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第13話 じわりと滲む境界線の上で
まんじりと眠れぬ夜を過ごした泉は、朝9時になるのを待ちかねてホテルをチェックアウトした。
一心に音川の顔を思い浮かべながら、北通り商店街まで早足で向かう。
喫茶のドアを開けるとすぐに音川と目が合った。
すっかり二人の定位置となった店内奥のテーブル席で、ソファの背に片腕を乗せ広い胸を開き、反対の手には新聞を持ったままで、泉に笑顔を向けている。
毎朝、最初に目が合う瞬間は心臓がドクリと動く。
それは日を追うごとに大きくなっているように思うが、今朝のそれは格段に大きかった。身体ごと跳ねるかと思うほどに心臓が跳ね上がり、一気に全身へ血液を送り出す。
「音川さん!」
「ん?おはよう」勢い付いている泉に対して音川は普段よりゆっくりと発声し、それに合わせてほほえみも次第に強くした。
「早起きしたのか。偉いぞ」
泉が座ってまもなく、「おすそ分け」と喫茶のママがテーブルにメロンが入ったガラスの器を置いた。よく熟れてつやつやと輝いている。
今朝は、そんなことでも泣きそうになるほど嬉しい。
泉は早速フォークを手に取り、柔らかい果肉を口内で押し潰した。
「俺のも食べて」
音川の低く滑らかな声はとても甘美で、メロンの果汁と共に体の細胞一つ一つに染み渡っていくようだった。そして泉は、その言葉にありもしない性的な誘惑を見出してしまい、身体を熱くした。
どうやら、寝不足と疲労で自律神経が狂ってしまったらしい。
「……メロン、嫌いなんですか」
「ん?普通、かな」音川は気もそぞろに返答した。
特段好き嫌いは無いが、今は、目前の泉に見蕩れていることを気取られなければなんでもよかった。
「……おいしい?」
「すごく美味しいですよ。本当に食べちゃっていいんですか?」
「うん」
「では一つだけどうです?」そう言いながら泉は一口大に切られたメロンをフォークに刺し、音川の口元に持っていった。
「おい、」
「甘いですよ」
唇に当たるほど間近に差し出されていたため、音川は観念して薄い唇を開き、そのつやつやときらめく果肉をパクリと口に入れた。
「確かに甘い」
照れと、先程から脳裏にちらりと差し込まれてくる良くない思考を振り切るために、当たり障りのない会話を探そうとしたがすぐには見つけられなかった。
音川は自分が覚えている限り、これまで対外的にも内向的にも、性的な感情を持ったことがない。どんなアダルトコンテンツを見ても何とも思わないし、自ら想像することもない。速水からは『聖人め』とからかわれるが、音川にはあらゆる『欲』が無いのだ。自慰すらしないので、肉体関係を望むこともない。
しかし望まれることはあるので、気が合えば付き合ってみたりもするが、その性質ゆえに相手の気持ちに添えず、そう長くも持たずに見放される。嘘っぱちな言葉を口にして期待させることはしないのである意味では誠実なのだが、傷付けていることに違いはないのでそれが辛く、また不便な限りだった。
納得付くな相手であれば多少は気が楽だが、それでも無責任なようで気乗りはしない。たしか、『高性能セクサロイド』や『高品位レプリカント』と音川本人に言い放ち、朝の来ない日々をしばらく強いたのは大学時代の講師だったか——
ようは音川の性愛はオンデマンドなのだ。望まれればそれなりのことはできるが、そこに自主性や所有欲や気持ちが伴わない。
それなのに——
残りの果肉を口に含み、軽く目を閉じて微笑みを浮かべている泉が、まるで快楽に身を委ねているかのように見えてしまい、音川は背筋をぞくりと震わせた。
泉にこんな表情をさせることができるメロンに対して、嫉妬してしまいそうだった。こんな公の場所でなんて顔をするんだと叱り飛ばしたくなる。そして寝室に引っ張り込んで極上の快楽を与え続け、そのままずっと独り占めしたいとまで思ってしまう。
音川はテーブルに両肘を付き、頭を抱えるようにして俯いた。
自分にこんな欲があったなど——新しい発見だが、全くもって喜ばしくない。
相手がよりによって、職場の部下だからだ——
禁忌も甚だしい。
昨日も、自戒したはずだ。音川は、自分の中に芽生えた暗い感情を治めたくて、大きくため息をついた。
一方、喫茶のママは長年の水商売で培った洞察力を駆使して観察に余念がなかった。
常連になって長い音川だが、この十全十美の男はその微塵の隙もない姿ゆえ絵のように無機質で、浮いた話はおろか私生活すら垣間見せたことがない。それがここ最近、急に生身の男を感じさせるようになったのだ。
見せたことがない顔——戸惑い、焦り、照れたような微笑み、色気——全て、泉を前にした時にだけ引き出されている。
職場の後輩だと聞いているが、泉は本来の音川を知らないのかもしれない。それとも、初めから音川はこの若者の前では『こう』なのか——
願わくば、この二人を毎朝見れる日々が続けばいいが——いや、二人で朝寝防して、モーニングの時間に間に合わないなんて日がある方が健全かしら——
ママはほくそ笑んで、テーブルに向かった。
背中越しにも分かるほど疲弊している音川の連れの前に追加のメロンを出すと「熟れすぎる前に全部食べちゃって」と背中にそっと手を置いて言い、すぐに踵を返した。
「あ、ありがとうございます!嬉しい」
音川は、泉をこれ以上見ないようにするために視線のやり場所を探して、傍らに置いてあった新聞を手に取った。おかわりのメロンはそれなりに量があり、ママに恨み言を言いたい気分だ。
「……で、4連休何するの?」目線は新聞記事に落としたままで問う。
「特に何も……のんびりしたいかな」
「まあ、急な休みだしな。この後は別件に入ってもらうし、今は休息第一で」
「どこか山奥の温泉にでも行ければ最高なんですが……こう暑くちゃ、エアコンのきいた屋内が一番いいのかも」
そう呟きながら、泉は顔を窓へと向けた。
細く長い首筋が、音川の前で露わになる。
「疲れ……取れるといいね」と同意しながら音川はそこに奇妙な痕を見つけて、注視しようと眉根を寄せた。
赤いミミズ腫れのような筋が数本認められる。
そして、記憶が確かなら、泉は昨日と同じ服装のようだった。
首筋がよく見えるのは、Tシャツの襟首がだらりと伸び切っているせいだ。左側は鎖骨までむき出しになり、しかも、襟周辺のところどころに赤黒い染みがある。いつも小綺麗にしている泉が、その汚れに気が付いていないのはおかしい。
昨晩、何かがあり、そのまま着替えていないのは明白だった。
目の下の隈は昨日より濃く、泉から感じられるのはひりついた空気で——
たとえば恋人との甘い夜を過ごしたような名残や、友達と朝まで楽しく呑んだような明るい疲労感は、一切感じ取れなかった。
先ほどまで音川を苛んでいた不埒な欲望は瞬時に飛び去り、代わりに奇妙な不安感が胸を充満する。目からの情報が何か良くないものであると、身体が反応している。
ダイレクトに聞いてみるか——いや、下手をすれば、心を閉ざされる可能性もある。先日も、『寝不足は仕事に関係ない』と泉の口から聞いたばかりではないか——
それでも、一度湧いた心配は拭えなかった。
見て見ぬふりが正解だとはどうしても思えなかった。
音川はアイスコーヒーで乾いた口内を潤した。グラスの結露がぽたりと落ち、ため息とともに芳醇なアロマが鼻腔に広がる。
「昨日、家に帰ってないの?」端的だができる限り柔らかく聞こえるように注意して口火を切った。
「……はあ、まあ」泉には珍しい歯切れの悪い反応だった。
「ふーん……。泉くん、そういう日は、俺とのモーニングなんて来ちゃだめだよ?」
「どういう意味ですか」泉は少しだけ眉をひそめた。以前のように『くん』を付けられたことで少し距離を感じたのだ。
「そりゃあ……朝起きてすぐに彼氏が出ていったら、恋人が悲しむだろ?」
「なっ……!!なんでそんなッ……!」
予想よりも大きく動揺し椅子から立ち上がりかけた泉を、音川は手の動きだけで静止し、その手をテーブルの上で組んで泉をじっと見つめた。
泉は、少しでも早く音川に会いたいと焦ってしまったことを後悔した。ここに来る前に着替えるべきだったが頭が回らず、外泊したことを指摘されてしまった。
「恋人なんているわけないのに……」絞り出すようにそう言って泉は俯いた。
「ああそう。じゃあ何、その傷」
泉は、今まで聞いたことがないほど低く堅い音川の声に、驚いて顔を上げる。
グリーンの瞳がゾッとするほど冷たく光り、石矢のように泉を貫き見据えている。
こんなに冷淡な顔をした音川を、泉は知らない。
「あ……これは、」身体が竦んで言葉が出てこない。
個人的な事情のため、本来は社外で部下と交流しない音川に話してよい事柄ではないはずだ。
しかし——音川が望んでくれるのであれば——
泉は決意が揺らめきそうになり、軽く首を振った。
だめだ。頼ってしまいたくなりそうで怖かった。弱さをひけらかすことで同情を誘うなど、男としてプライドが許さない。
音川は言葉が続かない泉に業を煮やし、腕を伸ばして顎先に指をあてがい、ついと上を向かせた。
むき出しの首や鎖骨をじっくりと観察する。
前側から周りこむように線状の内出血がある。明らかに圧迫痕だ。そして鎖骨の骨の隆起した部分は皮膚が剥がれ、乾いた湿潤液の奥に肉が見えている。他にも内出血に沿うように無数の裂傷があり痛々しいことこの上ない。
——Tシャツの伸び具合からみて、胸ぐらを思いっきり掴まれて締め上げられたとしか考えられない。
音川は唇を硬く噛み締めた。
一体、誰がこんな……。
プライベートの時間にあった出来事だ。無理に聞き出しはしない。
しかし、泉が求めてくれれば、力添えは惜しまないのだが——
音川は泉の無言を『会社の人には関係ない』と言う意思の現れだと解釈した。
眼の前にいる泉は、もう果汁の甘みなど無かったかのように黙々とトーストをアイスコーヒーで流し込んで、とにかく完食するためだけに手を口を動かしているように見えた。
それは音川も同じだったろう。
そのまま無言で食事を終えて喫茶店を出ると、泉は、「じゃあこれで」と俯いて告げるやいなや音川に背を向けて一歩踏み出した。
とぼとぼと去っていく姿は痛々しく、いつも隣で楽し気にしている泉とは別人のように生気が無い。
部下との『適切な距離』の取り方に迷う日が来るなるなんて思いもしなかった。
北口商店街の端にあるアーチを通り抜けるとすぐに駅で、泉は行き交う人々に紛れて見えなくなってしまった。
何かが——正しくない。
音川の足は思考より早く動いていた。
泉を改札の手前で見つけ、後ろから手首をがしりと掴む。
泉は、ビクリと肩をすくめ振り向いた。
その顔は恐怖に歪み、血の気は失せ、音川はようやく泉の怯えの深刻さを知った。
「ッ……!音川さ……!?」
「ちょっと来て」
掴んだ手首をぐいと自分の方へ引き寄せ、ほとんど抱きしめるような距離でそう告げ、呆然とする泉を駅舎の外へ引っ張っていく。
「ど、どうして」
そんな傷付いた姿で外を歩いて欲しくない、と言いかけてやめる。私情だからだ。
「予定、無いんだろ」
「ですが……」
泉の顔が今にも泣き出しそうにくしゃりと歪んだ。音川はそれを、自分に掴まれている手首の痛みのせいだと思い、急いで手を離した。
「ごめん。どこか行きたい場所があるのか?」
「いえ……。音川さん。僕……家に帰りたくなくて……あの……」
「じゃあ、うちにおいで。マックスが会いたがってる」
ちょうどタクシー乗り場に空車が停車し、音川はそっと泉の肩に手を回して先に乗車させてから車内に滑り込む。
「少し……強引だったか?」
「そんな……」泉は首を振って全力で否定した。
「なら、よかった」
間近に音川の体温を感じ、泉は自分が欲していたものの正体を自覚した。
長い手足と広い胸を持つ強靭な身体からオーラのように揺らめき立つ包容力。それが盾のように泉を外敵から覆い隠し、時々囁かれるしっとりと低く深い声は、心のささくれを取り除き、破れた皮膚に安穏の軟膏を塗布してくれる。
***
マックスは泉を見るなりニャーンと大きく鳴き、急かすように脱走防止柵に身体をぶつけてくる。「退いてくれないと開けられないから」と音川が困ったようになだめるが、なかなか聞き分けがない。その様子がまるで親子のようで、泉は微笑んだ。
そうだ。
いつも音川の周りには小さな幸福があり、それは傍にいる人間を自然と笑顔にする。
「嬉しい」と泉が思わずが呟くと、「嬉しいのはマックスさんの方だよ。あれから、ずっと泉のことを探して……ね、よかったね」と語りかけながら脱走防止柵のロックを外す。
カチャリと軽い音を立てて柵が開き、「探してくれたの?」と泉が話し掛けると、マックスは待ちかねて泉のすねに身体を擦り付ける。
「リビングにいて」と音川は泉とマックスに告げてから、バスルームでざっと湯船を洗い、湯張りのボタンを押す。
次に、寝室のクローゼットから適当な着替えを見繕ってくると何かで貰ったままだった未使用のバスタオルと共に浴室に置いて、そっと玄関から外へ出た。
家には、ミネラルウォーターの在庫すら心もとない。
音川は何も考えず、ただ自分がやるべきだと感じたことを行うことにした。意義だとか、泉を連れてきてしまったことなどは一旦家に置きざりにして、大急ぎで最寄りのコンビニエンスストアへ赴くと、思いつく限りのものをカゴへ放り込んだ。
ドリンクや食料の他、消毒液、絆創膏、入浴剤、着替え用の下着類。
それらが入れられた袋をガサガサ鳴らしながら帰宅し、とりあえず冷蔵庫に仕舞っていると、給湯の終わりを告げる自動音声が流れた。
「休日の朝風呂はいいぞ。ほら」音川は泉に買ってきたばかりの入浴剤を差し出した。夏用で清涼感のあるものだと青いパッケージが表している。
「いいんですか」マックスを抱いた泉は受取りながら、遠慮がちに小首を傾げる。
「うちにあるものは全て好きに使っていい。自分の家だと思って寛いで。いいね?」
「あの……」
「ん?」
「何も聞かないんですか……?」
「まず、お風呂でのんびりしておいで」
ありがとうございます、と細く礼を述べ俯いた泉の瞳から、ぽたりと一雫の涙がフローリングに落ちたが音川はそれを見ていないことにした。
泉は抱いているマックスを廊下にそっと下ろし、「ドアは開けておくね」と優しく声をかけ、うるんだ瞳のままで音川に小さく笑顔を返した。
「じゃあ頃合いを見て……」
「えっ、音川さんも?あ、でも、狭っ、いや、広いですけど」
「マックスが様子を見に行くと思う」
慌てる泉の頬や首がカッと赤くなるのが分かり、音川は気分が変わってきたかと安心する。猫の力は偉大だ。
「からかわないでくださいっ」
ははは、と音川は大きく笑って見せ、同じく猫のためにドアは半開きにしたままで仕事部屋へ入った。
社用PCに向かい早速朝のルーティーンを開始しながら、泉を連れて来て正解だったと確信する。喫茶を出た時は暗い霧の中にいるようだった泉の瞳に、輝きが戻るのが分かった。落とした涙は悲しさが生み出したものではないはずだ。
帰れない、というのは家族の問題か、友人関係か。
なんであれ、音川は自分が介入できる可能性に言いようのない喜びを感じていることを認めたが、それは新たな疑問を引き連れてきた。
——俺は、一体あいつの何になりたいんだ。
思考がそちらへ囚われそうになる直前で踏みとどまり、仕事モードへ切り替える。
課長の件は大体の道筋を立てたから、先方との会議日程を調整して、それまでに解決への工程を資料化しておかなければならない。
先方に訪問の打診メールを送り、さて資料か……面倒だな。
待てよ、資料化してくれるAIを開発した方が今後ずっと楽に……
「音川さーん?ちょっと来て」
面倒な作業から逃れるために脱線しかけていると、浴室独特のエコーを響かせた泉の声が聞こえた。入浴中に呼び出されても、困る。仕事を中断することで、ではない。
「俺は今から資料化AIを……」ぶつぶつ述べながら行き、浴室のドアの隙間に手をかけて、迷いを振り切って勢いよく全開にした。
マックスが、湯船のへりを器用に歩き回りながら澄んだ水色の湯に顔を近づけ、それを湯に浸かっている泉が「入浴剤が入ってるから」と捕まえようとしているが、入浴剤のとろみで滑って体勢が安定しない。
音川はドア縁にもたれかかり、繰り広げられる愛らしい攻防戦をしばらく鑑賞することにした。
「音川さん!笑ってないでマックスを捕まえてくださいよ。落ちちゃう」
「からかわれてるんだよ」
「そんなあ」
「大丈夫。飲まないし、落ちないよ。風呂が好きなんだ」
「変わった猫だなあ、キミ」
浴室に満ちている蒸気がまるでぽわりぽわりと楽しげに弾んでいるようだった。
「放っておくとそのうち隅で落ち着くから」
音川はそう言いながら、Tシャツの襟を引き上げて、頭から抜き取るように脱いだ。
マックスは子猫の頃から音川が湯船に浸かる時も必ず浴室に入ってきては、バスタブの縁へ飛び上がってきていた。一度ならず足を滑らせて落ちたこともあるが、その際に上手く猫かきをして平然と泳いで見せた。成猫になってからは落ちなくなったし、浅く湯を残しておくと、これ幸いと足湯を嗜みにくる。
「腹筋、すご……」湯船から音川を見上げた泉が、感嘆の声を上げた。
「そうでもないけどね」
スウェットパンツに手をかけたその時、仕事部屋から通話の着信音が鳴り、音川はハッと我に返った。
何のつもりでシャツを脱いでいるのか——
自然とそうなったようにも思うし、意図があった気もするが、一度仕事のことを思い出すともう何の手がかりも見つからなかった。いや、見つけたくなかったからそこで考えることを止めた。
「今のは見てないことにして」
そう言い残し、音川は光の速さで脱いだシャツに頭を通して着直しながら仕事部屋に戻った。
ただ、理性が働いていないという自覚はあった。
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