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第15話 新婚さんいらっしゃい

目覚めて最初に視界に入ってきたのは自宅ではない天井で、泉は自分が音川の寝室にいることを改めて実感した。昨日の昼前からベッドを借り、居酒屋へ出かけた時間とシャワーを除いてほぼ丸一日眠ったことになる。 昨夜、音川はリビングのソファで横になると、半ば強制的に泉を寝室へ追いやった。居酒屋からの帰り道に実話腰痛怪談を披露しておいて、それでもベッドを泉に譲ってくれたのだ。『ソファで寝るとまた腰を痛めますよ』と泉が言っても、腰痛経験者は聞く耳を持ってくれなかった。 マックスはまだ朝ごはん時ではないようで、丸くなったままの背中の毛がふわりと泉のこめかみをくすぐる。猫の体内時計は恐ろしく正確で、実家の猫たちは母の生活リズムに沿って、毎朝6時半におねだりの大合唱をする。泉もそのせいで目が覚めるのだが、大抵は二度寝だ。 長過ぎる睡眠で固まった体をほぐすために両手を広げて伸びをすると、掛け布団から飛び出した腕にエアコンの涼風を感じる。広いベッドの真ん中に一人と一匹。それは寝入った時と同じだった。 音川も一人で、こんな風に目覚めるのだろうか。時には寝坊をしてモーニングを食べそこねたり、マックスの柔らかい毛を皮膚に感じながら二度寝したり。 それとも、時にはこのベッドを伴にする相手がいるのだろうか。以前、速水との会話の中では恋人がいないと取れるようなことを言っていたが…… デザイン部所属だった泉にも、最高技術責任者である音川の噂は流れていた。なんせ、あの容姿と穏やかな性格で独身のカタブツというのは信じがたい。相当需要はありそうなのに、社内ではプライベートを一切感じさせないミステリアスなところが余計に皆の興味を駆り立てる。 喫茶店での朝食の時間を共有し始めて1週間。そして今は、自宅へ招き入れてもらうまで昇格したが、泉には未だに音川の私生活がよく見えてこない。 仕事で認めてもらうことに躍起になりすぎて、個人的な会話はわずかなものだったかもしれないとは言え。 音川に焦がれて2年、いま、距離は急速に縮まっているように思う。プライベートの一環である副業に誘われ、自宅マンションのベッドや風呂まで借りてしまうほどの間柄に……この1ヶ月間はまるで奇跡のような日々の連続だ。 これは、不本意ながらも自分が巻き込まれている厄介事のおかげとも言えなくもない。後輩思いの音川らしい、丁寧な優しさだ。 これがもし自分以外の部下に起こっていることだとしたら……音川と誰かが、自分の知らないところで彼の優しさを享受しているとしたら…… 想像だけで背筋に冷たい汗が流れそうだ。 軽く頭をシェイクして、油断するとネガティブに引き込まれそうな思考を方向転換させベッドから起き上がる。クワ、とマックスが大あくびをして四肢を伸ばし、泉を見上げた。 いまここにいるのは自分なのは間違いようのない事実だ。 全身をひと撫でしてから抱き上げて寝室を出る。 リビングのドアを開けると、ソファに音川の姿はなく、代わりにキッチンから「おはよ」と声が掛かった。 「あ……おはようございます」 「眠れた?」 「はい、熟睡でした。マックスがすぐ傍にいて、ふわふわして、すぐに寝入った」 「寝かしつけ担当。すっかり兄貴分だな、マックス」 音川がフードのパウチを開け始めたため、マックスは大急ぎで泉のみぞおち辺りを思いっきり蹴って飛び降りた。 それからすぐに音川はジムへ出かけ、泉はシャワーを浴びたり身繕いをして時間を潰した。昨日の約束通りなら、今日は調理器具を買いに行く予定だ。 なんでも好きに使っていいと言っていたのを素直に聞き、服を借りようと寝室のワードローブを開けると黒い服が多い。大体が同じようなポロシャツやらドレスシャツに、クリーニングから戻ってきたままのようなスーツが数着と、質の良さそうな細身のボトムスが数本。他はトレーニング用のウェアで、ずいぶんスッキリした中身だ。試しにスウェットに足を通してみると案の定長さが余った。夏でよかったと一人呟き、ポロシャツとハーフパンツを適当に拝借する。 音川の帰宅までそう大した時間はないはずだ。しかしTVを見る習慣はなく、ゲームもしないため手持ち無沙汰だ。読みかけの電子書籍でも、客間に移動するついでに、キッチンで何か飲み物を取ろうと冷蔵庫を開けた。 クローゼットとは打って変わって、ぎっしりと各種のドリンク類のほかに常温保存のインスタント食品も、デザートも菓子も何もかもが入れられており、コンビニで手当たり次第に買ってきた、という感じがありありと見て取れた。ふと隙間に未開封の歯ブラシセットと入浴剤を見つけて大笑いし、胸に温かいものが充満する。 自分のためにわざわざ買い出しに行ってくれ、とりあえず全て冷蔵庫に突っ込んでいる音川を想像すると、おかしくて、愛おしくて、たまらなかった。 客間の真新しいデスクとチェアは、『副業用』として音川が用意してくれたものだ。時々はここで作業させてもらえるだろうが…… こういう物は、一度でも良い物を知ってしまうと元には戻れない。リモートで働くなら、これと同じデスクとチェアを一人暮らしの部屋に用意するしか無いということだ。 それか、会社の近くで物件を見つけて出社組となるかだ。 チェアに腰掛けてリビングの方へ回転すると、大きな窓ガラスから景色が一望できる。雲一つ無い青空が遠くまで続いていて、泉は自然と口元に笑みを浮かべていた。何もかもが好転しそうな、明るく、前向きな気分になる快晴だ。 音川の仕事部屋は別にあるが、たまにはリビングで仕事をすることがあって欲しい。そうすれば近くで、各々のタスクに取りかかりながら、景色と、音川の存在を楽しむことができる。 最高の環境じゃないか。 これ以上の関係を望むべきでないのかもしれない、と謙虚な気持ちがもたげてきそうなほど、恵まれていることを実感する。 天板の隅で香箱座りをしていたマックスが、犬のようにピンと耳を起こしてデスクから飛び降りると、廊下へと急ぎ足で消えていった。泉には聞こえなかったが、恐らく音川が帰って来るのだろう。泉の実家の猫たちも、母の帰宅にだけは犬のように敏感だ。 マックスに続いて玄関に向かうと、すぐにカチャリとロックが解除された。 「おかえりなさい」ドアが開くと同時に、猫脱走防止柵の内側から泉が声を掛ける。 「お、おお。ただい、ま」 音川は一瞬面食らったように目を開き、すぐにはにかんだ。 「まさか、僕が居ることを忘れてたとか」 「まさか。一瞬、猫が2匹いるように見えただけ」 意味が分からず泉が首を傾げると、音川は堪えきれずに声を上げて笑った。「2人揃って、柵の内側で、ハハ、おんなじような顔してんじゃねえよ」 心底可笑しそうに笑いながら音川は柵を開けて、泉の横をすり抜けるように浴室に向かった。 「音川さん、やっぱりいい匂いがする」昨夜と同じ、くらりと目眩を誘うような、甘い匂いがすれ違いざまに香った。 「んー?昨日と同じ匂いなら、ラム酒かもな」 泉は音川の後ろを追い、大げさに鼻から空気を吸い込んだ。「昨夜、居酒屋でラムなんて飲んでましたっけ?」 「いや、行く前に2杯くらいかな」 「それじゃあ関係無いと思いますけど……。あ、音川さんの体臭なんじゃ……」 「嫌なこと言うなよ。俺まだ33だぞ」 「そうじゃなくて、すごく良い匂いなんですって」 「とにかく、シャワー浴びたら出かけるぞ。それ、俺には少し小さいから、やるよ」 音川は、自分の服を着ている泉を一瞥し、手に持っていたスポーツタオルを洗濯機へ放り込む。続いてコンプレッションウェアも脱いで同じように放り込んだ。 トレーニング直後でパンプアップしている音川の上半身は、泉には目の毒すぎた。 急いで目線を洗面台の3面鏡へとやると、そこに映っている音川の服を着た自分と目があった。黒いポロシャツに薄いベージュのチノハーフパンツは、どちらもすっきりとした細身のデザインで、自分が知っている自身よりも幾分大人っぽく見せてくれる。 音川と釣り合うんじゃないかと錯覚しそうになるほど。 「俺の服が似合うんだな」 いつの間にか泉の背後に音川が映り、片手を回して泉の前髪を後ろになでつけるように掻き上げた。そのまま逆の手を伸ばすと、鏡の裏の収納を開いてヘアワックスを取り出す。 音川の熱い身体と、ますます強くなる芳香に後ろから包み込まれ、泉は立っているのが精一杯だった。音川の裸の上半身を捉えてしまわないように、泉は注意深く視線を鏡の中の自分の顔だけに固定した。 匂いに興味を惹かれて浴室まで追ってきた自分が迂闊だったが、視覚も、皮膚感覚も、刺激が強すぎる。 「ほら、髪、上げるとかっこいいんじゃない?」 そう言いながら音川は整髪料を洗面台に置き、泉の背後から離れて浴室のシャワー水栓を開いた。「お湯になるまで時間がかかるの、気付いた?」と泉を振り返る。 それを合図に、泉は浴室から退散した。音川ほどの引き締まった身体なら他人に見せることに抵抗はないのだろうが、今は、見る側に問題がある。 リビングのソファに座り、一つ大きなため息を付く。 ただの会社の上司。 何度もそう認識しようと努力してきたが、全くの無意味だ。 これ以上の関係を望むべきでないなんて、ついさっきまでの自分が滑稽に思えてならない。嫌になるほど意識しているくせに。本当はもっと彼の特別になりたいくせに。 音川が身繕いを終えて車のキーを持ったのは10時頃で、ブランチにはやや早いが、2人とも空腹だった。 「そういえば、モーニング食べてこなかったんですか」 音川の車の助手席に乗り込みながら泉が尋ねると、「そりゃそうだろ。きみを置いてなんて」と呆れ声で返事が返ってきた。 「お腹空きません?トレーニングの後」 「ジムでプロテイン飲んだからそうでもない。昼を早めに食べればいいかな。泉は?」 「冷蔵庫の……プリンとヨーグルトをいただきました。あ、そうだ音川さん、歯ブラシも冷蔵庫に入ってましたよ」 「あっそ。良かったじゃねえか、夏だし」ハンドルを握り前を向いたままの音川がぶっきらぼうに答える。 「はい、キンキンに冷えていて助かりました。ところで、僕たちどこへ向かってるんですか?」 「駅前」 「ホームセンターじゃなくて?」 「ジムのトレーナーに聞いたら、百貨店の方が品揃えが良いらしい」 ここらで百貨店と言えば、会社がある駅に隣接している鉄道会社系列の店だ。本館と別館があり、さらにホテルも併設された大規模な構造になっている。確かに、あそこなら良いものがありそうだが…… 「恐らく、かなり高くなりますよ」泉は、以前に母の日の贈り物として、その百貨店で買った鍋の値段を思い出して言った。姉と父と共同で買わなければならないほどの値段だった。 「俺の食費より?」 「正確にはわかりませんが、ある程度揃えるとなると、半年分とか」 「半年、泉の自炊の練習に付き合うだけで元が取れるのなら相当安い」 「そ……うですか?外食のほうがずっと高い?」 「たぶんね」 程なくして車は百貨店の地下駐車場へ滑り込み、2人はエレベーターでホームファニシングと表示されたフロアへ上がった。音川も泉も、別館である通称メンズ館には何度か足を運んだことがあるが、こちらは本館で、しかもキッチン用品となれば、置いてあるものの用途すら分からない音川と、料理初心者の泉が揃ったところで、何を買うべきかもさっぱりだ。 しばし売り場の手前で立ち尽くした後、音川が口を開いた。 「よし。とりあえず、一旦上の階のレストランへ行こう。作戦立てないと無理だ」 泉は大きく同意し、2人は開店時間を迎えたばかりのレストラン街でハワイ料理の店に入った。なんとなくブランチっぽい雰囲気だったからだが、フルーツの乗ったパンケーキが泉の前に置かれ、大きなハンバーグが入ったロコモコが音川の前に置かれ、2人はウェイトレスがテーブルから去るのを待って皿を交換し、笑いあった。 「かわいい」 テーブルの向かいでパンケーキにシロップをたっぷり垂らしながら嬉しそうな顔をしている音川を見て、泉は素直にそう言った。すぐに「だね」と同意が返ってきたが、どうやらパンケーキとフルーツが華麗に盛られているプレートのことだと捉えたようだ。 「いつもそんなの食べてるんですか?」 「まさか。人生初のパンケーキですよ。食べてみたかったんだけど機会が無くてさ」 「なるほど。音川さんは特に目立つでしょうし」 「どういう意味だよ」 わかってるでしょ、と泉は視線で伝えた。ピンと張った首筋と広い肩幅、薄手の半袖を引き裂きそうなほどの逞しい腕には太い血管が浮き出していて、どうみてもスウィーツと結びつかない。 しかし顔だけ取って見れば、まるで華が添えられたようにパンケーキのプレートの格が上がって見える。 「付き合いますよ、他にも食べてみたいものあります?」 「ある」 「たとえば?」 「ケーキバイキング。あそこの」と音川は窓から見える大きな外資系ホテルを指さした。 「あー……なるほど」 「この後で行く?」 「そんなシロップどぼどぼのパンケーキ食べながら何言ってんすか。それにあそこは、すごく人気ですよ。以前に母が1ヶ月くらい前から予約してましたもん」 「わかった。予約しておく。約束だからな」 「忘れませんよ。で、どうしましょうか、調理器具……」 「さっき通りがかりに洋食屋があっただろ。ショーケースにさ、サンプルがいろいろ」 「美味しそうでしたね」 「ああいうの作れる?」 「まだです。でも、音川さんが食べたいものを作れるようになりたい、から……」 「へぇ、嬉しいこと言ってくれるんだね。じゃあ、ああいうのを作るためにどの道具が必要か、を店員さんに聞いてみるか」 音川は「ほとんど空気じゃねえかよ」と口悪く罵りながらも、それはそれで美味しかったようであっという間にパンケーキを平らげ、「さすがに甘かった」とアイスコーヒーはブラックのままで飲み干した。 最近ごちそうしてもらうばかりなのでと支払いは泉が買って出た。それで気が楽になるのなら、と音川は素直に奢られてくれた。 再び階下のキッチン用品売り場へ戻って売り場に一歩踏み込むと、間髪入れず、「なにかお探しでしょうか」と背後から女性店員が柔らかに声を掛けてきた。 音川は渡りに船とばかりににっこりと微笑み、負けず劣らずの柔和なトーンで「例えば、生姜焼き定食を作るにはどういう道具が必要ですか」と先ほどの泉との打ち合わせ通りに尋ね、「僕たち、料理は初心者で。まず道具から揃えないと、家には何もないんです」と穏やかに説明し、ここで全て揃えるつもりであると付け加えた。 「もし、お姉さんが買うとしたら、どれを選びます?」 音川にそう尋ねられた店員は途端にパッと明るく微笑んで、「そうね、一から全部揃えるとなると……」と一気に距離感が近く、親身になって選び始めた。 泉は、自分の母親よりも年上に見える店員さんを『お姉さん』と呼んだその一言だけで雰囲気をがらりと変えた音川に関心した。まるで、夜の仕事か飲食業のような人馴れした様子に、相手の気構えが消える。 「本当に全部揃えるの?」と店員はずいぶん砕けた口調で再び音川に確認した。 「うん。できれば同じメーカーで揃えたくて、カトラリーも、なにもかも」 「いいわねえ。男の人は道具から入るっていうし、うちの主人もね、定年後は自炊するんだって私の社員割引でフライパンから何から全部買って、結局1回きりよ」 「はは、うちもそうならないようにしないと。ね?」 音川は、隣で重さを確かめるようにフライパンを上下に振っている泉に向かって、極上の笑みを向けると、同意を求めた。 「あら、……新婚さん?」 「えっ!?」泉の手から危うくフライパンが滑り落ちそうになり、慌てて掴み直す。 「いいじゃない、素敵。このメーカーなら今ちょうどフェア期間中で、10万円以上の購入で30%割引になるから、すごくお得よ」 「なるほど。じゃ、小ぶりなサイズで……ああ、包丁とまな板も、とにかく一式揃えてもらおうか」音川は、再び泉に微笑み掛ける。店員の誤解を加速させるのを知った確信犯のように。 女性店員は「良いのを選んでくるから、こちらでお待ちくださいね」と張り切った様子で音川と泉を商談スペースへ誘導して座らせ、小走りで別の店員の元に行き「あたし鍋揃えるから、食器類持ってきて。新婚さんだって」と小声の早口で伝えていた。しかしやや興奮した様子だったため、2人の元にもその声が聞こえてしまう。 「どうして否定しなかったんですか」 「肯定もしてないだろ」 「音川さんがああいう言い方するから、誤解されたじゃないですか」耳が焼け付くように熱い。 「誤解というか早とちりというか。うちの母もあんな感じだなあ」 「うちもです。でも、このサイズでいいんですか?」泉はつい持ってきてしまったフライパンを掲げて音川に確認する。18cmと記載があり、目玉焼きなら2つ3つが精一杯に見える。 「大きいのは収納が大変だろ。泉が一人暮らしをする時に持っていけばいい」 「そんな、そこまでしてもらうなんて……」 「仕事道具も、調理道具も、きみのために揃えたいと思ったから」 「あ、ありがとうございます……」 「変なところで急に遠慮するね。それに、素直すぎる」 「そうですか?」 「環境や道具がよければ、結果も良くなると思うんだ。ということは、副業でも自炊の練習台でも、結果を受け取る側である俺が得する。きみのため、なんて言っておきながら、ね」 「あ……」 「そう。結局は俺なんて、自分さえ良ければいいってだけの悪い男ですよ」 音川はにやりと口角を上げてみせた。 2年前、あの休憩室で初めて会った時と同じように。音川は自分を落としてまで、気を使わせまいとしてくれている。その優しさが怖いと思った。 音川の優しさには中毒性がある。囚われ、もっと欲しくなり、想いは一層ひどく募る。 「なあ、一つ聞いていい?」 「何?改まって」 「誤解が嫌なら、否定してこようか?」 隣に座る音川が一層低い声で囁くように尋ねてくる。 その声にあてられて震えそうな背筋から気をそらすため、フライパンを持ち上げてくるくると回転させた。 「僕は……どっちでも」

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