……」 「未成年者に猥褻行為を働いたなんて噂よりはいいでしょう」  口の減らない女だな。口には出さずに直人は布団にもぐり込んだ。 「直己さんは新宿セントテレジア総合病院にお勤めだそうですね。精神科の予約を取りました」 「何ですか、それは」 「ずっと無断欠勤で、皆さん心配してらっしゃいましたよ。あさっての午後、時間を空けてくださいましたよ」 「いちいち余計なお世話を……」 「もっと素直な方だと思ってましたけど。今回に限って直己さんは頑なですね」 「あなたこそ。口の減らない人だな」  と口に出してしまった。 「お陰様で。私も松吉さんと同じように直己さんを信じてますけど、お気に召しませんか?」  直己は奥歯を噛みしめて、エステル嬢を睨み付けた。  布団にもぐり込んでいるうちに、またとろとろと眠りに堕ちた。  薬の効果なのか逃避なのかはわからない。

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