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第7話 僕はあなたのことが

泉が身体を持たせ掛けてきた時、音川は自分の胸がジンと湧き立ったのを感じた。 それは飼っている猫がすり寄ってきた時に抱く庇護欲に近いもののようであり、しかし全くの別物のようでもあった。 心地よい感覚と同時に、言いようの無い焦りがあった。 そのないまぜになった正体不明の感情は音川を混乱させ、危うく判断を誤らせる既の所だった。 ———もし、あの震える拳を包み、辛そうに見上げてくる視線をすくい上げて抱き締めることができたなら—— これまで経験したことがないほどの耐え難い衝動を、理性で抑えつける。 正直、泉が、肩に回った音川の左腕をほどいてくれたのはありがたい拒否だった。 『嫌なんだよね』 これは、そんな混沌とした自分に向けてのものだった。 音川は考えを振り切るように首を振って、自嘲気味に笑った。 この失言のせいで離れていくのなら、その方が都合がいい。 泉については、慕ってくる(ように見える)後輩なのか、それとも『そうあってほしい』と願う姿なのか。 それさえ、もう見極めることができなくなっていた。 そして、そんなことはどちらでもよかった。 抱きしめたい衝動に駆られたのは事実だ。 彼にだけプライベートな連絡先を教えたのも事実だ。 一緒にいるだけで考えもなしに脊髄反射の言動を行ってしまうのも事実だ。 それは——最初に会話した時から、すでに始まっていたのじゃないか。 音川ができることは、それらの事実をしっかりと認識して、上司として適切な距離を保つことだ。 泉が座っていた席に付箋を貼った雑誌を置き、明かりを全て落としてからオフィスを後にした。 無人の廊下に出て、エレベーターを呼ぶ。 ふと、デザイン部門がある廊下の反対側に視線をやると喫煙所が目に入った。無性にタバコが吸いたくなった。10年前にきっぱり止めてから一度も無かったことだ。 良くない傾向だ。頭を振って、誘惑を消す。 とてもじゃないがこのまま家に直帰する気分にはなれず、しかしこんな夜に飲み屋に寄ってしまうと、またタバコの誘惑に飲まれかねない。 それなら禁煙の喫茶店でも、と会社の最寄り駅でめぼしい店がないか思い出そうとするが、喫茶店のことを考えるとすぐに先程の泉の悲痛な顔が目に浮かんでしまう。 行き先が決まらないまま、もやもやとエレベーターに乗り込み階下へ降りる。 ポン、という到着音に続いてエレベーターのドアが開いたと同時に、「お疲れ様です」と声を掛けられた。 顔を上げると、エレベーターホールの壁を背に、泉が少し困ったような顔をして立っている。 音川は目を見開いた。 「帰ったんじゃなかったの?」 「帰ろうと思いました。でも、あまり良くない態度を取ってしまったから」 「そう?」 「……なにか食べに行きませんか?」 「ああ。……いや、今日は帰るよ」 距離を置くと決めたばかりだ。しかしどうしても振り切れない。 「駅まで、一緒に帰ろうか」 「はい」 ようやく暗くなった街を、駅まで連れ立って歩いた。 道の両サイドにある色とりどりの看板に明かりが付き、ねっとりとした夏の夜の匂いが充満し始めた飲み屋街を抜けると駅だ。 「さっきは悪かった。失言だった」 「いいんです」 泉は明るく言い切り、顔を上げる。 「僕に対しては気遣いができなくなるようなことを言ってたので、そのせいなのかなってすぐに思い当たりました。たぶん、嫌なのは僕のことじゃなくて……調子が狂った状態の、音川さん自身のことなんだろうなって」 泉を誤解させたと思ったのは、音川の早とちりだったようだ。 彼がオフィスを出てからまだ幾分と経っていないのに、自分の感情を落ち着かせ、音川の心情を分析することができていた。 あの子は強いよ、と阿部が褒めていたことを思い出す。 泉には、物事を多角的に捉える賢さがあることを、改めて認識した。 「ん、まあ……その通りなんだけど、誤解したままでもよかったよ。俺とは、あまり仲良くしない方がいい。無意識な失言ほど、たちが悪いものはないから」 それでも——、と泉は立ち止まった。 もう改札はすぐそこだ。家路を急ぐ人々の群れが、立ち止まる泉と音川によって割れていく。 「僕は、フィルターの掛かっていない音川さんがいい」 振り返ると、少しだけ下方から見上げてくる泉の瞳とぶつかった。 これだ、この眼差しのせいだ。 音川のなにもかもを見透かして丸裸にしそうなほど研ぎ澄まされた光。 「じゃ、また月曜に会社で」 無理矢理に視線を外して、音川は改札へ向かったが、あの、と小さく呼び止められる。 「やっぱり、モーニングご一緒してもいいですか?」 「ああ。後で喫茶店の住所を送っとくよ。俺は10時頃まで居ると思うから」 「わかりました。僕、反対側なのでここで失礼します」 エスカレーターでホームに上がると、線路を2つまたいだ向かいに泉の姿が見えた。 向こうもこちらに気付き、遠慮がちに微笑みながら、体の前で小さく手を振っている。 思わず、「かわいい」と声に出てしまいそうになり、額に片掌を当てて目を覆った。 あれは目に毒だ。 とてつもないジャンプ力でもあれば、向かいのホームまで飛んで行って…… どうするつもりだ。飲みにでも誘うのか。それとも、かわいいねと囁いてそのまま連れて帰るのか。 飛べなくて良かったと、くだらないことを思いっているとホームに電車が進入してきて、すぐに泉の姿は見えなくなってしまった。 自分なら、先輩にあんなことを言われてしまえば、邪険にされたと思ってくさくさと不貞腐れながら帰宅していただろう。 エレベーターホールで待っていた泉の思慮深さに、驚きを越えて感動した。 一体何が、彼をそこまでさせる? 戸惑いだった2極の感情は、確実に興味へと変わった。 最寄り駅に降り立つと、夕食の場所に当たりを付ける。もうタバコを吸いたかったことなどすっかり忘れて、空腹を感じるだけだ。 最寄り駅の南口エリアには、柳町と呼ばれる路地が入り組んだ飲み屋街がある。 戦後に長屋が建てられていた場所で、今では住居はほとんどないが、50以上の小さい居酒屋やバーがひしめきあっている。 南口からさらに下ると閑静な住宅街があり、そこには昔から文化人が多く住んでいる。はっきりした歴史は分からないが、軍人が多く住んでいたことから戦中戦後の治安が良く、疎開に適していたと聞いている。 柳町では、そこに住む作家や画家などの芸術家や映画監督などが昼間から熱い芸術論を交わし、飲んだくれて潰れる場所だった。そして音川はその時代から飲んだくれているに違いない老人たちの話を聞くことが好きだった。 駅ビルもない、チェーン店もほとんど無い地味な街だが、不動産会社の住みたい街アンケートではトップ3の常連だ。 この、昼間から路上まで客が溢れてほとんど屋台村のようなった場所が、音川のダイニングテーブルだ。 完全外食派の音川は、柳町で夕飯に適した店をいくつか持ち、ルーティングしている。 そのどれも旨くて安い居酒屋なのだが、今夜は中でも特に贔屓にしている焼き鳥屋に寄ることにした。朝引きの若鶏を、厳選した国産の備長炭でじっくりと香ばしく焼いてくれる。 道中ですでに出来上がっている客をひょいひょいと避けながら突き進む音川に、左右にある店の常連や店員が「おつかれさん」と気さくに声を掛けてくる。 どん詰まりにある目的の店はほぼ満席だったが、1席だけちょうど空いたところで、カウンターに身体をねじ込むようにして着席した。 「いらっしゃい!ハイボールで?」カウンター越しに大将が注文を聞いてくれる。「うん。それと7本盛りを塩で」 「あいよ!」威勢のよい声。注文してから焼き始めるため、焼き鳥が出てくるまでに15分かそれ以上かかる。 いつもの店員がハイボールを運んできたついでに、モツ煮と名物の鰹コロッケを注文した。どちらも店の人気メニューだ。 特大ジョッキで提供される濃いめのハイボールを音川は半分ほど一気に飲み干し、大きくため息を付いた。 今日は特に、失言とその反省、理解されたことによる高揚感、そして、別れ際に微笑を浮かべながら、小さく手を振る泉を見て再び—— かわいいと思ってしまったことへの、罪悪感。 すべて全身から抜けて行けと祈り、ジョッキを煽る。 しばらくして運ばれてきた串の盛り合わせは、皿の上でもまだじくじくと加熱が続いていて見るからに旨そうで、つい2杯目を追加した。この店の焼き鳥はどの部位でも抜群に旨い。特に今日はぼんじりが最高で、サクリと噛んだ瞬間に口の中で脂が溶け、旨味がまるで光の粒に分解されて体中に浸透するようだ。 いつもなら程よくアルコールが周るまで過ごすところだが、今夜は、泉の書いたプログラムを確認するという仕事が残っている。 とは言え、音川にとってコードを読むことはほとんど趣味のようなもので、しかも泉が構築したあの滑らかな動作の中身を見られるとなれば待ちきれない。仕事と呼ぶにはふさわしくないほど楽しみだ。 酔っ払った状態で挑んでは失礼だから、と今夜は2杯だけでやめておく。 この程度なら代謝の高い音川の身体にかかればすぐに抜ける。しかも夏の夜、歩いて帰宅する頃にはすっかりシラフに戻っているだろう。 再び柳町の路地を抜けながら、顔見知りたちの誘いをかわして家路を急ぐ。 帰宅し「ただいま」と声を掛けると、飼い猫がのそのそと玄関まで出迎えに来てくれた。 どんな姿勢で寝ていたのか、頬の毛が片方上がり、顔の形が変形して見える。 「マックスさん、寝癖付いてるよ」と脱走防止柵をアンロックしてやり頭をひと撫ですると、大あくびが返ってきた。まだ寝足りないようだ。 シャワーで汗と炭火の匂いを流して、社用PCを片手にリビングのソファにどかりと腰を下ろし、カフェテーブルに足を投げ出す。 「さて」と気合を入れ、ラップトップの名の通り両足の上にPCを広げて、共有サーバー上にある泉のソースコードをテキストエディタで開いた。 まずは全体のレイアウトを見るためにざっと流す。 ゆっくりと画面を下方へスクロールしていくと—— 音川の目の前に、まるでソースコードの文字列が浮き上がってくるような奇妙な錯覚が現れた。 訝りながらも指先で画面をなぞると、やがて英数字たちは文字の渦を作り、それがゆっくりと規則正しく配置され、一つの美しい———塔のような建造物を構成していく—— そんなわけは、ない。これは幻影に他ならない。 しかし。 音川は、これと似た感覚を持ったことが何度かあった。 もっとも近い記憶では、数年前に母親の帰省に同行した時だ。ポーランドのクラコウにある広場で、バイオリンが聞こえてきた。よくある路上演奏の風景だが、そのあまりにも悲痛な音色にその場を動くことができなくなった。 やがて、周辺に、木の葉のように光の粒が舞い始めた。それは徐々に高さを出し、演奏者を包み込むように上空へと伸びていった。 美しい演奏だった。 ソファにどっと背を預け、天井を仰いだ。 なんということだろう。 怒涛のごとく押し寄せる喜びで、身体がぶるりと震える。 彼は、『本物』だ。 次第に音川の顔には笑みが浮かび、終いには声を出して笑っていた。 この美しいソースコードに比べれば、自分のはただの整列した機械語でしかない。 PCをコーヒーテーブルにそっと置き、携帯を手に取る。 普段なら仕事の連絡を就業後にすることは避けるが、今はどうでもよかった。 交換したばかりの連絡先を表示し、通話ボタンを押した。 2コール目で『音川さん?』と柔らかい声がスピーカーから聞こえてくる。 「うん、遅い時間に悪いね」 「あ、もしかして、僕の……」 不安気な泉の声色をなだめるかのように、音川はゆっくりと言う。 実際は、自分の興奮を抑えるためだが。 「泉くん。俺ね、こんなに美しいコードを見たのは初めてだよ」 「え、あ、ありがとうございます」 「感動した。君は完璧だ。すぐに伝えたかっただけだから」 それじゃ、と通話を終えようとした時、「音川さん」と泉が呼び止めた。 「ん?」 「僕、見込みありますか」 「もちろん。俺なんてすぐに越せるほどね」 「今の案件が終わった後も、音川さんの仕事に関わってもいいですか」 「うん。ぜひ。それと、泉くんさ、」と音川は一呼吸置いた。 「俺のパートナーになってくれる?」 「え?本当に?あ、は、はい!あの、僕、入社した時からずっと……」 「詳しくは月曜にでも話すよ。会社とは別で開発しているプロジェクトがあるんだ」 「え?あの、それって……?」 「副業になるけど」 「……なんだ、そういうことですか」 「うん?月曜に話すから、その後で考えてみてよ」 「はい」 「じゃ、おやすみ」 「おやすみなさい」 通話が切れた後、泉は自室のソファに飛び込んで突っ伏した。 心臓が、体を突き破りそうなほど激しく動悸している。 危うく誤解してしまうところだったが——あの音川が部下に私的な感情を持つことなんてないことは周知の事実なのに——もう何度も、そう自分に言い聞かせている—— しかし、涙が滲むほど嬉しい。 音川がくれた言葉は、紛れもなく、自分の能力への讃辞だ。入社以来、憧れ続けているエンジニアが、最大限の言葉で自分を褒めてくれた。 独学でプログラミングを続けてきたのは、他のデザイナー達とは違うアプローチをし続ければ、いつか音川に気付いてもらえると信じていたからだ。 彼のためだけにデザインをし、コードを書きたい。 低くゆっくりと囁かれていた熱い声が耳に残る。

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