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第12話 執着

泉が仕事を終えて社屋を出るとすでに陽はとっぷり暮れ、駅まで続く繁華街は飲み屋を探す仕事帰りの人や、すでに出来上がって飲み屋から掃き出されてくる酔人で賑わっていた。 区切りの良いところで業務を終えるつもりがいつの間にか作業に夢中になり、つい時間を忘れてしまっていた。 できれば、明るいうちに帰宅したかったのだが—— いつものように改札口へ向かおうと駅の広場を横切っていると、何かが燃えているような、不快な煙臭が漂ってくる。その方角に目をやると喫煙エリアがあった。きっとマナーの悪い奴が火を消さずにタバコを放置したかだろう。 顔をしかめ足早に通り過ぎようとしたとき、アクリル板で仕切られた喫煙スペースの出入口で、保木に似た中年男が身体を覗かせていることに気がついた。 以前のような、いかにも高給取り然とした押しの強い服装ではなかったが、ギラついた顔つきは変わっていない。 ここ最近感じていた奇妙な視線が、気のせいではなかったと確信に変わった。 幸いにも、まだこちらを認識していないようで目は合っていない。死角になるよう駆け足でその場を離れ、駅の反対側にあるロータリーからタクシーに乗り込む。痛い出費だが、絡まれると面倒だ。 もう手遅れでないことを祈りながら、運転手には自宅方面にあるショッピングセンターを行き先として告げた。万が一、見られていたとしてもしてもそこで乗り換えるなりして保木を振り切るチャンスがあるだろう。実家住みの泉にとって、住所を知られるのだけはなんとしても避けたい。 両手の掌が汗で湿る。解雇された会社がある街で、一体何をしているのか。 保木が起こしたセクハラ事件の被害者がとっくに日本を発っていることだけが、泉にとって唯一の安心材料だった。 ショッピングセンターからは路線バスで帰宅した。乗客を把握し易いよう最奥のシートに座る。 本当に保木が泉を付け回しているとすれば、被害女性をかばっていたことへの逆恨みの可能性がある。もしくは、泉を見張ることで彼女に遭遇できると考えているのか。彼女が退社したことは調べられるだろうが、その後留学したことは知りようがないはずだ。 保木は在職中、泉の存在を疎ましがり、あからさまな嫌がらせをしていた。彼女が保木の命令で残業をする日は、必ず泉も残るようにしていたせいで、社内で二人きりになる機会を得られなかったからだ。 そしてそのいらだちと焦りが積もり、あの日、泉を含め誰も残業をしなかった日——ようやく彼女とふたりきりになれたと欲望を爆発させハラスメント行為に至った。 保木がそれを仕組まれたものだと知ったら、逆恨みはありえる。全てを失い、無敵の人に成り下がっていたら——何をするかわからない。 泉が、被害に遭っていた女性を守ろうとしたのは、彼女が学校の後輩だったというのもあるが、職場でそういう不条理なことが発生していることに強い嫌悪感を持ったのが一番の理由だ。介入したことについては一切後悔していないが—— それが元で、万が一家族へ害が及ぶようなことはあってはならない。 なんらかの解決が見込めるまで、自宅から会社へ通うのは避けたほうがいいだろう。 しかし、どうやって…… *** 翌朝、泉は少し早めに家を出て喫茶店へ向かった。 9時にならないと音川が現れないのは分かっていたが、通勤時間を変更することで保木に会うリスクが少ないと思えた。 「おはよう!早いのね!」喫茶店のママの明るい声に、ホッと気持ちが和らぐのを感じながら泉は昨日一昨日と座ったテーブルにつく。ステンドグラスのおかげで店の外から店内が見えないようになっていて安心する。ドアの開閉を考慮し、念のため入口に背を向けて座る。 「どうする?音ちゃん待つ?」 「アイスコーヒーだけ先にもらってもいいですか?」 「もちろん!」 スマートフォンでニュースなどをざっと流し見したが、内容は頭に入ってこないためすぐに仕舞った。これから音川がやってくるという事実だけを考えるようにして、ただ、じっと待っていた。 間もなくして、トン、と右肩を優しく小突かれ、顔を上げる。 「おはよ。今朝は早いね」 「音川さん!」 「ん?朝から元気……でもないのかな。目が充血してる」泉の向かいにドカリと座りながらそう言うと、音川は泉に顔を寄せた。音川の体温を少し感じただけで、まるで鎧を纏ったかのような心強さを与えられる。 「たぶん、ちょっと寝不足で」 「まだ締め切りまで数日あるんだから、根を詰めてやらなくても」音川が低くなだめるようにささやく。その優しい声が耳朶から染み込み、泉はこわばっていた身体がほぐれていくのを感じた。 まだ耐えられる。保木の存在に気が付いただけで、実際何かが起こったわけではない。 「作業の方は、ほぼ終わりました」 すぐにトーストの香ばしい香りが漂い、喫茶店のママがモーニングセットの乗ったトレイを器用に2枚運んでくる。それに気付いた音川がサッと立ち上がり、トレイを自ら受け取ってテーブルの上に並べた。 「今日はジムの日ですよね、そのウェア」 「うん」 「身体のラインが出すぎですよ」ラインどころか、間近で観察すれば筋肉の繊維一つ一つが確認できそうだ。 「着圧だから仕方がない。嫌なら見るなよ」 泉は、手に持っていたトーストでサッと目を覆ってふざけてみせた。 「そんなに見たくないなら、死角になるよう隣に座ってやる」 「暑いからやめて」 「遠慮すんな」 腰を浮かせて本気で席を移動しそうな音川に、泉はとうとう吹き出してしまった。 先程までのしかかっていた重たい不安感が、音川によって嘘のように溶かされていく。 こうして朝の時間を一緒に過ごし始めてまだ3日目なのに、なんだか、これが日常だったような錯覚。音川の体躯に合う低く落ち着いた声や、包容力のある佇まいがたまらなく心地良い。1秒でも長くそばに居たい。 「音川さん、今日、出社しませんか?」 「またか」 「前に、僕が出社する日は教えろって言ってませんでしたか」 「言った。昼も夜もメシに誘うって言ったね」 「ですよね」 「でもそれはモーニングに来るって知らない頃だろ」 「確かに。じゃあモーニングに来るのを止めたら、出社してくれますか?」止める気などさらさら無い泉だったがここは『もしも』だ。 「泉が出社する日にモーニングを一緒に食べていなければ俺も出社する、が成立するかって?」 「そうです」 「成立させるかよ。今日は例外として出社して、そんでメシも行こうか」 「夜も?」 「昼も夜も。それくらいの楽しみがないと行く気になんねえよ」 「やった!では、着替えに一旦家に帰りますよね?」 「うん」 「僕も、ついて行っていいですか?」 音川は同意しかけたが、すぐに外の熱気を思い出した。青白い顔をした泉を無駄に歩かせるのは心配だ。 「ここで待ってて。何か追加しておこうか?ホットケーキとかオレンジジュースとか」 「またそうやって子供扱いする。音川さんでしょ、子供舌なの。僕はコーヒーも紅茶もずっと無糖です」 「分かったよ。ま、何でも頼んでいいから。30分程度で戻る」 そう言い残して喫茶店を去り、シャワーを浴びるのだからいくら汗をかいても構わないと軽くジョギングしながら自宅へ急ぐ。 玄関先に出迎えにきたマックスが、音川を一瞥してすぐにリビングへ戻る。 そのそっけない後ろ姿を見ながら、一昨日、泉が音川のマンションを去ったあとのマックスを思い出した。ニャーニャーとなにやら呼びかけながら、部屋をうろうろと歩き回ったり、閉まっているクローゼットの扉の前で開けてくれと要求したり。 きっと泉を探していたのだろう。何がそんなに気に入ったのか。 喫茶店に引き返し、そこから2人で肩を並べて会社へ向かう。 電車内で泉は笑顔を絶やすことなく、家の猫たちや先日のマックスの写真やらを音川に見せていたのだが、なんとなく、表情に疲労の影があるように感じられた。仕事に根を詰めすぎなのではないか。 隣を歩く後輩の体調に少し気を配りながら、炎天下の中、オフィスに到着する。 インド側で調整できなかった部分はすでに泉が全て改修しており、再検証を残すのみだった。 仕事が早くて正確なのは大助かりだが、泉の充血した目や顔色の悪さはどうしても気にかかる。しかし、ただの会社の上司としてあまりに体調を心配しすぎても鬱陶しいだけだろう。自分にできることは美味いものを食べに連れていくことくらいだ。 25歳の男にはとにかく肉が効果的だろうと考え、夜は近くの焼肉屋に連れて行くつもりで、昼は魚料理の旨い定食屋を選んだ。野菜の小鉢が数種類に具沢山の汁物が付いてくるが、その魚の出汁でとった汁物が格別に旨い。特に飲みすぎた日や疲労時には、栄養がじんわりと体内に染み入る。 泉も気に入ったようで、ここは定番にしたいとスマートフォンを取り出してわざわざマップに保存をしていた。 昼食を終えてオフィスに戻ると、泉が「夜もある」とつぶやいた。 「メシか」 「はい。今日は3食全部音川さんと一緒だ」 「言われてみればそうだな」 「僕、明日も出社しますが」 「俺は明日は来れないよ」 午後の便でデスクとチェアが到着することになっている。大型家具だから置き配はできず、それに合わせて午前中はやや物置代わりになってしまっているリビング横の部屋を整理し、デスクとチェアを置けるように準備するつもりだ。 「残念です」 「まあそう言うなよ。今夜は焼肉に連れて行くから、ね?」 唇を尖らせて拗ねた顔を作っていた泉が、焼肉と聞いて満面の笑みになる。 「なあ、今すぐやってもらいたい作業もないし、俺は課長からSOSが来てる別件にとりかかってる。だから、泉は年休取っていいんじゃない?」 昼食のおかげかどうかは分からないが、泉の顔色は今朝に比べるとだいぶ回復している。しかしどこかしら、いつもは感じられない影のような、何かに気を取られているような様子は完全に抜けていない。 休息を勧めるのは悪い案じゃないはずだ。 「そっか……数日、家から出なければ……」と泉は休みなど考えたことがなかったかのようにつぶやいて天井を仰いだ。 「では、金曜と月曜で年休取得して、4連休でもいいですか」 「ちょうどいいね。予定表に入れて、念の為メールは自動応答の設定しといて」 「あ。モーニングは行きますので」 「なんでだよ?」泉くらいの年齢だと寝ても寝足りないだろうに、わざわざ休みの日にまで義理を果たさなくても。 「音川さんに会いたいからです。それに実家だから、朝寝なんてさせてもらえないし」 「そう……か? まあ、朝起きられたならおいで」 以前にも、泉から同じようなことを言われたような気がするが——媚やお世辞に聞こえず、笑い飛ばすことができなかった。 定時前には全ての検証を終えることができ、『締め切りより早いが』と前置きしてインド組へ完成の連絡をする。向こうも帰国前に全体を確認しておくことで、より安心できるだろう。 高屋や速水にとってみれば降って湧いた大変なトラブルだが、インドのT社には、日本の顧客を扱うテクニックを学ぶ良い機会になったはずだ。いや、そうあって欲しいという願望か。 帰り支度をしているところに、総務課長がふらりと顔を出した。在宅勤務になってから全員の出社状況がばらばらになり、戸締まりの前に見回っているとのことだ。 「泉くん、ここの鍵は貰ってるよね?」 「はい、あります」 「僕、明日は在宅なんだけど、1人で大丈夫かな?」 まるで小学生に問いかけているような課長の言い方に音川は吹き出し、「ごめん、子供じゃないのに」とあわてて課長がとりなすが、泉は「大丈夫です。音川さんにも子供扱いされていますから」とフォローにならないことを言う。 「仲良くやってそうだね」安心したように総務課長は2人に向かって頷いた。無論彼も泉の配置換えについて事情を知っていて、気にかけている様子だ。 「こんなに優秀なエンジニアが来てくれて、嬉しい限りだよ」 音川のストレートな言葉に、泉は遠慮がちに微笑み、少し俯いた。 「音川君が誰かを褒めるなんて珍しいんじゃない?」 「そうか?」 「少なくとも俺は聞いたことがないね」 「まあ、うちは全員優秀ですよ」 「ほら。それならいつもの音川君だけどさ。それにしても泉くんが残ってくれてよかったよ。結構な人数が退職したからね」課長が無意識にドアの向こうに目線をやった。デザイン部門がある方角だ。 「応募は?」つられて音川もそちらに目線をやる。 「あるよ。それで音川くんさ、採用面接に立ち会って欲しいと思って」 「うん。リモートでいいの?」 「応募者に対面かリモートか選んで貰ってる」 「了解。どっちも参加するよ。日時が決まったら俺のスケジュールを埋めておいて」 「助かります。じゃ、おっつー」 総務課長はそう言うと手をひらひらを振りながら去っていった。かっちりとしたスーツに整えられた髪はいかにも総務課長とした然だが、飄々とした話し方で人好きする男だ。 「出社が増えそうですね」 「だな」 「お腹空きましたね」 「若いねえ」 「音川さんこそ、その筋肉なら結構食べないといけないんじゃないですか?」 「バルクアップしてるわけじゃない。腰痛にならないように筋トレしてたらこうなってしまったというだけだ。もともと食は細い方で、昔はラムネ食って生きながらえてた」 泉は、長身の先輩を上下にまじまじと見た。 大胸筋の大きさと、半袖のポロシャツから出た二の腕の太さは並ではないが、たしかに、骨格が大きく手足が長いため、全体的にスリムな印象ではある。 筋肉が付く前は、一体どれほど痩せていたのか。 音川が選んだ焼肉屋はテーブルに七輪が埋め込まれている本格的な炭火焼肉だった。泉に好き嫌いがないことを確認し、適当に注文する。 最初の一口目で泉はピタリと動きを止め、「んんー」と唸った。 「旨い!」 「だろ」 「ごはん欲しい」 「それは締めにね。とにかくまず肉を食え」 この店は肉茶漬けという珍しいものがある。締めに必食の一品だ。腹筋の種目が苦手である音川はできるだけ夜の炭水化物を控えめにしているが、ここに来たからには、それを食べないわけにはいかない。 音川は焼けた肉を泉の取り皿に置き、自分はハイボールをあおる。 「僕ばかり食べてる気がする」 「俺も食ってるよ。でもある程度節制しないと胸焼けが……」 「大人になりたくない」 「そう。20代のうちに食っとけ」 泉は「じゃあ遠慮なく」とどんどん肉を口に運び、肉の脂で唇を光らせている。炭火の遠赤外線の影響もあるだろうが頬には血色が戻り、ずいぶん顔色も良くなったようだ。 満面の笑みでもぐもぐと口を動かしている泉が、たまらなく可愛かった。 こんなことで喜んでもらえるなら、いつでも誘うのに。 食事を終え、2人は駅の改札をすぎたところで別れ、左右それぞれのホームへと続くエスカレータに乗る。同じ沿線上だが泉の実家があるのは東方面、音川は西方面と真逆だ。先日、泉が送ってきた定期券によると、ここから6駅程で、音川の最寄り駅とは10駅離れている。 幸い、どちらも快速が停車する駅だから乗車時間はさほど長くはない。 翌朝も泉は通常通りにモーニングに現れ、「昨日聞いていますが、一応」と前置きをして、音川に出社の意思を再確認した。 「どうしても受け取らなきゃいけない荷物が届くから」と事情を説明して断る。 音川に出社してほしいイコール食事の催促とも取れるが、泉からあてにされることは音川とって喜びだった。それはマックスにねだられるとついおやつをあげてしまうのと、少し似ている。 可愛いと思っている対象が腹をすかせて甘えてくる姿には抗いがたい。庇護欲も含め、男の母性にも近い感覚かもしれない—— その日は喫茶店前で解散し、音川は自宅へと戻った。デスクとチェアの到着予定は午後というざっくりした枠でしか指定できなかったことがもどかしい。 手が空いたタイミングで簡単に客間の掃除をしつつ、到着を待つ。 結局、16時頃に2名の業者により届けられ、デスクの組み立てが始まる。慣れたもので非常に手際がよく、15分程度で業者は全ての梱包材を回収して帰った。 昇降式デスクとPCチェアがあるだけで部屋らしくなり、リビングとを仕切る引き戸を開け放つと一気にリモートオフィスの体をなした。 マックスは新しい家具に興味津津で、デスクの上に登ったり、椅子の座面で丸くなってみたりなどいろいろと試している。 本来、猫は変化を嫌う生き物のため模様替えや引っ越しは避けたほうがよいとされているが、音川が見る限りマックスは例外で、変化を好むようだ。 それはフードにも言えることで、新しいフードは驚くほど食いつきが良い。パッケージに記載されているように『従来のフードと半分ずつ入れ替える』ことなど一切不要だ。 その代わりに、玩具に飽きるのが非常に早い。遊んでくれなくなった猫じゃらしがクローゼットにいくつも仕舞われている。 明日の金曜から泉の4連休が始まり、そしていよいよ速水と高屋が帰国する。 顔を見に行くのは来週までお預けだが、高屋の仕事ぶりに感心し興味を持った音川は、早く会ってインドの状況のあれこれを聞きたいと待ちかねていた。 定時直前に「連休はゆっくり休んで」と泉にチャットを送り、自分もオフラインになる。開発部では、休暇中の人間にはメールもチャットもしないのがルールで、本来なら泉は火曜日の出社まで誰とも連絡を取らないことになるはずだ。 しかし、わざわざモーニングを食べにくるという。会いたいから、と音川をまっすぐに見て言った泉を思い出すと、みぞおちの辺りがジンと熱くなった。 「俺も」 音川はデスクの上に座るマックスに向かって声を掛けた。 無論何のことかさっぱりだろうが、マックスは届いたばかりのチェアに試し座りをしている音川の顔に思い切り頭突きをしてきた。それがボクも泉に会いたいと意思表示をしているように思えてならない。 一方、音川と同様にオフラインになった泉だが—— 4連休に浮かれてはいられなかった。 昨日、駅前広場で見かけた保木の顔が脳裏にチラつく。今日は迂回して昨日と同じくロータリー側へ直接行くのがベストだろうか。 会社にタクシーを呼ぶという手もあるが、出費も痛いし、それに毎日のようにタクシーで帰宅していた保木を思い出させて不快だ。 そもそも何も悪いことをしていない自分が逃げ回る立場なのは納得がいかない。 泉は腹を括り社屋を出た。 真夏の18時前は明るく、今だけはアスファルトが照り返す眩しさが心強い。 足速に駅に向かい、駅へと通じる繁華街に差し掛かかったところで——— 「おい」といきなりバックパックを思い切り後ろに引っ張られた。 不意のことでバランスを崩し、そのまますぐ背後にあるビルとビルの隙間に押し込まれる。 保木だ。 まだ駅まで少し距離があることで警戒を怠った自分を恨んだ。しかも飲み屋が多いこの通りにはまだ人がまばらで、帰宅ラッシュにもまだ早い。 「止めてください!」 不意でなければ抵抗できただろうが、黒い繭に包まれたような不穏な空気に包まれている保木からは、殺気すら感じられる。 「あの女、どこにやった?お前なら知ってるだろ?」 「知りません」 「どこに居ンだって聞いてんだよ!」 「知りません」 保木は泉の態度に業を煮やし、胸ぐらを掴み罵詈雑言を浴びせてきた。泉はそれに対して聞く耳を持たず、できる限り顔を背けてなすがままにさせた。 上背は泉のほうがある。170cmに満たないであろう小柄な保木を投げ飛ばすことは可能なように思えたが、いかんせん今は鬼気迫る状態で、現に泉の胸ぐらを掴んでいる力は相当なものだった。ギリギリと締め上げるようにTシャツの首を掴まれ、身長差がなければ既に窒息しているかもしれないほどだ。 足元を見ると、保木はほとんどつま先立ちの状態であった。 泉が両足の踵を上げて身長差を増やすと、バランスを失った保木の腕から力が緩む。 今だ!と泉は自分にGOサインを出し、保木の両手首を思い切り払いのけ、かろうじて地面に触れている程度だったつま先を蹴り飛ばす。 保木はなすすべなくそのまま地面にバッタリと倒れた。 「もう話すことはありませんから」 そう言い残して路地から離れ、駆け足で駅とは反対方向の街道沿いからタクシーを拾った。 「どちらまで?」 運転手の問いかけに、最初に頭に浮かんだのは、音川のことだった。そうなると、もう胸が痛くなるほど熱く焦がれた。 運転手に音川が住む街の名前を告げると、ほとんど駅から駅への移動となるためか運転手は何か言いたげに口を開いたが、バックミラー越しに泉の様子を見て口を閉じた。飛び乗ってきたまま、まだ肩で息をしている。 「駅前で構いませんか?」とだけ確認して車を発進させ、10分もかからず駅前に到着する。 モーニングで訪れるようになって、まだ数日しか経っていない駅なのに、泉は言いようのない安堵を感じた。しかし、支払いのためスマートフォンをかざす自分の手が、まだ震えている。 どこかで落ち着かなければ。 タクシーを下りてすぐ、震える手のままでスマートフォンを操作し、最悪の事態に備えて駅近くのビジネスホテルを予約した。幸い4連休で、家族にはふらりと出かけるとでも言えばいい。 保木に、自宅を知られてはならないという決意の一心だった。 ちょうど目の前にあるコンビニエンスストアで着替えや食料を調達するとすぐにホテルへ向かう。 無機質で徹底的に無駄が省かれたシンプルな客室が、高ぶっていた神経をなだめるにはちょうど良い。きっちり整えられたベッドに腰を掛けると、そのまま仰向けにどさりと倒れた。 まったく、なんて日だ。 自分が男で、まあまあ高身長の部類でよかったと泉はつくづく思った。文字通り足元をすくう要領で転げさせることができて、無駄に暴力を振るわなくて済んだ。もちろん人を殴ったことも、蹴飛ばしたことも経験が無いから、あのまま殴り合いになっていればどうなっていたのか想像もつかない。 「くそ」と独りごちて起き上がり、浴室へ向かう。シャワーを浴びると、保木に掴まれた辺りにピリリと石鹸が染みた。 逃げ回るつもりはない。 今夜はネットを駆使して、自分に何ができるかを調べて、対策を立てる。どのみち眠れる気は一切しない。 同じ街に音川がいる。 それだけが心の支えだった。

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