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経済格差
仕事からの帰り道、国彦はふと足を止めて、はるか向こうに建っているA市のタワーマンションや高層ビルを眺めていた。
いつかあんなところに住んでみたい、と考えてはみるものの、金も学もコネも無い自分には到底叶わぬ夢だろう、と止めていた歩みを進めていく。
「あー、寒い…」
1月の寒風が、ダッフルコートを突き抜けて肌を刺してくる。
安物の粗末な女物のコートであるから、防寒性も低いのだ。
158センチ55キロの小柄な体で男物の服を着ようものなら、裾も袖も有り余ってブカブカになってしまう。
女物のほうがしっくりくる自分の体がただただ憎い。
同居している友人の#冬也__とうや__#にはそのことでからかわれるし、高い所の物はまともに取れやしない。
後ろ姿は並の女と変わらないから、間違われてナンパされたこともある。
相手は「うわ、男かよ」なとど言って嫌そうな顔をして去って行った。
間違えたのはそっちのほうなのに、なぜこっちが不愉快そうにされなくてはならないのか。
──ああ、どうしてオレは食っても食っても背が伸びなかったんだろう。どうして余分な肉がつくだけなんだろう。オレの成長期はもう終わってるから、これ以上背が高くなることはありえないだろうな。きっとA市に住んでる連中は、防寒性がしっかりしたお高いブランド物のコートを着ているんだろうな
不満を胸に抱えつつ、黒いニット帽をかぶり直し、毛玉だらけの赤いスヌードも巻き直した。
何気なく遠くに目をやると、黒いミニバンが走っているのが見えた。
ミニバンは国彦のことなどまるで気に止めずに、のろのろとこちらに向かって走ってきている。
車を持つ余裕などまるで無い国彦は何だか無性に腹が立って、すれ違いざまにミニバンの車体めがけて「バーカ!」と思いきり叫んでやった。
ミニバンとの距離はそう離れてはいないが、どうせ聞こえはしない。
運転席に座っていた黒いトレンチコートに黒縁眼鏡の中年男も、これといった反応を示さなかった。
──ざまあみろ
途端、ミニバンがぴたりと止まったと同時にドアが開き、運転手の男が出てきてこちらに速足で向かってきた。
もしや聞こえたのか?
焦りからか、冬場だというのに汗がぶわっと吹き出してきた。
男がどんどん近づいてくる。
ミニバンのフロントガラス越しではわからなかったが、近くで見ると国彦とは比べものにならないほどに体格がいい。
スラックスを履いた脚は異様に長いし、黒いトレンチコートを着た体は肩も胸もやたらと広い。
よく見ると、男が手に刃物を持っていることに気がついた。
──まずい、逃げないと!
身の危険を感じて別の方向へ駆け出そうとしたが手遅れだった。
男はもうすでに息が顔にかかりそうなくらいの距離まで接近してきていて、いきなり襟首を掴んできた。
男が持っていた刃物は、刃渡り10センチほどの折り畳み式の果物ナイフだ。
眼前にチラつかされたナイフの刃が、月明かりに照らされてギラリと光る。
「動くな!」
低い声で怒鳴られて、国彦の体がビクリと身動ぐ。
男の動きはその体の大きさに反して、想像以上に素早い。
男は襟首を掴んでいた手をパッと離したかと思うと、たくましい腕を国彦の背中に回り込ませた。
国彦は刃物を顔に向けられたまま、男に抱え込まれるような体勢になった。
逃げ出そうにも体格差からして勝てるわけがないのは明確だったため、小柄な体を縮こまらせて、されるがままになるしかなかった。
男は国彦の体をミニバンの後部座席に押し込めると、バタンッ!と乱暴な音を立ててドアを閉じた。
さらに運転席に移動してグローブボックスを開けると、そこから粘着テープを取り出した。
「両手を出せ!抵抗したら刺すからな!!」
後部座席で体を丸めている国彦に向かって、男が運転席から身を乗り出して怒鳴り散らす。
言われるままに両手を男の眼前に差し出すと、両手首を粘着テープで拘束された。
同じように両足首も拘束され、口にも貼り付けられた。
粘着テープは何重にも巻かれてしまっていて、多少暴れたくらいでは取れそうにない。
取れたところで逃げられるわけも無いのだけど。
次に男は助手席に置いてあったのであろう厚手の毛布を国彦の体にかぶせて、視界も塞いでしまった。
──ちくしょう!オレが何したっていうんだ!!
悔しさと恐怖から、国彦は内心悪態をついた。
──これからオレは、何をされるんだろう…?
国彦の不安をよそに、ミニバンは暗い夜道を走り出して行った。
決行の日がきた。
1月某日の18時半、肌を劈くような寒さの中、貞はいつも獲物が通る土手道近くにミニバンを止めて、獲物が来るのを待った。
辺りがすっかり暗くなったことで黒い車体はうまく闇に溶け込み、いい目くらましになった。
これなら通行人が何人かいても、目撃されるのを幾分か防げるかもしれない。
獲物からも見つかりにくくなり、より拐いやすくなる。
獲物をスムーズに車内に入れられるように、後部座席には何も置かずに広い空間を作っておいた。
トレンチコートのポケットには果物ナイフ、グローブボックスには獲物の手足を拘束するための粘着テープ、助手席には獲物の体にかぶせるための毛布。
今すぐにでも発進できるように車のエンジンはかけっぱなしにしてある。
全て整った。
あとは、獲物が来るのを待つのみだ。
獲物が現れないはずはない。
あの女に目星をつけてから毎日のように観察を続けたところ、18時半から19時までの間に土手道を通らなかった日は土日祝だけであった。
スマートフォンのロック画面を見て時間を確認すると、18時50分になっていた。
あと10分、獲物が現れないなら別の日にしよう。
貞が諦めかけた頃合いに、見覚えのある小さな人影が見えた。
──あの女だ!
貞はミニバンのアクセルを軽く踏んで徐行し、ゆっくりゆっくり女に近づいていく。
あと30メートル。
獲物が1度立ち止まって、はるか向こうにある何かを見上げたかと思うと、また歩き出した。
あと15メートル。
獲物が歩きながらニット帽とスヌードの位置を直した。
獲物とすれ違った。
獲物が何か叫んだ気がしたが、今はそれどころではない。
──今だ!
果物ナイフの柄を握りしめて、運転席から降りた。
獲物は一瞬、何事かと驚いて立ち止まったが、すぐに異変に気づいて逃げようとした。
素早く獲物に走り寄り、片手で襟首を掴むと、もう片方の手に握ったナイフを眼前にチラつかせた。
「動くな!」
貞に怒鳴られた獲物がぴくりと体を震わせる。
襟首を掴んでいた手を離し、獲物の背中に腕を回すと、恐怖でこわばった体をそのままミニバンの後部座席に引きずり込んだ。
ナイフを畳んでポケットにしまうと、急いで運転席に移り、グローブボックスから粘着テープを取り出す。
「両手を出せ!抵抗したら刺すからな!!」
獲物は貞に言われるまま両手を差し出した。
寒さからか恐怖からか、はたまたその両方か、手はブルブルと小刻みに震えている。
運転席から身を乗り出して、粘着テープを獲物の両手首に何重にも巻いて固定し、両足首も同じようにした。
大声を出さないよう口にもテープを貼り付ける。
続いて助手席に置いてあった毛布で、ノミのように縮こまった獲物の体を覆い隠す。
ハンドルを握ってアクセルを踏み、ミニバンを走らせる。
この間、約1分。
もっと短いかもしれない。
頭の中で何度も思い描いた計画を見事に実行できた喜びに浸っていたかったが、まだ油断はできない。
自室に連れていくまで、何かの拍子で獲物が逃げ出したり誰かに気づかれたりしたら、一巻の終りだ。
気をつけなくては。
しばらくミニバンを走らせていると、自宅マンションが見えてきた。
この間、何台かの乗用車や自転車とすれ違ったが、獲物に気づかれることもなく、まっすぐに家に戻ることができた。
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