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第11話 朝がつなぐもの
13時からの打ち合わせまであと5分という時、ソファで寝入っていた泉の身体がびくりと動き、マックスが驚いて飛び降り、音川は1人と1匹を撫でていた両手をパッと宙に上げた。
どうやら泉のスマートウォッチが会議のアラートを発したようだ。
泉は束の間もぞもぞとしていたが、急にガバっと起き上がり「音川さん!」とコーヒーテーブルに腰掛けた音川の太腿にすがるように手を置いた。
「会社、間に合わないですよね?」
「ここから繋げばいいよ」
「すみません……」
「いや、俺が起こさなかったせいだから」
「そんな……寝ちゃったの僕ですし」
先週までの泉のがんばりを考えれば、週が開けても疲弊していて当然だ。脳も筋肉と同じように、使いすぎると回復に時間がかかる。——それは事実だろうが、音川にとっては都合のいい言い訳でもある。
泉を起こさなかったのは間違いなく音川の意図で、両の掌に等しく残っているふわりとした柔らかい感触が名残惜しい。
「じゃあ、泉を寝かしつけていたマックスさんのせいということで」
「あ……」
初めて呼び捨てにされ、ぐいと心臓を掴まれたような気がして思わず胸を押さえた。
音川にはそれが物理的な痛さに写ったようで、「5キロあるから重かっただろ」と無頓着に言う。
「俺は仕事部屋から繋ぐよ。あと、カメラはOFFで」
「はい、僕がここに居ることは言わないほうが……?」
「今日のところは」
泉は敬礼のジェスチャーで了解を表すと、床においていたバックパックから手早くノートパソコンを取り出し、音川からWiFiのパスワードを受け取る。
そうしてリビングと仕事部屋に分かれ、それぞれの端末をオンライン会議に接続した。
インド側では、高屋がすでに画面を共有して待機しており、挨拶もそこそこにすぐにシステムの動作検証が始まった。
泉により新たに構築されたサーバー上で、アプリケーションは今まで以上のパフォーマンスを見せ、速水と高屋はそれぞれ感心しきった。
インド側ではなんとか必要十分な所まで完成させていた。品質は70点と言ったところで高くはないが、そもそものスタンダードに違いがあるためインドからこれを超える納品はまず期待できない。日本で70点ならあちらにとっては100点に相当するわけで、この緊急事態でそこまでインド側を動かすことができたのは速水と高屋の苦労の成果だった。
しかしながら日本の顧客は完璧を求める傾向にあるから、現状そのままでの納品はできない。海外に外注すると必ずと言っていいほど発生するこの差分は、時間で解決するか、内製で賄う。
時間で解決する場合は、差し戻してバージョンアップを重ねる。しかしあまりこちらの要求を押し付けるのはよろしくないから、ある程度で引き上げるのが肝心だ。
内製で賄う場合は、自社で品質を上げる。こちらは予算の限り子会社となる開発部に外注する。いずれにせよ、海外との仕事は長めのバッファを持たせた上で顧客への納期を設定することが重要だ。
今回はベンダーであるインド側に想定外の瑕疵があり、またすでに顧客への2週間の納期延長を貰っているため、差分を埋めるためには残された時間を使うしかなかった。
こういったギリギリの状態で品質を最大限まで上げるために呼ばれたのが音川で、課長からすれば、このタイミングでデザイン出身の泉が開発に来たのはまさに渡りに船だったわけだ。
「それにしても、泉くん1人で良くやってくれた。これならもう少し早いフライトで帰国してもよかったな」速水は手放しで褒めた。
「ありがとうございます。あの、フロントの調整も今日から始めていいですか?」
「そりゃあ願ったりだけど、音川、どう?」
「泉に任せるよ。帰国はいつ?」
「金曜の朝に成田着」
「では、帰国日までには完了させます」
「お、自信満々じゃねぇか。ただし残業してまで働く必要はないからね。万が一間に合いそうになかったら俺も手伝うから言ってよ」音川はそう言いながら、泉の能力なら3日でも余るだろうと予測していた。
「金曜にちょっと動作確認して、火曜に音川さんからお客さんにユーザー検証を依頼してもらおうと思う」
「了解。でも高屋さん、成田から会社に直行するの?」
「うん。どうせ新しい携帯を買いに行かなきゃいけないから」
「ああそうだったな」
「俺は直帰するから用があればチャット送って」と速水。「泉くん、料理の本を適当に見繕ってきたから、週明け以降で都合がいいときに本社に顔出してよ。高屋さんからのスパイスとセットで渡すから」
高屋と速水は笑顔で声色も明るい。システムが思った以上の出来だったことに加えてようやくの帰国だ。
「わざわざすみません」
「いいよいいよ」
「土曜に市場に行ったんだよな。どうだった?」音川の問いに、速水と高屋は顔を見合わせしばし沈黙した。
「……それ、土産話にとっておいて」
「やけにもったいぶるじゃねえか。何かあったな?」
「まあね。帰国したらみんなで飲みに行こうよ。阿部ちゃんもそのつもりらしいし」そう言いながら高屋が困惑した薄笑いを浮かべている。
音川はこの場では追求せず、「そうだ、高屋さんバイトしてるんだって?」と話題を変えた。「阿部から聞いたが」
「うん。公園沿いのカフェバー。ランチもやってるけど、音川さんも泉くんもまだ来たことないよね」
音川は先だって高屋のマンションに向かう車中から見た公園を思い出した。運転手によれば外国人が比較的多い町のため、音川を住人だと早とちりしたのだ。
「近くに公園があるなんて知らなかったな」と音川は出不精を発揮し、「池のある大きい公園ですよね。阿部さんからちらっと聞きましたが、飲食店なんてあったかなあ」と泉が首をかしげる。
「瀟洒な洋館なんだけど看板も何も出してないし、パッと見は飲食店だと分からないんだ。なんでも美味いよ」
「ねえ高屋さん」と速水がメガネをくいと上げる。「イケメンにイケメンをぶつけるとどうなると思う?俺はあまりの衝撃にブラックホールが発生してどっちも消えると思うんだよね」
速水が真剣な声色を作って言い、「どういうことですか」と泉が身を乗り出す。高屋はにこやかに口角を上げて黙ったままだ。
「阿部からバーテンダーについて聞いてない?」
「いえ、特には。イケメンなんですか?」
「やけに興味津々だねぇ、泉くん。便宜上そう言ったが、言葉じゃ足りないくらい強烈なのがそのカフェバーに居るんだ。高屋さんのお友達」
「じゃあぶつける方のイケメンは音川さん?」
「そうだろうな」
まさか本人が答えるとは予想外だったのか、泉がギョッとしたように目を見開いて音川をまじまじと見るから、黙って聞いていた高屋は吹き出した。
「そのバーテンダーがおれを許してくれることを祈ってて。インドにいることを連絡できていないから」
高屋の笑顔にほんの少しの陰りを見出した音川が、穏やかに微笑んだ。
「きっと大丈夫だよ。この完全とばっちりな事故を見事に解決したんだから、逆に高屋さんを誇りに思うかもよ」
「そうだといいな。なんだか、音川さんと話すと気持ちが自由になる」
「はは、そりゃよかった。近々、インド焼けした顔を見に行くよ」音川は翌週の火曜日に出社することを約束し、会議を終えた。
仕事部屋を出てリビングに行くと、泉は膝の上にいるマックスを撫でながら顔を上げた。すっかり懐いているようだ。
「イケメンの自覚があったんですね」そう言いながら、泉も速水と同じようにこの表現に違和感を感じていた。音川が持つ天然の美しさにはそぐわない。
「生まれた時からね。で、実際どう?工数的に」
「素直過ぎて反論できません。そうですね、ざっとですが、2日で終わりそうです」
「だよなあ。泉がやれば2日で120点かもな」
「それは買いかぶり過ぎですよ」と謙虚な姿勢を見せる泉だが、顔は自信にあふれている。
「腹減った。何か注文しようぜ。俺は今、中華が食べたい」
「やった!!中華好き」
「食ったら……今日はここで作業していくか?」
「いいんですか?」と泉は目を輝かせた。「すぐに追い出されるかと思ってました。寝ちゃったし」
音川は「右手がマックスで、左手が泉」と両手を撫でていた時と同じように左右に動かした。「俺は両手が幸せだったな」
「もしかして、僕も撫でられたんですか」
「ああ、うん……ごめんね」
音川は謝罪と共に身体をくるりと背け、リビングを離れた。
「いえ。できれば、起きていたかったかな、と」
背中越しに泉の声がし、反射的に少し頭を後ろに向けたが、顔を見ることはできなかった。
気に入りの町中華はネット対応しておらず、仕事部屋で紙のメニューをごそごそと探しながら泉の発言を反芻する。
寝入らなければ撫でられずに済んだということか。それとも、起きている時に撫でられたかった……?どちらとも取れるが、後者は都合よく解釈しすぎだろう。
いずれにせよ、本人の許可を得ずにやってしまったことだ。
部下なんて何人も居る。学生時代から懐いてくれている後輩達もいる。みな付かず離れずの関係で友人未満知人以上なのに、なぜこうも、泉に対しては本来のディスタンスが取れないのか。
音川は自分自身の理解できない行動に不安を覚え、探し物が見つかった後も少しの間自室に留まった。
窓のブラインドを少し開くと、その音でマックスが駆け込んで来た。画面の映り込みを避けるため昼間はあまり開けて貰えないため、ここぞとばかりに飛び乗る。
マックスを撫でていると、手のひらに泉のふわりと柔らかい髪の毛の感触が蘇ってきて、気分を変えるつもりが逆効果だった。
しかし、それでも、この不安と戸惑いがなぜか胸を躍らせる。
電話注文から30分ほどで出前が届き、泉はチャーハンとからあげをうまいうまいと感心しながら平らげた。25歳と聞いていたが、食べっぷりから推測するに何かスポーツをやっていたように思えた。「満腹になった」と言うくせに、音川が注文した関西風の天津麺を一口貰って、「次遊びに来た時はこれにする」と意気込んだ。
「遊びに……?」
「あ、つい……すみません」
「マックスさんと友達になったようだな。ずいぶん懐いているし、いつでも遊びに来てよ」
食べ物と猫で釣ったような流れになってしまったが意図的ではない。
食事を終え、リビングを離れる前にふと振り返った。泉はソファを背もたれにして床に座り、PCはコーヒーテーブルに乗せている。マウスを使う以上、そうなるのは仕方がないが、腰に悪い体勢だ。
「仕事部屋にいるから、帰る時に声かけて」
「はい、ちなみに何時頃まで居てもいいですか?」
「何時でも」と言い残して部屋に入る。特に予定もないし、作業が一段落つくなど、泉のタイミングで構わない。
すぐに、使用している昇降式デスクとPCチェアのメーカーサイトにアクセスし、過去の注文履歴から同じものを再度購入した。
腰痛で苦労した際に、選びに選び抜いたデスクとチェアだ。身体の楽さはお墨付きで、これ以上のものを見つけるのは困難だろう。
泉がここで作業するのは今日限りだったとしても、一人暮らしを始める時に引っ越し祝いで贈ればいい。それに、リビングの奥には、スライドドアで仕切られた6畳弱の空き部屋がある。
角部屋の特権で、その部屋からリビング、続いて音川の仕事部屋までぐるりとバルコニーが半周する形で繋がっているから、狭くとも、明るくて開放感がある。
泉が要らないと言えば、第2の仕事部屋としてそこに置いておくのも悪くない。
などと自分への言い訳をたっぷりして、メールを確認するとすでに注文完了の連絡が届いている。どちらも在庫があり、到着予定日は3日後の木曜日だ。
窓の外がうっすら暗くなりかけた頃、トントンと部屋がノックされた。「どうぞ」と返事をすると、まず先にニャンニャンと何やら文句を言いながらマックスが入ってきた。
「開けろって主張していましたよ」
「あ、18時過ぎてるか。ごめんごめん」普段のマックスなら仕事部屋に居るため、いつもの習慣でドアを締め切っていた。
音川が立ち上がると、我先にと自分の皿があるキッチンへ走っていく。急ぎすぎてカーブを曲がり切れず少し滑るのが笑える。
「猫の腹時計は正確で驚くよ」
「ですね。うちも毎朝6時半に起こされます」そう言いながら泉はスマートウォッチを見た。「僕、そろそろ帰ります。遅くまですみません」
「今チャットで課長に捕まってて、もう少しかかりそうなんだ。待っててくれれば駅まで送るよ」
音川を待ちたい気持ちはあったが、仕事の定時は過ぎてしまっているし、上司の家に長居は失礼だろうと泉は遠慮した。それに、駅までの道はしっかり覚えている。
「1人で大丈夫ですよ」
「そう?まだ明るいから大丈夫かな。それじゃ、気をつけて」
「今日は朝からお世話になりました。あと、ご馳走さまです」
「いいよそんなの。またおいで」
玄関先で泉を見送り、急ぎPC前に戻る。
独りで帰らせたのは気が引けるが、課長から持ちかけられた相談が手強そうな感触で、途中で会話を終わらせるわけにはいかなかった。客先から要件がまとまって出てこず、度重なる仕様変更でエンジニアが音を上げそうだとのことだ。
「泉が優秀でインドの件は任せておけるから」と音川はすぐに課長からのSOSに応じる約束をして、ようやく退勤した。
ソファで横になり、待っていましたとばかりに腹に乗ってきたマックスを撫でる。
少し飲みたい気分だが、仕事が遅くなった日は駅前まで行くのが億劫だ。最寄りのコンビニエンスストアは徒歩5分で、さすがにそれを面倒くさがってはいけないと毎回のことだが自分を叱咤激励して、それでもソファでだらりと四肢を解放したまま仕事についてぼんやりと考える。
先ほどの課長からの要請のように、こじれかけた案件の軌道修正や、完全に凍結してしまったプロジェクトの回復を行うのが音川の主な役割でそれなりに困難なのだが、高屋に比べるとまだマシだ。彼の場合は相手が海外で、特にインドとなれば日本とは仕事に対する温度差を始め、全てが根本的に異なる。日本人同士でもこんなに揉めるのに、海外勢とどのように事態を収拾していくのだろう。
高屋と一度じっくり話がしてみたい。それに、この1ヶ月間に何度となく見かけた、高屋の寂しそうな瞳。難しい仕事をこなしながら、周囲の空気を柔らかくすることを忘れない強靭な男に、あんな顔をさせる人間がいるならば会ってみたいもんだ。
音川はようやくコンビニまで出かける覚悟を決めて腹の上からマックスを下ろし、起き上がる。元から食事には興味があまり無いため食べずともよいが、好物のラム酒が切れているのは出かけるモチベーションとして十分だ。
深夜になり、副業の開発に取り組んでいるとスマートフォンが通知を発した。こんな時間に連絡を寄越すのは行きつけの飲み屋のマスターからの呼び出しくらいなので無視しようとしたが、通知が続いたために手を止める。
「ん?」思わず声が出たのは、送信者が泉だったからだ。しかも画像が2枚。
最初の1枚は今日の午後だろう。リビングの床で泉の膝の上で溶けているマックス。
2枚目は交通系のICカードで、なんのことだと思い画像を拡大すると、音川の最寄り駅が印字されているではないか。
驚愕にしばらく言葉が出ず、無論、どう返信するのが正解か分からず、音川は返答を諦めて携帯を伏せた。
そのまま気持ちをそがれ、今夜の開発作業どころでなくなってしまった。
ふいの連絡に、身体の内側からくすぐられたような粟立ちを覚えた。落ち着かない状態で思考に邪魔が入る。しかしそれが、なぜ不快でないのか——
ベッドに横になってからようやく、「よっぽどモーニングが旨かったのかな」と、脇腹に潜り込んできたマックスに聞いたが、返事はなかった。
******
音川の毎日は白湯を飲むことから始まる。
「朝に白湯を飲んで胃腸を整え、食事ができる状態してください。食べなければトレーニングのためのエネルギーもできず、傷んだ筋肉が回復されません」
これはトレーナーからの指示だ。すっかり習慣化し、今では飲まないことには妙に気持ちが悪い。
決まった時間に起きて、きちんと食べ、運動する。不摂生でもなんとかなっていた頃は、単に若さが持つポテンシャル、いわば勢いのみで仕事をしていたのだと今は分かる。
腰痛は肩こりと並んで至極一般的な症状であまり重要視されない傾向だが、その辛さは他に例えようがない。腰には『要』という字が入っているように、腰は行動の要であり、腰痛は全てを奪うと経験者ならわかるだろう。
文字通り痛い代償だが、若さに甘えて不摂生の極みであった音川が生活態度を見直す良い機会となった。
電気ケトルで沸かした湯をマグカップに注ぐ。音川がキッチンに立つのはその時だけで自炊は一切しない。
引き締まった身体は腰痛回避の副産物であり、コンテストに出るためのものではないから食事にこだわる必要はないし、それに音川は一人暮らしの男性の自炊ほど非合理的なものはないと考えている。
たとえば、喫食にかける時間を15分だとして比較すると、それ以外の手間にかかる時間が長すぎる。献立、買い物、調理、片付け、食材の管理、そしてゴミ出し。
自炊に慣れていない自分には、どう考えても外食の方が合理的だ。
ジムがある日は朝8時から45分間のトレーニングを受け、そのまま喫茶へ移動する。
それ以外の日でもモーニングの提供は10時までと決まっているから、起きて家をでなければ食いっぱぐれる。
リーダー格以上は週40時間の労働が定められているだけで、始業開始も終了時刻も定めがないため、昼夜逆転しようと思えばできてしまうのだ。まあ、実際は、打ち合わせがあるからそうもいかないが。
駅前までの道のりは徒歩10分弱、一日のTo Doを整理しながら歩く。喫茶では紙の新聞を手に取って、興味のない記事でもなんでも読む。やや活字中毒気味である音川にとって、好む好まざるに関係なく目に入ってくる紙の情報はありがたい。電子だとパーソナライズされてしまいどうしても内容が偏りがちだ。
今朝はジムのない日で、9時前には喫茶に着いた。
いくら定期を買ったからと言って、昨日の今日だから来るとは限らない。それでも店内をパッと見渡して泉の姿を探してしまう。
居ないことが分かり、奇妙な胸のざわつきと感じながらも、新聞を取ってカウンターに向かうが、「やっぱりテーブル席にするよ」とママに申告して窓際の奥に陣取った。
「今日もあのコ来るの?もう!あんな可愛いコが会社にいるなら早く連れて来てほしかったわあ」
昔ラウンジで働いていたというママは、ハスキーで女性にしては低い声をしている。いい声だと褒めると「やあねえ、酒とタバコとカラオケよ。夜の名残」とさっぱりと言い切る。それが聞きたくて、今でもたまに褒めることがある。
たしか音川と同じく関西出身だったはずだが、二人共地元の言葉は出なかった。
「来るかは分からん。もし俺が居ない日に彼が来たら、ツケといてよ」
「面倒見がいいのね」
「可愛い後輩だから」
つい口をついて出てしまったが、慣用句的にも使われる表現だから構わないだろう。『仕事熱心で先輩の助けになるいい後輩』という意味で。
しかしママはそれをどう受け取ったのか、「浮いた話一つも聞かせてくれないと思ったら……急に連れてきて」とニヤケ笑いを浮かべる。
その背後で喫茶店のドアが開き、入ってきた人物に音川の方が先に気付いて目配せすると、ママは「あらあらまあまあ、おはようさん」と翔ぶようにカウンターに戻りモーニングの支度にかかった。
テーブルに着くなり泉は、「1ヶ月定期ですから、気に障るようならすぐ止めます」と恐縮して見せた。
「ここのモーニングが気に入ったようで何より」
「あ、はい。それもありますが……」
「1ヶ月か……頑張るよ」
「何をですか?」泉は小首を傾げた。
「1ヶ月後、もう少し長い期間の定期に更新してもらえるように」
「そっ、そういう意味じゃないですって」音川のからかいに焦る泉を目を細めて見ていたが、本音だった。1ヶ月で後輩に見切られてしまうような先輩にはなりたくない。
モーニングを終えて、「じゃ、また後で、」と泉に告げる。後でと言っても会うのは会社のコミュニケーションプラットフォーム上だ。
「あの、音川さん、」と泉が控えめに音川を呼び止める。「よければ、一緒に出社しませんか?」
「ん?どうして?」
「駅まで来ているんだから、あとは電車に乗るだけですよ」音川が怪訝な顔をしたせいか、泉は説得を試みてくる。
「それとこれとは別。俺ケータイしか持ってないし」
正直面倒くさい。出社すれば課長がいるだろうが、昨日の話は今のところ内容十分で敢えて対面で話す必要はないし、その分1人で対策を練る時間が減る。
「手ぶらでも仕事に支障がないのは知っています。昨日、家から会社のサーバーを遠隔操作しているのも気が付きましたし、どこから繋いでも同じ状態でしょ?」
さすがに目ざとい。「泉もリモートでいいんだから、このまま家に帰れば?」
「そうしたいのですが、姉が出産で帰って来ているんですよ。とてもじゃないけど家で落ち着いて仕事できなくて」
『じゃあうちに出社するか』と言いかけて飲み込む。代わりに「ああ、なるほど」と相槌を返した。
デスクとチェアが届くのは木曜日だ。家に呼んだところで、まだまともな仕事環境を提供できない。腰痛経験者として、もうコーヒーテーブルで仕事をさせるのは避けたい。
「それに……」泉の表情が一瞬だけ曇る。「1人でオフィスに行くのがちょっと……」
「なんかあったの?」
「いえ、」
少し躊躇したようだが、すぐにパッと顔をあげるといつも通りの調子で「音川さんが居るほうが生産性が上がるような気がして」と当たり障りのない理由を述べた。
「まあ俺はすぐオンラインになるし、今日は課長も出社のはずだから」
「分かりました。モーニング、ごちそうさまです。また明日9時頃に来ますね」
「おう」と手を上げて答え、店の前で別れた。
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