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第9話 ジレンマ
音川が契約しているパーソナルジムは、自宅最寄り駅近くのマンションの一室にある。
元々は一般的なジムに通っていたが、担当トレーナーが独立してパーソナルジムを開くことになったのをきっかけにそのまま引っ張られて契約した。
金額は少々上がるが、音川の腰痛を治し、飢えたドラキュラのようと言われていた不健康そのものだった身体を、現在の筋骨隆々な男に作り変えた信頼は大きかった。初対面のほとんどの男性が「なんかスポーツやってるんですか」と聞いてくる。
それに、パーソナルトレーナーという逃げられないシステムが、音川に合っていた。予約がある場合に無断キャンセルなど絶対にできない性分で、しかもキャンセルの連絡を入れることが面倒なのだ。
ジムの後はそのままモーニングを食べに行く習慣で、無論シャワーも浴びていなければ着替えもしていない。
これまで一度も考えたことがなかったそれに気が付いたのは、今まさに喫茶のドアを開けようとしている瞬間だった。
しかし躊躇したのは一瞬だけで、音川はそのままドアを引いた。
一度帰ってシャワーを浴びるなど面倒極まりない。泉がここに来る確証はないし、来たとしても近付く訳では無い。万が一多少汗臭かろうが、コーヒーとトーストの香りで紛れると踏んだ。
「いらっしゃい!」喫茶のママの明るい声に、おはよう、と笑顔を返す。
本棚の上に置かれている新聞を手に取りながら、奥にテーブル席が空いているのを見つけた。
「あら?今朝はカウンターじゃないの?」
「後で連れがくるかもしれないから」
「まあ珍しい」
ドアに取り付けられたベルが鳴り、ママが反射的に「いらっしゃいませ!」と振り向く。
「あ、彼だよ」
「ジムのお仲間?」
「いや、会社の」
すぐに音川を見つけて寄ってきた泉が「おはようございます」と喫茶のママに向かって挨拶すると、「あっらー!」と彼女はムスリムの神を呼んだかのようにハスキーな高い声を出し、「かわいらしい子じゃないのー。モーニング2丁ね!」とほとんどスキップするような軽やかさでカウンターへ戻っていった。
それを横目に音川は「おはよ」と低く囁いた。
本人を目の前にして『かわいい』と言える度胸と無神経さが少し羨ましい。
音川も最初の頃はママから何度もきれいな顔だと感心されたが……言われなくなって久しい。きっと、彼女は細面の20代が好みなのだろう。
「おはようございます。あの、」
「ん?」
「僕、来てよかったですか」
「もちろんだよ。座って」立ったままの泉にテーブルの向かいを勧める。
泉は、足を組んでゆったりとソファに座っている音川をまじまじと見た。
背後には年季の入った壁紙に飾り棚が作られ、アンティークらしい木製のコーヒーミルや置物がいくつも並べられている。
音川の佇まいは、まるでそこに飾られている1つの胸像のようだった。生きている人間だとわかるとハッとするほどに、美の黄金比を持った造形。
音川はトレーニング時にコンプレッションウェアを好んで着る。着圧により筋肉の無駄な動きと力の分散が制御されることで、関節の負担が減り運動機能の向上が期待されるからだ。ウェアは皮膚のようにピッタリと身体にフィットし、音川の鍛え上げられた身体を全て浮き上がらせている。
泉は、あまり見すぎても失礼だからと凝視しないように注意深く目をそらした。しかし、すぐに再び目線はそちらを向いてしまう。
先だっての出社で見た印象よりか細く見えて、生々しい。
どうにも我慢できず、泉は音川の二の腕に手を伸ばした。ギュッと押すと、硬く張りがあり、指が押し返される。
不意をつかれた音川が「まだ汗が」と少し慌てたように言うが、泉は気に留めず、指先を滑らせた。まるで貴重な彫刻にふれるかのように、そっと。
触れた瞬間まるで、その無頓着な美貌で激しく殴りつけられたかのようだった。
シンメトリーな顔にまとわりつく黒くしなやかな髪の毛束。首から鎖骨へ、そのまま肩に続いてのしなやかな筋肉の陰影。すべての位置と尺と太さのバランスが素晴らしい。
「すみません、つい」
喉の乾きが酷く、泉はようやく着席すると水を一気に飲んだ。
音川は、泉が触れた箇所に視線を落としてウェアを確認した。ありえないことだが、裂かれたかのような強い感覚があったからだ。
肩や腕に触れられることは多々ある。トレーナーはもちろん、この喫茶のママや常連客だって遠慮なく褒めながら叩いてくる。音川はそれらを好意的に受け入れているが—— 泉の触れ方は全く違った。
指が当たった上腕筋の辺りから、くすぐったいような感覚が徐々に背中や足腰まで広がり——
その感覚は知っているような気がするが、決して気が付いてはいけない危険な——
時間とともに消えていくことが正しいのに、なぜか名残惜しい。
「店、すぐに見つかった?」音川は繕うためにありきたりのないことを尋ねた。住所を送ってあるから迷うことはないのは明白だったが、泉から「はい」と律儀に返事があった。
飲み屋が集中している南口に比べると、この喫茶がある北口周辺には個人経営のこじんまりした店が多い。
特に北通り商店街という古くからある通りは昨今人気なようで、空いたテナントはすぐに小洒落た店に変化する。焼き菓子専門店、輸入雑貨屋、絵本専門の本屋、骨董品屋、ワインバー、フランス料理屋など。どこも古い作りをうまく活かした、個性的な店が多い。
どの店も小洒落ていて、泉に似合いそうだと音川は眼の前に座る後輩の出で立ちをまじまじと見て思った。泉の服装は緩いカジュアルながら清潔感があり、どこがどうだからと述べられないがパッと見て「おしゃれだな」と思わせる。それは泉だけでなく、社内でもデザイナー陣と開発陣では明らかに服装の感度に大きな差がある。
音川はこの街に来てすぐにモーニングを提供している喫茶店をいくつかハシゴし、最終的にこの店に落ち着いた。静かに新聞や雑誌を読む年配の常連客だけで、無駄が一切ない。そこが音川の感性に合った。
そんな店でも泉は特別に浮くわけでもなく、若い客がいるなという印象を与えるだけで馴染んでいた。
「毎朝、ここなんですか?」
「うん」
間もなくモーニングがテーブルに並ぶと、泉は目を輝かせた。
「音川さんだけ卵2つある」目ざとく気が付いて指摘する。音川はこの店で提供される通常のモーニングにゆで卵をもう1個追加している。3日連続で注文したら、4日目からは何も言わずともゆで卵が2個出てくるようになり、追加料金が取られなくなった。
「マッチョの特権」
泉は、「うまそ……」と音川の返事など聞いているのかいないのか、さっそく、バターが滲んでいるトーストに齧り付いた。よほど腹が減っていたらしい。
その小気味良い音を聞きながら音川が尋ねる。
「朝食はいつもどうしてるの?」
「あれば食べる。実家住みなんですが両親も働いていて、食事はバラバラですね」
「ふーん。地元なんだね」
「そろそろ貯金もできてきたので、今年中には家を出るつもり。このトースト美味しいですね。僕、追加しようかな」
入社2年目のデザイナーがどれくらい薄給かは想像に難くない。
音川は、あのソースコードを見て以降、部署が違えとはいえ、泉の能力に気付かずにいたことを心底悔やみ、このインドの案件が終わり次第すぐに、泉を自分の右腕として直属させると決めた。技術責任者の申し入れに反対する人間は社内に居ないから、これは決定事項のようなものだ。
彼の才能を丸々1年無駄にしただけでなく、しなくても良い苦労をさせたのだ。もっと早くに自分の元へ来ていたら。
泉が承諾すればの話ではあるが、音川とコンビを組むことでなかなか良い技術手当が付くはずだ。一人暮らしはすぐにでも始められるだろう。
ただ、親元ならば最低限の暮らしは確保できる。例えば、体調が悪い場合でも看病してくれる人がいるということだ。
あらためて泉を見れば、細い——。そして半分ヨーロッパの血を引く音川よりも白い肌は、真夏だというのに全く外に出ていない証拠だ。
まああれほどのプログロムを2週間程度で構築した実力から推測するに、外に出ている暇など無い暮らしをしてきたのだろうと想像できるが。
10年程遡れば、音川も開発に没頭するあまり、寝食を忘れることが何度もあった。
睡眠不足が染み付いた青白い顔色をし、腹と背がくっつきそうなほど痩せていて、飢えたヴァンパイアのようだと言われていたが……それも三十路前までの話だ。
今は、食事と運動の重要性を身に沁みて知っている。間違いなく、何事も体が資本だ。
大半の人がそうであるように、一度痛い目に遭わなければ実感できないのが残念だが。
まるで保護者の気分だな、と自分で呆れてしまう。そりゃ8つも下の新人ともなれば庇護欲が湧くのは仕方がないとしても、そもそも、泉の生活に介入できる立場ではない。
泉の地元がここなら、音川の心配は無用の長物だろう。せいぜい職場で……ああ、今は在宅だからそれも無理か。
音川は、喫茶のママを目配せで呼び止め「トーストの追加、おねがい」と泉の分を注文した。
「さすがに25にもなって実家暮らしはどうかなって。今、親に家事を教わってます」
「リモートだと仕事の合間に家事ができるしな。仕事とプライベートの時間が切り分けにくくなるデメリットもあるが」
「音川さんは、家事とか一人でやってるんですか?」
「つまんねー打ち合わせの時はずっと粘着クリーナーかけてる。猫の毛がね」
「マックスって名前でしたよね。オス?」
「うん」
「画像見せてくださいよ」
「猫、好きなの?」
「うちにも3匹居ます」
「え、そっちも見せてよ」
「じゃあ食べ終わったらお互いのネコチャンを見せ合いましょう。ところで音川さん、そのゆで卵の食べ方……」
音川はスプーンの背でゆで卵の殻を細かく叩いて半分だけ剥くと、スプーンで器用にすくって口に入れていた。
「これ習慣なんだ。やってみろよ。食べやすいから」
「いや、僕もそうなんですよ」
泉の発言に音川はスプーンを持った手を止めた。
「びっくりしました。同じ食べ方の人に初めて会うから」
「日本では珍しい」
「かぶりつくのがちょっと苦手で……こぼれそうになるから」
「分かるよ」
「高校の時、修学旅行の朝食で自分の食べ方が人と違うって知ったんです。変だって言われて、それ以来人前じゃ食べなくなりました。だから、さっきまではこの卵も音川さんにあげようと思ってました」
「くれるなら貰うけど」
「僕の話、聞いてます?」
「聞いてるよ。食べ方なんて、周りを不快にさせなきゃ何でもいいだろ。論理的な理由も無しに、ただ大勢多数と違うというだけで、人を非難するのは嫌いだね」
ふふ、と泉は小さく微笑んだ。
「音川さんといると自由な気持ちになる」
「そりゃなにより」
「本当ですよ。仕事もやりやすい環境にしてくれる。最初に、何やっても怒らないって言ってくれたじゃないですか。僕、あれが嬉しくて」
「俺には威圧感があるらしいから、先に言っておいたんだよ」
「こんなに優しいのに。例えば金曜の検証で、僕のミスが見つかっていたら?」
「怒るわけねぇよ。ミスから学ぶことが重要だからね、いい機会だと逆に喜ぶよ」
泉はトレイのものをすべて食べ終わり、追加のトーストが届いたと同時にアイスコーヒーのお代わりを注文した。ついでに音川も2杯目に付き合う。
「そうだ。副業の話」
音川は2杯目のアイスコーヒーにガムシロップを3つ入れてかきまぜながら切り出した。
信じられないものを見るような目つきの泉に、「1杯目はブラックだったから」と言い訳する。
「インドの件が片付いたら具体的に話すけど、知り合いに頼まれて個人的なアプリを作っていてね、とりあえず、泉が開発の副業に興味があるかどうかだけ知りたい」
泉は目を輝かせ、咥えていたストローを離すと急いで応えた。
「興味あります!あの、金曜に、パートナーって……」
ああ、と音川は後頭部に手をやり頭を掻いた。
「副業と言ってもそんなに収入にはならなくて、ほとんど趣味なんだ。ただ、新しいことをやってる自負はある」
「他にも開発者がいるんですか?」
「いや、俺1人だよ」
高校時代から音川は個人で開発をしていた。その時々で、手伝ってくれようとした仲間たちは何人もいたが、音川の速度についていけずに、結局は1人でやるはめになる。
社会人になってからもそれは変わらずで、なんら不便はない。
しかし、泉がいれば——
例えば自分が組んだシステムが100だとしたら、泉はそれを1000にする何か大きな付加価値を生みそうな予感がする。
入社2年目で、部署異動してきたばかりの若者だ。それを上司の自分が副業へと誘い込むなんて褒められたことではないのは分かっている。
とにかく泉の才能を専有したい。それしか頭に無かった。
「詳細なんてどうでもいい。僕、音川さんと一緒にやりたいです」
泉の弾んだ声に、音川は照れたようにはにかんだ。
「ずいぶん熱心に賛同してくれるんだね」
ハッと泉は我に返り、顔を伏せた。
ウイルス事件を起こした新人も、確か音川を——崇拝していた。
あの事件は音川に大きな傷を残している。若いエンジニアを犯罪者にしてしまうところだった、と泉に言った音川の悲痛すぎる表情は記憶に新しい。
自分が音川を慕えば慕うほど、きっと——
『適度な距離』と泉は胸中で強く自分に言い聞かせた。
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