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第14話 熱帯夜
泉の視線は音川が去った後も脱衣所に縛り付けられていた。
半裸でスウェットパンツに手をかけた音川は身震いするほど色っぽく、泉に何かを期待させ、ぞくりと下半身に痺れが走った。もし本気で浴室に裸で入って来られていたら、泉は一生湯船から出られなくなっていただろう。硬く反応した自分の下半身がバレたりしたら目も当てられない。どう誤魔化せばいいのか見当もつかない。
「冗談キツいよきみのパパ……。それにしても、かっこいいよねぇ」
はぁ、と再び大きくため息をついている泉にお構いなく、マックスはバスタブの隅で濡れた前足を仕切りに舐めては満足気にゴロゴロと喉を鳴らした。
一方、仕事部屋に戻り通話を受けた音川は、デスクに両肘を付き、長身を折り曲げるようにして頭を抱えた。通話相手は課長だった。少し前に、空いた時間に連絡が欲しいとチャットを送っていたのが功を奏した。
「助かった」
あのまま浴室にいればどうなっていたのか想像するのも怖い。
「なにが?」
「いや……折り返しの連絡をもらえたから」と誤魔化す音川に、「そりゃ音川君なら最優先でしょ」と課長はさもありなんとばかりに言い、本題に入った。
課長が音川に相談しているプロジェクトは、東京都内にある製薬会社の帳票出力システムの開発だ。すでに開発は終わりプロジェクトは最終段階にある。実際の業務に沿って作成されたシナリオに基づき、エンドユーザーがシステムの全機能を運用しながら検証するのだが、そこで現場から不満の声が出てきた。万が一、それが通過すれば、システムを根本的に改修する必要が出てくる。最悪の事態だ。
当初からこの企業は扱いが難しく、開発前のヒアリング時点から要望や優先順位が2転3転することがあった。そこで、内部統制や情報共有に要注意な顧客と判断し、弊社としては用心して1つの機能ができるごとにユーザー検証を繰り返し、小石を積み上げるようにしてようやく完成まで漕ぎ着けたところだった——
以上が、課長の説明だった。
「その『現場の声』っていうのは?」
「一言で言うならベテラン社員。まだ帳票が手書きで、FAXで当局に送信していた時代からこの業務に携わっている」
「単独で新システムの改変を希望しているのか」
「そうみたいね。誰も逆らえない、いや、逆らいたくないだけだな。ただ予算はあるから、開発会社は黙って言われたことを遂行すれば良し、みたいな古い文化が染み付いている感じがした」
ああ、と音川が納得の声を漏らした。過去に別の大手製薬会社と仕事の経験があり、古い会社の体制が根強く、ずいぶん苦労させられた。非常に細かい要望を挙げてくるが、目先のことばかりで、その軸となる方針やシステムで実現したい最終目的をいくら聞いても出してこない。システム検証中に「ここが違います」と言ってくるばかりで、こちらがいくら尋ねても本来のあるべき姿を伝えてこない——
ようは、組織が大きすぎて分業化され、だれも全体像を把握できていないのだ。
他の業種、たとえば医療機関とも仕事をしているが、製薬会社がぶっちぎりでこの傾向にあるのが奇妙だと音川は常々感じていた。
「先方に出向いた方がいいな。改修は避けたいんだろ?」
「そうしてもらうと助かるよ!それが、先方のマネージメント担当者が……彼女も自社の運用側とウチとの板挟みで難しい立場だとは理解してるんだけど……ちょっと言動がキツすぎてね。ウチのチームの若い開発陣には無理だ。で、百戦錬磨の音川君の腕と、そのカッコイイ顔でさ、なんとか柔和な態度に変えられないかと。変な言い方だけど」
「まあ……落とせと言うなら自信はありますが」
至極真面目に答える音川に、課長は笑い声を上げた。
どちらかと言えば女性重視に近い思想を持ち、職場内で俗な噂すら聞こえてこない——上手く隠しているだけかもしれないが——そういう業務態度を知っているからこそ、音川の発言が冗談として成り立つ。
実際のところ、東西の血が絶妙にブレンドされた稀有な容姿を持つ音川の外見と、知識に裏付けされた堂々とした態度は、対面での交渉において絶大な影響を与える。本人もある程度は分かっているようで、相手次第で様々なアプローチを使い分ける術を持ち、また仕事で誰かにそれを利用されることも全く厭わない。
音川は、通話を終えると先方に宛てたメールに追記する形で、対面での打ち合わせを提案した。東京の企業だからちょっとした出張になるが、わざわざ出向いて行くことでこちらの誠実な態度も伝わると思いたい。
ちょうどその時、ざぶり、と浴室の方から音がした。
「忘れてた」と音川は立ち上がり急いで寝室に向かった。素早い速度でベッドシーツを交換し、客用の枕と掛け布団を出す。実家の両親が孫を連れて遊びに行くからと無理矢理買わされたが出番が無く、まだ新品のままだ。バッサバッサと空気を送り込んで夏用の薄い羽毛布団を膨らませ、エアコンの温度を下げておく。
ベッドを整え終わりリビングへ行くと、音川が用意したTシャツとハーフパンツを着た泉が大あくびをしているところだった。目尻にたっぷり溜まった涙を指で拭っている。
寝不足のところに温かい入浴とくれば、もう睡魔に抗えるわけもない。
「ここに来て」と泉をソファに座らせ、自分はコーヒーテーブルに腰掛けて向かい合った。首周りの皮膚が裂けているところを丁寧に消毒し、絆創膏を貼る。
「他に痛いところは?」
「ない、です……」泉は申し訳なさげな細い声で言うと、音川が貼った絆創膏にそっと触れて微かに微笑んだ。
保木に対する悔しさ、憎らしさ、不安……自分の中で渦巻いていたそれらネガティブな感情までもが、音川によって蓋をされたようで、嬉しくて、くすぐったい。まるで音川の指先に、何でも直してしまう万能薬が付いているかのよう。
その間、向かいに腰掛けていた音川は、泉の首に円状に残る内出血の痕を見ていた。湧き上がる怒りを抑えるのに必死だった。
眼の前で泉は微かに微笑んでいたが、それが余計に音川の目に痛々しく、細い首や薄い肩は余計に儚げで、いますぐ抱きしめなければ消えてしまいそうだった。
しかし、音川は、それができる立場ではない。
「寝室は仕事部屋の隣だ。シーツも変えてあるし、好きなだけ寝ていいから」
「ベッド使わせてくれるんですか?」
「うん。マックスが潜り込みに行くと思うよ」
「あの、」
「ん?」
「ご迷惑おかけして、すみません」
「何言ってんの。さ、寝ろ寝ろ。もう何も考えんな」
音川は洗い立ての泉の頭をひと撫ですると仕事部屋へ戻った。手のひらに感じたその柔らかな感触が消えないうちにPCに向かう。
泉が何かしらの問題を抱えていて、ケガという実害を被ったことは大変に憂慮すべきことである。しかし、事情によっては泉の力になれるかもしれないという『期待』を、どうしても打ち消すことができない。自分の卑劣なエゴを恥じと感じているのに、同時に、現在進行系で泉に逃げ場を提供しているという事実に悦に入る。
彼に関わること全てが、面倒の対局にあるように感じられる。
会社の人間のプライベートに関わらないスタンスを保持することで、部署全体にもその文化を根付かせてきた。
時間をかけて構築したものを自ら解体するような非生産的行為はできないが——
泉のためなら、自分の世界を解体してしまってもいいとさえ思う。
少しだけ開けてある仕事部屋のドアから、マックスが入ってきて音川の思考は頓挫した。デスクにヒョイと飛び上がる長毛の友を撫で、「泉のそばに居てあげて」と声をかける。マックスはまるで「了解」とばかりに音川の顎にゴツンと頭突きをして喉を鳴らし、足取り軽く部屋から出て行った。
それから音川は昼休み返上で課長の件を資料にまとめてそれを内部に展開し、東京出張の計画を立て、そしてついでに月曜日の年休取得を申請をした。
更に音川は速度を上げて仕事に取り組み、20時には残すところ火曜の出社のみという状態まで終えた。東京の製薬会社からは返答が来ており、早くて水曜か木曜の午後なら面会可能とのことだった。
一旦それへの返信は保留し、音川は社用PCを落とす。
無音になった部屋に、「帰れなくて……」と絞り出すような悲痛な泉の声が耳にぶり返す。
ならば、帰さなければいいだけのことだ。
***
降って湧いた3連休———実際は無理矢理作ったものだが——の余裕で、仕事を終えた音川はソファにだらりと伸びて、好物のラム酒を1杯、2杯、と怠惰に重ねていた。空腹ではあるが、どうせなら泉と食べに出るつもりだった。自分が酔いつぶれる前に、泉が寝室から出てくればの話だが。
時計の針が21時を周り、それにしてもよく寝るなと思い始めた時、マックスがトコトコと軽い足音をさせながらリビングへ入ってきた。その後ろから、すり足気味で素足の泉が目をこすりながら続く。
「寝た……」
「寝たねえ」
「何時……?」
「21時」
「そんなに?あ、お腹、空いた……かも」泉は身体をくの字に曲げて腹に手を置いた。
「俺もだよ。出かけようぜ」
「こんな時間に?」
「行きつけの居酒屋なら開いてるよ。焼き鳥が美味いんだ」
「い、行きます!」
急に目が覚めた様子の泉は、顔を洗ってくると言いリビングを離れ、音川は店に電話を一本入れてグラスの中身を飲み干した。
真夏のねっとりとした夜の道をふたり、空腹に急ぎ足でめざすは、駅の南口にある柳通りだ。
「音川さん、いい匂いがする」と泉が音川の肩口に顔を寄せる。
「汗臭いの間違いじゃないの」今夜も間違いなく熱帯夜で、外へ出た途端に汗が滲んだ。
「違います。甘いような、なんだろ」
ラム酒だろうか、と音川は心当たる。匂うほど飲んではないつもりだったが、汗と共に身体から抜けていっているのかもしれない。
「泉が好きな匂い?」
「はい。酔いそうな、花みたいな」
おそらくラムだ。そんなに寄ってくる程好きな匂いなら、一瓶飲み干すか、頭から被っておくんだった。
焼鳥屋の引き戸をガラリと開けると大将が威勢の良い声で、「入って入って!ほんとによう、真夏に焼鳥を食う客の気が知れないね」と白く燃えている炭火を前に大汗をかきながら、しかしまんざらでもなさそうな笑顔を向けてくる。肉付きの良い丸い頬が炭火の熱で赤く火照って、相当暑そうだ。
席につくなり2人ともハイボールを注文し、ドリンクと共に電話で注文しておいた串の盛り合わせが運ばれてくる。
続けざまにテーブルいっぱいに小鉢や刺し身が並ぶのを見て「音川さんといるといつも満腹になるんですけど」と泉は満足気な表情で、裏腹に不満を述べる。「ここは常連なんですか?」
「うん。毎晩とまではいかないけどね」
「いつも外食で?」
「料理できねえからなあ」
「僕、何か作りましょうか?」
できんのかよ、と笑い飛ばす音川に、今ちょうど自炊の練習をしていると泉はやや胸を張る。
「見ただろ、うちのキッチン」
「見ました。使った形跡がない」
「一人暮らしで料理なんて、非効率だ」
「まあ、それは一理あります。でも、僕ら若手の場合、一人暮らしで毎日外食してたら破産しちゃいますよ」
「そんなことはない」と音川は即打ち消した。「心配しなくても今まで通り朝はモーニングに来ればいいし、夜も……今夜みたいに毎晩どこかへ連れて行くよ」
泉の頬に、酒のせいではない赤みがサッと現れた。
「毎晩、ですか?」
「ああ」
「それはとても嬉しいんですけど……。僕、一人暮らしをしながら自炊というのに少し憧れがあって。それに……す、好きな人に、手料理を振る舞ってみたいというか……」
「へぇ、そうなんだ」
音川は手にしたグラスを少し振って氷をなじませると、くいと飲み干して通りがかった店員にお代わりを頼んだ。
少しだけ勇気を出してみたが、まるで伝わらずに完全に他人事のように受け流され、泉は大きな肩透かしをくらった。
「音川さん、大阪の人なのにタコ焼きも作れないんですか?」
「あっ、何だよ急に」
「じゃあ好物を教えてください」
「なんでも好きだけど……敢えて挙げるなら、スパイスが効いたものかな」
「ああ、そうでしたね」
「それで思い出した」
音川が頼んだ栗焼酎のグラスがテーブルにごとりと置かれる。
「来週の水曜か木曜、東京出張だから」
「出張?いつ決まったんですか?」
「今日。で、水曜と木曜どっちが都合いい?」
泉は小首を傾げてキョトンとした表情になった。「僕もですか?」
「そうだよ。どのみち、盆明けには加わってもらうつもりだしね」
「日帰り?」
「たぶんね。前に高屋さんが言ってただろ、スパイス料理の店が沢山ある所。時間があれば行ってみないか」
「行きます。で、テイクアウトにしましょう」
「は?」
「新幹線がインドの匂いになりますが、たくさん買い込んで、音川さんの家でのんびり食べたい」
「そりゃまあ……そうか。電車の時間を気にしながら食いたくねえな」
「じゃ、決まり……」そう泉が言うのを「ちょっと待て」と音川が遮った。「俺の認識が合ってるなら、出張に行くのも帰るのも、俺の家からだよな?つまり、少なくとも来週も、きみは俺の家にいるということで……」
泉の空になったグラスの中で氷がガチャンと音を立てる。
「あ……僕、勝手にそう思ってしまって。なんでだろ」と後半は独り言のように小さくつぶやき、泉は口元に手をやって考えこむ。
「いや俺もそう思ってたから、奇遇というか、共感覚ってこういうことなんだろうか」
「どうして……?」
音川は泉の問に答える代わりに、通りすがった店員に泉のためにハイボールのお代わりを注文した。
間をおかずに運ばれてきたグラスが邪魔にならないよう、音川は泉の前に置かれている小鉢やら器を移動させ、空いたものを店員に渡す。そんなふうに細やかに世話を焼いてくれる様子が嬉しくて、少しだけ酒の力を借りていることを自覚しながらも、「どうしてですか」と再び問いかけた。
音川はとっくに空にしてしまった自分のグラスを両手で包み、なぜもう空なのか分からないような無垢な顔をしてため息をついた。
「一人暮らしの話だけど」と音川はジェスチャーだけで店員にお代わりを頼みながら切り出した。「そのケガの原因と、なにか関係あんの?」
「あ、いえ、ないです。ただ、早く一人暮らしをした方が、今回のようなことがあっても家族に心配されずに済むっていうか……迷惑をかけたくないというのはあります」
「ふーん」
「音川さんなら迷惑かけていいって思っているわけじゃなくて…………」
「俺を頼ってくれてると思っていい?」
泉は、深く頷いて答えた。
「はなから帰すつもりは無い。問題が解決するまで、いや、少なくともその傷が消えるまでは俺のところに居て欲しい」
眼の前にいる憧れの上司は顔色一つ変えず強い酒をロックで何杯も重ねている。顔に出ないだけで中身は酔っていないとも限らないが、酔って適当なことを言う男ではないはずだ。泉は音川から発せられたその言葉を真に受けることにした。
「ありがとうございます……僕、洗濯でも掃除でも何でもします」
「そんなのは間に合ってるよ。俺としては、きみが普段どんな風にコードを書いているのか見られるだけでも役得だ。……で、さっきの話だが」
音川は少し首を傾げると、すぅっとグリーンの目を細めて泉を射るように見つめた。
「きみが手料理を振る舞いたい相手とは、誰のこと?」
「音川さん、には言えません」
酒で火照っている耳をますます赤くする泉を笑い飛ばし、音川は「ああそう」と呟くと届いたばかりのグラスをまた一気に空ける。
「なら、俺が練習台になってやるよ」
「……包丁もないのに?」
「それも今日まで。明日、色々買い揃えに行こうぜ」
本命から練習台の役を申出されるなんて不本意極まりないが、泉は言いたいことを飲み込んで、代わりに明るい返事をして見せた。
今それを言ったところで、何か事態が好転するとは思えない。それどころか、泊めてくれるという音川の好意を誤解した、ただの粗忽者になるのが落ちだろう。
胃袋を掴む、という言葉がある。音川の舌を唸らせることができたなら、その時には練習台を降板してもらおう。
「そういえば音川さん、あのリビングの隣の部屋。僕が最初にお邪魔した日にも、家具ありましたっけ?」
「いや」
「デスクがあるのが見えたので。模様替えですか?仕事部屋の移動とか」
「そういうわけじゃない。まあ、泉が使えばいい、かなと」
「わざわざ購入してくれたんですか?」
「副業、手伝ってくれるんだろ?うちで作業する機会があるかもしれないからね」
「あ、ありがとうございます。何から何まで、すみません。その上、キッチン用品まで揃えてもらおうとしてる……」
「外食が減らせるならそれくらいの投資はしますよ。それに、きみはまだ腰痛の怖さを知らないからそんな遠慮がちなことが言えるんだ。腰痛はね、この世の地獄みたいな苦痛と絶望を与えてくる。経験者として、良い姿勢で仕事をするためのデスクとチェアは不可欠なんだ。あのデスクは俺が仕事部屋で使っているものと同じで昇降式だ。会社と同様、立って作業もできる。そもそも俺らの仕事は座り仕事の中でも特殊だろ?リモートだと外部から誰かに声を掛けられることもないから、集中したまま何時間も同じ姿勢で、同じ画面を見続けて、まるで指先だけが動く石像のようになってしまう。先日、泉がうちのリビングの床に座って、コーヒーテーブルで作業する姿ね、あれは思い出すだけで俺の腰がズキズキ痛む」
「僕、音川さんが時々めちゃくちゃ喋るやつ好きです。いい声だし」
「俺の話聞いてる?」
「聞いてますよ。そんなに痛いんですか?」
「うん」と短く頷くと、音川はテーブルに目を走らせて料理が平らげられていることを確認すると、店員を呼んで会計を済ませた。
「続きは帰り道で話してやる。そこらの怪談よりもゾッとするはずだ。熱帯夜にはちょうどいい」
「うわぁ。た、楽しみです」
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