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第8話 透くんの災難

土曜日のコルカタは曇りで、天気予報によると今日の最高気温は33℃。 高屋は普段より遅く起きて、部屋に朝食を運んでもらった。トレイに載せられている使い込まれた朝食用の銀食器が気に入って、少年のような年齢のボーイにそれを伝える。少し誇らしげにはにかむ様子が可愛らしい。 朝食を終えると速水の部屋に内線を掛けて、支度ができたと伝えた。 今日は、ホテルのシェフが市場に連れて行ってくれる予定だ。 ロビーに降りてきた速水に、「助かるよ」と感謝する。 「本屋にも行きたいし、それに俺こういうの楽しめるタイプなんだよね」 速水自ら名乗り出ての参加は一応先輩社員としての責任感からだったが、面白がっていることは確かだった。 料理長は10時の待ち合わせにやや遅れてやってきた。 高屋の隣に速水がいるのを認めるなり、「君も行くのかい?大歓迎だよ」と満面の笑みを作って見せ、「アヴィットだ。よろしく」と握手を求めた。 「ハヤミ。お邪魔じゃなければいいが」と握手を返しながらジャブを打ってみると、「人数が多い方が楽しいからね!さあ、行こう」と笑顔のままで返された。 分かりやすく邪険にしてくれれば、まだやりようがあるが……。 これは手強いぞと速水は腹を括って、用意されていた車に高屋と乗り込んだ。 アヴィットはハンドルを握り、時々後部座席にいる高屋たちを振り返りながら、軽く自己紹介を始めた。 イギリス出身のインド系で、両親と兄弟は皆ロンドンに居ること。3〜4年間隔で各地のホテルへ異動があること。ペラペラと淀みない様子から、言い慣れているようにも聞こえた。 「東京にもホテルがあるよ」 「へえ、どの辺り?」 「忘れてしまった。一度だけ視察に行ったきりでね。それにしても、日本の街はゴミがなくて驚いたよ。インドはともかく、ロンドンとも比べ物にならない。それにインフラも完璧で、何もかもが正常に稼働していて素晴らしいと思ったね。ほら、この先に見えている大きな橋があるよね。日本の企業によって建設された。他にも高速道路に地下鉄に、日本の技術がなければインドのインフラは成り行かない。東京に追いつくにはあと何十年もかかるだろうけれど」 「東京に転勤したいと思う?」高屋が尋ねる。 料理長はバックミラー越しに高屋と視線を合わせて、「君がいるなら」とウィンクしてみせた。 甘いマスクという表現は久しく聞かないが、彫りの深い顔立ちで、長く濃い睫毛に覆われたくっきりした二重の瞳はこの表現に合致するだろう。 「はは、冗談上手いね。でもおれ、東京じゃないんだよね」 「どこに住んでるの?」 「それは個人情報なので」 「厳しいなあ。ま、そのうち教えてよ。まだこっちにいるんでしょ」 「あと1週間くらいかな」 「ベストを尽くすよ」 「すげぇ口説かれてんじゃん」 シェフとのやりとりを聞いていた速水が、隣に座る高屋に向いて日本語で呆れたように言い放った。イギリス英語だから聞き取れないことも多いが、それでも口説かれていると分かる。 「からかってるだけじゃないの?」 「俺の洞察によれば、そういう手段だね。例えばキツく拒否されたとしても、からかってるだけだって笑い飛ばして、反省もせずに居直ることができる」 「そう言われると、ずいぶんたちが悪い……」 「俺が来て正解だった。車に乗せられて、どこに連れて行かれるか分かったもんじゃねえ。高屋さん、油断しないように」 速水が忠告を終えてすぐに、車は路肩に停められた。 「この街で一番賑わうのがこのサタデーマーケットだ」 アヴィットは、巨大なガレージのような建物の前で、両手を広げてみせた。「間違いなく値段をふっかけてくるから、欲しい物があれば言ってくれ。自分で値段交渉をしないほうがいいよ」 日本人2人はそれぞれ頷いて、建物内へ入った。 建物と言っても、屋根を支える柱の間に布や板を貼っているだけで、かろうじて雨は逃れられる程度だ。 強烈なスパイスの香りが充満した通路を歩きながら、アヴィットが「これはチャパティを焼くもの」「これは祭壇に飾る花」など細かく紹介する。土器のようなめずらしい調理器具が並んだ店を通りかかり、これは料理好きなら見ているだけで楽しいだろうな、と高屋は思い、はたと立ち止まる。 強烈に、ヒューゴに会いたくなった。 寂しさが発作となり込み上げてくる。これまでどんな出張でも、留学でも、ホームシックなど微塵も感じたことがないのに。 雑音の中で1人だけ筒に閉じ込められたようだ。 連絡が途切れたことを怒っているだろうか……。 ……いや、きっと心配してくれている。 思いやりの塊みたいな男のことだから。 「例の食材はどこで買える?」 高屋はしびれを切らしたように言った。 この焦燥感は耐え難い。できる限り早くホテルに戻り、PCを立ち上げて仕事に集中したい。仕事をしている時だけは、考えずに済むから。 「もう少しで贔屓の店に辿り着く。この後予定があるのかい?」 「ハヤミと本屋に行くつもりだから」 「それは都合がいい!ショッピングモールに街で一番大きな本屋がある。そこに友達がやっているレストランがあってね、今日はランチに招待するつもりだったんだ」 「悪いよ、そこまでしてもらったら。購入本は決まっているし、5分とかからない」 「遠慮は日本人の悪い癖だ。そうとなれば買い物を済ませて移動だ」 アヴィットは喜々とした様子で目的の店まで歩みを早めた。 その背後で高屋は諦めのため息を小さくついた。せっかく連れて来てもらっているのだから、こちらの都合を押し付けるのはよくないだろうと自分に言い聞かせる。 確かにアヴィットはその店の常連らしく、店主と親しげに食材をあれこれ吟味している。高屋が探していたのは単に「バンブーシュート」と呼ばれていた。この市場ではここでしか買えない食材で、極細に千切りにされた筍を、完全に水分が飛ぶまで天日干しをしてあるそうだ。 店主が試食にと1切れ差し出してくれる。噛むと、燻製されたような不思議な風味が鼻腔に広がった。 「日本でも筍はよく食べるけど、乾物は聞いたことがない」そう高屋が言うと、店主が、「インドでも東北地方でよく使う」と癖は強いが聞き取り易い英語で答えた。 「両親がその辺りの出身なんだ」とアヴィットが高屋に向けて言った。 インドの東北地方といえばミャンマーと中国に接している。通りで、ホテルのルームサービスのメニューが半分中華料理なはずだ。 それと彼の容姿が中央アジア人寄りなのも納得が行く。日本人としても通用しなくはないが、だとしたら、相当な男前になるが。 市場を後にし、ショッピングモールへ向かう。車中に充満するスパイスの匂いと熱気がたまらず、速水と高屋は窓を全開にした。カーエアコンは付いているが、走れども冷風は出てこない——エアコンの効きが悪い車。 高屋は、胸のあたりが締め付けられそうになり、思わずTシャツの首元を掴んだ。 またしても、焦燥感でどうしようもなくなってしまう。 アヴィットには悪いが、ランチは断って早めにホテルに帰ろう。まだいくらだってやらなければならない仕事がある。 寂しさで押しつぶされる前に。 本屋は想像以上に広く、3人はそれぞれ別行動となった。 高屋は一人で見るともなしに書架の間をうろうろと歩いていると、いつの間にかカクテルや酒に関する書籍の前に差し掛かっていた。インド風カクテルの本でもあればと手近なものを1冊手にとってパラパラと見ていると、背後からアヴィットが声を掛けてきた。 「酒が好きなのかい?」 「あ、ああ。そうだね」 「ホテルのバーには行った?」 「飲む気がしなくて、まだ」 「これから君たちを連れて行く店はイタリアンだよ。いいワインがあるはず」 「それなんだけど、実は、この後も仕事なんだ」 高屋が昼食の誘いを丁寧に断ると、仕事なら仕方がないとアヴィットは理解を示してくれた。 「その代わり、お茶だけでも」と交換条件のように本屋の向かいにあるカフェを顎で指す。そこまでは断れず、結局カフェに2人で入った。速水が本屋から出てくればすぐに見える場所に席を見つける。 2人がけの丸テーブルに向かい合って座り、紅茶をすする。 「美味しい紅茶は輸出されるから、インドでは味をごまかすためにマサラチャイで飲むしかない」とアヴィットが説明するが、真偽は不明だ。 「仕事、忙しいんだね」 「早く終わらせて日本に帰りたいからな」 「帰って欲しくないな」 「……冗談だろ?」 「それは酷い。これでも本気なんだよ。日本に恋人がいるのか?」 ノー、とつい答えてから高屋はしまったと思った。 嘘も方便と言うじゃないか。 高屋の答えに自信を持ったのか、アヴィットは畳み掛けるように話し始めた。 「タカヤさえ受け入れてくれるのなら、東京のホテルに異動願いを出す。家族がいるロンドンに戻るつもりだったけれど、君を見た瞬間に、そんな考えはどこかへ行ってしまった。まだお互いのことを知らないのは分かっている。でも、すぐに分かり合える」 「おれ、今は東京に住んでいないよ。それに……」 「こうして触れても、魅力を感じない?」 アヴィットは高屋を見つめ、テーブルに置かれている高屋の手に、そっと自分のを重ねた。 「手、どかしてくれる?」 高屋は視線を据えたままで、静かに、きっぱりと拒否の言葉を投げた。 「ごめん」アヴィットは突かれたように急いで手を引っ込め、悲痛な面持ちで黙り込んだ。 先ほどの言葉はまるで信じていないが、好意に嘘は無いのかもしれない。 高屋は大きく息を吐いた。 「確かに恋人は居ない。でも……今すぐに抱きしめて欲しい人がいる。おれに触っていいのは彼だけだ。悪いけど、君じゃないんだ」 彼、と高屋が言った瞬間にアヴィットが顔を上げて「そうだと思った」とやや勝ち誇ったように反応した。 「忘れさせてあげる」 「無理だね。おれの体は、彼がおれのためだけに作る食事で出来ているから」 「そいつも料理人なのか?」 「正確には、酒も料理も最高に旨いバーのオーナーだ。 アヴィット、君の仕事を侮辱するつもりは一切ないから誤解しないでほしいんだけど、おれはもう、彼が作るものより美味しいと思える料理に出会うことは無い。心からそれが分かってるんだ」 「でも、恋人ではないんだろ?」 「そんなことはおれたちには重要じゃない。もし、今ここに彼がいたなら、君の目の前でおれを抱きしめるか、君を蹴り飛ばすだろう。それか、その両方かもね」 「分かったよ」 アヴィットは両手を挙げて降参のジェスチャーを見せると、「車で待ってる」と席を立ち足早にカフェを後にした。 帰りの車中でアヴィットは不機嫌さや落ち込みを微塵も感じさせなかった。図太いのか、意地か。それとも高屋に対する好意は軽いもので、拒否されたことなど微塵も気になっていないのか。 相手の心の状態が把握し難いのは、人種や言葉の違いではないと高屋は考える。相性のようなものだ。英語でケミストリーとは良く言ったもので、お互いから何かしらの目に見えない成分が発出され、結合するかしないかだ。 ホテルへ帰り着くと高屋と速水は礼儀正しくアヴィットに案内の礼を言い、ロビーで解散した。 自室に戻るやいなやPCを開いて仕事を開始する。他の事は何も考えたくなかった。 夕食はすっかり行きつけになった近くの食堂へ速水と出向いた。 心配して同行してくれたお礼にご馳走し、カフェでの顛末を詳しく話す。 「なるほどね。今夜、俺と部屋交換な」 それは申し出というよりもほぼ命令で、高屋は驚いてスプーンを置いた。速水は気にもとめず続ける。 「あの部屋は危ない。俺の携帯が盗られていないってことは、部屋のセキュリティが脆弱な可能性がある。23時に交換でどうよ?」 「ちゃんと断ったんだ。アヴィットは理解してくれたはずで……」 「まあ俺の懸念で済めばそれでいいじゃん。アイツからは何か嫌な感じがするんだよ。他の従業員へ横柄な態度で接しているところをちょいちょい見かけるし、俺たちアジア人を見下しているような感じがする。まあインドもイギリスも階級社会というのもあるんだろうが」 「おれはヤツの考えが全然分からないよ。なんていうか、感情が掴めない感じ」 「それでいいんじゃない?興味が持てないんでしょ」 「その通りです。じゃあ、23時までに寝る準備しておくね。仕事に関係のないことでも迷惑をかけて、ごめん」 「いいって。こういう珍しい体験はしておきたいし、それに……」速水にしては珍しく言い淀んだ。 速水の脳裏に、公園横のカフェバーのオーナーが思い浮かぶ。 何度か高屋と2人で飲みに行っているが、いつも、北欧神話から出てきたような眩しい金髪をかき上げ、愛おしそうに高屋を見つめる。全身から高屋への好意がダダ漏れていることを気にもとめず。 それを平気な顔をして受け流し酔っ払っている高屋を見るたびに呆れてしまう。まあそれを肴に飲むのが面白いのだが。 もしも、この出張中に高屋に何かあれば、あの男にぶん殴られるだけじゃ済まないだろう。高身長から繰り出されるパンチは相当やばそうだ。いや、あのタイプは蹴りだな、と今度は長い脚で回し蹴りする姿を想像し……思い至る。 高屋が、普段からヒューゴのような男の情熱に晒されているのだったら、その辺の人間が口説いたくらいで響くわけがない。 まるで、高屋に雑菌が入らないよう蜜漬けにしているかのようだ……速水は、ハチミツのビンにとっぷりと漬けられている高屋を想像してしまい、笑いを噛み殺す。出せ出せと暴れていそうで、ちょっとかわいい。 いかん、何が何でも守らなければ。 「なんでもねっす」 ホテルに戻り、高屋は簡単に部屋を片付けてからシャワーを浴びた。髪を拭いていると、ノックの音が聞こえた気がして手を止める。 コンコン 今度ははっきり聞こえた。時計を見るとまだ22時で、速水にしては早すぎる。 「誰?」と声をかけると、アヴィットだと名乗る。 「君が欲しがっていたレシピを持ってきた。開けてくれないか?」 高屋は咄嗟に自分の体を見下ろし、衣服を着ていることを確認した。それでも、ドアを開けるつもりはない。 備え付けの電話の受話器を上げ、内線で、速水の部屋の番号を押した。すぐに呼び出し音が止まり、速水が出たと分かる。 「悪いけど、廊下に置くか、フロントに預けて欲しい」高屋は少しだけ声を張りあげ、電話機のスピーカーボタンを押す。 「少しドアを開けてくれたら、隙間から渡すよ」 「もう寝るところなんだ」 「頼むよ。チャンスをくれ」 「……断っただろ」 「一度でいいから」 「なにが?」 「せめてキスだけ」 「するわけねーだろ。諦めろ」 その時、ドア越しに足音が聞こえた。 「こんばんはアヴィット。声が聞こえたから気になって。タカヤに用?」 「あ、ああ。でももう寝てるみたいだ。また出直すよ」 「そうしてやって。明日も仕事で早いんだよね。じゃあ、おやすみ」 アヴィットが去るのを待って、速水は「大丈夫?」とドア越しに高屋を気遣った。急ぎドアを開けて速水を部屋に入れる。 「内線を掛けてきたのは良い手だったな。さすが、頭が廻る」 「レシピを持ってきたって言ってたけど」 「あるわけねーよ。手ぶらだったぞ」 「あー……」 「どうする?これじゃあ、部屋を交換しても安心できないな」 「そうだなあ。速水くんさえよければ、部屋にベッドを追加してもらって……」 「パジャマパーティーだな」 速水のおどけた口調が頼もしかった。内心に安堵が広がる。 夜半の急な頼みでフロント係は渋っていたが、多めのチップを渡すと180度態度を変えて、ベッドメイクまで丁寧に行ってくれた。 用心に越したことはないとチェーンと南京錠も通常通りにかけておく。 その夜は速水のおかげで、ここ数週間のうちでは最もリラックスすることができた。 しかしそれでも、まだ不安は残る。 ヒューゴの部屋に行きたかった。 彼がいるだけで心からくつろげ、安眠できる。 いつでも守られていたんだな、と今更ながら実感する。 ———帰国したら真っ先に、あいつに伝えなきゃいけない。 遅すぎなければいいが。 まどろみの中に、金色に輝く人影がちらりと覗く。 ヒューゴ、と呼ぶとその光の塊はそばに近付いてくるのに、姿形ははっきりとしない。手を伸ばしても触れられない。 会いたい、と言葉に出すと、胸がじくりと痛んだ。 翌日は日曜日だったが、ホテルのネット環境が悪く、高屋は出社した。 ついでに5日後の金曜に成田着となる旅程で航空券を購入し、念のため、前日にエアポートホテルへ移動する段取りを立てた。 シフト勤務の数名と雑談をしたり、軽く仕事を片付けてから夕方前にはホテルへ戻り、ロビーのカフェで一呼吸つく。 あと丸3日でチェックアウトだ。 不便なこともあったが、建物は荘厳で美しい。恐らくもう来る機会はないだろうから、速水のスマートフォンで、いくつか写真を撮っておいてもらわなければ。 歯が溶けそうなほど甘い菓子をコーヒーで流し込んでいると、コック服を着たアヴィットが顔を出した。 「昨夜は怖がらせて悪かった」と背の高い帽子を取り、謝罪する。 「もう部屋に来ないでくれ。それさえ約束してくれれば、許すよ」 「約束する。酔って歯止めが効かなかった」 「酒のせいにするのは好きじゃないね」 高屋の言葉に、アヴィットはうなだれた。 「また、ここに来ることがあるかい?」 「今回は異例の出張なんだ。でももし、またトラブルがあれば、次は別の担当者が来るだろう」 高屋の脳裏には、音川と泉がバッチリ浮かんでいた。一度でも例を作ってしまった以上、絶対に無いとは言い切れないのがインドとの仕事の恐ろしいところだ。 「俺は予定通りロンドンに帰って——タカヤに似た日本人を探すとするよ」 「幸運を祈る」それなら東京で探した方が早いんじゃないかと思ったが、口には出さないでおいた。 アヴィットとは、このロビーでの別れが最後となった。 毎朝、声を掛けて来ていたのはわざわざのことだったのか、それとも休暇でも取って不在なのか。 いずれにせよ高屋にはどうでもいいことだった。

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