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第4話 美しきカオス
音川の役職は最高技術責任者で、それは音川がすべてのプロジェクトに関して技術面での責任を負うことを意味している。
本社はコンサルティングが中心のため、この肩書を持つのは両社合わせて音川だけだった。
ゆえに部長や課長といった一般的な序列とは別のルートであり、孤高の存在だ。
オフィスに入るとまず受付カウンターがあり、目的の雑誌は配達されたままの状態でそこに積まれていた。業界向けに隔月刊行されている定期購読誌で、個人購入はできないものだ。
通常であれば雑誌を手に自宅へとんぼ返りだが、さすがに、指導している新人が出社しているのを放ってはいけない。
音川は雑誌を小脇に抱えて開発の島へ向かった。
フリーアドレス制になってもなおフィギュアやらプラモデルであふれる開発の島で、泉は、玩具類が置かれていない席にしゃんとした姿勢で座っていた。
入り口に背を向ける席で、ヘッドフォンをしているせいか、音川には気付いていないようだった。
誰もいないオフィスで所在なさげにしている泉を想像していた音川は拍子抜けした。
画面に集中している後ろ姿は新人らしくなく、すっかり環境に馴染んでいるのだ。
これはこれでいいか、と音川は泉に声をかけず、目立たない席で雑誌を広げる。
一般的に、特に情報処理関連ならばなおさら最新の情報はネット上に掲載されていそうなものだ。それも間違いではないが、世の中には情報源にお金を払っているメディアしか知り得ない情報というのがあり、そしてそれらは対価を知っている者にしか共有されない。
音川はそっと席を立ち、文房具類が置かれている棚から付箋を取ってくると、特に興味を惹いた記事に印をつけた。
読み終わったら雑誌ごと泉に渡すつもりだ。
13時を過ぎ空腹を感じ始めた頃、持参したノートPCの画面に、ひょこりとメッセージがポップアップした。
『音川さん、お疲れ様です。今日、何時頃に出社の予定ですか?』
泉からだった。
『もう居るよ』と入力した途端、ガタン、と音を立てて泉が立ち上がり後ろを振り向いた。
「おー、おつかれ」と手を挙げて答えた。
泉は慌ててヘッドフォンを引きはがすように取り、「すみません!気が付かず」と申し訳無さそうな表情だ。
「いや、俺がこっそり入ってきただけ」
「何時頃ですか?」
「ついさっき。なあ、メシ行こうぜ」
社屋から出た途端に真夏の太陽光がギラリと目に突き刺さる。
手で顔にひさしを作ると多少の軽減にはなるが、アスファルトからの照り返しも強くて、目の色素が薄い音川には痛いほどだ。
「眩しそうですね。サングラスは?」
「グラサンで昼食に向かうサラリーマンなんて、この辺には居ないだろ」
建前だった。
これが一人の外出なら、間違いなくサングラスを掛けている。
音川は同行する人が奇異に見られないように気を遣っただけだ。大昔だが、目立つからやめてくれ、と言われた経験があるから。
「そういうの、気にするタイプには見えないのに」と泉は呟いた。
「意外?」
「ですね。音川さん、眩しさであまり見えてないんじゃないですか?だから、サングラスを掛けるほうが合理的だし、自然ですよ。それに、すごく似合うと思う」
音川から、「そうか」と感嘆とも安心ともとれる低い返事が漏れた。
「持ってきていないんですか?ちなみに僕は持ってます。通勤時にかなり眩しいから」
そう言う泉の顔を覗き込むと、明るいブラウンの瞳とぶつかった。
お互いが眩しさに眉間にシワを寄せた顔をしており、奇妙な連帯感に笑い合う。
「あるよ。上に置いてる」と音川は振り返り気味にオフィスを見た。
「取ってきましょうか」
「いや、いい。一緒に行く」
2人は連れ立ってエレベーターホールに戻った。
泉は自分より少し背の高い音川の顔をふいに見上げ、「僕、インドカレーがいいです」と言う。
下方から顔をじっと覗きこんでくる泉の瞳は、眼底まで光が届いているかのように澄んでいた。
細身だがしっかりした身体の質感、ふわりと揺れる髪、整髪料の微かな匂い、マイク越しでは分からなかった声の柔らかさ。
音川は突然、隣りにいる泉の実体を認識した。
「もっと小柄かと思ってたよ」
「よく言われます。童顔のせいかも。音川さんは身長何センチですか」
「188センチで……AB型。33歳。大阪出身。母親がポーランド人。猫1匹で名前はマックス。一人暮らし。筋トレは週4」
「なんですかそれ」
「だいたい聞かれること。以上」
「噂には聞いていましたが、本当に面倒くさがりなんですね」
連れ立ってサングラスを掛けて出直すと、やはり相当歩きやすい。
泉の少しだけ色の薄いレンズは、明るい髪色と日に焼けていない肌によく似合っていた。サングラスが与える一般的な(そして古い)印象とは真逆で、知性をきちんと感じさせ、やや神経質さを伺わせる。
「速水たちのせいだよな」
会社近くにあるインド・ネパールカレー屋で、音川は前菜のパパドを割りながら泉に同意を求めた。在宅勤務になってからも、わざわざ食べに出向くほどお気に入りの店だ。
ランチ時間を過ぎた昼下がりで客は音川たちだけだった。
薄暗く、空調の効きが悪いため扇風機がぶんぶんと盛大に回っている。空いた席では、店主の子供がタブレットで宿題をしている。
「僕、ずっとカレーが食べたくて」
「俺も」
「速水さんに現地でレシピ本を買って来てもらいたいんですけど、頼んでもいいと思います?」
「いいだろ。料理すんの?」
「いえ……でも本格的なカレーに憧れが」と言いサービスのラッシーに手を伸ばして一口すする。
「俺もやろうかな」
「音川さん。スパイスカレーの他に、バイク、ジョギング、そば打ち、サウナ。興味があるものはどれですか?」
「いや、どれも興味ない」
「よかったです。これ、おじさんになると始めることらしいですよ。だから音川さんはスパイスカレーに手を出しちゃだめです。僕が作ってあげます」
「俺まだ33なんだけどね。きみたちデザイン系は、きっとおしゃれなキッチンで、リビングの本棚にフランス語のデザイン雑誌が置いてあるんだろ」
音川の軽口に泉は大げさに目をむいて見せ、「偏見ですよ」と千切ったナンで音川を指差す。
「ここに食いにくればいいさ」
「その通り!」といつの間にかテーブル脇に立っていた店主が満面の笑みで音川に同意する。「ナンのおかわりは?」
「あ、僕欲しいです。小さめで」
「俺も」
「あと、男女問わず、独身の一人暮らしが猫を飼うと婚期が遅れるらしいですよ」
もっともらしく言う泉を、ハッと音川は笑い飛ばした。
「そんなのとっくに逃してるさ。そもそも、ペットがいれば決まった時間にごはんをやるし遊んでストレスも発散させないといけないから、必然的に毎晩家に帰るようになるんだよ。家にいる時間が長くなると、出会いの場にも行かなくなるだろう。」
「急にめっちゃ喋りますね。その見た目で仕事もできるのに、パートナーが猫だけなんて信じられませんけど」
音川は後輩のお世辞を聞き流した。外見など、生まれた時から褒められ慣れている。
「性格に難があるんだろ」
「Yes、ちゃんとナンありますよ」
ハッとして顔を上げると、店主がバスケットいっぱいに広がるナンを嬉しそうに持って立っていた。小さめというオーダーは無視されたようだ。
笑いを噛み殺す泉に「今のは俺のダジャレじゃないからな」と念を押す。
この量いけます?と目だけで泉が尋ね、音川は自分の方に寄越せと手の動きで答えた。たっぷりとバターが塗られて芳しい。
「でもさ、俺は別に何を聞かれても気にならないけど、うちの部、こういう話題は苦手な人もいるからちょっと気にした方がいいかもな。開発のやつらは極端なんだ」
「すみません」
「いや、俺はいい」
「会ってみたら……なんか喋りやすくてつい」
「俺も」
「あ……そ、そうですか。感情が分かりにくいですね。僕、昨日から緊張してたんです。会社行ったら音川さんがいると思うと」
緊張する、これも初対面で言われ慣れた言葉だった。
見た目に威圧感があるんだろう。確かに、泉も初回の会議では相当緊張した面持ちだった。
「呼び出すつもりはなかった。じゃあなんのつもりだったかと聞かれると困るけど」
「なんでもいいです。僕が自主的に出社したんで」
「あ、そ」
ついそっけない返事になってしまったことに気がついたが訂正はしなかった。
どうして、と聞けば答えは返ってくるだろうが、そこに意味はないだろう。現に、出社しなければならない理由がないからだ。
「音川さんて……無口ではないですよね?」
「開発の中じゃ、喋る方だと思う。半分営業みたいなところもあるし」
「僕は、前の部署ではあまり話さなかった」
そう言うと泉は伏し目がちになりそっとスプーンを口に運ぶ。
その丁寧な仕草は、泉の細やかな感受性を表しているかのようだった。
先だってのインドとの打ち合わせでは、泉だけが、高屋の悩みの本質を見抜いたように。
「避けてたのか?」
「ええ、まあ。僕と関わると、保木部長からの当たりがキツくなるだろうし。でも、阿部さんがとても良くしてくれて、出社すればランチに連れて行ってくれるんです」
音川はテーブルの隅にあるシュガーポットを引き寄せ、食後のチャイにティースプーンで砂糖を3杯入れながら「ふーん」と音だけで返事をする。
「ごめんな」
音川は、なんのことだと小首を傾げている泉の瞳をじっと見た。
「保木の件」
「どうして音川さんが謝るんですか」
「俺たちがもっと早い段階で対処していれば、こんなことにならなかったんだよ。部署が違うからと突き放したのは失敗だった。オフィスを分けて臭いものに蓋をするようなことをして、きみたちに迷惑をかけた」
「そんなことは無いです。それに、おかげで僕は開発に来ることができたので、感謝してもいいくらい」
そう言い切る泉の視線はまっすぐに音川に注がれ、ぶれることがなかった。
真摯な言葉だった。
「泉くんが望まない限り異動はないから。実力もありそうだし、ずっと開発にいてよ」
そう言いながら音川はテーブルの上に置かれている泉の腕をさっと掴んだ。
え……?と戸惑う様子の泉に頓着せず、そのまま腕を自分の方に向けて「もう3時じゃねえか」と呟く。
時間が気になったが自分のポケットから携帯を出すより先に、泉のスマートウォッチが目に入ったからだった。
「戻ろうぜ」と音川は席を立ちながら、財布を出そうとする泉を制止して会計を済ませた。
「ごちそうさまです」と再びサングラスを掛けながら泉が軽く頭を下げた。
1000円そこそこで感謝されては返って気恥ずかしいが、そのうち奢られ慣れてくれればいい。
勝手な意見だが、部下は、ちょっと図々しいくらいがやりやすい。
「これから、よろしくね」
音川はサングラスを頭上にずらして少しだけ上体を折り曲げると、泉の顔をひょいと覗き込んだ。
前髪がサングラスで留められすっきりとした秀麗な額があらわになり、薄い緑の瞳は日光を湛えてミモザ色にも見える。
美しい男だ——
その知性でコントロールされてもなお放出される雄々しさ、与えられた容姿には無頓着だが、使い方を知っている。
軽いのか、堅いのか、まったく混沌とした人格のくせに、どこか1本筋が通っている。
泉は、まるでその混沌が腕を伸ばしてきて身体を引き込もうとしたかのような錯覚を覚えてくらりと揺れた。
音川は、暴力的なほどに魅力的だった。
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