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第5話 どうしても
——やばい。ここにいるの辛いかも。早く帰ろう。
気を遣った颯紀くんが、さっきから俺に色々と話しかけてくれている。その間はなんとかなりそうだけれど、正直何を言われているのかわからないくらい、言葉が耳に届かない。
恥ずかしい思いをしたこともだけれど、さっき見た二人のオーラの変化への戸惑いが、俺の平常心を奪ってしまっていた。そんな状態で話しかけれれていても、どうしても内容が理解出来ない。
申し訳ないとは思うけれど、ただ適当に相槌を打つ事しかできなかった。
ただ、別に食い意地が張っているというわけでも無いのだけれど、そんな状況でも料理に手をつけずに帰ろうとはどうしても思えなくて、雑にならない程度にスピードを上げて口を動かした。
「うまっ」
ここは食べ物が基本的に全部美味しい。それは、人へ食べ物を提供することを心からの喜びとして行なっている人が、食材へかけた真摯な気持ちを、料理が纏った状態で提供されるからだ。
その優しいベールが、食べる人の体に入ることで、二人のオーラが調和を起こす。その時、味覚はそれを美味しいと理解する。
俺は、特に揚げ出し豆腐がやたらに美味しく感じて、こんな状況にも関わらず、思わず感激の言葉を漏らしてしまった。
すると、料理を作っていた人が顔を出し、「うまいかい? そりゃ良かった。他にもうまいもんいっぱいありますからね。ゆっくりしていってくださいよ」と言ってくれた。
俺は驚いた。迷惑な客だろうから、早く帰れと言われるのならばわかる。それなのに、かけられた言葉は、全く逆のものだった。その人の周りには、料理から感じるものと同じ、優しいオレンジ色のオーラが見える。
そこにいるだけで人に元気を与えられるような、活力に満ちた人だった。
「え? でも、いいんですか? 一人だし、面倒臭いだろうし、早く帰ろうかなって」
すると、料理人の男性は、腕を組んで快活な笑い声をあげた。足を肩幅程度に開いて笑うその姿はとても頼もしくて、その判断に身を委ねたくなるような、立派な大人としての器の深さを感じる。
「いやいや、こっちは何も気になってないよ。それに、残して帰ればいいのに、食べてくれてるだろう? 料理を大事にしてくれる人は、こっちも大切にしないとね」
そう言って、今まで見せていたものよりも、やや幼稚で悪戯っぽい、太陽のような笑顔を向けてくれた。しかもその後に、「な、快斗」と快斗くんに同意を求めたのだ。
俺とは初対面の快斗くんは、俺のことなど知るわけもない。それなのに、「だね。颯紀の知り合いみたいだし、ゆっくりして行ってください」と言ってくれた。
「あ、こいつは俺の息子だよ、息子。颯紀くんと話してたってことは、彼の知り合いなんだろう? 息子の友人の友人なら、大切にしてもバチは当たらねえよ。そう言うわけだから、ゆっくりしていってくださいよ」
快斗くんのお父さんだというその男性は、そう言って豪快に笑うと、調理場に戻って行った。
「あの、快斗……さん? ありがとうございました。一人で来た客が一人で騒いでたら怪しい人だろうし、追い出されても仕方がないだろうと思ったんですけど……助かりました」
快斗くんに面と向かって話しかけるのは少し躊躇いがあったけれど、ここはお礼を言うべきだろうと判断したので、しっかり頭を下げた。快斗くんはそんな俺の姿を見て安心したようで、ふっと息を漏らして笑うと「頭上げてくださいね」と声をかけてくれた。
「細かいことは気にしないでいいですよ。ここ、居酒屋ですから。酔っ払って変なことをする人なんて、他にもたくさんいますからね。誰も気にして無いです。それに、颯紀はあまり人と関わるタイプじゃないでしょう? それなのに、あなたには自分から話しかけたじゃないですか。それなら、きっと悪い人じゃないと思って。それであってるだろ、颯紀」
快斗くんはそう颯紀くんに尋ねると、颯紀くんもパッと花が咲いたような笑顔で「うん」と頷いていた。それから二人がいくらか言葉を交わすのを見ていると、ホッとする状況であるはずなのに、なぜか俺の胸はチクンと痛んだ。
それと同時に、二人のオーラがまたダイヤルを回すようにズレていく現象が起きた。そのタイミングと反応の仕方で、俺はあることに気がついてしまった。
——あ、これって……。
「あ、じゃ、じゃあ俺は冷めないうちにいただくことにするよ。まだ考え事終わってないし。ごめんね、多分話しかけられても聞こえなくなっちゃうかも」
俺のその慌て方に、颯紀くんは何か感じるところがあったようだった。心配そうに俺の方を見ていた。きっとまた何か不安にさせているだろう。それでも、俺はもう顔を上げることが出来なくなってしまった。
——どうしてだ? 何がきっかけだった?
理由はわからない。それでも、気がついてしまった。俺には、颯紀くんの恋を支えてあげることは出来ない。それを応援することも出来ない。
——こんなことが起こるなんて、思いもしなかった。
料理はどれもとてもおいしかった。出来ることならずっとここにいたいくらいに、居心地のいい店だと思う。でも、今は一秒でも早く帰りたかった。
「もういいのかい? ありがとうございました! 是非、また来てくださいね。 快斗、見送り……」
快斗くんのお父さんがかける声を遮るように、俺は大慌てでそれを止めた。今は、少しでも早く家に帰りたい。帰らないといけない。
「あ、大丈夫です! ちょっと仕事のことを思い出したので、急ぎますから。ごちそうさまでした。全部すごく美味しかったです。また来ますね!」
背後から聞こえる「ありがとうございました!」の声に後ろ髪を引かれながらも、俺は急いで店を後にした。少しでも長くあの場にいたら、どうなっていたかわからない。
——あんな花が咲いたみたいな笑顔を向けられるって、どんな気分だろう。
店から外へと飛び出して、必死になって走り抜けた。こんなに全力で走ったのなんて、いつ振りだろうか。足がもつれ、何度か転びそうになって、その度になんとか堪えた。それでも立ち止まると涙が溢れそうで、どうしても止まりたくなかった。
——苦しい。
息が上がって肺が痛くなってきた。苦しくて、苦しくて、涙が出た。
——俺の胸が痛むとオーラがズレて行ってた。それって……。
「うわっ!」
家について玄関のドアを開けると、すぐにそのまま倒れ込んだ。膝を床で思いっきり打ち、痛くてそのまま動けなくなってしまった。
「う……いって……」
言葉に出してしまったら、痛みは存在感を強め始めた。どうにか立ち上がって、足を引きずりながらも、二階まで必死に上がっていく。
そして、自分の部屋のドアを開けると、後ろ手にドアを閉めながら泣いた。ここまで堪えられたのは奇跡だろう。でも、そんな奇跡なんて欲しくなかった。どうせなら、幸せになれる奇跡が欲しかった。
「なんでこんな……。ひどいよ、神様……」
そのままその場に崩れ落ち、頭を抱えて泣き喚く事しかできなかった。
二人の間にある完璧に調和したオーラがズレていたタイミングは、俺の胸が痛む時といつも同じだった。そのズレ方は、ダイヤルを回すように、不自然なものだった。
つまり、あれは俺の意思が反映されていたということだ。二人が仲睦まじく話すと、それが起きていた。そんなの、もう答えは一つしかない。
——好きになってしまった。
俺は、颯紀くんを好きになってしまった。依頼人に恋をすることになるなんて、夢にも思わなかった。
そして、次に会う時には、彼の恋を成就させるという約束を果たさなければならない。それは、自分の初恋を、自分の手で終わらせなければなら無いということだ。
そして、颯紀くんがあの素晴らしい笑顔を快斗くんに向けるのを、目の前で見ないといけない。そんなことは、想像するだけで体がバラバラになりそうだった。
——生まれて初めての恋がこんなことになるなんて……。
「見えなきゃ良かった……」
生まれて初めて、この力があることを嫌だと思った。見えなければ、気が付かなかった。見えなければ、出会う事も無かった。こんなに辛い思いに突然晒されるなんていう経験も、しなくて良かったのに。
どうしても嫌だった。あれ以上あの店にいたら、あの場で泣いていたかも知れない。だから逃げた。二人が笑い合っている姿を、見るのも聞くのも嫌になった。
——もう、俺には颯紀くんの付き添いは出来ない。
どうしても、出来ない。
どうしても。
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