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今日はどうしたの?
現在、両手は拘束されているが、猿ぐつわも無いし、足も自由にしてもらえた。
寝室のドアチェーンも外してくれているおかげで、部屋中を行き来することもできる。
退屈しないようにと買ってきてくれたマンガ雑誌は10冊を超え、ベッド脇に積まれていた。
寒い思いをしないようにと暖房もつけて出て行ってくれたおかげで、だいぶ過ごしやすくはなった。
それでも、廊下とリビングを隔てるドアに掛け金がかけられているせいで、外へ出て行くことはできない。
国彦はある程度の自由が与えられたのを機に一度だけ、寝室の窓から外を覗いてみたことがある。
見たところ、この家は駅からさほど離れていない場所にあるようだ。
周辺は高層マンションや新築のビル、大型のスーパーやコンビニが立ち並び、たくさんの人が行き交っていた。
視界は限られていたが、それを見た国彦には、ここがどこなのか概ね見当がついた。
──やっぱりここはA市で、オレが住んでたところとは180度違うところなんだ…
貞の身なりを見て感づいていたことではあったが、改めて実感した。
国彦が住んでいたB市は、個人経営の店や古いアパート、低層マンションが多く、全体的に古めかしくて庶民的な雰囲気が漂っていて、ここ一帯とはまるで正反対だ。
猿ぐつわを取って室内を自由に歩かせることが、貞にとって賭け事に等しい処置であることは、国彦にもわかっていた。
その気になれば、寝室の窓から大声を出して助けを求めたり、ケガすることも承知の上でリビングのガラスの引き戸を開け、そこから飛び降りることもやろうと思えばできる。
しかし、この環境にすっかり慣らされてしまった国彦は判断力が鈍ってしまっていた。
最初のうちは逃げ出すことばかり考えていたが、貞に阻止されるうちにそんな気持ちも消え失せてしまった。
人質にされて、逃げ出そうとしたところを殺されてしまった人の話を聞いたことがあるし、無事にいるだけでもましなはず、と諦める気持ちの方が強くなっていた。
生きてさえいれば、いつか冬也にも職場の人にも会えるだろう、との考えもあった。
この半月間、貞は優しかった。
朝出かけるときには、今日は何が食べたいかと聞いてきて、望んだものを買ってきて食べさせてくれた。
日用品も国彦専用のボディスポンジ、タオル、ノンシリコンシャンプー、洗顔フォームなんかを買ってきてくれて、日を追うごとに品数が増えていった。
──今日はどうしたんだろう?
いつも通りに帰ってくるって言ってたのに…
出て行く直前、今日の夕食はカツ丼だぞ、と言っていた。
国彦の好きな茶碗蒸しも食べよう、と約束しくれてもいた。
居ても立っても居られなくなった国彦は、ベッドから出てリビングに向かうと、電気のスイッチをつけた。
家に人がいることをなるだけ外部に悟らせないようにするためか、貞が帰ってくる前に電気をつけることは禁じられている。
しかし、今夜のような日は例外だろうと考えた。
──暗くて怖くて寂しかった、と言ったら、きっと許してくれるはず…
こんな夜中まで帰ってこないとなると、何らかの事件事故に巻き込まれたのでは、と不安になってくる。
残業で帰りが遅くなる日は何度もあったが、少なくとも21時半を越えることはなかった。
午前1時半。
ドアの開く音がした。
国彦が急ぎ足で玄関に向かうと、顔面蒼白でやつれきった顔をした貞が立っていた。
貞は靴を脱いで、玄関框を踏み越えたと同時に膝を折り、壁に背中を預けてへたり込んだ。
「国彦……遅くなって悪かったな。さっきまで病院にいたんだ。手を出せ。今、ロープを解いてやる。」
言われるままに両手を差し出すと、貞に解かれたロープが床に落ちた。
ロープを解く手も声も震えていて、呼吸も荒い。
「大丈夫?水を持ってこようか?」
国彦はかがみ込んで貞の顔を見た。
肌は青ざめていて、目の下は隈が浮いてほんのり黒いし、唇の血色も悪い。
「ああ…頼む。」
国彦はキッチンに移動して、冷蔵庫のミネラルウォーターをグラスに入れた。
廊下の壁にもたれている貞に水を持っていくと、一口飲んですぐに返した。
「水…ありがとうな。今日は何が食べたい?すぐに用意してやる。」
よろよろ立ち上がって、トレンチコートとスーツのジャケットを脱ぎ、そのまま床に置いた。
「カツ丼にするって言ってたじゃん。」
「ああ、そうだったな。すまない…いろいろあって、買ってきてやれなかったんだ。」
「じゃあ、何でもいいから、早く食べさせて。」
国彦は貞のことを心配する一方、空腹のまま放って置かれたことに抗議した。
「そうだな、じゃあ…うどんを食べさせてやるから、待ってろよ。残り物があったはずだ。」
ふらつく足どりでキッチンに移動すると、ステンレス鍋に水を入れて火にかけた。
冷蔵庫から出したうどん玉と市販のだしを入れて、ちくわを切った。
ちくわを入れて卵を割り落とすと、火を消して丼に入れてやり、ネギも添えるとテーブルまで持って行った。
貞は食欲が無いので、国彦の分だけだ。
「ほら、できたぞ。」
目の前に出してやっても、国彦は湯気の向こうで鍋を眺めているだけだった。
「どうした?ネギとかちくわは嫌いじゃなかっただろ?」
「オレ、猫舌だから、こんなに熱いと食べられない。」
「ああ、そうだったな、冷ましてやる。」
わがままを言う国彦に怒ることなく、貞はうどんを箸でつまんで息を吹きかけた。
セットした髪はボサボサになり、背中を丸めて口をすぼめ、うどんについた熱を飛ばそうとする様子は、お世辞にも格好がいいとはいえなかった。
しかし、空腹と孤独感で心細かった国彦には、貞の優しさが何より身に染みた。
「これぐらいなら、大丈夫だろ。」
国彦は箸を受け取ると、うどんを1本だけつまんで貞の方へ箸を向けた。
「ひとくち食べる?」
「いや……お前のなんだから…お前が全部食べるといい。」
貞はフラフラ歩きながら寝室に行き、ベッドに入ると、そのまま意識を手放した。
頬に髪の毛が触れる感触がして目を覚ますと、国彦の茶色い髪が視界に入った。
国彦は貞の胸に顔をつけるようにして眠っている。
部屋を見渡すと、廊下に放ってあったトレンチコートとジャケットはハンガーを通され、寝室の隅に置いてあるコートハンガーにかけられていた。
つけ忘れていたはずの暖房も、スイッチを入れられていた。
──国彦がやってくれたのか…
国彦のささやかな優しさが愛おしく感じられた貞は、さらさら艶めく髪を撫でた。
茶色い髪が甘えるようにして貞の節くれだった指にからまったかと思うと、国彦が薄目を開けた。
まぶたの動きに合わせて、長く豊かなまつ毛がふるふる揺れる。
「……もう大丈夫?元気出た?」
「ああ…たいぶよくなったよ。」
貞が微笑んでみせた。
「朝ごはん、オレが作ろうか?簡単なヤツならオレだって料理できるし。何なら、これからはごはんはオレが作るよ。」
「そうか、頼むよ。」
男にしては高い声が耳に優しく響く。
肩や背中、脇腹を撫でさすってみても、国彦は嫌がることもなくじっとしていた。
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