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第2話 こっちを見て

音川は失言を回避できたことにひとまず胸を撫で下ろした。 『かわいい』なんて思うのは、相手を自分より目下に見ていることに他ならず、パワハラだと捉えられる可能性がある。もし泉が女性だったなら、容姿についての感想だとしてセクハラになりそうだ。 ずいぶん神経質に思えるかもしれないが、これには事情があった。 そして、7月の夏真っ盛りである中途半端な時期に実施された泉の人事異動に関連している。 泉は元々デザイン部門の優秀な若手だった。 若手ゆえ音川とは直接関わりはなかったが、成果物のクオリティの高さは認識していた。 社屋ではデザイン部門と開発部門は同じフロアにある。しかし建物の廊下の端と端という位置で、休憩室がちょうど中間地点にある。ちょっと話に行くには億劫な距離で、基本的に2部門の社員たちは休憩室以外で顔を合わさない。 音川が入社した当初は、同じ部屋だったのだが。 デザイン部門部長は保木という40代後半の男で、10年前に元の勤務先から顧客をごっそり連れての中途入社だった。 顧客を奪うのはまともな転職ではないが、本社から独立したばかりの子会社にとっては大きな機動力となる。保木と社長とは故知の仲らしく、チーフデザイナーとしての採用で給与も高く、地位も約束されていた。 しかし保木には、社長には絶対に見せない、裏の顔があった。 デザイナーはダメ出しされるのも仕事のうちだと言われる。 しかし、それが技術の未熟さではなく、上司の機嫌で左右されるとなると、まごうことなきパワハラだ。 当初は同じオフィスだった開発部門からデザイン部門へ『声が大きくて集中力をそがれる』という申し入れがされた。 実際は保木部長の怒鳴り声とその内容に耐えかねた批判だった。 それが当のデザイン部門内部からの発出あれば対策も立てられたかもしれないが、若手デザイナー達はよくも悪くも職人気質であり、理不尽にジッと耐えていた。 というのも、保木が持っている案件は誰もが知る大手企業ばかりで、それに関わることは自分の実績に箔がつくことになる。 イコール、転職に優位となる。 耐えて実績を積み華麗に転職する—— それが若手デザイナー全員の共通意識だった。 音川と速水は、保木が中途入社した年の新入社員だった。 独立したことで、これからより高度で専門性の高いサービスを提供するための補強要員であり、時期的には会社の創立メンバーと考えても良い。 しかし、先進的な考え方を持つ若い技術者である2人は、すぐに、保木ひとりのせいで雰囲気が悪くなってしまう環境に辟易し、何度も上長に申し入れをしていた。 それは若者特有のフレッシュな正義感から発生したものではなく、単純に、音川や速水にとって、理の通らない保木の言動は生理的に受け付けられなかったのだ。 そして、理不尽なデザインの差し戻しによる時間の無駄遣いは、その後の開発工程にしわ寄せがくる。 そんなことは入社したばかりの新人でも分かるのに、なぜ保木が平気で人に迷惑をかけることができるのか。 「周囲に、自分は特別だと見せたいんだよ。単なるエゴ」と当時の開発部の上長は吐き捨てるように言った。音川にはその手法もまるで逆効果で、一層保木を軽蔑するだけだった。 しかしここ1、2年、保木が通したデザインが顧客からあまりよい評価を得ない例が散見されるようになって来ていた。 目新しさがなく、多様化についていけていないという厳しい指摘。そして費用とWebサイトの集客結果が見合わずに契約更新がなかったりといった案件が増えてきたのだ。 これは客側のマーケティングで世代交代が起こったことを意味している。 自社のサイトがありインターネットに広告を出しておけば何でもいいという上層部が消えて、Webやソーシャルメディアでの集客こそが主力であることを知っている世代になったのだ。 そうすると保木の理不尽なダメ出しに耐えていた若手も方向転換を考える。 転職に不利となる、実績として出すのが恥ずかしい仕事は誰もやりたくない。 若手に慕われているという幻覚に浸っていた保木は——そういうことに鼻が効く。 見切られようとしていることを察して、若手を逃すまいと躍起になった。 しかし顧客という後ろ盾の前にあぐらをかき、センスも技術も磨かず天狗になっていただけの保木ができることは、売り上げが落ちた責任を部下になすりつけるという最低な行為だけだった。 契約更新を断られたきっかけになった納品物を、俺のデザインじゃない、と部下の居ない経営会議で言い放ったのだ。 責任をなすりつけられたのは2番手のデザイナーで、人望も、実力もあった。 当然のようにさっさと転職し、次々と腕の良い者がそれに並んだ。 人材の流動が大きい業界とは言え退職者が多すぎると、本社から事情を聞かれた自社の人事が、問題の大きさにようやく気付いた時にはもう手遅れだった。 とうとう、保木に対してセクハラの訴訟が起こったのだ。 相手は入社したばかりの女性デザイナーで、保木より25歳以上も年下だ。証拠として提出されたボイスレコーダーの音声は明瞭で、保木の執拗な粘着と、それをキッパリ拒否する女性の声の往復だった。何度も拒否され腹が立ったのか、脅しに該当する発言もあった。 即日、本社は子会社に保木の停職を命じ、社員との一切の接触を禁止した。 見て見ぬふりだった人事部長にはきつい注意と相応の処分がなされ、それ以降だれも保木を見ていない。 保木の末路は、当然の報いだが悲惨なものだった。 音川は古参で本社に人脈があり噂話はよく耳に入る。また役職もあることから、本社のハラスメント研修を兼ねて詳しく事件の経緯を聞いていた。 自分の保身のためにもハラスメントをしてはいけない、と取れる指導もあったため音川は首を捻ったが、そう伝えることでしか響かない人間もいることは理解していた。 そもそも音川は徹底した論理的思考の持ち主で、感情を仕事に持ち込むことは一切ない。個人的な人の好き嫌いも無い。 だが、丁寧な人間ではないから、配慮を欠いた発言をしないために、常に意識をしている。 特に女性や部下に対しては、神経質になり過ぎても困ることはないと考えていた。 それに、音川には外見上の問題もある。 数年前にPC仕事の宿命ともいえる腰痛を患ってから、医師の薦めで筋トレを始めたらみるみるうちに筋肉が付き始め、面白くなってしまった。 今ではパーソナルトレーニングジムに週4で通い、トレーナーから、見事なギリシャ彫刻のようだと褒められる身体になっていた。 その上、ポーランド人の祖父から譲られた緑色の瞳と鋭い視線は、恐ろしく澄んで氷のナイフさながらだ。 雑な言葉遣いとゴリゴリの筋肉が与える印象は、エンジニア志望で入社してくる真っ白な男子には威圧感でしかなく、最初は目を合わせて貰えない。 しかし、怖いという第一印象は、新入社員研修が終わる頃には180度転換して、話しやすく頼り甲斐がある先輩に変わる。 ひとえに音川のフェアでフレンドリーな言動によるものだ。 一見すると冷酷な印象を与える外見を本人は自覚しており、敢えて柔和に微笑むことが癖になっている。 部下も上司も関係なく、なんでも話せるオープンな雰囲気を作ることを音川は自分の役割だと決めていた。 エンジニアの中にはコミュニケーションが苦手な人がいるが、音川は、せめて自分が関わる範囲においては、あけすけでもいいから、良いことも悪いことも全てを話し合える関係を築くことが何よりも大切だと考えていた。 それが、技術力向上の土台になると信じているからだ。 新人の泉に対して音川が出した「もっと砕けて」という要望はそういう背景からだ。 元のデザイン部門で保木が泉をどう扱っていたかは知らないが、恐らく、理不尽な圧力があり本来の能力を出せていなかったのではないかと思う。 今回の高屋のプロジェクトに参加するにあたり、音川が作成した資料は詳細設計に近く、サーバー構築の知識がなければ読み解くことは難しい。 音川の意図としては、泉には実践練習として参加してもらい、学びがあればそれでよいと考えていた。 しかし泉は資料をなんなく理解しており、出された質疑は技術的なことをすっ飛ばして、ほとんどがユーザーでの運用に関することだった。 まずは業務内容やユーザーの要望だ。そこが掴めれば、組むべきシステムは自然と見えてくる—— この感覚を持ち合わせているのかもしれない、と音川は泉のエンジニアとしての能力に期待値を上げていった。 「泉くんて、デザイン部門だったんでしょ。その割にサーバー構築についてよく知ってるね?」 「あ、ありがとうございます。僕、元々は開発志望だったんです。ただ、美大出身だったので……それで希望が通らなかったんだと思います」 「じゃあプログラミングは独学で?」 「そうですね……課題で3DCGを作ってからそっちの方に興味が出て。あとはアプリなんかも作って、それを仲間内で遊ぶためにサーバーを立てたりして」 「すごいね」と音川は心底関心した。 「いえ……」 「本気で仕事任せていい?」 「もちろんです!」 「うん、じゃあ泉くん主導でやってみてよ。もし不明な点が出てきたら何でも聞いて。あと、インドとは当面の間は毎日17時に会議設定してあるから、そこでも聞きたいことあれば、気兼ねなく」 「ありがとうございます!」 心の底から嬉しそうなはずんだ返事は、音川に、泉の今までの苦労を感じ取らせるに十分だった。 「楽にやってね。何しても怒んねーから。でもデザインも開発もできるのなら……泉くんは転職とか考えなかったの?例の事件で」 「まだ2年目ですから。それに、開発部門に異動できるなら願ったりで」 「会社のせいで、少し遠回りさせたか」 「いえ、デザインも好きです。会社に遺恨はありません。保木部長は別ですが」 「嫌な目にあってたのか?」 「あの被害に合った新人女性、学校の後輩なんです。なので仲が良かったのもありますが、心配で残業時はできるだけ一緒に残るようにしていました。あの日は……」 音川は、入社まもない人間にそこまでさせた人事に憤りを感じた。 「ああ、あれ泉くんのことだったのか」 音川は独り合点がいった。聞いた話では、デザイン部門でいつも新人女性と共に残業していた男性社員がいたが、保木が事件を起こした夜だけは定時で帰宅していたらしい。 「家族の集まりがあって、どうしても出席する必要があったので」 「それにしても、よく証拠が残せたね。感心した」 「僕以外に残れる人が居なかった時のために、ボイスレコーダーを用意していました。みんなでお金を出し合って買っておいたんです」 音川はピンと閃いた。 「あ!そういうこと?」 「僕の予定は本物です。新人の彼女は留学が決まって、退職はすでに予定済みでした。保木さんは欲で頭がおかしくなっていましたし、すべてのタイミングが合った。安心して働ける職場を、という彼女の置き土産です」 「それもあって、辞めなかったのか」 「少しは。でも——僕はずっと、音川さんと仕事がしたかったんです。離職しない代わりに、開発への異動を申し出ました。前の部門に居た時から、音川さんが戻してくれる指示がとても的確で、僕たちデザイナーの間では取り合いでした」 「え、褒めても何も出ねーけど」 ふふ、とスピーカー越しに泉の微かな笑い声が聞こえる。 「本社のデザイナーの阿部さんってご存知ですか?」 「ああ、うん」 阿部は音川や速水と同期入社で、数年前、出産をきっかけに本社に異動していた。3人とも独身だった頃は散々飲み歩いた仲だ。 「僕、よく阿部さんとランチに行くんですよ」 「何か吹き込まれたのか?」音川は怖怖尋ねた。 「開発のガサツでマッチョなやつに気をつけろって」 「なんだ、そんなことか」 音川は思い浮かんでいた若かりし日の失態を急いで記憶の奥に再びしまい込んだ。 「腰痛対策で鍛えてるだけ。俺は人畜無害ですよ。どうだった?昨日、初めて話してみて」 「音川さんは、かっ......」 泉は言いかけた言葉を急いで飲み込んだ。 音川の方は泉と初対面だと認識していたが、その実、泉は入社して間もなくの頃、音川と言葉を交わしたことがある。 あれは新入社員研修が長引いた日で、たしか20時頃だった。 飲み物を求めて休憩室へ行くと、街のネオンが差し込む暗い部屋で、長身の男性が窓辺にもたれかかるように佇んでいた。 ひと目で、あれが噂の音川だと分かった。 泉は音川に気が付かれていないことを幸いに、デッサンをする時のように、窓辺に立つ姿を上から下まで詳細に観察した。 同期たちが、新入社員にありがちなテンションでしきりに話題にしている音川は、例えば、学生時代に開発したアプリが米国の企業に数億円で買収されたらしいとか、入社後半年で1階のショールームの女性コーディネーター全員から告白されたという伝説があるとか、真偽を疑うものばかりだったが…… こと外見に関しては、実物が噂を遥かに凌駕していた。 完璧な頭身に、密度の高い絞まった四肢、西洋でも東洋でもないミステリアスな風貌。 軟らかく光るグリーンの瞳と、軽く癖のある豊かな黒髪は夜の闇とネオンの光を混ぜ合わせたようで。 雄々しく、逞しく、そしてひどく妖しい。 まるで、夜のオフィスをしなやかに散策する、一匹の美しい黒豹のようだった。 泉は頭の中のキャンパスに、その存在しない黒豹を素早くデッサンしてみたが満足できずに破り捨てた。 そしてまた描き始める。 しかし一生描き続けても足りないような気がして、このまま、ずっと見ていられたらと立ち尽くしていると、ふと音川がこちらに顔を向けた。 一瞬だけバツが悪そうに微笑み、部屋の中から手招きをしている。 「新人かな。遠慮してたの?」と、気遣うようにかけてくれた声はしっとりと低く、夜の森のように深かった。 音川は慣れた動作で『来客用』とラベルの貼られたケースから出してきたカプセルでコーヒーを淹れてカップを泉に手渡し、そして自分にも同じものを使うと、「共犯な?」と泉の顔を覗き込んでニッと笑った。 「そっちがブラックすぎたら開発においで」と言い残して、美しい黒豹はしなやかに休憩室を出ていった。 泉は一言も発することができず、ただ呆けたように音川を見つめていた自覚がある。 短い出来事で、音川の記憶に残っていなかったのも当然だが、泉には強烈な思い出だ。 それから本格的にデザイナーとしての業務が始まり、音川と仕事で関わるうちに、音川の丁寧で非常に論理的に書かれたデザインの修正依頼を心待ちにするようになった。 もちろん、修正が無いに越したことはない。ただ、どれだけプログラミング寄りに考えたデザインをしても、部長である保木がそれを改悪するのだから、開発からの修正依頼はどうしたって上がってくる。 音川は、そこを十二分に分かってくれていて、だれも反論できない、完璧な修正依頼を返してくれていた。それも、保木を含め、デザイン部門の誰もが傷付かない表現で、だ。 そんなだから、明確で精密な指示であっても、何かしら理由を付けて音川の元へ質問をしにいくデザイナーが後を絶たなかった。 音川は口癖のように、『馬鹿な質問なんてない。あるのは馬鹿げた答えだけだ』と笑ってどんなに初歩的な質問であっても、見当外れな意見であっても、何でも丁寧に答えてくれると評判だったが—— 泉は音川を意識する余りに、他の同期たちのように話しかけに行くことができず、ただ文章と図でもたらされる接点だけを何よりも大切にしていた。 それに、プライドが無駄に邪魔をして、分かりきったことを質問しに行くことがどうしてもできなかった。 泉がデザイン部門で高い評価を得ていたのは、ひとえに、仕事の結果で音川に認識されたいという自己顕示欲が生んだ結果だった。 僕を見て、という叫び。 1年目を過ぎた頃には、完全に——恋に落ちているという自覚があった。 そのまま黙った泉に、音川はふっと笑い、「何聞いてんだろ、俺」と自問してすぐに、「んじゃ、また夕方のインドとの打ち合わせで」と締めくくった。 「はい、よろしくお願いします。カメラ、つけてくださいね」 「なんで?」 「顔が見たいから、です」 音川は言葉にならない唸り声で返事をして、通話を終了した。 そして、泉が何世代に属するのかは知らないが、カメラ越しの通話が当たり前の世代では、別れ際にそう言うものかもしれないな、と一人納得した。

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