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第6話 制御不能

「すまん、金曜日に残業なんて」 音川が発する申し訳無さそうな声色は本心から来るものだと、泉はちゃんと分かっていた。とりあえず謝っておけばいいというおざなりさとは感情の深みが違う。 それに、静かに合わされた視線の優しさが違う。 「本当にいいんですよ。むしろ、嬉しいです」 「残業好きなの?変わったヤツだな」 「いえ、早く検証して貰いたかったので」 「これまでの単体テストでも問題は無かったから、今日は総仕上げだな。検証用サーバーで動きだけ見れたらいいよ。それじゃ、ぱぱっと終わらせようぜ。」 「今日、あんまり時間が無いんですか?」 「俺?いや、特には……」 「ジムですか?」 「それは朝行ってるから」 「すごい」 「すごかねぇよ。朝は予約が取りやすいし、どうせモーニング食いに駅前の喫茶まで行くからな」 「毎朝ですか?」 2人は話しながらテキパキとテレフォンカンファレンスの機材を片付け、モニター等々の電源を落としたことを確認してから会議室を後にした。 出社する人数が極端に減った今、会議室はほとんど使われておらず、うっかり付けっぱなしにしておくといつまでもそのままになってしまう。 「雨じゃない限りな」 「雨の日に出かけるのが面倒なんですね」 「その通り。ジムの予約が有る日は天候に関係なく行くけどね」 「僕、いわゆる喫茶のモーニングって食べたことがないです」 音川はオフィスのドアの正面で立ち止まって、口をあんぐりと開けた。 「ほんまに?」 「あ。音川さんの関西弁、始めて聞きます」 ドアの傍に立ち、泉を先に中に促しながら、音川は少しバツが悪そうな顔をした。 上京して15年、今では地元の友達と会う時でさえ最初は標準語が出てしまう。 それがまさか、職場で、しかも部下の前で咄嗟に関西弁が出てしまうとは自分でも信じられない…… またしても、調子を狂わされてしまった。 「そんなに珍しいことじゃないと思いますけど」 音川の戸惑いを、自分がモーニング未経験であるせいだと勘違いした泉が少し拗ねたように言う。 「珍しいだろ。週末は家族で近所の喫茶でモーニング。定番じゃねーの」 「その、『近所の喫茶』というのが無かったですね」 この外国人顔の男には、なぜか喫茶と言う呼び方がずっとしっくりくる。カフェなんて言おうものなら吹き出しそうだと泉は思った。 「コーヒーとトーストと卵で400円だろ」 「安すぎません?」 「そんなもんだよ。350円の店もあった」 音川の鼻腔に、家族で行きつけていた喫茶の香りが広がるような気がした。 店中に染み付いたコーヒー豆とトーストの匂い、年季が入ったテーブルに擦れたベルベットのソファ、サイフォンの煮える音、厚切りのトーストには金色の缶に入ったバターがたっぷり塗られじんわり染み込んでいく。 成長した音川を見るたびに「もうブラック飲めるんか?ミルク欲しないか?」とからかってくるおばちゃん。 検証用サーバーに向かっている泉が「音川さん、連れて行ってください」と画面を見たまま呟いた。 その独り言のようなトーンがすっと耳に入り、ほとんど脊髄反射で「いいよ」と応える。 音川の脳はまだ実家の近くの純喫茶にいた。 レジの壁には、常連たちが画鋲で壁にコーヒーチケットを貼り付けている。 小学生の頃、家に帰っても誰も居ない日は一人で寄ったものだ。カウンターにちょこんと腰掛け、ミックスジュースを飲んでいると常連客のおばちゃん達がなにかと構ってくれる。 今思えば、この習慣によって年配者の話を聞く楽しさを覚えたんだろう。 「ほんとですか」 バッと振り返った泉の顔を見て、意識が大阪の喫茶店からオフィスへ引き戻される。 泉があの喫茶店のことを指しているわけがない。今の音川が通う店の話だ。 「いや、どうかな。わざわざ行くもんじゃねぇだろ」 「わざわざ、でなかったら?」 泉は床を軽く蹴り、やや後方にいる音川の元へイスごと移動した。タイルカーペットが敷き詰められた床の上をキャスターが音もなく転がる。 「月曜日ってジムの日ですか?僕、出社するつもりです。13時からの打ち合わせもあるし」デスクにほとんど座るようにもたれかかっている音川を見上げる。 「俺も来るつもりだ。だからなんなの」 「音川さんのジムの帰りに、近所の喫茶に連れて行ってください」 「ここから4駅だぞ」 「たった4駅です」 喫茶に行くくらいで、と再度拒んだが、「早起きしますから」と泉はなお食い下がる。見上げてくる目に、譲らない意思があった。 音川は組んでいた腕を解いて、すぐそこにある泉の頭にそっと手を置いた。 栗色の柔らかい髪が指の間をくすぐり、その刺激で始めて自分がしていることに気が付き急いで「ごめん」と手を退かすが、(くそ、まただ)と内心で悪態をついた。 泉といると、まるで制御を失ったロボットのように体が勝手に動いてしまう。 音川は肩をすくめ、観念したように息を吐き出した。 「わかった。連れていくよ。ただし——、部内で言うなよ」 「言いませんけど。何かあるんですか?」 「ああ、きみは知らないか。俺は特定の後輩と交流しないから」 どういうことですかと聞きたがる泉に、ウイルス事件についてざっと話した。 新人達がああなっていたことは音川からすれば寝耳に水だった。 会社で後輩から敬われるのは喜ばしいことだが……未だになぜ自分が熱狂的なまでに盲信の的とされたのか、いまいち実感がない。 あの日、最初に出社したのが速水だったからウイルスは実行されずに済んだ。もし彼以外だったなら——想像するだけで背筋に冷たいものが流れる。 音川は、人によって態度を変えるような面倒なことはしない。 例の新人をランチに誘ったり雑談していなかったのは、たまたま物理的に近くにいなかった、ただそれだけのこと——意識の外の、なにげない日常だ。 それが、当該の新人に疎外感を感じさせ、会社に大損害を引き起こす行動のきっかけとなった。 そして1人のエンジニアを、犯罪者に変えてしまうところだった。 音川は責任を感じて辞職を申し出た。しかし部長並びに社長からも考え直すよう諭され、今に至る。ありがたいことだ。 その時に、もう同じ轍は踏まないと誓ったのだ。 以来、音川の『自然な』フレンドリーさは全て本人によってコントロールされたものになった。笑顔も、発言内容も、すべて仕事の範囲に限られるのだ。 「ああ、それでさっき速水さんがあんなに驚いていたんですね」 「だろうな」 「でも、どうして僕は」キーを叩く音が一瞬止まり、泉がぼそりと言う。 「音川さんから、誘ってくれましたよね?これからもって」 「そうなんだよなあ」と間延びした返事をし、あ、と思いついたように一呼吸おく。 「阿部に言われたせいかも」 実際のところ、今の今まで忘れていたわけだが、無意識下で阿部の勧めがあったから泉を誘った、と考えれば十分納得できる。 自分が理由のない行動をするなんてありえないのだから。 妙にすっきりとした気分で、音川は続けた。 「さっきも言ったが、これからは俺が阿部の代わりだな。とは言え基本的に在宅勤務だから、泉くんに会うのも年に数回だろう」 「僕は、週2日か3日くらいで出社してます」 「もう完全在宅でいいだろ。教育係の俺が出社してないのに、来る意味ねぇよ」 「では、音川さんが出社する日に合わせて僕も来ていいですか?」 「うん。まあ、この雑誌の発行に合わせて来ているから……2ヶ月に1回だな。でも何かあればいつでも呼んでくれていいから」 「わかりました。では、まずは月曜の朝ですね。10時始業だから、9時頃に駅前でどうです?」 音川は同意し、「連絡先」と端的に言ってスマホを取り出した。 「誰にも共有しませんし、必要時以外には連絡しませんから、安心してください」 「なんだそれ。ま、部内で俺個人の連絡先を知ってる唯一の人間になるのは間違いないな。でも泉くんを特別扱いしているつもりはないから、変に隠すことでもないんだけどね」 後半は自分へ向けて言ったようなものだった。 他の後輩と差をつける意図はない。 ただ、そういう流れになってしまっただけだ、と思う。 「アップ終わりました。検証開始してください」 音川は再び泉が座るオフィスチェアの背もたれを持ち、グッと後ろへ勢いよく引いて、そのまま数歩下がった。 「ここで大人しく待っていなさい」 「子供扱いしないでください」と泉は不満に口をとがらせるが、イスを引かれた反動で体が後ろへ傾いたのが面白く、子供みたいに嬌声をあげた後では説得力がない。 泉は言われた通りその場で、先輩エンジニアの見事な逆三角形をした背中を眺めることにした。 正直、手応えはある。様々なシナリオを想定したテストを行い、もちろんエラーやバグは無い。 それなのに、両の掌にじっとりと汗が滲んで、指先が冷たくなる。 音川が求めているレベルがどれほど高いかはまだ見えないが、必ず到達して一番弟子くらいにはなってみせるという覚悟を持って取り組んだ。 その成果が今試されている。 インドでフロントエンドの準備ができるまでの間、速水が仮の画面を用意してくれている。仮データは実際のものより容量が少ないせいもあるが、音川の背中越しに見えている画面上ではページの推移はなめらかだ。今のところは。 もし、動作不良が起こるようなことになれば精神的なダメージが大きい。 不安に駆られて泉はうつむいた。 しばらくすると、10本の指で打たれているとは考えられないほど高速に聞こえていたタイピングの音が止まり、音川が振り向いた。 「うん、上出来」 「よかった……です」 泉は大きな息を吐き出すと、すぐに顔をあげてぱっと笑顔になった。 その様子で、初めて音川は後輩の緊張に気がついた。 軽口を叩き自信満々な様子で検証環境を準備していたのは精一杯の強がりだったのかもしれないと想像をめぐらせ、健気さに胸がざわりとする。 「何も言っていなかったが、高可用性までしっかり考えられている。これは納期が後ろにずれた補填を超えて、かなりのアピールポイントになるよ」 「データベースの構造がそうなっていたので」 「俺が設計したんだ。なんせ相手は製薬会社だから慎重になり過ぎることはない。この先、発注が来ることを想定して、災害対策のために複数のデータセンターを繋いだ構成にも対応できるようになっている」 「ずいぶん整頓された構成だと思いましたが、さすが……」 「ソースは週末に見ておくよ。まあこんだけ動いてりゃ、何の問題もないけど念のためな。細かい修正の指示をするかもしれないから覚悟しといて」 「ありがとうございます。指示が細かいのは知ってます」 泉は音川の隣に移動してしゃがみ込むと、少し寄りかかるようにして画面を覗き込んだ。 「月曜、楽しみです」 「インド側の出来が気になるよな」 「いえ、そっちじゃなくて、モーニングの方」 「あ、そっち。あんまり期待すんな。普通のコーヒーとトーストだよ」 「嬉しくて眠れないかもしれません」 「期待すんなって」 「朝から喫茶店に行くことが始めてなんです。コーヒーチェーン店ならありますが」 「どういう暮らしをしてたらそうなるの」 「こっちが聞きたいですよ。やっぱり、大阪って下町のイメージが……」 「否定はしない。でもモーニング自体が西の文化なのかもなあ」 「さっきみたいに、関西弁で話してくださいよ」 泉のからかうようなリクエストに、グ、と音川は息をつまらせた。 「さっきのは無意識。そもそも、俺、もうそんなに関西弁で喋れないよ」 「そうなんですか?」 「そのうち、また不意に出てくることがあるかもしれない。なんだか泉くんと居ると、超自然体になってしまうというか、なーんか調子が狂うんだよな」 「それって、良いことですか?」 「良くねぇよ。俺は常々、誠実で、責任説明のある、論理的な業務態度を心がけてるんだよ。考えもなしに脊髄反射で行動するようなことはしたくないし、できないはずなんだ。それがどうもなぁ、上手く機能しねぇ感じ」 嫌なんだよね、と音川は付け足し、自分でその言葉の強さに驚く。 「なんか……すみません」 少し寄りかかっていた上体を離し、泉は軽く俯いた。 「言い方が悪かった」 慌ててとりなすも、泉の顔からはもうタスクを終えた安堵の笑顔は消え去っていた。 デスクの端で、強く握られた泉の拳がやや震えている。 自分の発言がこうも影響するのかと、どうしようもなくその手に触れたくなったが…… 音川は自分の理性に助けを求めた。 コントロールできないことがあると認知できたのなら、それはもはや問題ではない。理性を働かせて、元の制御状態に戻せばいいだけだ。 「月曜の朝は、やっぱり止めときます。出社は予定通りしますが」 「ああ、そう」 いずれにせよ音川の予定に変更はない。 ジムに行き、終わり次第いつもの喫茶でモーニングを食べて新聞を読み、13時のインドとの打ち合わせに間に合うよう出社すればいい。 「では、お先に失礼します」 泉は、すっと立ち上がると最初に座っていた席に戻り、バックパックを掴んで足早にオフィスを去った。 一人残された音川は、天を仰いで大きくため息をついた。 傷付けるつもりなど毛頭なくても、発言は事実としてそこに残り続ける。 そんな当たり前のことすら、泉がいると忘れてしまうのか。 音川は、ただ、自分の中にコントロールできない部分を見出したくなかったのだ。 ロジックに当てはまらない自分が我慢ならない。 それは嫌悪ではなく恐れだった。

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