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第16話 ひとつになった後の件
二十三才は果てがない。三十四才はもはや息が上がっている。
若いそれを口に含み吸い上げる。もう何度目かわからない。
「もう、や……やめて。む、無理。おか……しく、なる……」
荒い息の合間からそう聞こえる。
直己はもう躊躇しなくなっている。松吉のものが勃ち上がる限り、いつまでも愛し続けるつもりである。
心を込めて愛撫する。全身を淫靡に紅く染めて激しく喘ぐ松吉である。
「あっ、出ッ、また出……う、もう、や、やぁッ……」
弾けた途端に電話が鳴った。
松吉は物も言わずに身を翻すとスマホを取った。
「はい……師匠……」
応じる声は色に溺れてすっかり鼻声である。
そんな妖艶な声を師匠ごときに聞かせるな!!
直己は一人でやきもきしている。
「はい。かしこまりました……す、すぐに伺います」
松吉は電話を切ると気だるく起き直った。
「行くのか?」
「前座は虫けらですから」
まだ紅潮している頬をほころばせた。
シャワーを浴びて出て行く松吉を布団の中から見送った。
「今日、泊ってくでしょう?」
「ごめん。明日から診察が始まるから、今日は帰る」
「じゃあ、また先生んちに行くね」
布団に寝転んでいる直己に軽くちょんとキスをして松吉は玄関を出て行った。
ゴールデンウィークの最終日である。
真柴本城市への帰り道は大渋滞だった。赤いテールライトがどこまでも続いている。
ラジオを点けて一人にやにやしながら運転席の直己は、肌にまだ松吉の温もりが残っている気分だった。
助手席には誰もいないのにまだ松吉が乗っているような気がする。
武道館から松吉のアパートに行くまでずっと二人で話していたのだ。
「先生んちで外飼いしてた犬って?」
と訊かれたのだ。
「高校生の頃、同級生からもらった柴犬だ」
「何て名前?」
「名前な……最初はあったんだ。ちょうど医大の受験勉強の頃で、気分転換に犬の散歩したりして。何だったかな。何か洋風な……ジョンとかサムとか、そんなような……」
「ジョンとサムじゃ全然違うよ」
「だな。そのうち、ただの犬とかワンコになった。〝犬に餌やってこい〟〝ワンコの散歩に行ってくる〟……とか」
「それ可哀そうじゃない?」
「どうかな? 医学部に合格して、そしたら都心まで通学するようになって。犬の散歩なんかしてる暇もなくなって……」
少しずつアクセルを踏んではのろのろと道を進んだ。
渋滞が嬉しいなど生れて初めてだった。いつまでも松吉の横で運転していたい。
「夜、帰ってから鎖を外して勝手に外歩きさせるようになった。そば屋のペロみたいなもんだな。そのうち、帰って来なくなった。俺が大学四年の頃かな」
「探さなかったの?」
「実習とか勉強がきつくて。俺が貰って来た犬だし。親も兄貴も、犬がいないなって言ったきり。別に探さなかったよ」
「そんな……」
「今考えれば、保健所や警察に連絡して探す手もあったんだな。でも、たかが犬にって。こっちは進級も危ぶまれるぐらいぎりぎりで勉強してて……」
「先生、勉強出来なかったの?」
直己は笑って松吉の肩を小突いた。
「兄貴が優秀過ぎた。国立一発合格。今は金沢の私大で医学部教授だ」
松吉は頬にえくぼを浮かべて直己の横顔を見つめている。
「それにちょうど……ああ、女とは無理だって完全に理解した頃で。ゲイなんだって。それで悩んだり、二丁目で遊び覚えたり」
「それって遅くない?」
「結構女の子にもてたから。頑張れば女と出来ると思ってた」
「私も……頑張ってみたことあったけど、無理だったよ」
男としかセックス出来ない二人が運転席と助手席に並んで座っていたのだった。
連休明け、喬木医院にいつもの老齢三人組は訪れなかった。
「今年は随分患者さんが少ないね。いつもは連休中に怪我したの何のと朝から来るのに」
診察室でカルテの整理などしながら安田看護師と話す。
いい加減うちも電子カルテを導入しようか、などと妙に前向きに考えている。
普段なら開封もしないでゴミ箱に捨てる製薬会社や医療機器メーカーからのダイレクトメールを子細に読んだりするのだった。
スマホが鳴った。見ると、母からメッセージが届いている。金沢の兄の家にしばらく留まるとのことだった。
これは例年通りである。連休明けに帰ると言いながら、一日、二日と帰宅を遅らせる。
孫達と別れ難いようである。兄の家には母専用の部屋もあるし義姉がもてなすから、この家よりよほど居心地がいいのだろう。
実は母のLINEの前に、松吉からもメッセージがあった。
〈愛してる〉
とそれだけで、続けて〈読んだら必ず削除してね〉とあった。
そちらの文章の方が長いぞ。
直己は松吉の言いつけをきかずに削除していない。
そして牧田エステル嬢から武道館デートのお礼のメッセージが届くや、次に会う約束をしていた。
〈あの人と仲直りできましたか?〉
との質問に、会って話すと答えたのだ。
大体エステル嬢はデートの度に親友、いや恋人ののろけばかり話していたのだ。
ならばこちらだって少しは言わせてもらおうではないか。松吉がいかに愛らしいか存分に語ってやる。
スマホをいじりながらにやけていると、
「先生。真柴中学校からお電話です」
と安田看護師に受話器を差し出される。
電話は校長から呼び出しだった。
時々生徒が怪我をした時など緊急の呼び出しがあるのだ。いつものように一時休診にして車で中学校に出掛ける。だが、特に生徒に怪我はなかった。
校長室に招かれて、お茶を出されて言われたのは、
「喬木先生は同性愛者なんですか?」
校長は真顔で直己を見つめている。
にわかに顎のだるさに気がつく。凛々しく勃ち上がった松吉のものに何度も口づけした名残である。
そして直己は言葉を失った。
何と答えるのが正解なのか?
とりあえず黙って出されたお茶を啜った。
校長は言葉を続けた。
「ある男子生徒から訴えがありましてな。嫌がっているのに喬木先生から無理やり猥褻行為をされたと」
直己は茶碗を持ったまま、ぽかんと口を開けていた。
嫌がっているのに無理やり猥褻行為をしたのは松吉にであって、真柴中学校の男子生徒にではない。
結局この質問にも沈黙を守った。
「喬木医院には先代、先々代から数えると三十年以上、当校の校医をしていただいております。若先生が継がれてから三年、いや七年、いや十三年……」
法事かよ。
直己が黙ってお茶を啜っていると校長は、
「とにかく長いこと校医をしていただいてます」
と、まとめた。
六年半だ。直己が一人で校医になってからは。
「これまでの当校に対する貢献を考えると、真偽の疑わしい訴えを優先するかどうか悩ましいところです。けれど昔と違って今時はコンプライアンスも厳しくなっています」
直己はまたお茶を啜る。
茶碗にお茶がなくなり、底に乾いた緑の輪が出来る頃、一時的に校医は辞めて欲しいという話になった。
「いや」「しかし」「でも私は」「はあ」「そうですね」「わかりました」「とんでもない」といった言葉を発して、直己は校長室を辞した。
自分が同性愛者であるか、男子生徒に猥褻行為を働いたか。どちらもはっきり肯定も否定もしなかった。
ただ頭に浮かんだのは、瀬戸内ランディの顔だった。
あのトマト頭が猥褻行為の何のと言い出すとは思い難いが、他に思い当たる節はないのだった。
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