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第1話 季節外れの新人

『音川君、今ちょっといい?』 ピコン、という通知音と共に送られてきたメッセージを見てすぐ、音川はヘッドセットを装着した。 在宅勤務となり4年目。IT会社に務める音川にとっては出社してようが在宅だろうがチャットによるコミュニケーションは常だったが、通話は以前に比べて圧倒的に増えた。 『はい、大丈夫です』 チャットではどうしても堅くなるな、と表示された自分の返信を見ながら、メッセージの送り主である課長からかかってきた通話を受ける。これが口頭なら、『いっすよ』だっただろう。 「お疲れ様でーす」と課長の軽快な掛け声が思ったより大きく、音川は急いでボリュームを下げた。 「おつかれっす」 「急にごめんね。ちょっと相談なんだけど、T社の件について何か聞いてる?」 「ああ、あの揉めてるやつ」 「こっちはもうカツカツで人が増やせないから、音川君どうかなって」 T社とは、自社のWebアプリケーションのカスタマイズを一手に引き受けてくれているインドの開発会社だ。 最近先方でボイコットがあり、本社の企画と開発が現地入りしていると音川は本社の開発担当の速水から直接チャットで聞いていた。 騒動の内容と、音川の手を借りることになるだろうという話も。 「えー、めんどくさい」 「ホンネがすぎる」と課長が言うが、音川のこういった素直さを何よりも頼りにしているのは当の課長だった。 営業の持ってくる仕事を選別する際に、音川のように現場の声をダイレクトに伝えてくれるエンジニアがいると大変に助かる。 ただ今回は、『忙しい』ではなく『めんどくさい』なのが厄介だ。 「で、やれそう?」 「いけるっちゃいける」 「助かるよ。まいどまいど。で、新人を付けるから、教育も兼ねて欲しいんだよね」 「あっ。そっち?……余計にめんどくさい」 「まあそう言わずに。いい機会だから育ててみてよ」 課長は、今年度から開発部に配属された新人の名前を出した。フルネームは青木泉というが、社内に同じ青木姓がすでにいるため、慣例に沿って新人は名前の『泉』だけを通称にしており、混乱を避けるため社内SNSも同様とのことだ。 「ああ、彼か」 「知ってるの?」 「名前と仕事は一致するよ。いいデザインをあげてくるコ。話したことは、ないかな。たぶん」 開発部門には、前業務や勤続年数に関わらず、配属された時をまるで入社日のように扱う風潮があるため新人と呼ばれるが、確か入社2、3年目のはずだ。 「じゃあ、本社の速水君と連絡取って、できるだけ早く入ってほしい。報告があれば定例ミーティングでいいから。じゃ、お願いしまーす」 課長が軽快にそう告げて通話を切ったあと、音川はすぐに速水にチャットを送った。 『やっぱり俺が入ることになった』 『助かる。今日の17時から打ち合わせできる?日本時間で』 インドと日本は3時間半の時差だから現地はまだ早朝だろうに、速水からは即レスがあった。 音川は『OK』とだけ返信し、メールアプリの検索欄にT社の名前を入れた。案件について詳しく探るには、CCで届いている関連メールの全てを最初から辿るしかない。 ついでにチャットアプリのユーザーリストから、課長が名指しした、泉という新人を探し出して『17時から空いてる?』とチャットを送る。 『はい!空いています!』 新人君からは、すぐに文字だけでも伝わる元気な返答があった。 インドとの通話が繋がったのは17時を5分ほど過ぎた時だった。 画面の向こうでは、デスクの中央に集音マイク、左右にはそれぞれ本社の開発担当の速水と、同じくそのプロジェクトマネージャーをしている高屋が席についていた。 「お疲れ様です。ごめんね、ちょっと機材の調子が悪くて」と高屋が開口一番に謝った。 音川が高屋の案件にアサインされるのは今回が始めてとなり、中途採用の高屋とは顔見知り程度だ。 かなり鋭い男だという噂は聞いているが、人懐こい話し方や、柔和そうな目元からはおっとりとした印象しかない。 音川が所属しているシステム開発会社と、高屋と速水が所属するコンサルタント会社は元は1つのシステム開発会社だった。 自社のアプリケーションが成功したことで業務を拡大し、開発部門を独立させて子会社化した経緯があるというだけで、内部ではお互い『本社』と『ITの人たち』と通称で呼び合い、別会社という意識は全く無かった。 社屋も同じで、フロアが異なるだけだ。 速水と音川は同期入社で、たしか年齢も同じはずだ。お互い技術者枠としての採用で、10代の早い頃から独学でプログラミングをしていたことからすぐに打ち解けた。 どちらも、ソフトウェアの仕様に神経を注力するせいか、それ以外のことにはどうも大雑把で、そういう加減の振り幅が合う。音川にとって速水は、最も信頼のおける技術者であり、また親友と呼べる存在だった。 結婚後に速水は本社に異動したため、以前ほど密に会うことはないが、それでも出社のタイミングが合えば昼飯に誘うし、飲みにも行く。 速水が本社へ移ったのは2年ほど前になる。 生粋のエンジニアである彼が管理側に行くことは社内に多少の混乱を起こしたが、最も身近にいた音川は、速水が入籍すると聞いた時にすでに予感していた。 残業を増やして収入をあげようとする人もいれば、第一線を退いて家族との時間を増やす人もいる。 速水は前者のようなバリバリのエンジニアの皮を被った後者だ。 「音川君が入ってくれるって聞いて本当に安心したよ」と高屋は気さくに言い、続けて「見かけたことはあるけど話すのは始めてだね。高屋です」と泉に笑顔を向ける。 「イズミです。どうぞよろしくお願いします!」 新人は歯切れよく名乗り、律儀にもカメラ越しに頭を下げた。 「開発の音川です。よろしく」 音川はメンバーが映し出されている画面から少しだけ目線を上げて、自分のPCモニターに取り付けているWebカメラを見た。 きちんと、相手から目が合うように。 「音川さん。どうぞよろしくお願いします!」 挨拶と共に泉の顔がカッと紅潮したのを音川は目ざとく気付く。 エンジニアであることに間違いはないが、技術責任者となった今、音川はどちらかというと管理や営業の仕事に近い。 そのため、チームメイトの体調や、ちょっとした変化には敏感なのだ。 「緊張してる?気を楽にして、今日はおじさんたちの話を聞いててよ」と音川が言うと、「はーい」と速水が返事をする。 「おまえはこっち側だろ。高屋さんはまだ20代かもしれないけど」 「おれ30」 「じゃあこっち側だ。若く見えるね。で、どう?英語は通じてる?」 「たかやんがベラベラだからいーの。俺はソースコードで通じ合ってる」 速水は自分より3つ年下の高屋のことを、プロジェクトマネージャーとしての敬意を残した上で『たかやん』と呼ぶことがある。通常はきちんと全員を「さん」付けで呼ぶが、音川がいると気が緩むのか遠慮もなにも無い。 速水は、高屋の爽やかな外見に似合わないそのバタ臭い呼称を気に入っている。 「いや、ギリギリ通じる程度だよ。本気でやんなきゃなって自覚する日々」高屋の発言は本音だったが、速水はコンプレックスに近いほど語学が不得手であり、今最も身近で恩恵を受けている立場からすれば謙遜だと捉えただろう。 「やっぱカレーばっかり食ってんの?」 音川はテンプレート通りのような質問をインド組に向けた。実際気になるところだ。 「それがさ、半分は中華料理なんだよ」 すぐに高屋が答える。 音川の雑な物言いを、高屋は全く気にもとめずに、ホテルのルームサービスがいかに美味しいかを語った。 「音川、俺と交代するか。美味いから食べに来いよ」 「遠慮しとく。面倒くさい」と音川は即答した。自宅から4駅離れただけの会社へ行くことすら面倒なのに、飛行機での出張など言語道断だ。 ITエンジニアには、こういった極度の面倒くさがりがよく見られ、音川も例外ではなかった。 より効率良く使えて、将来的に管理の手間が掛からず、稼働速度が早く、属人化しないコードが書けること。こういったことができるのは、面倒くさがりの性質がゆえだ。 作業に手間を惜しまないタイプの人間に言わせれば「ITの人は楽することばかり考えている」と言われがちだが、逆から言わせれば「なんでそんなめんどくさいこと毎回してんの?」だ。 楽するために努力するエンジニアと、非効率に耐えることを努力だと考える事務方、この溝が埋まることは決して無い。 「しかも、たかやんなんて携帯の盗難に遭ってさ」 「うわ、ご愁傷様です。スリ?」 高屋は首を振った。 「いや、ホテルの部屋。寝てる間に侵入されてさ。当然鍵は掛けてたけど、金庫には入れてなかったんだよね」 「酷いな。他には大丈夫だった?」 「見事に携帯だけ。常習かもしれない。おれ、すぐに南京錠とチェーンを買ったよ。マスターキーがある以上、ホテルの従業員も信用できない」 「それは気が休まらないな。いつ帰れそう?」 「あと数週間は掛かりそうなんだ。盗難届もまだ貰えていないし。かろうじて、実家には連絡できたんだけどね……他に覚えている番号が無くて」と答える高屋の表情はかなり暗い。 音川はあえて聞き返さなかったが、高屋なら当然連絡すべき親しい人間がいるだろう。 今どき、誰かの携帯番号を記憶している方が少数だ。1ヶ月も音信不通だと下手すりゃ大事になりそうなものだし、高屋の落ち込みようはその不安からだろうと予想した。 「俺、実家の番号すらもう思い出せない」と音川が同情する。 「ま、なるようにしかなんねーよな」 そう高屋は締めくくり、「さて、やりますか」と、プロジェクトのガントチャートを表示した。 「音川君たちに、バックエンドを引き継いで欲しいと考えていて」 「サーバー周りだけでいいのか?」 「うん。こっちでインターンを採用することになってね。フロントは任せられそうなんだ。速水君が指導してくれるから」 高屋がざっとプロジェクトの概要を説明し、技術面の話は速水に引続いだ。音川は、高屋がエンジニアにとって冗長となる情報を上手く省いて説明していることを察知し、『鋭い男』と速水が言ったことを思い出した。 「わかった。そうか、納期を延ばせたんだったな。速度改善もできるかもしれない」 「さすがですなあ」と速水が褒める。 「泉くんも居ることだし」 とつぜん音川にそう言われ、「ハ、ハイ!」と泉は居住まいを正した。 その、画面越しにも分かるほど緊張した様子の泉に、音川は新鮮さを感じた。 「いい返事だな。俺にもこんな時代があったような気がする」 「いや、無かったね。おまえは最初からふてぶてしかった」と速水がツッコんだ。 高屋はそのやりとりに「想像できる」とけらけらと笑った。 本社組とIT組とで担当作業を把握したことを確認し、インドとの会議は締めくくられた。 音川は、引き続き泉に作業指示をしようと思ったが、定時を過ぎていることに気付いて取りやめた。代わりに、明日の朝10時からの会議案内を送っておく。 泉の様子からは、この仕事に対する真剣さがよく伝わってきていた。 そういう人間は、頑張りすぎる傾向があることを音川は経験から知っている。 いくら成果をあげて納期を守っても、心身を壊しては意味がない。 それに、健康より仕事を優先しなければならないようなスケジュールを立てるプロジェクトマネージャーは仕事ができない。 その点、高屋は十分に信頼できそうだった。 音川はすぐにチャットアプリから自分のステータスをオフラインに変えた。もう退勤しました、という対外的なアピールだ。これで泉も気兼ねなく退勤できるだろう。 しかし仕事を終えたわけではなかった。あちこちの共有フォルダから設計書や運用に関するドキュメントを引っ張ってきて、1つの資料に落とし込んでいく。 自分がすべきことを把握するためでもあり、泉への説明のためでもあり、また、大げさに言えば後世に引き継ぐ担当者がメンテナンスをしやすくするためにも、丁寧なドキュメントを残しておくことは重要だからだ。 最後にざっと目を通す。技術的な用語で少々難解ではあるが、内部の技術者向けであるから十分だろう。 音川は、仕上がった資料を泉にメールしておいてからPCの電源を落とした。 フルリモートワークであるから残業をし始めると際限がなくなってしまう。きちんと退勤時間を決めておくことは、作業にメリハリをつけるためにも重要だ。 また音川は副業でもアプリケーションの開発をしており、そちらへの頭の切り替えをするためにも、多少の休憩時間は必要だった。 この場合の休憩とは、行きつけの居酒屋へ夕飯を兼ねて飲みに行くことを指す。 自宅マンションから最寄り駅までは徒歩10分程度で、行きつけの店は駅前の飲み屋街に集中している。そこで焼き鳥とアルコールを少々、時には刺身や焼肉だったりもするが、大抵は蛋白質を中心とした食事を摂る。 そうしてほろ酔いの身を風にさらしながら、のんびり遠回りをして帰るのが夜の日課だった。歩いているとふいに引っかかっていたロジックがホロリとほぐれることがある。稀に見かける地域猫に目を細めていると、悩ましいバグの解決策がひらめくこともある。この少しの有酸素運動は週4日で通うパーソナルジムのトレーナーからの指示でもあった。 数年前にPC仕事の宿命ともいえる腰痛を患ってから、医師の薦めで筋トレを始めたらみるみるうちに筋肉が付き始め、面白くなってしまった。 開始から1年足らずで手持ちの服の袖周りが窮屈になり、Yシャツのボタンが留まらなくなった。 この恵まれた体質は、音川の出生の特性が関連している。 音川は日本人の父とポーランド人の母を持つ。そして母方の祖先から続く大きな骨格と柔軟な筋肉の遺伝子は、半分日本人であることを周囲に悟らせないほどに、音川に強烈に受け継がれた。 今ではトレーナーから、見事なギリシャ彫刻のようだと褒められる身体になっていたが、あくまで腰痛対策から生まれた幸運な副産物であるから、音川は摂取カロリーなど面倒な計算をしない。そもそも食にあまり興味がなく、学生時代は脳にブドウ糖さえ送ればよかったためほとんどまともに食事をしておらず、ひどく痩せていた。 その上夜にしか行動しないから、吸血鬼ではないかと言われていたほどだ。 それは音川の西のものとも東のものとも分からないミステリアスな容姿の美しさと相まってのことだが—— ともかく面倒なことが苦手な性格もあり、細かいカロリー計算をしての体型維持などできるわけもないから、ついでに歩いて、腰痛にならないための筋トレを行い、あとは好きに食べる。それだけで、脂肪が薄くキレが良い身体を保っているのは、やはりDNAに組み込まれたものだろう。 その夜も熱帯夜で、いつものように焼き鳥屋で串を何本かとハイボールを数杯重ねてから散歩をしながら帰宅すると、すっかり酔いは覚めている。 何のためにアルコールを飲むのか毎度疑問に思いながらシャワーを浴び、好物のラム酒を少しグラスに注いでリビングのソファにどっかりと腰を下ろすと、ニャン、と小さく声を上げて愛猫が膝に乗ってくる。 「マックスさんも飲むかい」 猫に晩酌をさせるわけはないが、毎晩のようにそう声をかけるのが習慣になっていた。やや高台の住宅街に建つ3LDKの分譲マンションに独りと一匹。最上階であるため周囲に邪魔されることのない高さからは街の夜景と星空の輝きがぼんやりと揺れ、夜の静寂を楽しむことができる。 これ以上ない贅沢な休憩時間だ。 ラムを飲み終え、猫が膝の上から飛び降りて廊下へトコトコと歩いて行く。音川を仕事部屋へと誘うかのように。 「もうそんな時間か」 副業の時間は深夜より少し前に始まる。 あまり眠れる質ではないし、昼の仕事と異なり打ち合わせもないから真夜中は開発に最も入れ込むことができる。睡眠障害に片足を突っ込んでいるとも言えるが、まだ頭に衰えは来ていない。時間の問題かもしれないが、スポーツ選手とエンジニアは似たようなもので、能力がある内に最大限の力を注ぎ込むしかない。 それほど、今とりかかっている副業の開発は、音川にとって重要だった。 3時間ほど集中し、目にかすかな疲労を感じた頃に寝室へ向かう。仕事部屋での値落ちは腰痛経験者としては避けなければならない。 翌朝、音川が会議通話を開始するとすでに泉は参加していて、「おはようございます」と元気に挨拶をしてくれる。 「早速だけど、送っておいた資料を一緒に見ていこうか」 「はい。ざっとですが読んでみました。いくつか質問がありますので、後ほど教えてください」 「もう読んだの?早いね。……そうか、それならもう質疑応答だけで進めようか。時間も省けるし」 「承知しました。私の方で画面共有してよろしいでしょうか?」 「うん、助かるよ。あと、さ……」 「はい?」 「もっとこう、なんつーの、砕けていいよ。丁寧な扱いに俺が慣れてないっつーか。昨日のインドとの打ち合わせでも、雰囲気が分かったと思うけど」 「あ、ハイ、でも……まだ僕には難しいかもしれません」 「ああそう。まあそのうち。この部署は部長にすらタメ口だし」 「それは音川さんだけでは?」 スピーカー越しに軽く含み笑いが聞こえたような気がして、音川はニヤリとした。 「その調子だ。リモートで一度距離ができてしまうともう縮まることがなくてね。俺、絶対に出社したくないから」 「僕は当面の間は出社しています。本社の方にも会えるし、それに自宅では開発環境がまだ整っていなくて」 「そんなの全部家に送れば。課長に言っとくから」 「場所の問題があるんです。デザイン部からのMacもそのまま使ってよいとのことで、そこにPCまで置くとなると……僕まだ実家暮らしなんです」 「ああ、なるほど。子供部屋か」 「そうですが……さすがに学習机は無いですよ?」 「冗談だよ。デザイナーがそんな部屋に住んでるとは思わない。じゃあ、始めようか」 「ハイ。では……画面共有、するね?」 突然優しく語りかけられ、音川は笑いを漏らした。それは愉快というよりか、じわりと胸に温かな灯火が与えられたような、奇妙なくすぐったさからだった。 「あ、違うんです!つい、すみません!」 「なにそれ、か……」 音川は急いで言葉を飲み込んだ。 昨日の打ち合わせで見た泉のクリンとした大きな瞳が、画面の向こうで焦って白黒しているであろう様子が思い切り想像できてしまい、つい『かわいいね』なんて……自分でも到底信じられない軽率な感想を発してしまうところだった。 「いや、話しやすいように話してくれれば何でもい」
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