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第19話 時間も次元も錯綜する自宅

10 時間も次元も錯綜する自宅  メモ用紙を持って母の部屋に行く。  扉を開けると暗い部屋にほのかに香水の香りがする。  「お母さん?」と呟いた途端に何故か急に足元がふらついた。  直己は扉を閉めて二階の自室に上がった。  頭がふらふらする。何による体調不良か。  原因は後で調べるとして、まずベッドに入って休むべきだ。  服のまま布団にもぐり込む。 「お母さん恥ずかしくて、みなさんに合わせる顔がないわ」 「お兄ちゃんだって困るでしょう。こんな弟がいると知れたら……」 「いやだわ、直己さんたら……情けない」  そうか。とうの昔に知っていたのか。  真柴本城市内の情報には直己などよりよほど詳しい母だった。  それで恥ずかしくて困るのか…………なら、すぐに消えなきゃならないな。  指先で首筋を探る。頸動脈が静かにとくとく脈打っているのがわかる。自殺となればこれだろう。  診察室に祖父が残した年代物のメスがある。一気に切れば逝けるはず。  しかしあたり一面血の海だな。 「いやだわ。直己さんたら。こんなに汚して」  という声が聞こえる。  じゃあ、庭の木で首でも吊るか。 「いやあね。外から丸見えじゃない」  千代川に身を投げるか。 「おまえの名前は知らないが、明日っからは土左衛門て名がつくぞ」  何の台詞だったか。……落語だ。  落語とは何だ……考えているところにLINEが届いた。  上着のポケットからスマホを出す。 〈誰よりも愛してる〉  松吉からだった。  にわかに涙が溢れ出た。だらだらとしまりなく涙を流して、何度も何度も同じ文を読んでいるうちに眠りに落ちた。  遠くでぽーっと汽笛が鳴った。  がたごとと始発が動いて来る音がする。かんかんかんと踏切の音。  直己はベッドに丸まったまま夜明けの透明な色の中にいる。  雀が鳴いた。のろのろと階下のトイレに立つ。  ベッドに戻る。鬱陶しい上着を脱ぎ捨てる。  枕元のスマホにまたメッセージが届く。 〈一番愛してる〉 〈愛してるったら愛してる〉 〈先生、LINE見てる?〉 〈死ぬほど愛してる〉 〈先生、見てるの? スルーしないで〉 〈ねえ先生ってば。返事して! 電話でもいい!〉  こいつは一日に何度LINEを寄越すのだ。  よく考えたら一日ではないかも知れない。何度かトイレに降りた記憶はある。  新宿セントテレジア総合病院からも、牧田エステル嬢からもメッセージが入っていた。  いちいち読むのが面倒になって、手にしたスマホを床に落とした。  それっきりだった。やがてスマートフォンは静かになった。みまかったらしい。  これでやっと安眠できる。   もうどうでもいい。  何もかもどうでもいいのだ。 「先生! 返事をして! 先生! 先生!」  うるさい。うるさいってば。 「ねえ先生ってば! 起きて! 先生!」  耳元でよく通る声が怒鳴りつける。激しく身体を揺すられる。  目を開くとひどく眩しい。  風が顔を撫でて行く。  松吉の顔が目の前にあった。  遠くでカーテンが風にそよいでいる。 「先生ってば。起きてよ。ねえ」 「起きてる」  言ったつもりだが声がしゃがれて出ない。 「ちょっと医者を呼んで来ます」  松吉の横からエステル嬢も顔を覗かせている。  何を言っているんだ? 医者は自分だ。  そう思っているうちにまた眠りの沼にずぶずぶと沈んでいた。  意識が切れ切れに飛んでいる。  また気がつくと直己は座敷の布団に寝ていた。  洗濯したての客用パジャマを着ている。その清潔な香りを嗅いでいるうちに思い出す。  松吉に着替えさせられたのだ。まるで酔い潰れた音羽亭弦蔵師匠のように。  くるくると手際よく服を脱がされ、そうして……暖かいタオルで優しく身体を拭かれた。  松吉のTシャツの襟首を掴んで引き寄せるとキスをした。 「もう! そういうのは後で」  いがぐり頭はやっと頬にえくぼを浮かべて、直己の顔を蒸しタオルで丁寧に拭いた。  支えられて……というか殆ど背負われて階下に降りたのだ。やはり自分は弦蔵師匠のように面倒を見られている。 「鍵を開けて……持って来て」  と松吉の耳元で嗄れ声を出したのはいつだったか? 「何を?」 「診察室に……鍵のかかる棚。メスがある。持って来て」  ひどく息が切れて一言ごとに息継ぎをした。 「ここを。切るから」  と、自分の頸動脈を示した。 「何で?」 「死ぬから」 「何で死ぬの?」  何で死ぬんだろう……? 「だって……」  話すのが面倒になって、またずるずると眠りの底に引き込まれたのだ。  何で死ぬんだっけ?  松吉に背負われて一階に降りた直己は、にわかに自立して足を医院に向けたのだ。少しふらついたが、ちゃんと歩けた。子供じゃない。  短い渡り廊下を通って医院に入ると控室である。アコーディオンカーテンを開ければ診察室だが、そこまで行く必要はない。  明かりを点けると棚に並んだ医療器具。入院加療をしていた頃に祖父が使っていた古い物である。  中に銀色に輝くメスがある。  素敵に光る刃はすっと引いただけで皮膚を切ってくれる。  頸動脈とて簡単に切り裂いてくれるだろう。  それで、鍵はどこにやったろう?  棚のガラス戸に貼り付いて、きょろきょろあたりを見回す直己を松吉が背後から腕ごと抱え込んだ。 「何考えてんの、先生」 「鍵はどこ? メスが……死ななきゃ」 「だから。何で死ぬ必要があるの。ほら、座敷に布団を敷いたんだ。そっちで寝よう」  松吉にホールドされた直己はずるずると渡り廊下を自宅に向かう。抵抗しようにも少しの動きで息が上がってしまう。 「だって、死ななきゃならないのに!」 「何で? 先生は何も悪いことしてないでしょう」  狭い渡り廊下で松吉は直己を引きながら尋ねた。 「ねえ先生。家に一人なの? お母さんはいないの?」 「金沢に行ってる」 「お兄さんの所に行ってるんだ。でも、先生がこんな大変な時に……」 「母の悪口を言うな! 何も知らないくせに!」  瞬間的に怒鳴っていた。  あまつさえ「え?」と口を開けた松吉を思い切り突き飛ばしていた。  不意を突かれて松吉は見事に尻餅をついた。  一方で体力の失せていた直己は、よろけて派手な音をたてて渡り廊下の窓にぶつかっている。逆に松吉が素早く立ち上がって支える有様である。  大声に驚いて飛んで来たのは清川の婆様だった。  何故今ここにこの人がいるのだ?  婆様は呆然と二人を見比べて、 「松吉は関係ないだろう‼ 人んちのことに口を出すな‼」  としゃがれ声で喚く直己の頭を平手で引っ叩いた。背が低いから殆ど飛び上がっている。 「何てこと言うだね、先生! 助けてくれた松吉さんに。謝んなさい」  いつからこんな偉そうな婆さんになったんだ?  直己が婆様も怒鳴りつけそうな勢いでいるのを松吉はまた器用に背負って運んで行く。 「座敷でご飯にしましょう。清川さんがお粥を炊いてくれたんですよ」  それでようやく室内に漂う甘い香りの正体を知る。台所で炊いている粥の匂いらしい。

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