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第3話 ガサツなマッチョは恋愛音痴

音川は、毎日17時〜18時に設定したインド組との定例会について、1時間まるごと雑談に当ててもいいと考えていた。 話の分かる人間とざっくばらんに語らうことで、速水と高屋のストレスを少しでも軽減しようというのが真の目的だからだ。 会社では帰国子女であることを公にしていない音川だが、異文化圏でなにかを遂行する難しさをよく知っているから愚痴も面白く聞けるし、的はずれなアドバイスをしない思慮深さも持ち合わせている。 加速する日焼けに比例して、どんどんやつれていく2人は、気象と立場の両方の意味で過酷な環境にいる。 特に高屋の疲労感は酷かった。 「高屋さん、目の隈がすごい」 「そう?」 高屋はモニターを鏡代わりにして見ながら顔に手をやった。確かに目の周辺が窪んで、頬もこけたように思う。 「寝不足?」 「うん。本来はどこでも眠れるはずなんだけどね、今回はそうもいかないみたい」そう言って高屋は目を伏せた。 「なにか、心配事ですか?」 それまで、にこやかに先輩3人の雑談を聞いていた泉が、ふと口を挟んだ。 「携帯が無いからだろ」と音川は端的に言った。 自分に置き換えて想像してみれば、家族や友人の他、各所への連絡、オンラインバンキングでしなきゃいけないこともある。 部屋の前は置き配の荷物が放置されているだろうし、最低でもマンションの管理人には知らせたいところだ。 「そう……連絡したい人にできないのが……かなりダメージだね」 音川は、「その相手って、後で事情を説明しても分かってくれなさそう?」と少し踏み込んで聞いた。 「たぶん、大丈夫だと思う。でも、3日と空けずに会ってたんだ。それが……急に音信不通になって、心配かけていると思うと……自分を責めてしまって。眠れない」 「恋人ですか?」と泉がさらりと訪ねた。 速水と音川には聞くまでもないことだったから言及しなかったが。 「……友達、かな」 高屋のその答えに、30代2人は椅子から転げ落ちそうになった。 「んだよ、てっきり……つーか友達にしては会いすぎだろ」 憔悴した高屋の様子から完全に恋人の話だと思いこんでしまっていた。 「なんで2人共ちょっと怒ってるの?」 高屋がキョトンとした表情で、向かいにいる速水と画面に映る音川を交互に見た。 「呆れてんの。俺、海外出張でもわざわざ友達に言わない」 「俺も。それで縁が切れるなんて友達ならありえん」と速水が賛同する。 しかし、泉は「たぶん、その人は友達じゃないです」とポツリと言った。 「えっ?あ、そう?」 高屋はやつれてより大きく見える瞳を更に見開いて、泉に問いかける。 「連絡出来ないことをとても気に病むのも、心配かけていることを心苦しく思うのも、きっと特別な存在だからですよ。ただの友達ならそうはなりません」 「なるほど。うん、それならわかる。この中で泉くんが年長者な気がしてきた」と速水が言うと音川が即座に同意した。 「普通はそう思いません?」と泉は純粋に不思議そうな顔を音川に向けた。 「なんか、俺が恋愛音痴みたいな言い方じゃねぇか」 モニターには、泉が無言で笑いをこらえている顔と、全身から力が抜けたように会議室のデスクに突っ伏している高屋が映し出されていた。 「高屋さん、図星だったようで」 「あ〜……帰りてぇ」と突っ伏したままの高屋から悲痛な叫びが漏れる。 「モチベになっていいじゃねーの。速水も奥さんが待ってることだし」 「そうだよな。もし音川がこっちに来ることになっていたら……インドの雑踏に消えて、もう帰って来ないかもしれない」 「どういう意味だよ」 「カレーが好きな上に、待ってる人が居ない」 「居るっつの」 そう答える音川の背後で、ニャーンと可愛らしい鳴き声がした。 「ほら、ちゃんと返事してるだろ。じゃ、そろそろ終わるぞ」 退出ボタンを押すとほぼ同時に、飼い猫がデスクの上に飛び乗り、PCのキーボードと音川の間を往復する。鼻先に体の横側をこすりつけられむず痒い。18時の夕飯のおねだりだ。 「マックスさん、ごはんにしよう」 在宅勤務になってから、すっかり甘えん坊になってしまった飼い猫は『ごはん』という言葉の響きを理解していて、大慌てでデスクから飛び降りてお皿に向かって駆けて行く。 その姿を目を細めて見ていた音川は、突然、高屋の苦悩が身に突き刺さった。 もしこの子を残したまま1ヶ月も帰れなかったら……。 想像するだけで心臓が縮む。 前例ができたということは、繰り返される可能性がある。次にトラブルが発生したらインド行きは自分かもしれない。 音川は猫に食事を与えるとすぐに仕事部屋に戻り、チャットアプリで高屋を検索した。個人的にメッセージを送るのは初めてだ。 『俺でよければ、家の様子を見てこようか?』 『ありがたい!』と高屋からすぐに返信があり、続いて自宅の住所が書き込まれた。 『あと、さっきの連絡したい人には?』と音川は入力してみたものの、すぐに削除した。 高屋が相手の居場所を音川に伝えることは、第三者の個人情報の流用になる。 セキュリティに関してはどの職業よりも敏感でなくてはならない現代のシステムエンジニアが、それを求めてはいけない。 仮に、相手にある程度の公共性があった場合は許されたかもしれない。例えば接客業など第三者が関わり易い職場であるとか。それでも、男性が職場まで現れるのはあまり良い印象にないだろう。止めておいたほうがよい。 『平日の9:00 - 17:00なら管理人さんが居るから、不在の件を伝えて欲しい。ごめんね』 『気にするな。ちょうど会社に取りに行きたい物があるから』と入力して画面右上に表示させている日付を見る。明日は金曜で、会議の予定も無い。『明日の午前中に行ってくる』 高屋から再度感謝の言葉が書き込まれ、それに軽く返事をしてから、次は泉との会話画面を開いて、『明日、出社する』と送った。 その直後、音川は少し違和感を持った。 ほとんどのエンジニアが在宅勤務に慣れた今では、誰がどこで仕事をしていようが業務連絡に差し障りはない。出社連絡などそもそも無用だ。それなのに。 『出てこいって意味じゃないから』と入力して、そのままキーボードの上で指が止まった。 普段なら、何か道理が通らない事象に直面した際、音川の頭には靄がかかったような不快感が現れて、考える前に直感でわかる。 しかし、今湧き上がった違和感には、不快な要素が感じられなかった。 頭だか胸だか、身体のどこかしらにちょっとしたざわつきがあるだけだ。 *** 翌朝。 ジムでトレーニングの後、行きつけの喫茶でモーニングを食べてから自宅に戻り、シャワーと着替えを済ませるとちょうど10時。 いつもなら始業開始だが、今朝は、高屋のマンションへ移動するためタクシーを呼ぶ。 音川の自宅マンションと会社はドアtoドアで30分、乗り換えナシの4駅だ。 元は分譲賃貸で住んでいたマンションだが、上階の良い物件が売りに出たタイミングと、猫を迎えることになったタイミングが一致したことで即購入した。 さらに時勢的な理由で在宅勤務の令が下り、余裕のある間取りは猫のためだけでなく、自分の仕事部屋も作れたのは都合が良かった。 タクシーで15分ほど走ったところで、運転手が「このあたりは住環境がいいでしょう?」と声を掛けてきた。 高屋のマンションにほど近いはずで、会社と自宅の往復しか知らない出不精の音川にとって初めて寄るエリアだ。 ふと車窓を見ると、大きな公園が目に入る。 「そのようですね。この辺りは初めて来ますが」 「静かでね、地盤も硬い。戦争中に学者やら外国人の貿易商なんかが疎開してきたせいで今でも洋風の家がいくつもあってね、特に公園の周辺は見事なもんです」 「散歩によさそうですね」と話を合わせる。 年配者の話を聞くのは嫌いじゃない。一度、病院の待合室で音川にのど飴をくれた老婆がいて、そのままおしゃべりで長い待ち時間を潰したことがあるほどだ。 「すみませんね、早とちりで。このあたりは昔から外国人さんが多いから」と運転手はバックミラー越しにチラリと音川を見た。 どうやら目的地の住人だと思っていたらしい。 平日の午前中にマンションからマンションへタクシーで移動する外国人風の男は、接客のプロの目にはどのように映るのか。ま、朝帰りの遊び人……というのが妥当だろうな、と音川は正しく自己分析する。 音川の母親はポーランド出身だ。 日本文化専攻で関西の大学に留学していた母はそこで父と出会い、卒業後すぐに父の元へ来た。今では母語のポーランド語の方が関西弁訛になったと冗談を言うほど流暢な日本語を話す。 それでも、音川と姉には、祖国の祖父母や親戚たちと意思疎通ができないのはさすがに可哀想だからと家庭ではポーランド語で接していた。そして父は日本人だが、子供たちの将来に選択肢を与えるためにも、子供たちとは英語を中心に使った。 プログラミング言語についても一つの言葉として、幼少期から違和感なく取り入れることができたのは、こういった環境で育ったおかげだと音川は考えている。 ただし日本で生まれて公立の小学校へ通ったのだから、一番多く接したのは日本語であり、母語だと言える。 言葉とは裏腹に、音川の外見は成長するに連れてどんどん母方に近づいていった。 骨格や髪質が変わり、尖った鼻や目元の彫りの深さが目立つようになった。 オリエンタルな印象を与える緩くウェーブがかかったやわらかい黒髪に、薄いグリーンの瞳が良く似合う。 そして、本人の知らぬところではあるが、20代後半から鍛え始めた筋肉は長身の体躯にほどよくまとわりつき、オーロラのようにゆらりと男の色気を立ち昇らせている。 音川は運転手の言葉に肯定も否定もせずただ微笑み返した。パスポートも運転免許証も2国分ある以上、日本人とも外国人ともどちらであっても音川には同じことだった。 タクシーがマンションの前に停車すると、運転手に待機を頼み、駆け足でエントランスに向かう。 ちょうど管理人が集合ポストの前をほうきで掃いているところだった。 「すみません、301号室の高屋の代理の者ですが」 「ああ!よかった。心配してたんですよ!」と管理人はほっとしたような表情を音川に向けた。痩せているが快活そうな老男性だ。 音川は名刺を手渡し、高屋が不在の理由を説明した。 帰国までの間は管理人室で郵便物等を保管してくれることになり、高屋の心配の種を一つ減らすことができたようだ。 待機させていたタクシーで会社へ移動し、まず本社があるフロアでエレベーターを止めた。 自動ドアからひょっこり覗き込むと、デザイナーの阿部が見える。彼女が金曜日に出社しているのは珍しい。 「よう」 声を掛けると、阿部は億劫そうに振り向いた。出社がダルいと全身で表明しているかのようだ。 「ガサツなマッチョで悪かったな」 「事実でしょ。また成長したんじゃない?」と阿部は自分の二の腕を叩いて音川に言った。「音川くんが出社なんて、どういう風の吹き回し?」 「本を取りにきただけ。昼飯、どう?」 「子供のお迎えがあるからお昼には帰るんだけど……今なら時間あるよ」 じゃ、コーヒーでも、と音川は阿部を誘い出した。 誰も居ない休憩室で、カプセル式コーヒーマシンが工事現場のような爆音を響かせる。 音川は、外の景色が見えるソファに座っている阿部に紙コップを手渡し、並んで座る。 「久しぶりねぇ」 「ん」 「で、なによ」 「新人の泉だけど。仲が良いんだって?」 「2年目よ。多田さんが辞める時に、直々に頼まれたのがきっかけ。いい子でしょ」 「いい子かどうかはまだ良くわかんねぇ。優秀なのは間違いない」 多田とは、保木から謂れのない責任を擦り付けられたのをきっかけに退職したデザイナーだ。立場は2番手だったが、実力では保木より上で人望もあったし、栄転だと聞いている。 「まだ保木部長が居なくなる前だったからね。デザインも開発もできるなんて、入社してきてくれたことが奇跡の人材よ」 「泉は、骨を折っていたらしいな、例の件で」 「彼なら誰にでも同じことをしたと思う」 「へぇ。正義感の強いタイプか」 「というより、理不尽なことが嫌いらしい。それを聞いて、あんたと速水くんのことを思い出したんだよね。昔の2人も、保木から何をされても一切ダメージ受けてなかったでしょ。理が通らない人間は相手にするに値しないと思っていたから。泉くんもそっちのタイプ」 「それで、彼が代表して被害に遭っていた子を守ってたのか」 「そう。何を言われても耳にノイズキャンセリング機能が付いてるから平気、って冗談言うくらい」 軽く笑う音川に、「彼、強いよ」と言い阿部はさらに話を続けた。 「それに、デザイン部門のみんなは、保木の古い考え方のせいで昔からの太い顧客から評価が下がっている状況を悔しがってた。本来なら部長の保木が危機感を持つべきなのに、何もしないどころか足を引っ張り続けて。その上、一番実力のあった多田さんを経営会議で晒し者にしたでしょ……。 被害に合ってた彼女はね、そういうのも含めて対策しない人事に見切りをつけて、復学を選んだの。夢を持って入社して来た若者にあんな仕打ちするなんてね。それでみんな、限界がきちゃった」 「で、ボイスレコーダーを買った、と」 「ペッパースプレーもね」 「阿部は知ってたのか」 「まあね」 「用意周到だったわけだ。つーか、そんなにヤバかったの?」 音川は、泉が「保木さんは欲でおかしくなっていた」と言ったのを思い出した。 「何度か、会社の前で待ち構えていて、自分のタクシーに乗せようとしていたらしいわ。ほら、いつもの」 保木はほぼ毎日夜7時を過ぎると社屋の駐車場にタクシーを待機させていた。電車がある時間であってもタクシーで帰宅するのが日課で、もちろん経費だ。 「状況に麻痺していたのが異常だったな。泉には、いや、デザイナーたち皆に、悪いことをした」 「開発が気に病むことじゃないけど……まあうちの若手の大半が音川くんに懐いてるし、仕方がないか。デザイン部門はブラックな働き方が常識になっていたから……いずれにせよ立て直しに時間がかかるでしょうね。だから、泉くんがそっちへ行ったのは痛いはず」 「元からシステム希望だったんだろ?」 「泉くんがそう言ってた?」 「ああ」と音川は答えて、コーヒーを啜った。 「そうだ、今度みんなで飲みにいかない?泉くんの歓迎会という名目でさ。公園の所にカフェバーあるでしょ。前に誘ったけど、会社から反対方向だからって断ったの覚えてる?高屋さんがたまにバイトしてるから、すごくサービスしてくれるんだ」 「はあ?あの忙しさで、副業までしてんの?」 「気分転換に良いんだって。音川くんの筋トレと同じじゃない?私からすればどっちもしんどくて無理」 そう言うと阿部は携帯を取り出して時間を見ると、「そろそろ帰るわ。お迎えいかなきゃ」とソファから立ち上がった。 「泉くん、もう来てるよ」 「えっ」 「あら?てっきり出社させたのかと」 音川は頭を掻いた。 「せっかくだしランチに誘ってあげたら?」 「んー、そうだな。じゃ、歓迎会は速水たちが帰国したらすぐに」と軽く約束をして、音川は阿部と休憩室の前で別れ、エレベーターへ向かった。 エレベーターの庫内で鏡に映る自分を見て、なんとなく服のホコリと猫の毛を払った。そして、顔にかかる髪を整えようとしたが、そのままとりやめた。 「クソ、なんか調子狂うんだよな」

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