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第9話 ジレンマ

音川が通うパーソナルジムは、自宅最寄り駅近くの単身者向けワンルームマンションに店舗を構えている。住居としての使用は無く、中央に本格的なトレーニングマシンがどんと置かれているだけの無機質な空間だ。建物自体が駅近という立地のせいか、税理士事務所やネイルサロンなど事業者ばかりで、居住者は極少数らしい。 数年前に腰痛のリハビリ目的で最初に通い始めたのは、全国に店舗がある大型のフィットネスクラブだった。 重症で1ヶ月ほどまともに動くこともできなかったため、まずはスイミングから初め、足腰がまともに動くようになってからマンツーマンのトレーニングコースに乗り換えた。 元来の完璧主義で音川はやると決めたことは徹底的にやる。食事指導も加えて、高負荷のトレーニングを毎日こなしていると、まるで水を得た魚のようにみるみると筋肉が育ち初めた。すぐに盛り上がった上腕二頭筋によりTシャツの袖が窮屈になり、そこから伸びる両腕は薄い脂肪が更に削られて力強い血管が浮き出している。 背筋は二列の丘のように盛り上がりまっすぐに伸び、細くくびれた腰を十分に補強することができ、それだけで腰痛対策は完了と言えたが、音川自身が自分のカラダの変化に面白みを感じていた。 ちょうどその頃、担当トレーナーが独立してパーソナルジムを開業するというのでそのまま引っ張られるかたちで契約した。 純粋に筋トレだけをする空間でプールもシャワーも無いが、『飢えたドラキュラのよう』と言われるほど青白く細かった音川を、現在の筋骨隆々な男に作り変えた信頼は大きかった。もちろん、腰痛は再発していない。 それに、完全予約制のパーソナルジムという逃げられないシステムが、音川に合っていた。ドタキャンなど絶対にできない性分で、しかもキャンセルの連絡を入れるのが面倒なのだ。そんな性格だから、仕事でも私用でもまず横槍が入る可能性が低い平日の朝一番を定常としている。 ジムの後はそのままモーニングを食べに行く習慣で、無論シャワーも浴びていなければ着替えもしていない。 これまで一度も考えたことがなかったそれに気が付いたのは、今まさに喫茶のドアを開けようとしている瞬間だった。 しかし躊躇したのは一瞬だけで、音川はそのままドアを引いた。 一度帰ってシャワーを浴びるなど面倒極まりない。泉が今朝ここに来る確証はないし、来たとしても近付く訳では無い。万が一多少汗臭かろうが、コーヒーとトーストの香りで紛れると踏んだ。 「いらっしゃい!」喫茶のママの明るい声に、おはよう、と笑顔を返す。 本棚の上に置かれている新聞を手に取りながら、奥にテーブル席が空いているのを見つけた。 「あら?今朝はカウンターじゃないの?」 「後で連れがくるかもしれないから」 「まあ珍しい」 ドアに取り付けられたベルが鳴り、ママが反射的に振り向く。 「あ、彼だよ」 「ジムのお仲間?」 「いや、会社の」 すぐに音川を見つけて寄ってきた泉が「おはようございます」と喫茶のママに向かって挨拶すると、「あっらー!」と彼女はムスリムの神を呼んだかのようにハスキーな高い声を出し、「かわいらしい!モーニングでいいわね!」とほとんどスキップするような軽やかさでカウンターへ戻っていった。 それを横目に音川は「おはよ」と低く囁いた。 本人を目の前にして『かわいい』と言える無神経さが少し羨ましい。 音川も最初の頃はママから何度もきれいな顔だと称賛されたが……言われなくなって久しい。きっと、彼女は細面の20代が好みなのだろう。 「おはようございます。あの、」 「ん?」 「僕、来てよかったですか」 「もちろんだよ」 泉は向かいの席を勧められながら、足を組んでゆったりとソファに座っている音川をまじまじと見た。 背後には年季の入った壁紙に飾り棚が作られ、アンティークらしい木製のコーヒーミルや置物がいくつも並べられている。 音川の佇まいは、まるでそこに飾られている1つの胸像のようだった。生きている人間だとわかるとハッとするほどに、美の黄金比を持った造形。 音川はトレーニング時にコンプレッションウェアを好んで着る。着圧により筋肉の無駄な動きと力の分散が制御されることで、関節の負担が減り運動機能の向上が期待されるからだ。ウェアは皮膚のようにピッタリとフィットし、音川の鍛え上げられた身体を全て浮き上がらせている。 泉は、あまり見すぎても失礼だからと注意深く目をそらした。しかし、すぐに目線はそちらを向いてしまう。先だっての出社で見た印象よりか幾分細く見えて、生々しい。 どうにも我慢できず、泉は音川の二の腕に手を伸ばした。 触れた瞬間、まるで、その無頓着な美貌で激しく殴りつけられたかのような衝撃が身体に走った。 シンメトリーな顔にまとわりつく黒くしなやかな髪の毛束。首から鎖骨へ、そのまま肩に続いてのしなやかな筋肉の陰影。すべての位置と尺と太さのバランスが素晴らしい。 不意をつかれた音川が「まだ汗が」と少し慌てたように言うが、泉は気に留めず、今度は指先を滑らせた。まるで貴重な彫刻にふれるかのように、そっと。 「すみません、つい」泉は激しい喉の乾きを感じて着席するやいなや一気に水を飲んだ。 音川は、泉が触れた箇所に視線を落としてウェアを確認した。ありえないことだが、裂かれたかのような強い感覚があったからだ。 肩や腕に触れられることは多々ある。トレーナーはもちろん、この喫茶のママや行きつけの焼き鳥屋の常連客だって遠慮なく叩いてくる。それらを好意的に受け入れているが—— 泉の触れ方は全く違った。 彼の指が滑った上腕筋の辺りから、くすぐったいような感覚が徐々に背中や足腰まで広がり——その感覚は知っているような気がするが、決して気が付いてはいけない危険な—— 時間とともに消えていくことが正しいのに、名残惜しい。 「店、すぐに見つかった?」 住所を送ってあるから明白だったが、音川は芽生えてしまった神経の感覚を消すために、分かりきったことを尋ねた。 最近、何かをごまかすためにこのような意味のない発言をする傾向があると知りつつある。それに気付いているのかどうか、泉からは「はい」と素直に返事があった。 飲み屋が集中し雑多な南口に比べると、この喫茶がある北口周辺は昨今人気なようで、空テナントが出ればすぐに小洒落た店に変化する。焼き菓子専門店、輸入雑貨屋、絵本専門の本屋、骨董品屋、ワインバー、フランス料理屋など。どこも古い作りをうまく活かした、個性的な店が多い。 どの店も泉に似合いそうだと音川は眼の前に座る後輩の出で立ちをまじまじと見て思った。 泉の服装は緩いカジュアルながら清潔感があり、どこがどうだからと述べられないがパッと見てお洒落だなと思わせる。それは会社でも同じで、デザイナー陣と開発陣では明らかに服装の感度に大きな差があるのは否定しない。 音川は特段洒落ている訳では無く、服装なんてTPOに合う着心地の良いものを決めておき、それを繰り返せばいいという考えだ。出社の日など、シルク生地のドレスシャツと暗色の細身のスラックスという組み合わせを一年中使用する。きちんとして見えるだけでなく季節を問わないシルクは生地として合理的で、盛夏には胸元のボタンを数個開けて袖を捲くればよい。しかし無頓着なそれが非常に似合うのだから、恵まれた体型というのは羨ましいとよく言われる。 音川は188cmで胸周りが広く、下半身は腰の位置が高い。北ヨーロッパでは平均をやや上回る程度の体型なのでどの店へ入ってもサイズで困ることはないが日本ではそうはいかない。ようは座高が低くて足が長いため、日本サイズではトップスがたぶつきパンツは丈が足りないのだ。そのため私服も社用も、まれに必要となるスーツも、すべてポーランドへの帰省時にまとめて調達している 特に利用するのは、母の実家の近くのセレクトショップだった。 教会からマーケット広場に続く500mほどのショッピングストリートにはオープンカフェやレストランや衣料品店がひしめいている。 中世から残る石畳の緩い坂を広場を目指して上がり、左手にあるジェラートの美味いイタリアンカフェで一服し、そこから少し登ると右手に目当てのセレクトショップがあるから、泉に服を選んでもらって—— 音川は軽く頭を左右に振った。こんなのは、馬鹿げた妄想だ。 いや、いま目の前に泉がいて、ここは喫茶店だから半分現実と言えなくもないか—— 周りには静かに新聞や雑誌を読む年配の常連客だけで、無駄が一切ない。そんな店でも泉は特別に浮くわけでもなく馴染んでいた。 「毎朝、ここなんですか?」 「ああ、うん」突然声を掛けられて半分ポーランドに飛んでいた意識は完全に引き戻された。 間もなくモーニングがテーブルに並ぶと、泉は目を輝かせた。 「音川さんだけ卵が2つある」目ざとく気が付いて指摘する。音川はこの店で提供される通常のモーニングにゆで卵をもう1個追加している。3日連続で注文したら、4日目からは何も言わずとも2個出てくるようになり、追加料金が取られなくなった。 泉は、「うまそ……」と早速バターが滲んでいるトーストに齧り付いた。よほど腹が減っていたらしい。 サクサクとその小気味良い音を聞きながら音川が尋ねる。 「朝食はいつもどうしてんの?」 「実家なんですが両親も働いているし、基本的に朝昼は各自バラバラで。あるものを適当に食べるかコンビニかなあ」 「夕食は?」音川はコーヒーカップを口元に寄せて、香りを吸い込んだ。ここのコーヒーは深煎りだがスッキリしていて、匂いだけで頭をしゃっきりとさせる。 「母が作ってくれますね。でも、そろそろ貯金もできてきたので、今年中には家を出るつもりだから僕も料理を練習中で。このトースト美味しいですね。追加しようかな」 入社2年目のデザイナーがどれくらい薄給かは想像に難くない。 音川は、あのソースコードを見た時、部署が違えとはいえ泉の能力に気付かずにいたことを心底悔やんだ。彼の才能を丸々1年無駄にしただけでなく、しなくても良い苦労をさせたのだ。もっと早くに自分の元へ来ていたら—— 音川は泉を自分の後継者として育て上げるつもりだった。本人が承諾すればだが、なかなか良い技術手当が付くから一人暮らしはすぐにでも始められるだろう。 ただ、親元ならば最低限の暮らしは確保できる。生活リズムが保ち易いし、体調が悪い場合は看病してくれる人がいる。 10年程遡れば、音川にも開発に没頭するあまり、寝食を忘れることが何度もあった。 睡眠不足が染み付いた青白い顔色をし、腹と背がくっつきそうなほど痩せていて、不健康そのものだったが、それも三十路前までの話だ。 今は、事も体が資本だと身に沁みて知っている。大半の人がそうであるように、一度痛い目に遭わなければ実感できないのが残念だが。 ——まるで保護者の気分だな、と音川は自分自身に呆れた。そりゃ8つも下の新人ともなれば庇護欲が湧くのは仕方がないとしても、そもそも、泉の生活に介入できる立場ではない。泉の地元がここなら、家族も友人も居る。恋人もいるだろう。だからどんなに音川が心配したところで無用の長物だ。せいぜい職場で——今は在宅だからそれも無理か。 音川は、喫茶のママを目配せで呼び止めトーストを追加注文した。 「さすがに25にもなって実家暮らしはどうかなって。一人暮らしに向けて、今は親に家事を教わっています」 「これから家探しなんだったら、フルリモートだし、どこか遠方に住むのもいいんじゃねぇの。俺は逆に実家に帰るだろうな。猫のためにも広い家の方がいいだろうしね」 「それは……ちょっと困ります」 「そうか?」 「はい。僕は年10回であっても音川さんに会いたいですし」 「……もしこれから一人暮らしするならっていう仮定の話なだけで」 「分かっていますよ。音川さんは、家事は自分でやってるんですか?」 「そりゃ一人暮らしだからね。つまんねー打ち合わせの時はずっと粘着クリーナーかけてる。猫が長毛種で抜け毛がすごいんだよ」 「マックスって名前でしたよね。男の子?」 「うん」 「画像見せてくださいよ」 「そういえば猫好きだって言ってたな」 「うちにも3匹居ます」 「え、そっちも見せてよ」 「じゃあ食べ終わったらお互いのネコチャンを見せ合いましょう。ところで音川さん、そのゆで卵の食べ方……」 音川はスプーンの背でゆで卵の殻を細かく叩いて半分だけ剥くと、スプーンで器用にすくって口に入れていた。 「やってみろよ。食べやすいから」 「いや、僕もそうなんですよ」 泉の発言に音川はスプーンを持った手を止めた。 「びっくりしました。同じ食べ方の人に初めて会うから」 「日本では珍しい」 「かぶりつくのがちょっと苦手で……高校の時、修学旅行の朝食で自分の食べ方が人と違うって知ったんです。変だって言われて、それ以来人前じゃ食べなくなりました。だから、さっきまではこの卵も音川さんにあげようと思ってました」 「くれるなら貰うけど」 「僕の話、聞いてます?」 「聞いてるよ。食べ方なんて、周りを不快にさせなきゃ何でもいいだろ。論理的な理由も無しに、ただ大勢多数と違うというだけで、人を非難するのは嫌いだね」 ふふ、と泉は小さく微笑んだ。 「音川さんといると自由な気持ちになる」 「そりゃなにより」 「本当ですよ。仕事もやりやすい環境にしてくれる。最初に、何やっても怒らないって言ってくれたじゃないですか。僕、あれが嬉しくて」 「俺には威圧感があるらしいから、先に言っておいたんだよ」 「こんなに優しいのに。例えば金曜の検証で、僕のミスが見つかっていたら?」 「怒るわけねぇよ。ミスから学ぶことが重要だからね、いい機会だと逆に喜ぶよ」 泉はトレイのものをすべて食べ終わり、追加のトーストが届いたと同時にアイスコーヒーのお代わりを注文した。ついでに音川も2杯目に付き合う。 「そうだ。副業の話」 音川は2杯目のアイスコーヒーにガムシロップを3つ入れてかきまぜながら切り出した。 信じられないものを見るような目つきの泉に、「1杯目はブラックだったから」と言い訳する。 「インドの件が片付いたら具体的に話すけど、知り合いに頼まれて個人的なアプリを作っていてね、とりあえず、泉が開発の副業に興味があるかどうかだけ知りたい」 泉は目を輝かせ、咥えていたストローを離すと急いで応えた。 「興味あります!あの、金曜に、パートナーって……」 ああ、と音川は後頭部に手をやり頭を掻いた。 「副業と言ってもそんなに収入にはならなくて、ほとんど趣味なんだ。ただ、新しいことをやってる自負はある」 「他にも開発者がいるんですか?」 「いや、俺だけ」 一人での開発に不便はなかった。 しかし、泉がいれば—— 例えば自分が組んだシステムが100だとしたら、泉はそれを1000にする何か大きな付加価値を生みそうな予感がする。 入社2年目で、部署異動してきたばかりの若者だ。それを上司の自分が副業へと誘い込むなんて褒められたことではないのは分かっている。 とにかく泉の才能を専有したい。それしか頭に無かった。 「詳細なんてどうでもいい。僕、音川さんと一緒にやりたいです」 泉の弾んだ声に、音川は照れたようにはにかんだ。 「ずいぶん熱心に賛同してくれるんだね」 ハッと泉は我に返り、顔を伏せた。 ウイルス事件を起こした新人も、確か音川を——崇拝していた。 あの事件は音川に大きな傷を残している。若いエンジニアを犯罪者にしてしまうところだった、と泉に言った音川の悲痛すぎる表情は記憶に新しい。 自分が音川を慕えば慕うほど、きっと—— 『適度な距離』と泉は胸中で強く自分に言い聞かせた。

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