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第6話 また、初めて。
あの居酒屋の日から二週間が経つ。響也先輩には、原因はわからないけれどオーラが読めなくなってしまったと伝え、一度引き受けたのにお役に立てずに申し訳ないという旨を詫びた。
幸い、他の依頼は、全く受けていないタイミングだった。これを機に、しばらく付添人の活動は、休むことにした。
他の人のオーラを見る分にも、伝える協力をする分にも、能力的には全く問題は無い。ただ、俺は今、生まれて初めての失恋をしたばかりで、誰かの幸せを見守るということを、純粋な気持ちでやれるかどうかが全くわからなかった。
付き添いをして、気持ちの通じ合った人たちを見た時に、今の俺は、おそらく平気ではいられないだろう。誰かの幸せを、俺の嫌な表情で台無しにしてしまったら大変だ。
あの日以来、俺は毎日が地獄のように感じていた。何をしても楽しめず、何を食べても美味しくない。眠れない、眠れても眠りが浅く、すぐに起きてしまう。不眠の体のだるさは、全てにおいてやる気を奪っていった。
それでも不思議なことに、仕事をしている間だけは、その辛さをすっかり忘れることが出来た。そのため、俺は母親の言うままに仕事を引き受け、信じられない業務量をこなすようになっていった。
よほどひどい有様だったのだろう。あの残業強要魔の母でさえ、心配するようになっていった。
「公音、そろそろ休みなさい。あんた、昨日も眠れてないんでしょう? 仕事にミスはないけれど、体が心配よ」
毎夕鬼となっていた母の顔は、まるで聖母のように優しくなっていった。それでも今の俺には、その優しささえも残酷な痛みとして刺さっていく。
——今欲しいのは、母さんからの優しさじゃない。
そんな酷い感情が湧くことに自己嫌悪して、さらに疲弊していくばかりだった。
そうして過ごした二週間の後、たまたまうちに顔を出した光希に、母は縋りついた。どうにかして俺を外に連れ出して欲しいと頼んだようだ。
「公音、入るぞ」
光希は、そういってズカズカと部屋に入ってくると、ベッドに身を投げるように倒れ込んでいた俺の襟首を掴んで引き起こした。
「うげっ! 何すんだよ、首しまったぞ。危ないだろ」
「うるさいよ。うーわ、しみったれてんな、お前。ほら、来いよ。飲み行くぞ」
そう言うと、俺の返事など何も聞かずに、ずるずると引きずりながら強引に外へと連れ出した。
それが、おおよそ三時間前の事だった。
「うえっ……うう、しぬ……」
今は二十一時。ほとんど食べずに酒だけを飲み続けたため、強烈な吐き気に見舞われていた。社会人にもなって何をやっているんだかと、自分でも呆れている。
せめて何か食べていれば、少しは楽に吐き出せたかも知れないのに、胃液以外に吐くものがない俺は、ただ延々と苦しんでいる事しか出来ない。いつもはほとんど酔わないのに、まるで脳を酒につけられているかのように、頭がクラクラとしていた。
見かねた光希が、グラスに入った水を運んで来てくれる。
「大丈夫か? お前そんなに酒弱くないだろ? そんなになるなんて、よっぽど弱ってるんだな」
黙り込んでいる俺に、光希がため息をこぼした。そして、その手に持ったペットボトルの蓋をまわし、パキっと音を立てて開けてくれる。水なら今のんだ。もう十分だ。
「もう水も飲めない」といやいや光希の顔を見ると、まるで子供の相手をしているお父さんのように、優しく苦笑いをしていた。
「水飲んで吐きまくってたから、脱水起こしてないかと思って。ほら、これなら飲めるだろ? 経口補水液買ってきた」
「おー……」
あまりにもキツくて、まともな返事も出来なくなっていた。睡眠不足に、空きっ腹への飲酒。誰がどう考えてもダメな飲み方だ。失恋したくらいでここまでガタガタになるなんて、情けなくて自分が嫌になる。
グラグラする頭を抱えて、経口補水液のペットボトルを受け取った。力の入らない手では両手で抱えるのがやっとで、なんとか掴んで持ち上げた。それをゆっくりゆっくり傾けて、やっと飲み込んでも少量だけだった。
「うう、飲めない……なんか手に力が入らない」
「もー、お前……ほら、持ってやるから飲め……」
光希は俺の後ろに周り胡座をかいて座ると、俺を後ろから抱えるようにして座った。そして、そのまま体を滑らせて横に抱き直し、片腕で軽々と俺を支えた。俺はまるで授乳中の赤ちゃんのような姿になっていた。
俺の手からペットボトルを奪うと、それを俺の唇にトントンと当ててきた。それこそ本当に哺乳瓶でミルクを飲ませるようなもので、俺はおかしくなって吹き出してしまった。
「何笑ってんの」
「だって、なんか俺、赤ちゃんみたいじゃない?」
すると、光希は大きな声を上げて吹き出した。
「こんな酒くせー赤ちゃん、俺しか面倒見てくれないぞ」
ゲラゲラと笑いながらも、まだ口をボトルでトントン叩いている。
「ん」
赤ちゃんみたいで恥ずかしかろうと、口を開けないと飲むことはできない。早く開けろと言っているのだと判断した俺は、反射的に口をぱかっと開いた。
「あー」
「! おまっ……」
開けろと催促をしたのは、光希だ。だから俺は口を開けた。その通りにしただけなのに、狼狽えた光希はそのままペットボトルを落としてしまった。俺は横抱きにされていたので、腹の上に撒き散らされた経口補水液で、見事にびしょびしょになってしまった。
「あー! つめてっ……おい、光希ー!」
「だっ大丈夫か? わるい、ちょっとびっくりして手が滑った」
光希は「タオルをとってくる」と言って立ち上がった。そこでようやく、俺は気がついた。ここは光希の家だ。
いつの間にか、飲んでいた店から光希の家に引き上げていたらしい。ぼんやりする頭と、濡れてしまってスースーする腹を抱えたまま、光希が戻るのを待って横になっていた。
すると、だんだんじわりと涙が溢れてきた。蓋をして、見ないようにしていた悲しみが、ポロポロとこぼれ落ちてきた。それでも泣き喚く力は残ってなくて、ただ静かに泣くことしか出来なかった。
一人でジメジメしていると、光希がタオルと着替えを持って戻ってきた。戻って来ると、酔っ払いが泣き始めている状態だ。こんなに面倒なことはないだろう。それなのに、光希は俺をまた抱え上げると、甲斐甲斐しく世話を焼こうとしてくれている。
「なんか……ごめんな」
「おう。多分俺もそのうち同じ目に遭うから、その時はよろしく」
そういうと、経口補水液で濡れて少しベタつく肌を、お湯で濡らしたタオルで拭き取ってくれた。冷えていた腹が少し温まって気持ちが良いい。ご主人様に腹を向ける犬はこういう気持ちなんだろうかと、馬鹿なことを考えるくらいには気持ちが緩んだ。
そして、はたと俺は気づいた。同じ目に遭う、とは何のことだろうか。
「なあ、俺今日何か言ったっけ?」
「んー? いや、はっきりとは何も。でも、失恋だろ?」
「え? なんでわかったんだ?」
俺は驚いて勢いよくガバッと起き上がってしまった。もし、依頼人の情報を光希に話してしまったのなら、まずいと思ったからだ。
ハーモニアスは、依頼人のプライバシーを守ることに力を入れないとやっていけない。俺はそう思って、最初からずっと依頼内容を人に話さないようにしていた。
依頼人が人に話す分には自由だと思っているけれど、俺がそれを第三者に話すのは、法に触れる可能性だってあるデリケートな問題だ。
もし、俺が失恋した話を詳細に話してしまったら、颯紀くんが誰を好きだということまで、話してしまっている可能性だってある。そんなことをしていたら大変だ。
ただ、若干記憶に自信がないのも確かで、もしかすると話してしまったのかもしれない。それをどこで言ったのか、颯紀くんやその知り合いに聞かれていないだろうかと思うと、気が気ではなかった。
「大丈夫だ。本当に何も言われてない。ただ、俺が勝手に気づいただけだから」
「え、なんで? 何も言ってないのに?」
「お前な、どれだけ付き合い長いと思ってるんだよ……」
そんなのはなんでもないことだとでも言うように、俺にスウェットを着せながら光希は答えた。でも、そんな理由では俺には納得がいかない。
「そうだけど、でも俺はお前の事、そこまでわかんねーよ。ちょっとすごくない? もしかして、お前も何か見えるのか?」
もしかして、光希も俺と同じなのではないかと思った。実は言わないだけで、本当はオーラが見えて、しかもそれが調整できたりするなんていう、俺にとって都合のいい話を考えてしまった。
——もしそうだったら、俺の気持ちを本当にわかってもらえる……。
理解してもらえないものを持つというのは、案外しんどいことがある。人にわからないことがわかるということは、自分のことは相手に本当にわかって貰えないということと同義だからだ。
俺は、こんなにも俺のことをわかってくれるのなら、光希が俺と同じであってくれればいいのにと思ってしまった。さっきの「同じ目に遭う」の意味も、それで辻褄が合う気がした。
「だって、お前さっき俺と同じ目に遭うって言っただろ?」
「そうだけど……同じ目にってのは、好きな人が別の人を好きで、それが原因ではっきり失恋するっていう意味だよ」
説明してくれてはいるものの、酒に浸った頭では理解が追いつかない。「どういうこと?」と尋ねた俺の顔を見て、光希は顔を顰めた。ぎりっと歯軋りをする音が聞こえる。
怒っているのだろうか、光希が黙り込んでしまった。俺は光希の胡座に座った状態のまま、まっすぐ体ごと光希の方へ向き直るために、体を捻った。
「光希?」
顔を向けた途端、唇にムニっと柔らかいものが触れた。
「んっ?」
驚いていると、そのまま口から喉に冷たい刺激が走った。新しい経口補水液を持って来ていた光希が、それを口に含んで俺の口内に流し込んでいく。
「う、ン」
驚きつつも、与えられるそれを抗わずにゴクゴクと飲み干していると、そのまま強く唇が吸われる感覚があった。
「なに? みつ……」
言葉を発しようとしたけれど、それを阻むように何度も唇を喰まれた。小さく、短く、小鳥が啄むような、戯れるようなキスが繰り返される。俺は驚きすぎて、それを拒否する事もできなかった。
そのまま、黙って受け入れた状態が続いた。気がつくと、熱を持った舌が、俺の唇の隙間をするりと割って入って来た。
「んんっ!」
それが俺の舌を撫で、さわさわと口内を巡っていき、上顎にたどり着く。そして、深く入ろうとして角度を変えた首に気がついた俺は、ハッと我に返るとドンっと光希を突き飛ばした。
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