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第10話 両手に猫

音川は喫茶のドアを後ろ手でホールドしたままサングラスをかけて、アスファルトからの照り返しをブロックした。 泉は律儀に「ありがとうございます」と軽く頭を下げ、同じようにサングラスをかけて「ごちそうさまでした」とこれまた礼儀正しい。 1人で過ごすモーニングの時間は、新聞を読んだりその日のやるべきことを整理したりと一日の始めの一時として気に入っていたが、泉との食事は不思議と、1人でいるよりも静かで落ち着く気がした。会話をしているのに、それが全く邪魔にならない。それどころか、泉の柔らかな声により静寂さが冗長しているような感覚だった。そんな時間を過ごせたのだから、礼を言いたいのは音川の方だった。 「余分に乗った4駅分の価値はあったか?」 ふいに聞かれ、『10駅でもお釣りが来るほど』と勢いで言いかけたが止めた。音川と過ごせるのならどんなに遠くても出向くつもりだが、それが本音であっても大げさに聞こえてしまえば信じて貰えない不安があった。 「また来てもいいですか?」 「ああ、いつでも。だいたい毎朝居るけど、もし俺が居ない日に当たったらツケといてよ」 「それって……約束をしなくても……毎日でもいいってことですか?」 「俺は社交辞令なんてできねえよ」音川は少しサングラスをずらし、泉の顔を覗き込んだ。「あそこなら副業の方も大っぴらに話せるからね」 「……確かに、そうですね」 「13時だったな、インドとの検証。俺は一旦家に帰るよ。さすがにこれじゃあ」 自分の身体を見渡すように頭を動かす音川に、泉は「似合っていますけど」とさり気なく本音を漏らす。素晴らしいバランスの身体を世間に見せびらかせて欲しい気持ちと同時に、他人には見せたくないような矛盾した独占欲を自覚しながら。 「そりゃどうも」 「僕はこのまま出社します。10時過ぎてしまいますが……遅刻ですよね?」 「いや、出社時間はもう、どうでもいいよ」 「と言うと?」 「正式にはまた話すが、とにかく、今はインドの件だけで問題ないから、空き時間があれば好きに使って。それにうちの部はリモートワークになった時点でフレックス制度の申請を廃止したんだ。オンラインかどうかで分かるからね。納期の遵守と情報共有ができていれば良い」 同じ会社でありながらデザイン部との働き方の違いに、泉は束の間ほうけたように音川を見ていたが、突然なにか閃いたように目を大きく見開いた。 「あのっ、それは今すぐ出社しなくてもいいってことですか?」 「うん。今日は13時からの検証を開始してくれればいい。なにか用事でもあるの?」 「いえ……」少し言い淀んだがすぐに泉は顔を上げた。「僕、マックスに会いたい」 今度は音川が目を剥く番だった。そして光の速さで、今朝の自室の様子を思い出す。 玄関からリビングまで大して散らかってはいないが、正直なところ隅々まで掃除が行き届いているとは言えない。ソファの下にはホコリが溜まっているかもしれない—— いや、今朝はふと思いついてロボット掃除機を起動してきたのだった。普段は一日の猫の毛を取るために、夕食へ出かける時に起動するのだが——虫の知らせだったか。 「あ、今の忘れてください」泉は慌てて取り消した。音川が束の間無言でいるため、呆れられたと焦りを感じたのだ。「——ダメですね、僕、すぐ調子に乗ってしまって。音川さんと適切な距離が取れていない」 「ふーん」 音川は、泉が自分と距離を取ろうとしていることを知りやや訝しんだ。確かに、新しい上司が社内の評判とは大幅に異なり、ロストコントロールとしか思えないような失言もするとなれば、距離を置きたいと考えるかもしれない。 だがモーニングにわざわざやってきて、家にも行きたいという発言はそれと真逆ではないのか?それとも、すべて社交的な言動だけで、真意ではないのか。 しかし——音川には、断るという選択肢が端っから存在しておらず、それどころか、もう少し社外の時間を泉と過ごしたいという気持ちが急激に湧いてきて、胸をざらざらとかき乱す。 「10分くらい歩くけどいいか」 咄嗟に声を掛けると、一歩駅の方向へ去りかけていた泉が驚きの表情で振り返る。 「暑いからさっさと行くぞ」 「は、はい!」 泉は、先に歩み始めた音川に小走りで追いついた。 肩を並べると、「なんでも言ってみるもんですね」と先程と打って変わって明るく軽口を叩いてくる。ほとんど跳ねるような足取りがなんとも可愛らしかった。 「会社関係でマックスに会ったことがある人います?」 「んー、速水くらいじゃないかな」 速水は同期ですぐに馬が合う飲み仲間となり、今ではお互いを親友を認識するほどだから、もはや会社関係とは言い難いのだが。 「僕で2人目ですか?」 ちょうど自宅マンションにたどり着いたため音川はそれには答えず、「道、覚えた?」と質問で返した。 「覚えていいんですか」 「うん」さらりとそう言うと、マンションのエントリーを抜けエレベーターに乗り込む。自室は最上階である7階だ。 「物件探しの参考になるかと思ったんですが、こんなしっかりしたマンションは僕にはまだ無理かも」 「一応、分譲だからな」 「あ、じゃあ本当に参考にならない」 「猫がいると賃貸は難しいからね」 音川が住む最上階は共有部分と玄関の間に占有のポーチがあり、各部屋の玄関同士が見えない構造になっている。プライバシーが重視されていると同時に、そこに置かれたものでだいたいの住人を想像できた。 子供用自転車が置いてあれば言わずもがなで、門扉にいくつもプランターを引っ掛けて花を咲かせているのはおそらく年配の世帯、犬用のバギーだけが置かれている部屋は子どもの居ない共働き夫婦か、などと泉は適当に推理しながら音川の後を付いていく。音川は共有通路を突き当たった所でようやく足を止め、そこのポーチの門扉を開けた。 「角部屋ですか」 「うん」 通り過ぎてきた世帯のポーチより若干広めで陽の光も入って明るいポーチには、見事に何も置かれていなかった。らしいと言えばらしいが、あまりに生活感が無い。 音川はカードキーで玄関ドアのロックを解除すると、扉を開いて先に泉を中に促した。開いたドアへと室内からひんやりとした空気が流れ出し、トトトと小さな足音が聞こえる。 「お客さんだよ」 猫専用の脱走防止扉の手前でちょこんと行儀よく座ったマックスが、やや不思議そうな顔で主人を見上げて「ニャー」と一鳴きする。 「こんにちは、マックスさん」泉の挨拶にも、ニャニャーと返す。「あ、キミはしゃべる猫なんだね。うちにも3匹いるんだけど、匂いでわかるかな?」 「上がって。なんもねーけど」 しゃがんでマックスと視線を合わせて話す泉が微笑ましく、玄関先でついそのまま眺めてしまいそうになり急いで脱走防止扉を開けてさらに中に促した。 「お邪魔します」 泉をリビングに通して、音川はキッチンの冷蔵庫を開けた。水しか入っていないが、猛暑の中を徒歩で移動した身体には一番良いだろう。 「ほら」と冷えたペットボトルを投げると、泉はパシッと小気味良い音を立ててキャッチする。 「僕、もっとマニアックな部屋を想像してしまっていました。機械だらけの」 「なわけねぇだろ。会社の仕事なんてほとんどパソコン一台で済むだろ」 「それはそうですが。あと、本人よりも増して部屋が日本離れしていますね」 「ああ、これは元からで……都合がいいからそのまま使ってるだけ」 前の所有者がアメリカに本社を置く海外企業で、本国から呼び寄せた社員の短期滞在用物件だったらしいが、ほとんど使われた形跡はなかった。よほどVIP向けだったのか内装に大きく手を入れていて、暖炉や大型のシステムキッチン、天井まで造り付けられた本棚には意匠が凝らされている。 音川はただ猫と自分が快適に暮らす場所があれば良いだけのこだわりのなさだったが、長身であるから海外仕様の建具や浴室の作りなどが体格上非常に都合がよく、ベッドやソファなどの取り残された家具も処分せずに全て使用している。 音川は、泉がリビングのソファに腰掛けたのを見届けてから「楽にしてて」と言い残し、ジムでかいた汗を流しに行った。 ほとんど水と変わらない低温の湯を頭から浴び、夏用のシャワージェルのすっきりとした匂いで、思考もクリアになりつつあるにも関わらず—— 純粋な会社関係者である泉を家に招き入れた『合理的な』理由が、まだ見つけられなかった。速水とは家飲みや、残業が終電を超えた日に泊めたことはある。会社関係でない人間で音川の猫を見たがったのは何人か居るが、招かれた者は一人も居ない。 なぜこうも、泉と時間を過ごしたいと思うのだろう。 『もし泉なら』という例外処理が自分の中に組み込まれてしまったのだろうか。 だとしたら、なぜその条件理由が真っ先に出てこないのか……? 滝行のように頭から低温のシャワーを流しっぱなしにして、しばし考えを巡らせる。 そうして、唯一思い当たったのは、泉の卓越したコーディングスキルだ。 おそらく泉は、まだ自分が持つプログラミングの才能に気が付いていない。謙虚な態度を貫き、音川を慕う姿勢を見せているのがその証拠だろう。 まだ若く、独学で学んできた彼に、さらに深いアルゴリズムを考える機会と相応の収入を与えるのが音川の役割だ。そのためにはどんな例外的な手段でも—— そうだ。 他に理由が。 リビングに戻ると、泉が妙に得意げな顔を向けてきた。何事かと近寄れば、膝の上でマックスがぐんにゃりと伸びて熟睡していた。 「俺以外の膝の上に乗る猫だとは知らなかったよ」 音川の声でマックスは起きあがり、軽く伸びをした。 ハーフパンツの薄手の生地を爪が通過したのか泉が顔を歪めるが、それでも嬉しそうだ。根っからの猫好きに違いない。 「音川さんが部屋を出ていった瞬間に、喉を鳴らして甘えてきたんですよ。見事な長毛ですね。ノルウェージャンなんとか、っていうのに似てる」 「それが混ざってるらしいよ。俺と同じ混血」 音川はかがんでマックスの横腹に手をやった。ふんわりと指の間に触れる柔らかい感触はいつも通りで—— ふと思い当たり、そのままマックスを小脇に抱き上げると、逆の手をソファにいる泉へと伸ばし、栗色の髪の毛にそっと触れた。 「やっぱり!ほとんど同じだ」 「えっ、あ、僕、猫っ毛で……嫌なんですけど」 「ああ、ごめん」慌てて頭から手を離すと、「違います」と泉は音川の手首を掴み、再び自分の頭にポンと載せた。 「猫っ毛が嫌なんです。湿気でぺちゃんこになるし。音川さんみたいなコシがある黒髪が羨ましいですよ」 「ならボリューム出してやるよ」 言うやいなや音川はワシャワシャと泉の頭を撫で回し、しばらく手触りを楽しんだ。 週末のオフィスで、つい泉の頭を撫でてしまったことの理由が判明した。 視覚に入った泉の髪が無意識下で飼い猫とリンクし、習慣で——反射的に、それを『撫でる』という行為に至ったのだと考えられる。 やはり、自分の行動が完全にコントロール不能になるなどありえない。必ず説明ができる理由があり、遅かれ早かれそれは判明する。 ———そうか。 泉と過ごす時間は謎解きに似ているのかもしれない。 確実にもやもやとした事案が起こるが、その原因を探り、解決へと導く理論が見つかる時の小気味良さ。 泉と仕事を開始してからのこの数週間に感じている胸のざわつきは、論理クイズに立ち向かうワクワクした高揚感なのではないか。 音川は独り納得し、リビングを去り仕事部屋へ向かった。 出社時間までまだ少々ある。メールチェックや、関わっている案件の進捗確認をしておけばちょうど家を出る時間になるだろう。 泉はマックスに任せておくことにした。似た毛並み同士で仲良く遊んでいればいい。 一方、リビングではボサボサ頭にされた泉がマックスを抱き上げ、「キミのパパの頭の中は全く不可解だよ」と話かけていた。 「ニャ」と同情するかのように返事をくれるこの猫の方が、先に打ち解けそうだ。 泉はマックスを抱いたまま部屋の壁際にある本棚へ向かった。 このリビングにはテレビがない。その代わり、壁には床から天井まで階段状になった見事な本棚が設置されていて、表面は布張りになっている。陳列棚兼本棚と言ったところだが、猫飼いからすれば理想的なキャットタワーだ。 マックスも同じ認識なようで、泉の胸を蹴って中段に飛び移り上まで駆け上がった。 「いいねそこ。僕も登りたいな」 間違いなく人が登れるほど頑丈だろうが、さすがに初めて訪問した上司の家でそれはだめだと自覚し、得意顔で見下ろしてくるマックスに微笑み掛けてから本棚に視線を戻した。並んでいるのは哲学や思考に関する書籍と、古典文学のようだった。上方落語全集まである。意外にもお笑い好きなのかもしれないと思いついたのは大阪出身と知っての先入観か。 家に来させてもらえたことがもう奇跡なのに、一つ叶うと、欲望が増えてしまう。 プライベートの音川を知りたくてたまらない。 今のところ、趣味や興味についての話題は出ていないため、極度の甘党で、猫好きという共通点くらいだ。 そうだ。本棚を見るとその人がわかると聞いたことがある。 改めてじっくりと背表紙を辿ってみることにして、右上から順にぐるりと頭を動かすと……ふと、英語タイトルの1冊が目が止まった。 表紙のデザインはサイコロのような柄だが、遊びというより数学的な、堅そうな印象を受けた。しかし背表紙も含め奇抜とは真逆で、目を引いた理由は見当たらない。どことなくだが、他の本と違って目立っただけだった。 「うわ」適当なページを開いてみると案の定びっちりと英文となんらかの図表で埋め尽くされており、すぐに閉じた。「あの人、こんなの読んでんだ……」 泉はその本を手にソファに戻り、今度は表紙から丁寧に開いて、インデックスを確認する。よくよく見てみれば知っている単語がちらほらあり、身構えるほどハードルは高くないのかもしれない。 「これが理解できるようになれば、少しは追いつけるかな」 スマートフォンで書籍のタイトルを検索すると、大手通販サイトで販売されているのが見つかりすぐに購入する。 それにしても、と泉は再び室内を見渡す。 本棚以外にあるのは、今座っているソファとコーヒーテーブルだけだ。観葉植物も、写真も、時計も、置物も何も無い。 筐体やらケーブルやらそれらの空き箱が散乱し、技術書が高く積まれた雑多な部屋を想像していたのだが、それはあまりにもステレオタイプすぎたようだ。よくよく考えてみれば猫も居ることだし、ここにはPC類も全く見当たらないから、別に仕事部屋があるんだろう。 そして、キッチンは片付いているというよりか、ほとんど新品に見える。鍋や包丁はおろか、まともな食器類があるかどうかも怪しい。かろうじて、湯沸かしポットがある。コーヒーやカップラーメン程度は作るのかも知れない。 ソファは座面が広く、座り心地は実家とは比べ物にならないほどふかふかで、大きな窓からの景色は広く高かった。遠くには富士山も見える。 「マックスさん、おいで」泉が手を伸ばすと、本棚の階段をトントンと下りてきて再び膝の上に乗ってきた。大きなあくびを一つして、もぞもぞと丸くなる。 どこか高貴な印象の猫だが、初対面の泉に警戒せず懐いてくれる意外性がたまらない。ギャップがあるのは飼い主譲りかもしれない。あの研ぎ澄まされたような見た目で甘党、それもかなりの—— 泉は昨日までの週末を、まるで雲の上にいるような浮ついた気分で過ごした。 『きみは完璧だ』 音川の声の熱さを思い出すと胸が震え、泉は大きくため息を吐いた。 絶対に失望させるもんか。 今、その音川の自宅で、膝には彼の猫がいて。 こんな贅沢なことが許されているなんて—— 仕事部屋にいた音川は、他の開発者から相談事を持ちかけられて音声通話をしていた。泉がこちらへ来るかと思い、雑に散らかしている床やデスク周りを片付けつつ対応していたが、どうやらリビングから出てこないようだ。 ほとんどの時間を仕事部屋で過ごすため、すべての生活道具はこの部屋にあり、そして自分以外に入る人間は居ないから、それなりに雑だった。 出窓の前にはリビングから持ってきた一人掛けソファがあり、そこは読書スペースであり、仕事中はマックスの昼寝場所だ。 結局家を出る時間ギリギリにようやく通話を切り上げ、そろそろ出るぞ、と声を掛けながらリビングのスライドドアを開け…… 目に飛び込んできた景色に、音川は息を呑んだ。 窓から差し込む真夏の陽の光がリビングに充満し、ソファの上にまるで光のシャワーのように注いでいる。 そこには、泉とマックスが——大きな猫が小さな猫を腹の上に乗せているかのように——眠りについていた。 それはおとぎ話の挿絵のような到底現実ではありえないほどの、美しさで—— 音川はその光の塊を凝視したままゆっくり近寄り、カフェテーブルに腰を掛けた。 傍らに、学生時代に擦り切れるほど愛読した論理原子主義の哲学書が置いてある。数ある蔵書の中からこれだけを選んだ泉の感性に、背筋がぞくりとする。 かくれんぼの鬼に見つかった時のような、少しの恥ずかしさと奇妙な安堵感。 泉の上で香箱座りをしているマックスが音川の存在に気が付いて軽く目を開ける。 「猫の王子様みたいだね」と泉を指さして言うと、大きくあくびを返してまたすぐに目を閉じた。動く気がないらしい。 すでに時間が差し迫り、出社するならば今しかないが—— 今見ている光景を終わらせるなど音川には到底無理だった。 検証環境を金曜日に構築しておいたおかげで、自宅から接続しても問題はない。 ただ、インド組に、泉がここにいると知られてしまうと、特に速水は訝しがるだろうと容易に想像できる。これまでも、音川が泉を特例として扱うたびに微妙な顔をしていた。その懸念も重々理解している身としては、おざなりにするつもりはない。 速水だってエンジニアだ。泉の才能に必ず気がつく。そして、彼も音川もついぞ到達できなかった領域に、泉ならば届く可能性があると知るだろう。 ただ、そのことと、目の前で眠っている泉から目が離せないでいることが、一体どう繋がるのか…… 考えようとしても、この光景をガラスの箱にでも永遠に閉じ込めてしまいたいだとか、リラックスしすぎているし実は泉も我が家の猫なんじゃないかとか、雑念にもならない幼稚なことしか頭に浮かばない。 とうとう我慢できず、右手をマックスの背に、左手を泉の頭に置いた。 「5分前まで」と自分に言い聞かせて、ふわふわと心地よい毛並みを両手で堪能することにした。

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