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第5話 秘めた可能性

社に戻るとすぐに音川は高屋にチャットを送っておいた。仕事ではなく私用の方だ。 連絡できない相手がいるという一番の心配は取り除いてやれないが、それでも、夕方の定例会議で音川に礼を述べる高屋は安堵したように微笑み、顔色もやや血色が戻ったように見えた。 次の安心材料として、「こっちは概ねスケジュール通り進んでるよ」と音川は丁寧な声色で開発状況について報告する。 泉の進捗を精査したわけではないが、ちらほらと見た感じでは画面上の動作に違和感は全く無く、むしろ元よりずいぶんスムースな動きに感じられた。それにもし無理難題だったなら、泉は臆せず音川にヘルプを求めてくるはずだ。 「泉くん主導でやってくれているんだってね。音川さんのつもりでスケジュール引いてるから、厳しそうなら言ってね」 「はい。ありがとうござ……」と泉が言い終わらないうちに、「俺がマンツーマンで付いてるから大丈夫だ」と音川が割り込み、高屋と速水を交互に見る。 「二人しかいないんだから必然だろ」と速水は辛辣に言い、高屋は「音川さんから直接指導が受けられるなんていいね」とにこやかに頷く。 「それはそうですね……でも放置……いえ、自由にやらせてもらっています」 泉の返答に高屋は「上手く言い換えたね」と笑い、音川はいたずらがバレた子供のように不満顔を作った。 「実は教えることがほとんど無いんだよ」 「それは優秀だ。泉くん、本社に来ない?」ニヤリと笑う速水に「だめ」と音川が即答した。速水の勧誘は半分冗談だが、音川は内心、こんなに優秀なやつ渡してなるものかと本気の拒絶だ。 「そうだ、速水さん。インド料理のレシピ本を買ってきてもらえないでしょうか。もちろん代金は払います」 「いいよ代金なんて。俺もこっちの本屋に興味があるからついでだし、インドのエンジニア向けの出版物なんて日本じゃ手に入らないからな。それに奥さんにも文房具だの雑貨を頼まれてんだよなあ。どこかで買い物に出なきゃならん」 「ありがとうございます。お願いします」 「泉くん、料理するの?」と高屋が音川と同じことを尋ねた。 「今までほとんどしていませんでしたが、このプロジェクトに入ってからインドに興味が出て……スパイス料理って科学の実験か、アルケミストみたいで面白そうだなと」 「確かにおれも、ベジタリアン食なのに味に深みがあるのは不思議に思ってる。じゃあスパイスも買って帰るね。ちょうど明日、ホテルのシェフが市場に連れて行ってくれる予定だから」 高屋の発言に、「仲良くなったのか?」と音川は驚きの声を上げた。 てっきり、携帯電話の盗難でホテルのスタッフを警戒していると思っていたが。 「いやそれが、高屋さん口説かれてんのよ」と速水がおかしそうに笑う。ここだけの話、と秘密めいた声色まで作って。 「それは言い過ぎだよ。あんなの社交辞令でしょ」 「めちゃくちゃ口説かれてるのに、こんな調子完全にスルーなんだよね、高屋さん」 「どんなこと言われてるんですか?」泉が興味津々な様子で身を乗り出し、音川はテーブルに肘をついて手に顎を乗せた。 聞いてやろうじゃねえか、と目で促している。 まず——、と速水が口火を切った。高屋はだんまりを決め込むようだ。 「毎朝俺たちが朝食のためにロビーへ降りるやいなや一目散に駆け寄ってきて、良く眠れたかと挨拶から始まって、ルームサービスは美味かったか、今日は何時に帰るか、休みはあるのか、食べたいものは無いか、と高屋さんだけを質問攻めよ。俺は蚊帳の外でさっさとカフェに入るんだけどさ、席についても果物だの揚げパンだの、メニューにないものをせっせと運んでくる」 「それはかなり積極的ですね」と泉は感心の様子だ。 「で、たかやんも真面目だから、うまかったとか感想を述べたりレシピなんて聞くからさ、もうそいつ舞い上がっちゃって」 「そいつ?男なの?」 音川は耳ざとく反応した。通常であれば気付いても軽々しく口に出さないが、速水相手なら別だ。それに話題を出してくるということは、速水はすでにこの場を友人同士の雑談で、共有して良い内容だと認識しているに違いなかった。音川と速水の間柄では暗黙の了解のようなものだった。 「そう。日本人としても通用しそうなモンゴル系でイケメンなんだけど、押しが強過ぎるのがマイナスかな。ああほら、不動産屋の営業みたいな、と言えば分かるかも」速水はまるで採用面接かのように評価を述べた。 「まあ、高屋さんだもんなあ」当人以外の3名は束の間無言で、モニター越しに目を見合わせた。 音川から見て高屋透という男は一種独特な雰囲気を持っているように思えた。 凛とした意志の強そうな空気をまとったかと思えば、ふわりと周りの緊張を解くこともできる。間違いなくリーダータイプなのに強引さは皆無で、傍にいるとまるで自分がより良い人間になったような錯覚を与える不思議な力を備えている。 アーモンド型の優しげな目が印象的で、相手をじっと見つめながら話を聞く癖があり、それが相手にしてみれば自分に興味を持ってくれている、と思わせるようだ。 仕事では有効かもしれないが、何か特別な感情があるのではと、相手によっては勘違いさせてしまうリスクもある。 「僕も、少し分かる気がします」 泉にまでそう言われたのが真実味を与えたのか、「何なのみんなして。おれそんなに八方美人タイプじゃないと思うんだけどなぁ」と高屋は不満そうに呟く。「帰国してから再現できればいいなと思ってレシピを聞いただけ。そしたら聞いたこともない材料が出てきたから……買いに行こうってことにね。発酵した竹の乾物なんて知ってる?」 全員が頭の上にクエスチョンマークが出ているような顔をしていた。 「でしょ?おれ、おいしいものに目がなくて」 「なるほど。高屋さんは食べ物で釣れる、と」音川は発言と同時に頭のメモ帳に書き留め、ニヤリしてみせた。「お願いごとがあれば貢物持参で伺いますよ」 「カレーばっかりで飽きるかと思っていたんだが、バリエーションが豊富で意外とそうでもない。音川、スパイス好きのお前が来ればよかったと毎日思ってるよ」 「やめてくれ。でもまあそこだけは少し羨ましい気もするな」 「ん?泉くんが音川さんの方を見てるけど」速水と音川のやりとりを聞いていた高屋が、ふと日本側に顔を向けた。 「あ、いえ。先ほど音川さんはこの案件の影響でカレーが食べたくなったかのように言っていたので。元から好きだったんだなと今知りました。道理でさっきのお店の人と仲が良いはずですね」 「え!?」 狭い会議室で速水が突然大きな声を出し、高屋は飛び上がりそうになった。 「まさか音川とお昼食べに行ったの!?」 「は、はい。そうですが……?」 速水はカメラ越しに目を剥いて音川を凝視したが、当人は肘をついたままで、そっぽを向いていた。泉も高屋も何のことかとキョトンとして、速水か音川による説明を待っている。 しかし、速水は「ふーん」と急にトーンを落として、ちらりと音川を見て黙り込んだ。高屋はその様子から、特にこれ以上の発言はなさそうだと判断して、「出社してるんだからランチくらい行くよね」と相槌のように軽くいなし、追求はせずに次の話題へと移った。 「そういえば、盗難届の証明書貰ってきたよ。あとはインターンの理解度を見て、良さそうだったらすぐ帰国するつもり」 「どれくらい掛かりそう?」と音川が尋ねたのをきっかけに場は急激に仕事モードに変わった。 「ま、1週間ってとこ」 「そうしたら泉くん、今日この後検証用サーバーにUPしてもらっていい?月曜にインドから見られるようにしておこうか」 音川は少し申し訳無さそうな声色で言った。残業が確定するからだ。 しかし泉は弾んだ声で、「もちろんです!ちょうど今日見てもらうつもりだったので」と、自分の成果を早く見せたくて仕方がないという様子だ。 「それでいい?高屋さん」 「うん。助かるよ。じゃ、月曜は日本の13時くらいを目処に集まろうか」 定例会はそこで解散となった。 そして通話を切るなり高屋は「さっき驚いてたの、なに?」と問いかけ、速水は待ってましたとばかりにノートPCを閉じて雑談の姿勢に入る。 「もう5,6年前かなあ。リモートワークが導入される前だから、開発部も毎日出社していて……新卒でちょっと問題のある新入社員が配属になってさ。異様な自己顕示欲の強さというか、自尊心というか」 「専門職にはどうしても居るよねえ」と穏やかに高屋が相槌を打つ。 「当時、俺達にはちょっと熱心な若手としか認識されていなかったが、そいつはどうにかして当時リーダーだった音川の注意を引きたかったらしい。でも音人は性格的に好き嫌いといった感情的なものが薄い上に、仕事の出来不出来で職場の人間への対応を変えることもない。ただ、近くにいた人間と会話し、昼飯に行っていただけで」 「なんかあったの?おれが聞いていいやつかどうかわからないけど」 速水は苦虫を噛んだかのように顔を歪めた。思い出すだけでそうなるとは、余程のことだったのだろうと高屋は推測する。 「ウイルスだよ。幸い、たまたま俺が早く出社した日でさ、実行前だったから実害は無かった。今でも思い出すと変な汗が出るよ」速水は手近に置いてあったペットボトルの炭酸飲料を飲んで喉を潤す。「何気なくサーバーで自動化処理の画面を見てみたら、見慣れない実行ファイルがあってさ。ヤバイと思うより先にネットワークを切断したのは我ながら冴えてたと思うね。すぐ全員に連絡して自宅待機させて……もちろん音川は飛んできた。2人で必死に調査して午前中には被害がないことが分かり、ウイルスも駆除できた。その時にはまだ人為的なものだとは分からなかった」 「特定できたの?」 「その日、先の新人には連絡がつかなかった。まさかと思ってクラウドサービス上に残っていたそいつのIPアドレスを音川が鬼の執念で追跡したらな、不審なファイルを送ったログが出てきた。結局それから一度も顔を出さないまま、母親が辞表を持ってきたよ」 「ほ、本当にいるんだ……」 「すんごい剣幕だったよ。こんな職場は辞めさせますッ!って。俺ら全員ポカーンよ。優秀なはずの自分の息子が特別扱いされないどころか、意図的にリーダーである音川から疎外されていると捲し立てて。いずれにせよ解雇だからいいんだけどさ」 「どんなウイルスだったの?」 高屋の問に、速水は有名なマルウェアの名前を出した。感染したPCと同じネットワーク上のデバイスがハッカーから丸見えになるものだ。 「被害が出て訴訟されたらどうするつもりだったんだろ」と高屋は同情を表した。 速水が言ったように、情報処理系の職場には、時々、他の業界では認められないような性質の人間がいることは否定できない。その道に長けてはいるのだろうが、社会人として他の部分が著しく欠如しているタイプの人間だ。最近はそうでもなくなってきている印象はあるが、前職で遭遇した年配のエンジニアの中には煮ても焼いても食えないやつがゴロゴロしていた。 「その後、音川が個人的に電話を掛けて事情を聞き出すことができたんだ。要は、自作自演を企んだのさ。ウイルスを仕込んでそれを華麗に駆除してみせる。音川に一目置かれるためだけにね——だがもうそいつの手に負える代物じゃなかったんだ。発見して駆除するだけのつもりが、ウイルスはすでに自らのクローンをタスクに加えていて、俺が見たタイミングで実行されるギリギリ直前だった。いろいろあったんすよ。在宅勤務が導入されて最も喜んでいるのは音川だろうね。ただでさえ面倒くさいことが苦手なのに、一番面倒くさい人間関係に巻き込まれてさ。あの時のあいつの落ち込みようったら見れたもんじゃなかったよ」 「とばっちりなのに?」 「音川はセキュリティに造詣が深いんだ。暗号化については専門家と言っていいほど。だから余計にショックだったんだろう。もっと周りを見ていれば危険因子に気がつけたかもしれないって。それからは部下と交流するのをスッパリ止めたね。もちろん仕事のサポートは惜しまないけど、ランチや飲みはもちろん、雑談さえ一切ナシ。仕事の質問と回答だけ」 「じゃあ、泉くんとインドカレーを食べに行ったのって」 「その事件以来のはずだよ。泉に誘われたとしても本来の音川なら断るはず。あんな事は二度とごめんだろうし」 「メンターだからって理由は……通用しないのか」 「そこが問題」と速水はメガネの奥の理知的な目を鈍く光らせた。 「そりゃあ、音川にまかせておけば泉はメキメキ伸びるだろうけど、彼一人が恩恵を受けられることで内部から風当たりが強くなるかもしれない。なりふり構わず人材育成に全振りしたと考えたら理解はできるが、開発部にそれが必要か?今、悲惨なのはデザイン部だというのに。もしくは泉が大株主の息子だとかそういう裏があれば音川がメンターに指名されたのも納得だがなあ。でもさ、そんな事情を全部すっ飛ばして、当の音川が何食わぬ顔で泉とメシに行っていたなんて、俺はどうもざわざわするね。なにかおかしな話なんだよ」 「探偵みたいなこと言うじゃん。速水君から見て、泉君はどうなの?」 「驚くほど落ち着いている」 「だよね。おれも思った。まだ2年目とかでしょ?しかも畑違いの部署に来て一発目にこんな面倒な案件にアサインされているのに、焦りみたいなのが見えない」 「変に強がりもしない媚もしない。静かに俺等の話を聞いて、時に鋭いコメントを投げたり、音川につっこんだり……しかもどうもあいつはそれを楽しんでいる節がある」 「音川さんって気さくだけど、かなりの堅物って聞いてたからさ、泉君にそういう隙を見せてるのが意外だね。仕事を任せたからには相当見込みがあるんだろうしね。ま、色んな意味で貴重な人材ってことなのかな。それにしても、ウイルス騒ぎまで起こすだなんて、音川さんてそんなに熱狂的に慕われてるの?」 「一言で言えばカリスマだな。研究室時代に独りで開発した電子決済の暗号化プロトコルが海外の企業に売れたり、起業コンテストで入選して資金を提供された経歴がある。その会社は社会人になる際に売却したらしいから、今は資金運用しながら小さいソフトウェアハウスの技術責任者……なんて最高じゃないの。俺も大学の頃から顔だけは知ってた。元から目立つし、しかも今みたいな筋肉男じゃなくてガリガリに痩せて青白くてさ、あの凄みのある美形な上に夜中にしか行動しないから、吸血鬼なんじゃねえのって噂があったくらい」 「本当に開発が好きなんだね。でも外資のテック企業でも十分通用しそうなのに」 「スカウトは来てただろう。でも競争とか派閥とかダメなんだってさ。俺が知っている人間の中で、音川ほど柔和なヤツはいないね。あと、腰痛をやってから長時間労働も嫌がる。とにかく穏やかに暮らしたいんじゃないか。猫と一緒に」 「すごくわかる。おれも今の会社すげー楽なんだよね。人も、ワークライフバランスも取れるし」 「本社は特に、高屋さんの雰囲気が影響してると思うよ」 「え、おれ?」 「高屋さんと話すとさ、不思議と前向きな気持ちにさせてくれるでしょ」 高屋はそれを間近に聞いても、自分のことについてだと思えなかった。 その代わりに、携帯電話を失ったことで連絡先が分からなくなってしまった、大切な友人であるヒューゴが脳裏に浮かぶ。 速水の言葉は丸っ切り自分が彼に対して感じていることだ。良い影響を得ているのかなと高屋は思い、胸がじんわり温かくなった。 しかしさらに帰国への焦燥感を募らせる。 「嬉しいな」 「お世辞じゃないよ。それにさ、ウイルス事件以降、開発部は音川が採用面接に加わるようになってだいぶん改善されたよ。それまでは技術力だけしか見ていなかったんじゃないかなあ。まあ俺らエンジニアなんて転職前提で入ってくるから、そういう風潮になりがちなのは仕方がないけどさ」 速水は投げやりに言い席を立った。 午後が始まったばかりだが、金曜はみんなが早く帰る傾向にあるため職場はもうのんびりムードだ。 独り者だったならインドで仕事をするのもいいなと頭を過ったのは一瞬だけで、即座に考え直した。窓から向かいのビルが蜃気楼で揺れて見える。時には50度近くなる外気温で暮らしていけるわけがない。 そろそろ学校を終えたインターンたちが出社してくる頃だ。みんな優秀で、高屋の語学力は高く言葉の違いによる誤解は皆無だ——しかし、言葉で説明しても埋まらないすれ違いはある。いくら論理的に話しても理解してもらえない場面では、叫びたくなるほど苛立ちが湧く。速水の場合、大方は相手が理解できないことが理解できない自分に苛立つのだが。 そんな時に高屋は天井だか窓の外だかに目を逸らし、少し沈黙する。 そして「今までの話は忘れて」とサッパリした様子で告げ、全く異なるアプローチで根底から説明内容をひっくり返すのだ。その、まるで要件定義の最後のページから読むような方法が興味深く、速水は高屋の仕事にもっと関わっていこうと思い始めていた。そのためには語学はもちろん、文化的な背景も知らなくてはいけない。 高屋はすでにインド人の思考パターンを何通りか知っているに違いない。 「明日、俺もついていっていい?」速水は高屋に訪ねた。ホテルのシェフとスパイスを買いに行くという話だ。 高屋の顔に、ホッとしたような笑みが浮かぶ。 「実は頼もうと思ってたんだ。速水君が言うように本当に口説かれているとしたら、誤解は解かないと」 「恋人のフリでもしようか?」 「考えてなかったけど……そうした方がいいなら……」 「冗談だって。普通は、2人きりで会わない時点で察するさ」 「だよね」と高屋は短く同意し、PCを小脇に抱えて会議室のドアを大きく開いた。 午後のオフィスはすでにスパイスの香りで充満している。皆が、持参した昼食を休憩室の電子レンジで温めるからだ。 「この匂いにも慣れてきたな」 胃が刺激され、急激に空腹を覚えた速水と高屋は外の屋台でホットサンドを買うことにした。よく加熱されているため腹を壊す心配が少ないことと、店主のオリジナルだというサンドウィッチ専用マサラが異様に美味いのだ。 「高屋さんの魅力でちょっとマサラを分けてもらってよ」と速水がからかうと、意外と本気の表情で「音川さんの方が効果ありそうだけど」と返ってきた。 「ま、前例ができちまったしな……次またインドに呼び出されたら音川だな」 「もしそうなったら、泉君みたいなきれいな子は危ないから、置いていくように言わなきゃね」
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