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第7話 月影に浮かぶ至高の塔

『嫌なんだよね』 これは自分に向けた発言だった。 泉が身体を持たせ掛けてきた時、音川は胸がジンと湧き立ったのを自覚したが、それは飼っている猫がすり寄ってきた時に抱く庇護欲に近いもののようであり、しかし全くの別物のようでもあった。 心地よい感覚と同時に、ざわざわと不安にも似た焦り。 彼の何かが障るというのではない。自分が勝手に『そう』反応するだけで、相手に何の落ち度もないのは分かっているのだが——その理由が探し出せない。 泉については、慕ってくる(ように見える)後輩なのか、それとも『そうあってほしい』と願う姿なのか。 会話を心地よく感じるのも、社内で泉にだけプライベートな連絡先を教えたのも事実であり自覚できている。しかし問題は、彼が相手だと、考えもなしに脊髄反射の言動を行ってしまうことだ。 ——もし、あの震える拳を包み、辛そうに伏せられた視線をすくい上げていれば—— それで——どうなる?何が変わる? 行先不明の思考に不快感を感じ、頭を振って打ち消す。 正直、泉がこの場を去ってくれたのはありがたい拒否だった。 音川ができることは、これらの事実をしっかりと認識して、適切な距離を保つことだ。 泉が座っていた席に雑誌を置き、部屋に施錠をしてから無人の廊下に出て、中央にあるエレベーターを呼ぶ。左手が開発部、右手がデザイン部と左右できっぱり分かれた配置だ。 首筋に少しの強張りを感じて伸ばすようにひねると、休憩室の隣にある喫煙所で目線が止まる。無性にタバコが吸いたくなった。社会人になってからきっぱり止めて、1本も吸っていないというのに。 良くない傾向だ。小さく舌打ちをして、喫煙所から目線を引き剥がす。 とてもじゃないがこのまま家に直帰する気分にはなれず、しかしこんな夜に飲み屋に寄ってしまうと、またタバコの誘惑に飲まれかねない。 それなら禁煙の喫茶店でも、と会社の最寄り駅でめぼしい店がないか思い出そうとするが、すぐに喫茶店と先程の泉の悲痛な顔がリンクして脳裏を覆ってしまう。 行き先が決まらないまま、もやもやとエレベーターに乗り込み階下へのボタンを押す。このまま地中深くに潜り続けてどこにも到着しなければいいのに、と半ば本気で思う音川のことなどつゆ知らず、エレベーターは1階へ到着してポンという軽い到着音を鳴らす。 「お疲れ様です」 扉が半分ほど開いたあたりで声を掛けられ、音川は弾かれたように顔を上げた。 エレベーターホールの壁を背に、泉が少し困ったような顔をして立っている。 「帰ったんじゃなかったの?」庫内から出て泉の正面に立った。 「帰ろうと思いました。でも、あまり良くない態度を取ってしまったから」 「そう?」 「よかったら、なにか食べに行きませんか?」 「……いや、今日は……」 適切な距離を置くと決めたばかりだ。しかしどうしても胸がざわつく。 「でも、駅まで一緒に帰ろうか」 「はい」 社屋を出て、ようやく暗くなった街を連れ立って歩いた。 繁華街の両サイドでは色とりどりの看板に明かりが付き、ねっとりとした夏の夜の匂いが充満し始めている。ここを抜けるともうすぐに駅だ。 このまま無言で別れてはいけないような気がして、音川は口を開いた。 「さっきは、俺が悪かった」 「いいんです」 泉は明るく言い切り、顔を上げる。 「すぐに思い当たりました。たぶん、嫌なのは僕のことじゃなくて……調子が狂った状態の、音川さん自身のことなんだろうなって」 「ん、まあ……その通りなんだけど。よく分かるね」 理解された喜びと、年下に見透かされた恥ずかしさが混ざり、音川は自嘲気味に笑った。 「当たりですか。僕の方こそ子供地味た態度を取ってしまって」 「いや、きみは……冷静だよ。でも、誤解したままでもよかったんだ。無意識な失言ほどたちが悪いものはないし……また不用意に傷つけることがあるかもしれない」 「それでも——」と泉は音川の一歩後ろで立ち止まった。 もう改札はすぐそこだ。家路を急ぐ人々の群れが、立ち止まる泉と音川によって割れていく。 「僕は、そのままの音川さんがいい」 振り返ると、少しだけ下方から見上げてくる泉の瞳とぶつかった。 これだ、この眼差しのせいだ。 音川のなにもかもを見透かして丸裸にしそうなほど研ぎ澄まされた光。 無理矢理に視線を外して改札へ向かったが、「あの!」と鋭く呼び止められる。 「やっぱり、モーニングご一緒してもいいですか?」 「……後で喫茶店の住所を送る。10時頃までは居るから」 「わかりました。僕、反対方向なのでここで失礼します」 エスカレーターでホームに上がると、ちょうど向かいに泉の姿が見えた。 すぐに音川に気付き、遠慮がちに微笑みながら、体の前で小さく手を振っている。——目の毒だった。音川はこれ以上泉を見ないように、ホームの灯りが眩しいかのように装い自分の目を片手で覆った。 人の多いホームで、泉だけがスポットライトを浴びたかのように明るく光って見える。 『愛らしい』や『かわいい』という温かな感情と同時に、このまま別々の電車に乗って別れることにどうしようもない焦燥感を覚えた。 一体、彼の何が他の部下と違うというんだ。知徳か?性格か?それとも飛び抜けた社交術か? 音川は最寄り駅に降り立つとすぐに夕食の場所に当たりを付ける。もうタバコを吸いたかったことなどすっかり忘れて、空腹を感じるだけだ。 駅の南口エリアには、柳町と呼ばれる路地が入り組んだ飲み屋街がある。 戦後に長屋が建てられていた場所らしく、今では住居はほとんどないが、50以上の小さい居酒屋やバーがひしめきあっている。 南口からさらに下ると閑静な住宅街があり、そこには昔から文化人が多く住んでいる。はっきりした歴史は分からないが、軍人が多く住んでいたことから戦中戦後の治安が良く、疎開に適していたと聞いている。 柳町では、そこに住む作家や画家などの芸術家や映画監督などが昼間から熱い芸術論を交わし、飲んだくれて潰れる場所だった。そして音川はその時代から飲んだくれているに違いない老人たちの話を聞くことが好きだった。 駅ビルもない、チェーン店もほとんど無い地味な街だが、独自の雰囲気がある。 完全外食派の音川にとって、ここは毎晩のダイニングテーブルだった。夕飯に適した店をいくつかルーティングしている。どこも旨いのだが、今夜は中でも特に贔屓にしている焼き鳥屋に寄ることにした。朝引きの若鶏を、厳選した国産の備長炭でじっくりと香ばしく焼いてくれる。 道中ですでに出来上がっている客を、まるでステップを踏むようにひょいひょいと避けながら突き進む音川に、左右から顔見知りや店員が「おつかれさん」と気さくに声を掛けてくる。 どん詰まりにある目的の店はほぼ満席だったが、1席だけちょうど空いたところで、カウンターに長身をねじ込むようにして着席した。 「いらっしゃい!ハイボールで?」カウンター越しに大将が注文を聞いてくれる。 「うん。それと7本盛りを塩で」 「あいよ!」威勢のよい声。注文してから焼き始めるため、焼き鳥が出てくるまでに少々時間がかかる。ハイボールの到着ついでに、モツ煮とコロッケを注文した。どちらも店の人気メニューだ。 特大ジョッキを半分ほど一気に飲み干し、大きくため息を付いた。 今日は特に、失言とその反省、理解されたことによる高揚感、そして、向かいのホームで小さく手を振る泉を見てかわいいと——呟いてしまったことへの、罪悪感。 すべて全身から抜けて行けと祈り、ジョッキを煽る。 しばらくして運ばれてきた串の盛り合わせは、皿の上でもまだじくじくと加熱が続いていて見るからに旨そうで、つい2杯目を追加した。この店の焼き鳥はどの部位でも抜群に旨い。特に今日はぼんじりが最高で、サクリと噛んだ瞬間に口の中で脂が溶け、旨味がまるで光の粒に分解されて体中に浸透するようだ。 いつもなら程よくアルコールが周るまで過ごすところだが、今夜は、泉の書いたプログラムを確認するという仕事が残っている。 とは言え、音川にとってコードを読むことはほとんど趣味のようなもので、しかも泉が構築したあの滑らかな動作の中身を見られるとなれば待ちきれない。仕事と呼ぶにはふさわしくないほど楽しみだ。 酔っ払った状態で挑んでは失礼だから、と今夜は2杯だけでやめておく。 この程度なら代謝の高い音川の身体にかかればすぐに抜ける。しかも夏の夜、歩いて帰宅する頃にはすっかりシラフに戻っているだろう。 再び柳町の路地を抜けながら、顔見知りたちの誘いをかわして家路を急ぐ。 帰宅し「ただいま」と声を掛けると、飼い猫がのそのそと玄関まで出迎えに来てくれた。どんな姿勢で寝ていたのか、頬の毛が片方上がり、顔の形が変形して見える。 「マックスさん、寝癖付いてるよ」と抱き上げて頭をひと撫ですると、大あくびが返ってきた。まだ寝足りないようだ。 シャワーで汗と炭火の匂いを流して、社用PCを片手にリビングのソファにどかりと腰を下ろし、カフェテーブルに足を投げ出す。 「さて」と気合を入れ、ラップトップの名の通り両足の上にPCを広げて、共有サーバーにアクセスする。 泉のソースコードをテキストエディタで呼び出し、まずは全体のバランスを見ておこうとゆっくり画面を下方へスクロールし始めた時—— 音川の目の前に、まるでソースコードの文字列が浮き上がってくるような奇妙な錯覚が現れた。 訝りながら、速度を落としてスクロールを続けると、やがて英数字たちは文字の渦を作り、次第にゆっくりと規則正しく配置され—— 一つの美しい、塔のような建造物を構成していく—— そんなわけは、ない。これは幻影に他ならない。 しかし。 音川は、これと似た感覚を持ったことがあった。 もっとも近い記憶では、ポーランドの祖父母を訪れた時だ。クラーカウの旧市街にある広場で、路上演奏のバイオリン奏者周辺に、木の葉のように光の粒が舞い始めたのだ。 それは徐々に高さを出して、黄金の塔となり、彼を包み込むように柔らかく上空へと伸びていった。 立ち竦む音川に気付いた奏者は手を止めた。 「リクエストがあるかい?」 「いや……あまりに音色が美しいから」 バイオリニストは満足気に頷いた。 「ありがとう。これは母が好きだった曲で、今日は彼女の命日なんだ。僕は腕が動く限り、この日はここで弾くことにしている」 「良い時に居合わせた」 「きっとまたどこかで」 それきり帰省とタイミングが合わずに会えず仕舞いだ。あれはいつだったか…… なぜか、泉に聞かせてやりたいと思った。 完全な結果と、それを形作る技術と想いが調和した時にのみ、現れる幻影。 ソファにどっと背を預け、天井を仰いだ。 なんということだろう。 彼は、『本物』だ。 怒涛のごとく押し寄せる喜びで、身体がぶるりと震える。 泉は、一体どういった想いを持ってこのコーディングに取り掛かったのだろう。ここまでの結果を成し遂げるには頭脳と感情の調和を無くしてはあり得ない。 次第に音川の顔には笑みが浮かび、終いには声を出して笑っていた。 この美しいソースコードに比べれば、自分のはただの整列した機械語でしかない。 PCをコーヒーテーブルにそっと置き、携帯を手に取る。 普段なら仕事の連絡を就業後にすることは避けるが、今はどうでもよかった。 交換したばかりの連絡先を表示し、通話ボタンを押した。 2コール目で『音川さん?』と柔らかい声がスピーカーから聞こえてくる。 「うん、遅い時間に悪いね」 「あ、もしかして、僕の……」 不安気な泉の声色をなだめるかのように、音川はゆっくりと言う。 実際は、自分の興奮を抑えるためだが。 「泉くん。俺ね、こんなに美しいコードを見たのは初めてだよ」 「あ、ありがとうございます……」 「感動した。君は完璧だ。すぐに伝えたかっただけだから」 それじゃ、と通話を終えようとした時、「音川さん!」と泉が呼び止めた。 「ん?」 「あの、僕、見込みありますか」 「もちろん。俺なんてすぐに越せるほどね」 「今の案件が終わった後も、音川さんの仕事に関わってもいいですか」 「もちろんだよ。俺から頼みたいくらいだ。そうだ、泉くんさ、会社には関係ないんだけど……」と音川は一呼吸置いた。「俺のパートナーになってほしい」 「えっ!?ほ、本当に?あ、は、はい!あの、僕、入社した時からずっと……」 「詳しくは月曜にでも話すよ。会社とは別で開発しているアプリがあるんだ」 「え?あの、それって……?」 「副業になるけど、うちは兼業OKだから」 「……なんだ、そういうことですか」 「うん。月曜に話すから、その後で考えてみてよ」 「はい」 「じゃ、おやすみ」 「おやすみなさい」 通話が切れた直後に泉はスマホを投げ出し、ベッドに飛び込んで突っ伏した。 心臓が、体を突き破って飛び出しそうなほど激しく動悸している。 危うく誤解してしまうところだったが—— あの音川が部下に私的な感情を持つことなんてないことは周知の事実で、もう何度も、そう自分に言い聞かせている—— しかし、涙が滲むほど嬉しい。 独学でプログラミングを続けてきたのは、他のデザイナー達とは違うアプローチをし続ければ、いつか音川に気付いてもらえると信じていたからだ。 音川がくれた言葉は、紛れもなく讃辞だ。入社以来、憧れ続けているエンジニアが、『完璧だ』と称賛の言葉をくれた。 この喜びが与えられるのなら、生涯を彼のためだけにデザインをし、コードを書きたい。他には何も望まなくていい。 低くゆっくりと囁かれた音川の声が、熱く耳に残る。
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