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第5話 例外

音川は高屋に今日の報告をチャットで送っておいた。仕事ではなく私用の方だ。 一番の心配の元は取り除いてやれないが、それでも、夕方の定例会議で高屋は少し安堵した笑顔で、「お土産楽しみにしててね」と音川に微笑んだ。 「こっちは概ねスケジュール通り進んでるよ」と音川は低く丁寧な声色で報告する。 「泉くん主導でやってくれてるんだってね。音川さんのつもりでスケジュール引いてるから、もし厳しそうなら言ってね」 「はい。ありがとうござ……」と泉が言い終わらないうちに、「俺がマンツーマンで付いてるから大丈夫だ」と音川が割り込んだ。 「そうなの?」 「あ、いえ……まあまあ放置されてますね」 泉の返答に、音川はいたずらがバレた子供のように不満顔を作った。「教えることがほとんど無いんだよな」 「優秀だなあ。泉くん、本社に来ない?」と速水がニヤリと笑うと、「だーめ」と音川が即答した。速水の勧誘は半分冗談だが、音川は内心、こんなに優秀なやつ渡してなるものかと本気の拒絶だ。 「そうだ、速水さん。インド料理のレシピ本を買ってきてもらえないでしょうか。もちろん代金は払います」 「いいよ代金なんて。俺もこっちの本屋に興味があるから、見繕ってくる」 「ありがとうございます。お願いします」 「泉くん、料理するの?」と高屋が音川と同じように尋ねた。 「ほとんどしませんが、本格的なスパイス料理は面白そうだと思って。実験みたいで」 「じゃあスパイスも買って帰るね。明日、ホテルのシェフが市場に連れて行ってくれる予定だから」 「仲良くなったのか?」音川は驚きの声を上げた。 てっきり、高屋は携帯電話の盗難でホテル側を警戒していると思っていたが。 「いやそれが、高屋さん口説かれてんのよ」と速水がおかしそうに笑う。ここだけの話、と秘密めいた声色まで作って。 「それは言い過ぎだよ。あんなの普通でしょ」 「あれが普通に思えるなんて、普段周りからどんな扱いされてんのか心配になる。めちゃくちゃ口説かれてるのに、完全にスルーなんだよね、高屋さん」 「どんなこと言われてるんですか?」 泉が興味津々な様子で身を乗り出し、音川はテーブルに肘をついて手に顎を乗せた。聞いてやろうじゃねえか、と目で促している。 まず———、と速水が口火を切った。高屋はだんまりを決め込むようだ。 「毎朝フロントで待ってる。俺たちが朝食ためにロビーへ降りていくやいなや、一目散に駆け寄ってきて、良く眠れたか、ルームサービスは美味かったか、今日は何時に帰るか、食べたいものは無いか、とか高屋さんを質問攻めよ」 「それは分かりやすいですね」 「で、たかやんが料理を褒めたりレシピなんて聞くからさ、もうそいつ舞い上がっちゃって」 「そいつ?男なの?」 「うん」 「あー……、高屋さんだもんなあ」 音川から見て、高屋は一種独特な雰囲気を持つ男だった。 凛とした意志の強そうな空気をまとったかと思えば、ふわりと周りの緊張を解くこともできる。アーモンド型の優しげな目が印象的で、相手をじっと見つめながら話を聞く癖がある。 それが相手にしてみれば自分に興味を持ってくれている、と思わせるようだ。仕事では有効かもしれないが、勘違いさせてしまうリスクもある。 「僕も、分かる気がします」 「何なのみんな」と高屋は不満そうに呟く。 「そりゃ料理が美味かったら褒めるし、帰国して再現するためにレシピを聞いただけ。そしたら聞いたこともない材料が出てきたから……買いに行こうってことにね。発酵した竹の乾物なんて知ってる?」 全員が頭の上にクエスチョンマークが出ているような顔をしていた。 「美味い店ある?俺、そっち系好きなんだけど。さっきもカレー食べて来たところ」 「今のところホテルのルームサービスかな。ん?泉くんが音川さんの方を見てるけど」 「さっき、速水さんたちのせいでカレーが食べたくなったかのように言っていたので。元から好きだったんだな、と今知りました。道理でお店の人と仲が良いはずですね」 「え!?」 狭い会議室で速水が突然大きな声を出し、高屋は飛び上がりそうになった。「音川とお昼食べに行ったの!?」 「は、はい。そうですが……?」 音川は肘をついたままで、そっぽを向いていた。 泉も高屋も何のことかとキョトンとして、速水か音川による説明を待っている。 しかし、速水は「ふーん」と急にトーンを落として、ちらりと音川を見て黙り込んだ。 高屋はその様子から、特にこれ以上の発言はなさそうだと判断して、次の話題へと移った。 「そういえば、盗難届の証明書貰ってきたよ。あとはインターンの理解度を見て、良さそうだったらすぐ帰国するつもり」 「どれくらい掛かりそう?」と音川が尋ねたのをきっかけに場は急激に仕事モードに変わった。 「ま、1週間ってとこ」 「そうしたら泉くん、軽く動作確認したいから今日検証用サーバーにUPしてもらっていい?調整して、月曜にインドからも見てもらえるようにしようか」 音川は少し申し訳無さそうな声色で言った。残業が確定するからだ。 しかし泉は弾んだ声で、「もちろんです!ちょうど今日見てもらうつもりだったので」と、自分の成果を早く見せたくて仕方がないという様子だ。 「それでいい?高屋さん」 「うん。助かるよ。じゃ、月曜は日本の13時くらいを目処に集まろうか」 定例会を終えて通話を切るなり、高屋は速水に「さっき驚いてたの、なに?」と問いかけた。 速水は待ってましたとばかりにノートPCを閉じて雑談の姿勢に入る。 「もう5,6年前かなあ。自尊心の強い新人が配属されたことがあってさ。社会人になりたての浅はかさとか、駆け出しのエンジニアにありがちな天狗状態で、俺が一番音川さんについて知っているだの、気に入られているだの、事実ではないことを影で吹聴して周りを牽制するような。あからさまにゴマを擦るのならまだ可愛げもあるけどさ、IT系の男には卑屈なのが比較的多いのは否定できないだろ」 「あー、音川さんに気に入られるイコール、仕事ができるってことだもんね」 「そう。でも音川ってさ、人の好き嫌いとか感情的なものを会社の人間に持つことは無くて、たまたま近くにいてタイミングが合った人間をランチに誘ったり雑談したりしていただけなんだよね。でもその新人は、自分以外の人間が音川と交流することが許せなかったらしいね」 「なんかあったの?おれが聞いていいやつかどうかわからないけど」 「ウイルスだよ。幸い、たまたま俺が早く出社した日でさ、実行前だったから実害は無かった。今でも思い出すと変な汗が出るよ。ネットワークを切断して全員に出社しないよう連絡して……もちろん会社に報告しなきゃいけないから音川と2人でてんやわんやだったよ。その時にはまだ人為的なものだとは分からなかった」 「特定できたの?」 「その日、当の新人だけ連絡がつかなかった。まさかと思ってサーバーに残っているそいつのメールを見たら、私用アドレスから会社に不審なファイルを送ってた。結局それから一度も顔を出さないまま、母親が辞表を持ってきたよ」 「ほ、本当にいるんだ……」 「すんごい剣幕だったよ。音川を名指しで呼んで、こんな職場は辞めさせますッ!って。俺ら全員ポカーンよ。優秀なはずの自分の息子が特別扱いされなかったことを捲し立てて。いずれにせよ解雇だからいいんだけどさ、ウイルスについては音川のせいにしてさ」 「どんなウイルスだったの?」 高屋の問に、速水は有名なマルウェアの名前を出した。感染したPCと同じネットワーク上のデバイスがハッカーから丸見えになるものだ。 「敵もよくやったと思うよ、会社のサーバーにバックドアまで仕込んで。辞めるつもりだとしても、被害が出て訴訟されたらどうするつもりだったんだろ」 「不幸中の幸いにしても、怖い」と高屋は同情を表した。 速水が言ったように、情報処理系の職場には、時々、他の業界では認められないような性質の人間がいることは否定できない。 その道に長けてはいるのだろうが、社会人として他の部分が著しく欠如しているタイプの人間だ。 最近はそうでもなくなってきている印象はあるが、前職で遭遇した年配のエンジニアの中には煮ても焼いても食えないやつがゴロゴロしていた。 「いろいろあったんすよ。在宅勤務になって一番ホッとしてるのは音川だね。ただでさえ面倒くさいことが苦手なのに、一番面倒くさい人間関係に巻き込まれてさ。あの時の音川の落ち込みようったら見れたもんじゃなかったよ」 「え、音川さん関係ないのに?」 「無自覚だったことが悔しかったんだろうな。もっと周りを見ていれば危険因子に気がつけたかもしれないって。それから部下と交流するのはスッパリ止めたんだ。もちろん仕事の話は大歓迎だしサポートも惜しまないけど、ランチや飲みや雑談は一切ナシ」 「じゃあ、泉くんとカレーを食べに行ったのって」 「その事件以来の後輩とのランチになるはず。泉から誘ったとしても、本来の音川なら断るはずなんだよ。あんな事は二度とごめんだろうし」 「急な異動でしょ?それに泉くんがこの案件に入ってくれたのは音川さんの選択じゃないし、大丈夫なんじゃない?」 速水はメガネの奥の理知的な目を鈍く光らせ、そこが問題、と言った。 「課長はセクハラ訴訟もウイルス事件も音川の性格も十分に知っているのに、わざわざ泉の教育係に音川を指名した。泉はデザインも開発もできて絶対に手放したくない人材でさ……そりゃあ、音川にまかせておけば泉はメキメキ伸びるだろうけど、彼一人が音川の恩恵を受けられることで内部から風当たりが強くなるかもしれない。デザイン部で苦労してきたやつにそんなことするか?まあ、それでも、人材育成に全振りしたと考えたら理解はできる。でもさ、そんなこと全部すっ飛ばして、当の音川が泉とメシに行ったなんてな?俺はどうもざわざわするね。なにかおかしな話なんだよ」 「探偵みたいなこと言うじゃん。ね、音川さんて、そんなに慕われてるの?」 「うん。学生時代に開発したアプリが海外の企業に売れたり、起業コンテストで入選して資金を提供された経歴があるから、下の世代からすると憧れの的だよ。その会社は社会人になる際に売却して、今は資金運用しながら趣味と実益を兼ねて小さいソフトウェアハウスの技術責任者……なんて最高じゃないの。俺も大学の頃から顔だけは知ってた。元から目立つし、しかも今みたいな筋肉男じゃなくてガリガリに痩せて青白くてさ、あの凄みのある美形な上に夜中にしか行動しないから、吸血鬼なんじゃねえのって噂があったくらい」 「本当に開発が好きなんだね。でも外資のテック企業でも十分通用しそうなのに」 「競争とか派閥とかダメなんだよ。俺が知っている人間の中で、音川ほど柔和なヤツはいないね。あと、腰痛をやってから長時間労働も嫌がる。とにかく穏やかに、のんびりゆっくり暮らしたいんじゃないか。猫と一緒に」 「すごくわかる。おれも今の会社すげー楽なんだよね。人も、ワークライフバランスも取れるし」 「本社は特に、高屋さんの柔らかな雰囲気が影響してると思うよ」 「え、おれ?」 「だねぇ。落ち着いてるし、高屋さんと話しをするとさ、不思議と前向きな気持ちにさせてくれるでしょ」 高屋はそれを聞いても、自分のことについて話しているとは思えなかった。 携帯を失ったことで連絡先が分からなくなってしまった、大切な友人が脳裏に浮かぶ。 速水の言葉は丸っ切り自分がヒューゴに対して感じていることだ。 良い影響を得ているのかなと高屋は思い、胸がじんわり温かくなった。しかしさらに帰国への焦燥感を募らせる。 「嬉しいな」 「お世辞じゃないよ。それにさ、ウイルス事件以降、開発部は音川が採用面接に加わるようになって、言うほど変なやつ入ってこなくなったからだいぶマシだよ。それまでは技術力だけしか見ていなかったんじゃないかなあ。まあ俺らエンジニアなんて転職前提で入ってくるから、そういう風潮になりがちなのは仕方がないけどさ」 速水は投げやりに言い席を立った。 午後が始まったばかりだが、金曜はみんなが早く帰る傾向にあるため職場はもうのんびりムードだ。 独り者だったならインドで仕事をするのもいいなと一瞬だけ思い、即座に考え直した。窓から向かいのビルが蜃気楼で揺れて見える。50度近い外気温で暮らしていけるとは思えなかった。 そろそろ学校を終えたインターンたちが出社してくる頃だ。みんな優秀で、高屋の語学力は高く言葉の違いによる誤解は皆無だ——しかし、言葉で説明しても埋まらないすれ違いはある。 速水はそれが興味深く、高屋の仕事にもっと関わっていこうと思い始めていた。そのためには語学はもちろん、文化的な背景も知らなくてはいけない。 「明日、俺もついていっていい?」と速水は高屋に聞いた。ホテルのシェフとスパイスを買いに行くという話だ。 高屋の顔に、ホッとしたような笑みが浮かぶ。 「あ、それ頼もうと思ってた。速水君が言うように本当に口説かれているとしたら、誤解は解かないと」 「まさか俺に恋人のフリさせるんじゃないよね?」 「考えてなかったけど……そうした方がいいなら……」 「冗談だって。普通は、2人きりで会わない時点で察するさ」 「だよね」と高屋は短く同意し、PCを小脇に抱えて会議室のドアを大きく開いた。 午後のオフィスはすでにスパイスの香りで充満している。皆が、持参した昼食を休憩室の電子レンジで温めるからだ。 「この匂いにも慣れてきたな」

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