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第17話 厄災は梅雨の如し

9 厄災は梅雨の如し  その日、戻って診察を再開してから訪れた患者は三名だけだった。看護師が帰って医院の後片付けをしている時に気がついた。  安田看護師は直己が中学校から戻っても、 「先生。学校で何があったんですか?」  とは聞かなかった。  何をして来たのか言わずとも、とうに知っているかのようだった。 〈めっちゃ愛してる〉  翌朝また松吉からLINEメッセージが届いた。  安田看護師から体調不良につき欠勤すると電話が入った。  医院の玄関に朝の掃除に出ると、ガラス扉に「ホモ」「オカマ」そしておそらく男性器と思われるへたくそな絵が赤青黄色のスプレーペンキで描かれていた。  見た瞬間、直人はつい笑ってしまった。小さな田舎町では全ての情報がこの上もなく早く出回る。まるで陳腐な連続ドラマのように。  この落書きはシンナーで落ちるのだろうか。車でホームセンターに出掛けペンキを落とす溶剤を買って帰ると、落書きを消す作業に午前中を費やした。    患者は一人も来なかったから、仕事に差し支えはなかった。  昼過ぎに仲人の主婦から電話があった。牧田産婦人科クリニックから見合い話を断られたとのことだった。 「そういえば、五月のお茶会にはいらっしゃるんですか?」  思いついて主婦に尋ねると、 「五月のお茶会は中止だそうよ」  とのことだった。 「そう……ですか」  と直人は電話を切った。母は既に主婦四人組にお茶会中止のメッセージを回しているらしい。それはつまりどういうことだろう?  首を傾げていると、ようやく一人目の患者が訪れた。最近引っ越してきた若い主婦で、包丁で手を切ったとのことだった。二針縫って包帯を巻き処方箋を出して帰した。  閉院までに三人の患者が来た。いずれも地元にはあまり縁のない人ばかりで、古くから真柴町に住む人々は一人も来なかった。  週末は休診だった。朝刊を取りに出ると玄関前に生ごみが撒かれていた。とりあえず拾って掃除をした。  翌朝は門柱にもスプレーペンキで落書きがされていた。「ホモ」「オカマ」「チンコ」「FUCK」等々。  そのままにして、日野巡査を呼んだ。 「先輩。一応、被害届を出しますか?」 「一応……」  と交番に出掛けて、医院玄関の落書き、自宅玄関の生ごみ落書きなどについて被害届を出した。 「でも、犯人が見つかるかどうか……。だって、まずいですよ。いくらこれでも……」 と手の甲を反対側の頬に当てる仕草をして見せた。ホモだと言っているのだろう。 「……未成年者に手を出すのはあり得ないですよ。先輩」 「未成年者に手を出す……というと?」 「先輩てば。自分の胸に訊いた方がいいんじゃないですか?」  十年以上後輩のこの男は警官ではなかったのか?  直己が何か罪を犯したのか尋ねも確かめもせずに噂を信じて諌めるようなことを言っている。  怒る気にもなれず黙って交番を後にする。  そして自宅玄関を入るとまた生ごみが撒かれているのだった。  いたちごっこだった。  松吉からは一日一回短いメッセージが届く。読んだら削除しろという言いつけを破って直人は全て保存して繰り返し眺めた。 〈ものすごく愛してる〉  何か返事を返さねばならない。考えるが気の利いた文句が浮かばない。  声が聞きたい。電話をかけてみたが電源が切られていた。  松吉は寄席や落語会の最中に無暗に電話や着信音が鳴らないように、スマホは殆ど電源を切っている。時間を見図らわず思いつきで電話をして、つながる確率はかなり低い。  週明けの朝一番に清川婆様がやって来た。今日は紙の手提げ袋を下げている。 「ずっと信州の田舎に帰っとっただよ。先生にお土産を持って来ただ。野沢菜と、電子レンジでチンすりゃ食べられるおやきだで。ずくいらずだ」 「ありがとうございます」  と土産を受け取ると、いつものように婆様の腕にカフを巻いて血圧を測る。 「看護婦さんのお土産も持って来たけえど、お休みかね」 「そうですね」 「豊川さんも山川さんも来とらんかね」 「そうですね。はい。血圧は正常値です」  いつものように体調に異常はないと清川婆様を診察室から送り出す。いったん待合室に出た婆様は、またノックをして診察室に顔を覗かせた。 「先生。玄関がえらいことになっとるけえど。どうしただかね?」  医院の玄関にスプレーペンキで落書きをされて消しても消してもまた描かれる。  自宅はともかく、医院の入り口に猥褻な落書きはまずかろうと毎日消してはいるのだが、次第に面倒になって来た。どうせ患者は来ないのだと放ったらかしにしてある。 「警察には届けてあります。消しても消しても描かれるから、もう仕方がないんですよ」 「うちの孫を寄越すで。掃除させりゃいい」 「清川さんのお孫さんは男の子ですよね」 「そうだ。イラストの学校に行ってるだよ」 「じゃあ、寄越さないでください。お孫さん一人だとおかしな噂がたつといけません」 「はえ? おかしな噂?」 「用がありますんで、お帰りください」  直己は立ってドアを開けると、婆様が玄関を出て行くまで見送った。 〈世界一愛してる〉  松吉のメッセージに次いで、エステル嬢からも着信があった。 〈真柴中学校の校医に関して、本城町にまで変な噂が流れています。もちろん私は噂など信じませんが、お約束の日にちを早めませんか? 詳しくお話を聞きたいのです〉  本城町まで噂は広がったか。そう思っただけで、 〈日程の変更は難しいです。あいにく予定が詰まってます〉  とデートの日にちを変えることはしなかった。予定などないが何やら面倒臭くなっていた。  その翌日には真柴本城市の医師会から呼び出しがあった。車で本城町の医師会館まで出かけた。  これまた直己が犯罪者の前提で、今後の行動に気を付けるようにとの口頭注意だった。  ついでに千代川土手桜まつりでアルコールの一気飲みを推奨したことも叱責された。  そして当分は休日診療所の当番医は遠慮するように命じられた。

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