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第12話 認めることすら許されない

泉が仕事を終えて社屋を出ると、すでに陽はとっぷり暮れていた。 区切りの良いところで業務を終えるつもりがいつの間にか夢中になり、つい時間を忘れてしまっていた。できれば、明るいうちに帰宅したかったのだが—— 飲み屋から掃き出されてくる酔人で賑わう繁華街を、人混みの方が警戒せずに済む利点もあるか、と背後に若干注意を払いながら駅へ向かう。 駅前にはちょっとした広場があり、ベンチや噴水が設置されていて、ここも待ち合わせの人々で賑わっている。 広場を突っ切ると改札口だが、ふと何かが燃えているような、不快な煙臭が泉の鼻を点いた。その方角に目をやると喫煙エリアがあった。きっとマナーの悪い奴が火を消さずにタバコを放置したかだろう。 タバコの煙ならまだしも、フィルターが燃える化学的な煙は我慢がならない。顔をしかめ足早に通り過ぎようとしたとき、アクリル板で仕切られた喫煙スペースの出入口に—— 保木部長の姿があった。正確には元部長だ。 以前のような、いかにも高給取り然とした押しの強い服装ではなかったが、ギラついた顔つきは変わっていない。 幸いにも、まだこちらを認識していないようで目は合っていない。しかし、ここ最近感じていた奇妙な視線が、気のせいではなかったと泉は確信した。 死角になるよう駆け足でその場を離れ、駅の反対側にあるロータリーからタクシーに乗り込む。痛い出費だが、見つかって絡まれるのに比べればずっとマシだ。 運転手には自宅方面にあるショッピングセンターを行き先として告げた。万が一後をつけられたとしても、人混みに紛れるチャンスがあるだろう。 実家住みの泉にとって、住所を知られるのだけはなんとしても避けなければならなかった。家族に被害が及びでもしたら一大事だ。 両手の掌が汗で湿る。 保木は、解雇された会社がある街で、一体何をしているのか——セクハラ事件の被害者がとっくに日本を発っていることだけが、泉にとって唯一の安心材料だった。 ショッピングセンターでタクシーを降りると、特に混雑しているフードコートや食品売り場を適当に歩き回り、背後を十分に確認してから路線バスで帰宅した。車内でも警戒を怠らず、乗ってくる人々を把握し易いよう最奥のシートに座る。 保木の目的が被害者女性と会うことだとしても、それは不可能だ。ただしそこに泉が現れれば——彼女の居場所を聞き出そうと捕まえる可能性はある。または、訴訟沙汰になった逆恨みをデザイン部全体に抱いていれば、誰でもターゲットになりうる。 もしくは、泉を見張ることで——保木は恐らく泉と彼女が恋人同士だと誤解していた節もあり——泉と彼女がどこかで会うのではと考えるかもしれない。 彼女はまだ在職中のうちから全てのSNSをシャットアウトし、保木に自分の情報が流れることを防いでいた。当たり前のことを辞めなければならず、日常生活で不便や我慢を強いられるのは、常に被害者側だ。 保木は泉の存在を疎ましがり、あからさまな嫌がらせをしていた。彼女が保木の命令で残業をする日は、必ず泉も残るようにしていたせいで、社内で二人きりになる機会を得られなかったからだ。 そしてそのいらだちと焦りが積もり、あの日、泉を含め誰も残業をしなかった日——ようやく彼女とふたりきりになれたと欲望を爆発させハラスメント行為に至った。 保木がそれを仕組まれたものだと知ったら、逆恨みはありえる。全てを失い、無敵の人に成り下がっていたら——何をするかわからない。 泉が、被害に遭っていた女性を守ろうとしたのは後輩だったというのもあるが、それよりも職場でハラスメントが発生していることに強い嫌悪感を持ったのが一番の理由だ。事態に介入したことについては一切後悔していないが——それが元で、家族へ害が及ぶようなことはあってはならない。 なんらかの解決が見込めるまで、自宅から会社へ通うのは避けたほうがいいだろう。音川からはフルリモートで良いと言われているが、問題は開発環境だ。 資産管理されている会社のPCを自宅に届けてもらうには手続きが必要で、総務部すらリモートワークの今では発送作業に時間がかかるのは明白だった。 *** 翌朝、泉は少し早めに家を出て喫茶店へ向かった。 9時にならないと音川が現れないのは分かっていたが、通勤時間のランダム化は保木対策として効果があると考えたからだ。まだ姿を見かけただけだが、嫌な胸騒ぎがあった。 「おはよう!早いのね!」 喫茶店のママの明るい声に、ホッと気持ちが軽くなるのを感じながら泉は昨日一昨日と座ったテーブルにつく。ステンドグラスのおかげで外から店内が見えないようになっているのが安心だ。ドアの開閉を考慮し、念のため入口に背を向けて座る。 「どうする?音ちゃん待つ?」 「はい。アイスコーヒーだけ先にもらってもいいですか?」 「もちろん!」 泉はスマートフォンでニュースなどをざっと流し見したが、内容は頭に入ってこないし、寝不足のせいか目が乾燥する。 軽く両目を閉じて、これから音川に会えるという事実だけを考えるようにしてただじっと待った。 間もなくして、トン、と右肩を優しく小突かれて目を開ける。 待ち人は柔らかく微笑みながら、「おはよ」と低く囁いた。高い頬が、ステンドグラスの光を受け輝いている。 「居眠りするほど早く来たの?」 「音川さん!」 「ん?朝から元気……でもないのかな。目が充血してる」テーブルの向かいにドカリと座りながらそう言うと、音川は泉に顔を寄せた。その微かな体温のぬくもりが、まるで鎧を纏ったかのような心強さを与える。 「来たばかりですが、ちょっとだけ寝不足で」 「まだ締め切りまで数日あるんだから、根を詰めてやらなくても」音川がなだめるようにささやく。 「作業の方は、ほぼ終わりました」 すぐにトーストの香ばしい香りが漂い、喫茶店のママがモーニングセットの乗ったトレイを器用に2枚運んでくる。それに気付いた音川がサッと立ち上がり、トレイを自ら受け取ってテーブルの上に並べた。 「今日はジムの日ですよね、そのウェア」 「うん」 「身体のラインが出すぎですよ」ラインどころか、間近で観察すれば筋肉の繊維一つ一つが確認できそうだ。 「着圧だから仕方がない。嫌なら見るなよ」 泉は、手に持っていたトーストでサッと目を覆ってふざけてみせた。 「そんなに見たくないなら、死角になるよう隣に座ってやる」 「暑いからやめて」 「遠慮すんな」 腰を浮かせて本気で席を移動しそうな音川に、泉はとうとう吹き出してしまった。 先程までのしかかっていた重たい不安感が、嘘のように溶かされていく。 こうして朝の時間を一緒に過ごし始めてまだ3日目なのに、なんだか、これが日常だったような錯覚。音川の体躯に合う低く落ち着いた声や、包容力のある佇まいがたまらなく心地良い。傍に居るだけで、どんなことも些細な問題に思えてくる。気持ちに余裕と自信がみなぎる。 「音川さん、今日、出社しませんか?」 「またか」 「前に、僕が出社する日は教えろって言ってませんでしたか」 「言った。昼も夜もメシに誘うって言ったね」 「ですよね」 「でもそれはモーニングに来るって知らない頃だろ」 「確かに。じゃあモーニングに来るのを止めたら、出社してくれますか?」止める気などさらさら無い泉だったがここは『もしも』だ。 「泉が出社する日にモーニングを一緒に食べていなければ俺も出社する、が成立するかって?」 「そうです」 「成立させるかよ。今日は例外処理だ。出社して、そんでメシも行こうか」 「夜も?」 「昼も夜も。それくらいの楽しみがないと行く気になんねえよ」 「やった!では、着替えに一旦家に帰りますよね?」 「うん」 「僕も、ついて行っていいですか?」 音川は同意しかけたが、すぐに外の熱気を思い出した。寝不足らしい青白い顔をした泉を無駄に歩かせて、熱中症にでもなったら大事だ。 「暑いし、ここで待ってて。30分以内には戻るよ。そうだ、何か追加しておこうか?ホットケーキとかオレンジジュースとか」 「またそうやって子供扱いする。音川さんでしょ、子供舌なの。僕はコーヒーも紅茶もずっと無糖です」 「分かったよ。ま、何でも頼んでいいから」 音川はそう言い残して喫茶店を去り、シャワーを浴びるのだからいくら汗をかいても構わないと軽くジョギングしながら自宅へ急ぐ。 玄関先に出迎えにきたマックスが、音川を一瞥してすぐにリビングへ戻る。 そのそっけない後ろ姿を見ながら、一昨日、泉が音川のマンションを去ったあとのマックスを思い出した。ニャーニャーとなにやら呼びかけながら、部屋をうろうろと歩き回ったり、閉まっているクローゼットの扉の前で開けてくれと要求したり。 きっと泉を探していたのだろう。何がそんなに気に入ったのか。 シャワーを終えて、クリームホワイト色のシャツと細身の濃緑のトラウザーズという通勤着に着替えた。どちらも光沢を抑えたシルク生地で、夏は涼しく冬は温かいという合理性を持つため年中着ている。シャツは夏仕様に袖を捲って胸のボタンは2つほど外す。音川のクローゼットには、これと同じ素材のシャツが7枚ある。通勤が当たり前だった頃は週末にまとめてクリーニングに出していたからだ。出社が激減した今では、2枚ほどあれば良いから残りは処分しようと思いながらまだできていないところが不精な性分を表している。 何度も捨てようと思うが、着替えを終わりウォーキングクローゼットの扉を閉めるともう忘れてしまう。 喫茶店に引き返して店のドアを開けると、ママが「んまぁ!」と歓声を上げた。その声に泉も顔を上げ、息を呑んだ。 「どうしたの音ちゃん、素敵じゃないの」 「ただの通勤着だよ」 「どこのハリウッドセレブの普段着かと思ったわ」 「……褒め言葉だろうな?」 軽口をたたき合う音川とママを見ながら、泉は音川の全身を見渡した。 出社時の音川を見るのは初めてではないが、今朝はママが言う通り、特に素敵に見えるのだ。上質なシャツは目のやり場に困るほど胸や腹の筋肉にぴったりと沿い、ブラウンの革靴はアンクル丈のグリーンのパンツに合う。どことなくヨーロッパ風で、一分の隙もない佇まいだ。前回の出社と左程変わらない出で立ちだが…… テーブル席に戻ってきた音川を間近に見て、泉はハッと気付いた。髪型だ。乾ききっていない豊かな黒髪が濡れて、後ろに掻き上げられている。普段は隠れている額が出ただけなのに、その色気は若干25歳の泉にも感じ取れるほどに強烈だった。 「とんぼ返りしてくれたんですか。髪が、まだ……」 「ん?うん。これだけ暑いとすぐ乾くだろ」 「あと、胸のボタン、もう少し留めた方が」 「なんだよ、今日は厳格なクリスチャンの母親並にチェックするじゃねえか。そのうち33歳の息子にセリバシーを説くんじゃないだろうな。もう遅いぞ」 「セリバシー……?」 「結婚まで肉体的な純潔を守ることだ」そう言って音川は泉のバックパックを手に持った。「行くぞ。朝からこんな単語を言う羽目になるとはな」と呟き、ママに軽く会釈をして店を出る。 「男の場合も結婚しなければ一生童貞ってことですか?」 「そうなるだろうな。しかし厳密には新約聖書にそういう記載は無い。信仰というより当時の習慣の強調だろう。知らんけど」 「へぇ。音川さんってクリスチャンですか?宗教の質問はタブーと知った上で聞いています」 「賢い聞き方するじゃねえか。俺が一番苦手なのが宗教だね。題材としては面白いが、それが戦争や迫害の理由に使われているのは、人類史の大きな汚点となるだろうね。ちなみに母方の祖父母はユダヤ系だがどちらも戦争前に離教している」 「じゃあ神様とか、奇跡は信じない?」 「信じている人達の中には少なくとも概念として存在しているのだから、一概に否定はしない。あくまで俺個人は、神も仏も幽霊もどうでもいい」 「そこに幽霊も並べるあたり本当にどうでもいいんですね」 「うん」 そこから2人で肩を並べて会社へ向かった。 道中、泉は音川への興味や好奇心が止められず、家族やポーランドについていろいろと質問をした。音川によって語られる宗教観や歴史は非常に面白く、一方音川はそれが社交辞令からくる質問や、混血の人間への妙な興味からでないことを感じ取り、聞かれたこと全てに丁寧に答える。 「離教していたということは、ナチからの迫害を逃れたんですよね」 「ああ。祖父側の曽祖父はナチスに所属したことがあったらしい。黒髪だからリストラされたんだと曽祖父の笑い話があるが、祖父曰く冗談なのは明白で、実際はSSへ昇格しそうになり除隊したんだろうとのことだ。ユダヤ教徒だったとバレたら厄介だ。そんな時代背景もあるかせいか、祖父母の大恋愛の話はなかなかにドラマチックだよ」 「それすごく聞きたいです!」 「長いし、彼らの一番の持ちネタだからなぁ」 音川は、「ちぇ」と不満気な発言をする泉に顔を向け——束の間、固まった。 唇を軽く尖らせて拗ねた様子で「いつか話してくださいね?」とほんの少し下から、だまったままの音川を覗き込む。 その大きな瞳は知的好奇心に満たされ輝いていて——とても、綺麗だった。 音川は喉の奥だけで低く唸り、胸に沸いた感情を押し殺そうとしたが——想像はとめられなかった。 いつか、泉を連れて祖父母の住むクラーカウを訪れて…… 「直接聞けばいいよ」 泉の目がハッと見開いたのを見て、音川は自分が声を出したことに気づく。 「ああ、いや、通話アプリで……たまに話すから、タイミングが合えば話せるよ。時差があるから日本じゃ夜中だけど」 「約束ですよ?ああ、音川さんが倫理の先生だったら、絶対に居眠りしなかったのに」 「寝てたのかよ」 「クラス全員寝てましたよ」 音川は生徒皆が寝ている教室を想像してしまった。 天気の良い日の午後で、教室の窓からはそよ風が吹き込み、もし俺が担当の教師なら一緒になってあくびを噛み殺しているかもしれず—— 「公民の教員にならなくてよかったよ。全員に寝られたらさすがに萎える」 「もしかして教員免許持ってるんですか?」 「公民の教員免許を取る課程があったような」 「あれ、でも理系じゃないんですか?」 「俺は哲学出身」 「意外……でもないのかな。いろんなことを知ってるから。もし音川さんが先生だったなら、僕は絶対に寝てないと思います」 「先生ね……」 (待てよ……8歳下ということは、泉が高校生で俺が教師はあり得るのか……) 職業とタイミングを変えて考えてみたせいで、意味のわからない背徳感に苛まれる。 その発想が泉から発せられたということは、彼は音川のことをそれくらい立場の違う人、自分の交友関係にいない年齢の人だと認識しているということに他ならない。 音川は、ゾッとし、改めて身を引き締めた。 泉は正しかった。距離を、置かなければ……このままではいけない。 電車に乗り込むと、多くの乗客が一瞬音川に目をやる。「モデル?」という女子高校生たちの憚らない声も聞こえる。本人にも届いているだろうが音川は眉一つ動かさず、ドア付近にもたれかかり、なにやら神妙な面持ちで外の風景に目をやっている。 泉はそれを開発者にありがちな思考の沼だと思い、声をかけるのをやめた。取れないバグがあるとか、まとまらないロジックがあるとか、プログラマは一見何もしていないようで頭の中はフル回転していることがよくある。 結局会社までの道中は「暑い」と言い合っただけでオフィスに到着した。 インド側で調整できなかった部分はすでに泉が全て改修しており、再検証を残すのみだった。 仕事が早くて正確なのは喜ばしい限りだが、その反面、音川は泉の充血した目や顔色の悪さを気にしていた。しかし、ただの会社の上司としては、どこまで体調について口出ししてよいものかが分からなかった。 本人から申告がない限り、『調子悪そうだね』などは言うべきでないのだろうか。 午前中の作業が終え、音川は昼食に魚料理の旨い定食屋を選んだ。 野菜の小鉢が数種類に具沢山の汁物が付いてくるが、その魚の出汁でとった汁物が格別に旨い。特に飲みすぎた日や疲労時には、栄養がじんわりと体内に染み入る。 泉も気に入ったようで、ここは定番にしたいとスマートフォンを取り出してわざわざマップに保存をしていたほどだ。 昼食を終えてオフィスに戻る道すがら、泉が「夜もある」とつぶやいた。 「メシか」 「はい。今日は3食全部音川さんと一緒だ」 「言われてみればそうだな」 「僕、明日も出社しますが」 「俺は明日は来れないよ」 午後の便でデスクとチェアが到着することになっている。大型家具だから置き配はできず、それに合わせて午前中は物置代わりになってしまっているリビング横の部屋を整理し、デスクとチェアを置けるように準備するつもりだ。 「残念です」 その声が存外深刻そうに聞こえたため、音川は泉に顔を向け——すぐに後悔した。 伏せた瞼は細い血管が透けそうなほどに薄く、明らかな落胆が表れている。 音川は心臓がギュッと掴まれたように痛んで、無意識に眉をひそめた。 泉はこれまで、仕事中にこんなふうな弱い表情を見せたことがない。 いつもは感じられない影のような、何かに気を取られている様子は気の所為ではないようだ。 「なあ、インドの件は今日の検証を終えたら一旦コンプリートとなるし、今すぐやってもらいたい作業もない。俺は課長からSOSが来てる別件に取り掛かった所だから、泉は、数日休んでもいいんじゃない?」 休息を勧めるのは悪い手じゃないだろう。 「そっか……家から出なければ……」と泉は休みなど考えたことがなかったかのようにつぶやいて天井を仰いだ。 「では、金曜と月曜で年休取得して、4連休でもいいですか」 「ちょうどいいね。休みは共有の予定表に入れて、念の為部内のグループアドレス宛に回してくれればそれでいいから。あとメールは自動応答の設定しといて」 「あ。モーニングは行きますので」 音川ははたと立ち止まった。「は?なんで?きみくらいの年齢だと寝ても寝足りないだろうに、わざわざ休みの日にまで会社の人間に義理立てしなくても……」 「義理……というか、僕は休みでも音川さんに会いたいからです。それに実家だから、朝寝なんてさせてもらえないし」 「そう……か? まあ、朝起きられたならおいで」 以前にも、泉から同じようなことを言われたような気がするが——媚やお世辞に聞こえず、笑い飛ばすことができなかった。 定時前には全ての検証を終えることができ、『締め切りより早いが』と前置きしてインド組へ完成の連絡をする。向こうも帰国前に全体を確認しておくことで、より安心できるだろう。 高屋や速水にとってみれば降って湧いた大変なトラブルだが、インドのT社には、日本の顧客を扱うテクニックを学ぶ良い機会になったはずだ。いや、そうあって欲しい。 帰り支度をしているところに、総務課長がふらりと顔を出した。在宅勤務になってから全員の出社状況がばらばらになり、戸締まりの前に見回っているとのことだ。 「泉くんは明日も出社だよね。僕は在宅なんだけど、1人で大丈夫かな?」 まるで小学生に問いかけているような課長の言い方に音川は吹き出し、「ごめん、子供じゃないのに」とあわてて課長がとりなすが、泉は「大丈夫です。音川さんにも子供扱いされていますから」とフォローにならないことを言う。 「仲良くやってそうだね」安心したように総務課長は2人に向かって頷いた。無論彼も泉の配置換えについて事情を知っていて、気にかけている様子だ。 「配属早々に一仕事終えた所だ。泉が優秀で嬉しいよ」 音川のストレートな言葉に、当人は遠慮がちに微笑み、少し俯いた。 「音川君が誰かを褒めるなんて珍しいんじゃない?」 「そうか?」 「少なくとも俺は聞いたことがないね」 「まあ、うちは全員優秀ですよ」 「ほら。それならいつもの音川君だけどさ。それにしても泉くんが残ってくれてよかったよ。結構な人数が退職したからね」課長が無意識にドアの向こうに目線をやった。デザイン部がある方角だ。 「応募は?」つられて音川もそちらに目線をやる。 「あるよ。それで音川くんさ、来週の採用面接に立ち会って欲しいと思って」 「うん。リモートでいいの?」 「応募者に対面かリモートか選んで貰ったが、見事に全員リモートだって」 「了解。日時が決まったら俺のスケジュールを埋めておいて」 「助かります。じゃ、おつかれさん」 総務課長はそう言うと手をひらひらを振りながら去っていった。かっちりとしたスーツに整えられた髪はいかにも総務課長とした然だが、飄々とした話し方で人好きする男だ。 「早速僕に後輩が出来そうですね」 「どうだか。百戦錬磨の中年エンジニアかもしれねーぞ」 「それでも後輩に違いないですから。もう定時ですか……お腹空きましたね」 「若いねえ」 「音川さんこそ、その筋肉なら結構食べないといけないんじゃないですか?」 「バルクアップしてるわけじゃない。腰痛にならないように筋トレしてたらこうなってしまったというだけだ。もともと食は細い方で、昔はラムネ食って生きながらえてた」 泉は、長身の先輩を上下にまじまじと見た。 大胸筋や二の腕の大きさは並ではないが、骨格が大きく手足が長いため、全体的にスリムな印象ではある。 筋肉が付く前は、一体どれほど痩せていたのか。 その日の夕食に音川が選んだ店は焼肉屋だった。テーブルに七輪が埋め込まれている本格的な炭火焼肉で、泉に好き嫌いがないことを確認し、適当に注文する。 最初の一口目で泉はピタリと動きを止め、「んんー」と唸った。 「旨い!」 「だろ」 「ごはん欲しい」 「それは締めにね。とにかくまず肉を食え」 この店は肉茶漬けという珍しいものがある。締めに必食の一品だ。腹筋の種目が苦手である音川はできるだけ夜の炭水化物を控えめにしているが、ここに来たからには、それを食べないわけにはいかない。 音川は焼けた肉を泉の取り皿に置き、自分はハイボールをあおる。 「僕ばかり食べてる気がする」 「俺も食ってるよ。でもある程度節制しないと胸焼けが……」 「大人になりたくない」 「そう。20代のうちに食っとけ」 泉は「じゃあ遠慮なく」とどんどん肉を口に運び、肉の脂で唇を光らせている。炭火の遠赤外線の影響もあるだろうが頬には血色が戻り、ずいぶん顔色も良くなったようだ。 満面の笑みでもぐもぐと口を動かしている泉につられ、音川も顔をほころばせる。 「かわいいね」 「ん、ぐ」と泉は軽く喉をつまらせ、烏龍茶を煽った。「音川さん、それ、ど、どういう意味ですか?」 しまったと思ったがもうすでに遅しで「あれだ。リスみたいだなって」そう誤魔化すことしかできなかった。口を滑らせるなんて、起こり得ないことに音川は動揺を必死に隠した。「リス可愛いから。そういう意味で言っただけで……誤解無きように……いずれにしても、ごめん」 「そんなの気にしませんよ。まあリスはかわいいですけど、僕リスっぽいですか?」 「いや、うん。さっきは……」 「すごく美味しくてがっついてたから、確かにほっぺ膨らんでたかも。でも、どうして今日はずっと居てくれるんですか?出社をねだった僕が図々しかったかな……」 「んー。インドの件、かなり頑張ってくれただろ。無理させたかもしれない」 「あ……いえ。自分でも今日は顔色が良くないって分かってるんです。でも……これは仕事に関係なくて……なので……すみません」 「いや、それならいいんだ。よかった。仕事のさせすぎじゃなくて」 「そんな、音川さん……」 「理由は何であれ、きみが少しでも元気になるなら、食事はいつでも付き合うよ」 食事を終えた二人は駅の改札をすぎたところで別れ、左右それぞれのホームへと続くエスカレータに乗る。 同じ沿線上だが泉の実家があるのは東方面、音川は西方面と真逆だ。先日、泉が送ってきた定期券によると、ここから6駅程で、音川の最寄り駅とは10駅離れている。 幸い、どちらも快速が停車する駅だから乗車時間はさほど長くはない。 音川はいつかのように、また向かいのホームに視線を投げずにいられなかった。 泉の姿は、センサーでも付いているかのようにすぐに見つけることができた。あちらのほうが先に音川を見ていたようで、視線を受けてすぐにパッと笑顔になり、身体の前で小さく手を振る。 (だからそれは駄目なんだよ……) 音川は苦虫を噛み潰しながら無理に笑うという芸当をして、片手で目を隠しながらもう片方の手を軽く挙げた。 あまりに愛らしく感じ、見続けていると線路を渡って攫いに行ってしまいそうだ。 翌朝も泉は通常通りにモーニングに現れ、「昨日聞いていますが、一応」と前置きをして、音川に出社の意思を再確認した。 「どうしても受け取らなきゃいけない荷物が届くから」と事情を説明して断る。 出社してほしい、イコール食事の催促とも取れるが、泉からあてにされることは音川とってもはや喜びだった。 可愛いと思っている対象が腹をすかせて甘えてくる姿には抗いがたい。庇護欲も含め、男の母性にも近い感覚かもしれない—— マックスにねだられるとついおやつをあげてしまうのと、少し似ている。 音川は降って湧いたようなこの奇妙な胸のざわめきを、猫への情と同様だと、自分なりに納得の行く形に解釈することにした。 その日は喫茶店前で解散し、音川は自宅へと戻った。デスクとチェアの到着予定は午後というざっくりした枠でしか指定できなかったことがもどかしい。 手が空いたタイミングで簡単に客間の掃除をしつつ、到着を待つ。 結局、16時頃に2名の業者により届けられ、デスクの組み立てが始まる。慣れたもので非常に手際がよく、15分程度で業者は全ての梱包材を回収して帰った。 昇降式デスクとPCチェアがあるだけで部屋らしくなり、リビングとを仕切る引き戸を開け放つと一気にリモートオフィスの体をなした。 マックスは新しい家具に興味津津で、デスクの上に登ったり、椅子の座面で丸くなってみたりなどいろいろと試している。 本来、猫は変化を嫌う生き物のため模様替えや引っ越しは避けたほうがよいとされているが、音川が見る限りマックスは例外で、変化を好むようだ。 それはフードにも言えることで、新しいフードは驚くほど食いつきが良い。パッケージに記載されているように『従来のフードと半分ずつ入れ替える』ことなど一切不要だ。 その代わりに、玩具に飽きるのが非常に早い。遊んでくれなくなった猫じゃらしがクローゼットにいくつも仕舞われている。 明日の金曜から泉の4連休が始まり、そしていよいよ速水と高屋が帰国する。 顔を見に行くのは来週までお預けだが、高屋の仕事ぶりに感心し興味を持った音川は、早く会ってインドの状況のあれこれを聞きたいと待ちかねていた。 定時直前に「ゆっくり休んで」と泉にチャットを送り、自分もオフラインになる。開発部では、休暇中の人間にはメールもチャットもしないのがルールで、本来なら泉は火曜日の出社まで誰とも連絡を取らないことになるはずだ。 しかし、わざわざモーニングを食べにくるという。 『会いたいから』と音川をまっすぐに見て言った泉を思い出すと、みぞおちの辺りがジンと熱くなった。 「たぶん俺も」 音川はデスクの上に座るマックスに向かって声を掛けた。 無論何のことかさっぱりだろうが、マックスは届いたばかりのチェアに試し座りをしている音川の顔に思い切り頭突きをしてきた。それがボクも泉に会いたいと意思表示をしているように思えてならない。 一方、出社していた泉は音川とほぼ同時にオフラインになったが—— 明日からの4連休に浮かれてはいられなかった。 駅前広場で見かけた保木の顔が脳裏にチラつく。今日は駅を迂回して、広場の反対のロータリー側へ直接行くのがベストだろうか。 会社にタクシーを呼ぶという手もあるが、出費も痛いし、それに何も悪いことをしていない自分が逃げ回る立場なのは納得がいかない。 泉は腹を括り社屋を出た。 真夏の18時前は明るく、今だけはアスファルトが照り返す眩しさが心強い。 足速に駅に向かい、繁華街に差し掛かかったところで——— 「おい」といきなりバックパックを思い切り後ろに引っ張られた。 不意のことでバランスを崩し、そのまますぐ背後にあるビルとビルの隙間に押し込まれる。 保木だ。 駅まで少し距離があることで警戒を怠った自分を恨んだ。しかも飲み屋が多いこの通りにはまだ人がまばらで、帰宅ラッシュにも早い。 「止めてください!」 不意でなければ抵抗できただろうが、黒い繭のような不穏な空気に包まれている保木からは、殺気すら感じられる。 「あの女、どこにやった?お前なら知ってるだろ?」 「知りません」 「どこに居ンだって聞いてんだよ!」 「知りません」 保木は泉の態度に業を煮やし、胸ぐらを掴み罵詈雑言を浴びせてきた。泉はそれに対して聞く耳を持たず、できる限り顔を背けてなすがままにさせた。 上背は泉のほうがある。170cmに満たないであろう小柄な保木を投げ飛ばすことは可能なように思えたが、いかんせん今は鬼気迫る状態で、現に泉の胸ぐらを掴んでいる力は相当なものだった。ギリギリと締め上げるようにTシャツの首を掴まれ、身長差がなければ既に窒息しているかもしれないほどだ。 足元を見ると、保木はほとんどつま先立ちの状態であった。 泉が両足の踵を上げて身長差を増やすと、バランスを失った保木の腕から力が緩む。 今だ!と泉は自分を叱咤激励し、保木の両手首を思い切り払いのけ、かろうじて地面に触れている程度だったつま先を蹴り飛ばす。 保木はなすすべなくそのまま地面にバッタリと倒れた。 「もう話すことはありませんから」 そう言い残して路地から離れ、駆け足で繁華街を抜けるとすぐにタクシーを拾った。 「どちらまで?」 運転手の問いかけに、最初に頭に浮かんだのは——音川の顔だった。 そうなると、もう胸が痛くなるほど熱く焦がれた。 音川が住む街の名前を告げると、ほとんど駅から駅への移動となるためか運転手は何か言いたげに口を開いたが、バックミラー越しに泉の様子を見て口を閉じた。飛び乗ってきたまま、まだ肩で息をしている。 「駅前で構いませんか?」とだけ確認して車を発進させ、10分もかからず到着する。 モーニングで訪れるようになってまだ日の浅い場所なのに、泉は言いようのない安堵を感じた。しかし、支払いのためスマートフォンをかざす自分の手はまだ震えている。 どこかで落ち着かなければ。 降車してすぐ、震える手のままで宿の予約サイトにアクセスし、近くのビジネスホテルを予約した。保木に、自宅を知られてはならないという決意の一心だった。 幸いにも4連休だから、家族にはこのままふらりと一人旅に出かけるとでも言えばいい。日々の連絡さえ途絶えなければ、25歳の息子が数日帰宅しないことなど意に介さないだろう。 手近なコンビニエンスストアで着替えや食料を調達するとすぐにホテルへ向かった。 無機質で徹底的に無駄が省かれたシンプルな客室が、高ぶっていた神経をなだめるのにちょうど良かった。きっちり整えられたベッドに腰を掛けると、そのまま仰向けにどさりと倒れる。 まったく、なんて日だ。 自分が男で、まあまあ高身長の部類でよかったと泉はつくづく思った。文字通り足元をすくう要領で転げさせることができて、無駄に暴力を振るわなくて済んだ。もちろん人を殴ったことも、蹴飛ばしたことも経験が無いから、あのまま殴り合いになっていればどうなっていたのか想像もつかない。 「くそ」と独りごちて起き上がり、浴室へ向かう。シャワーを浴びると、保木に掴まれた辺りにピリリと石鹸が染みた。 眠れる気は一切しなかったがすぐにベッドに潜り込んだ。 同じ街に音川がいる。 それだけが心の支えだった。

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