18 / 31

第18話 厄災は梅雨の如し

 もしこの噂が新宿の病院まで出回っていたら大したものだな。  民俗学者の柳田國男に『蝸牛考』という著書がある。方言が京都、つまり中心地から地方に向かって同心円状に広まって行くという考察だったと思う。  噂も同じだろうか……などと他人事のように考えながら田園地帯を車を走らせた。  道端にぼろ布が転がっている。通り過ぎてから、バックミラーを見てふと車をバックさせた。  ぼろ布に見えたのは、雑種のむく犬ペロだった。車に跳ね飛ばされたのだろうか。既に息はなかった。口元からわずかに血が出ているが目立った外傷は見受けられない。  車に緊急用に積んである毛布にペロの亡骸を包んでそば屋和助に向かった。  ちょうど昼時で駐車場は満車だった。  路肩に車を駐車するとペロの亡骸を抱えて車を降りた。  いつものように裏の犬小屋に行きかけたが、店の玄関に行き先を変えた。  最期ぐらい正面から家の中に入れてやりたいではないか。  引き戸を開けると店内は満員だった。  駐車場の状況で気づくべきだったと思いながら、 「和助さんいますか?」  と声をかけた。  途端に場が静まり返った。入り口から客席の沈黙が同心円状に広がって行った。  蝸牛考か? 「何の用だ、先生? そんな所から入らないで欲しいな」  厨房から顔を出した和助が言う。 「ペロを連れて来た」 「なら、また裏の犬小屋に繋いどいてくれよ。今忙しいんだから」 「いや、ペロはもう……」 と抱いた毛布を目で示す。途端に横の席でうどんを啜っていた女性客が、 「やだ! やだやだ、死んでる!」  叫んで箸でこちらを指し示した。  毛布の端からペロの鼻先が覗いているようだった。慌てて隠そうとした手が止まった。  打てば響くように和助が言ったのだ。 「あんたが殺したのか!」  すごい発想だ。  呆れて物も言えなくなった。  店内はまた同心円状にざわざわと「ペロ」「死んだ」「殺した」「誰が」と声が広がって行った。実に見事なまでの蝸牛考である。 「あんたホモなんだってな。聞いたぞ」  と和助が言うなり、店内の蝸牛考は嬉し気に「ホモ」「強制猥褻」「男子中学生」と様々な言葉を広げて行く。 「真柴中学校の男の子のあれを咥えたんだろ。嫌がるのを保健室に閉じ込めて無理やりさ」    噂は妙に具体的になっている。そば屋の店内で知りたい情報でもないが。 「そういう汚らわしい人は店に入らないでくれ」  しっしっと野良犬でも追い払うかのように和助は手を振っている。  まともに相手をする気にもなれず、直己は黙って店を出た。  店舗の裏側の日の当たらない場所に犬小屋があった。じめじめとしたかび臭い場所である。餌皿には乾いた蕎麦がこびりついていた。ペロの餌は客の残した蕎麦や天ぷらだった。  鎖を外して外をうろついては何を食べていたのだろうか。案外、田畑でネズミやモグラなど狩りをして新鮮な肉を食べていたのかも知れない。  毛布にくるんだペロを小屋の前に横たえて、車に戻った。  駐車場から出ようとした車が直己の国産車に向かってクラクションを鳴らしている。出るのに邪魔になるらしい。 「すいません」  と車を発進させると、クラクションを鳴らしていたフォルクスワーゲンは田んぼの一本道を走り去った。  あの車は商工会議所の阿久津である。  なるほど。あの場にいて直己が犬殺しの汚名を着せられるのを黙って見ていたのか。  あの妙に具体的な噂を黙って聞いていたのか。  直己はふふふ……と笑った。  もう笑うしかなかった。 〈宇宙一愛してる〉  松吉からのLINEがまた届いた。  火曜日と木曜日の午後は新宿セントテレジア総合病院に診察に行く。さすがに真柴本城市の蝸牛考はここまで達していないようだった。  仕事が終わっても新宿二丁目などに行く気にもなれず、かといって三丁目の寄席にも足が向かずまっすぐ家に帰るのだった。  医者らしい仕事をするのは新宿での二日間だけになっていた。他の日は自宅と玄関の掃除ばかりしていた。  生ごみには空き缶やカップ麺の殻が加わることもあった。  スプレーペンキの落書きにはむく犬の絵も加わるようになった。血まみれで「キャン!」という吹き出しも描かれている犬の絵。  そば屋のペロの噂がもう出回っているらしい。この絵だけは消したい。ペロのためにも。  新宿の病院から寄り道しないでまっすぐ真柴駅に帰ると、八時半には家に着く。    医院は駅からなだらかな坂道に沿ってある。  その門前で人影が数人こそこそ動いている。  あたりにはシンナーのような刺激臭が漂っている。 「誰だ! 何をしているんだ!」  怒鳴りつけると小柄な人影が直己を振り返った。街灯の明かりでうすぼんやり見えるのは、清川婆様だった。 「先生んちの落書きを落としとるだよ。孫だけじゃいかんと言うで、わしもついて来ただよ」  婆様に似ず背の高い少年が弾かれたようにぺこりと頭を下げた。 「あ、それは……どうも。ありがとうございます。でも、もう遅いので……」 「そろそろ帰ろうと思っとっただよ。まだ全部落ちとらんけど」 「明日また落としに来ます」  とまた孫息子がぺこりと頭を下げた。  確かこの少年は清川聖都(きよかわせいと)だ。聖なる都。真柴中学校で三年間、ぐんぐん背が伸びる時期に健康診断をした。  などと男子生徒ばかり覚えているから、怪しい噂をたてられるのか。  自省しながら家に入る。ダイニングキッチンの明かりを点けるが、食事は外でして来た。  母が帰って来ないから、いかに直己がきれい好きでも、室内が荒れているのは否めない。    そこにキッチンカウンターにある固定電話が鳴った。母からだった。当分、兄の家に滞在するから必要な物を送ってほしいとの依頼だった。  細々と指示する物を付箋紙のメモ用紙に書き留めながら尋ねた。 「そういえば、五月のお茶会は中止にするんだって?」 「決まってるじゃない。お母さん恥ずかしくて、みなさんに合わせる顔がないわ」 「はあ?」 「とにかく今言った物をなるべく早く宅配便で送ってちょうだいね」  電話を切ろうとする母に、 「待って! 待ってよ。どういうこと?」  慌てて言った。 「お兄ちゃんだって困るでしょう。今年、医学部の副部長になれそうなのに。こんな弟がいると知れたら……」 「こんな弟?」 「いやだわ、直己さんたら……情けない」 「お母さん?」 「お父さんそっくり。一人で何をやってるかと思えば……」  父は単に診察室や庭に引き籠っていただけで同性愛者ではない。  今言うべきことではないし、庇っているのかどうかも知れないが。  直己が呆然としている間に電話は切れた。  まだカーテンを引いていないガラス窓に誰かが映っている。  また父を庭に締め出して鍵を掛けたな。  いや、もう父はとっくに死んでいる。  ぎょっとして見つめたが、よく見ればガラスが鏡になって自分が映っているだけだった。  受話器を耳に当てたまま呆然と立ち尽くす自分自身だった。

ともだちにシェアしよう!