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第15話 恋人未満、夫婦以上?
鼻先にふわりと柔らかな感覚がして、泉はパチリと目を開いた。見慣れない天井が、必要以上に泉を安堵させる。
昨日の昼前からベッドを借りているから、居酒屋へ出かけた時間を除いてほぼ丸一日眠ったことになる。実家ですらここまでぐっすりと眠り続けた覚えがないほどだ。
昨夜、音川はリビングのソファに横になると、半ば強制的に泉を寝室へ追いやった。
「また腰を痛めますよ」と泉は説得を試みたが——
「客間に布団を敷くのが面倒」と気怠げに言い目を閉じてしまった。
「そんなの、僕が敷いて客間で寝ます」
「いい。そのままベッド使って。さっきまで泉が使ってたんだから」
その発言を受けて、「もしかして、僕が使った後のベッドシーツは嫌だ、とか?」と潔癖症の発言をしたが、音川は目をふっと開いて、なにか言いたげな顔をしただけで、再びすぐに目を閉じた。
これ以上の返答は望めないと判断し、泉は礼を述べてリビングを後にしたのだった。
夏用の薄い羽布団はとても心地がよく、いつまでもくるまっていたい誘惑にかられながら、泉は今日の予定をなんとなく想像していた。
まず、シーツを洗濯してベッドを返さなければ。確かにソファは座面が広く、適度な跳ね返りもありベッドと大差なさそうではあるが、長身の音川には狭すぎる。
客間にデスクとチェアも用意してもらっているのだから、そこを居候の場とさせてもらえるか聞いてみよう。もちろん光熱費は支払う前提だ。
長過ぎる睡眠で固まった体をほぐすために両手を広げて伸びをすると、掛け布団から飛び出した腕にエアコンの涼風を感じる。広いベッドの真ん中に一人と一匹。当然だが、寝入った時と同じだ。
泉は想像を巡らせる。
——音川も、一人でこんな風に目覚め、時には寝坊をしてモーニングを食べそこねたり、マックスの柔らかい毛を皮膚に感じながら二度寝するのだろうか。
それとも——時にはこのベッドを伴にする相手が——
以前、速水との会話の中では恋人がいないと取れるようなことを言っていたが——
あの容姿と穏やかな性格を持ってしてパートナーが居ないというのはなかなかに信じがたい。
特にデザイン部では、部署が違うせいか、都市伝説と言っても過言ではないほど過激な噂がいくつかあった。音川が職場で一切プライベートを見せないことで余計に邪推されるのだろう。密かに恋い焦がれている泉には、どれも聞き捨てならないものばかりだったが——
いま、音川に副業に誘われ、自宅マンションのベッドや風呂まで借りてしまっている。謎だらけのプライベートに一歩踏み込んだ立場となった。
泉にとってこれは、会社での出世などどうでもよくなるほどに重要で、より価値のあるものだ。
このまるで奇跡のような日々の連続は、不本意ながらも自分が巻き込まれている厄介事のおかげとも言えなくもない。
これが、もし自分以外の部下に起こっていることだとしたら……誰かが、自分の知らないところで彼の優しさを享受しているとしたら……
そもそも、こんなに良くしてもらえる価値が自分にあるのか……
泉は軽く頭をシェイクして、油断するとネガティブに引き込まれそうな思考を方向転換させベッドから起き上がる。くわぁ、とマックスが大あくびをして四肢を伸ばし、泉を見上げた。全身をひと撫でしてから抱き上げて寝室を出る。
リビングのドアを開けると、ソファに音川の姿はなく、代わりにキッチンから「おはよ」と声が掛かった。
「あ……おはようございます」
「眠れた?」
「はい、熟睡でした。マックスがすぐ傍にいて、ふわふわして、すぐに寝入った」
「すっかり兄貴分だな、マックス」
音川がフードのパウチを開け始めたため、マックスは大急ぎで泉のみぞおち辺りを思いっきり蹴って飛び降りた。
それからすぐに音川はジムへ出かけ、泉はシャワーを浴びたり身繕いをして時間を潰した。昨日の約束通りなら、今日は調理器具を買いに行く予定だ。
泉は、『家にあるものはなんでも好きに使っていい』という音川の発言を素直に聞き、服を借りるために寝室のワードローブを開けた。
大体が同じようなポロシャツやらドレスシャツに、クリーニングから戻ってきたままのスーツが数着と、質の良さそうな細身のボトムスが数本。他はトレーニング用のウェアで、ずいぶんスッキリした中身だ。試しにスウェットに足を通してみると案の定長さが余った。夏でよかったと一人呟き、濃紺の半袖シャツと、ベージュのハーフパンツを拝借する。どちらも滑らかな素材で大変着心地が良い。
音川の帰宅までそう大した時間はないはずだから、読みかけの電子書籍でも取ってこようと客間に移動するついでに、飲み物を取ろうと冷蔵庫を開けた泉は「うわ」と声を上げた。
こちらは先程のクローゼットとは打って変わって、ぎっしりと各種のドリンク類のほかに常温保存のインスタント食品、デザート、スナック菓子、入浴剤、歯ブラシセット、絆創膏、消毒液等、何もかもが一緒くたに入れられている。
とりあえず冷蔵不要なものを取り出しながら、泉は笑顔を強くしていった。胸に温かいものが溢れてくる。
自分のためにわざわざ買い出しに行ってくれて、とりあえず全て冷蔵庫に突っ込んでいる音川を想像すると、おかしくて、愛おしくて、たまらなかった。
客間の真新しいデスクとチェアは、『副業用』として音川が用意してくれたものだ。こういう物は、一度でも良い物を知ってしまうと元には戻れない。リモートで働くなら、これと同じデスクとチェアを一人暮らしの部屋に用意するしか無いということだ。
チェアに腰掛けてリビングの方へ回転すると、大きな窓ガラスから景色が一望できる。雲一つ無い青空が遠くまで続いていて、何もかもが好転しそうな、明るく、前向きな気分になる快晴だ。
音川の仕事部屋は別にあるが、たまにはリビングで仕事をすることがあって欲しい。そうすれば近くで、各々のタスクに取りかかりながら、景色と、音川の存在を楽しむことができるだろう。
——最高の環境じゃないか。これ以上は、望むべきでないのかもしれない。
と謙虚な気持ちがもたげてきそうなほど、恵まれていることを実感する。
デスクの上で香箱座りをしていたマックスが、犬のようにピンと耳を起こして飛び降りると、廊下へと急ぎ足で消えていった。泉には聞こえなかったが、恐らく音川が帰って来るのだろう。泉の実家の猫たちも、母の帰宅にだけは犬のように敏感だ。
マックスに続いて玄関に向かうと、すぐにカチャリとロックが解除された。
「おかえりなさい」ドアが開くと同時に、猫脱走防止柵の内側から泉が声を掛ける。
「お、おお。ただい、ま」
音川は一瞬面食らったように目を開き、すぐにはにかんだ。
「まさか、僕が居ることを忘れてたとか」
「まさか。……一瞬、猫が2匹いるように見えただけ」
意味が分からず泉が首を傾げると、音川は堪えきれずに声を上げて笑った。「2人揃って、柵の内側で、ハハ、おんなじような顔してんじゃねえよ」
心底可笑しそうに笑いながら音川は柵を開けて、泉の横をすり抜けるように浴室に向かった。
「音川さん、やっぱりいい匂いがする」
昨夜と同じ、くらりと目眩を誘うような、甘い匂いがすれ違いざまに香った。
「んー?昨日と同じ匂いなら、ラム酒かもな」
泉は音川の後ろを追い、大げさに鼻から空気を吸い込んだ。「居酒屋でラムなんて飲んでましたっけ?」
「いや、行く前に2杯くらいかな」
「それじゃあ関係無いと思いますけど……。あ、音川さんの体臭なんじゃ……」
「嫌なこと言うなよ。俺まだ33だぞ」
「そうじゃなくて、すごく良い匂いなんですって」
「気の所為だろ。香水も何も付けてないし。シャワー浴びたら出かけるぞ」
音川は、自分の服を着ている泉を一瞥し、手に持っていたスポーツタオルを洗濯機へ放り込む。続いてコンプレッションウェアも脱いで同じように放り込んだ。
トレーニング直後でパンプアップしている音川の上半身は、泉には目の毒すぎた。
急いで目線を洗面台の3面鏡へとやると、そこに映っている音川の服を着た自分と目があった。自分が知っている自身よりも幾分大人っぽく見える。
「その服、似合ってるね。俺には少し小さいからやるよ」
いつの間にか泉の背後に回った音川が、手を伸ばして鏡の裏の収納を開く。
音川の熱い身体と、ますます強くなる芳香に後ろから包み込まれ、泉は立っているのが精一杯だった。裸の上半身を捉えてしまわないように、泉は注意深く視線を鏡の中の自分の顔だけに固定した。
匂いに興味を惹かれて浴室まで追ってきた自分が迂闊だったが、視覚も、皮膚感覚も、刺激が強すぎる。
「カミソリ、気を付けてね。ああ、使うなら替え刃があるから言って」
そう言いながら音川は金属の重厚感のあるシェーバーをごとりと洗面台に置き、泉の背後から離れて浴室のシャワー水栓を開いた。「お湯になるまで時間がかかるの、気付いた?」と泉を振り返る。
それを合図に、泉は浴室から退散した。昨日の今日なので上半身は少し慣れたが、長居は無用だった。下着姿になられては困る。音川ほどの引き締まった身体なら他人に見せることに抵抗はないのだろうが、この場合、見る側に問題がある。
リビングのソファに座り、一つ大きなため息を付く。
ただの会社の上司。
自分が音川に抱いている感情が、剛腕のエンジニアに対する単なる憧れでないと気付いて以降もう何度もそう認識しようと努力してきたが、全くの無意味だ。
これ以上の関係を望むべきでない、なんて考えたさっきまでの自分が滑稽に思えてならない。嫌になるほど意識しているくせに。本当はもっと彼の特別になりたいくせに。
二人がマンションの地下駐車場に降りたのは11時より少し前だった。すぐに音川はキーを操作し、間近でヘッドライトが点滅する。
泉の知らない車種だったがエンブレムからそれが国産だと分かった。大型SUV車なのが、アウトドアと程遠い生活をしていそうな音川には少し意外だ。
「見たことないクルマだ。厳ついですが、これで遠出するんですか?」
「身長に合わせただけ。あと乗り心地。どうぞ」
わざわざ助手席のドアを開けてくれた音川に、「モーニング食べてこなかったんですか」と泉は必死に照れを隠しながら聞いた。当然だが一般男性としてこんな丁寧な待遇をされたことは無い。
「そりゃそうだろ。きみを置いてなんて」と呆れ声で返事が返ってきた。
「お腹空きません?トレーニングの後」さらにこそばゆく動き続ける胸を誤魔化しながら、泉は会話を続ける。音川の一挙一動に過敏になりすぎているようだ。
「ジムでプロテイン飲んだからそうでもない。昼を早めに食べればいいかな。泉は?」
「冷蔵庫の……ヨーグルトをいただきました。あ、そうだ音川さん、歯ブラシも冷蔵庫に入ってましたよ」
「あっそ。良かったじゃねえか、夏だし」ハンドルを握り前を向いたままの音川がぶっきらぼうに答える。
「はい、キンキンに冷えていて助かりました。ところで、僕たちどこへ向かってるんですか?」
「百貨店」
「ホームセンターじゃなくて?」
「トレーナーに聞いたら、百貨店の方が品揃えが良いらしい」
ここらで百貨店と言えば、会社がある駅に隣接している鉄道会社系列の店だ。本館と別館があり、さらにホテルも併設された大規模な構造になっている。確かに、あそこなら良いものがありそうだが……
「恐らく、高額になりますよ」泉は、以前に母の日の贈り物として、そこで買った鍋の値段を思い出して言った。姉と父と共同で買わなければならないほどの値段だった。
「俺の食費より?」
「正確にはわかりませんが、ある程度揃えるとなると、食費半年分とか」
「半年、泉の自炊の練習に付き合うだけで元が取れるのなら相当安い」
「そ……うですか?」音川の言葉は泉の胸を踊らせたが、あえて『半年も練習に付き合ってくれるんですか』とは聞かなかった。言い直されでもしたらショックだ。
「……外食のほうがずっと高い?」
「たぶんね。まあプライパンやら鍋がいくらするのか想像もつかないが」
程なくして車は百貨店の地下駐車場へ滑り込み、2人はエレベーターでホームファニシングと表示されたフロアへ上がった。
音川も泉も別館である通称メンズ館には何度か足を運んだことがあるが、キッチン用品となれば置いてあるものの用途すら分からない音川と、料理初心者の泉が揃ったところで、何を買うべきかもさっぱりだ。
並んでしばし売り場の手前で立ち尽くした後、音川が口を開いた。
「よし。とりあえず、一旦上の階のレストランへ行こう。作戦立てないと無理だ」
二人は開店時間を迎えたばかりのレストラン街をぶらつき、ブランチがありそうな店構えのハワイ料理店に入った。
フルーツの乗ったパンケーキが泉の前に置かれ、大きなハンバーグが入ったロコモコが音川の前に置かれ、2人はウェイトレスがテーブルから去るのを待って皿を交換し、笑いあった。
「かわいい」
テーブルの向かいでパンケーキにシロップをたっぷり垂らしながら嬉しそうな顔をしている音川を見て、泉は素直にそう言った。
すぐに「だね」と同意が返ってきたが、どうやら華麗に盛られているプレートのことだと捉えたようだ。
「いつもそんなの食べてるんですか?」
「まさか。人生初のパンケーキですよ。食べてみたかったんだけど機会が無くてさ」
「なるほど。音川さんは特に目立つでしょうし」
「どういう意味だよ」
わかってるでしょ、と泉は視線で伝えた。ピンと張った広い肩幅から続く腕には太い血管が浮き出していて、どうみてもスウィーツと結びつかない。
しかし顔だけ取って見れば、まるで華が添えられたようにパンケーキのプレートの格が上がって見える。
「よければ、僕が付き合いますよ。他にも食べてみたいものあります?」
「ある」
「たとえば?」
「ケーキバイキング。あそこの」と無骨な四肢を持つ男は窓から見える大きな外資系ホテルを指さした。
「あー……なるほど」
「この後で行く?」
「そんなシロップどぼどぼのパンケーキ食べながら何言ってんすか。それにあそこはすごく人気だから予約必須です」
「良く知ってるね。行ったことがある?」
「母と姉が何度か」
「そうか。やっぱり女性向けだよな」
「音川さん、そんなこと気にするように見えないのに」
「そりゃおっさん独りじゃ敷居が高すぎるだろ」
「おっさんとは程遠いと思いますが……男二人も同じようなものでは」
「少なくとも俺は、泉が居ると平気かな」
「ん、どうしてです?」
「きみがとてもスイートだから」
音川には、泉がいつもキラキラと輝いて見えている。色素の薄い瞳やふわりとした髪や輝く肌が、まるで砂糖を纏った菓子のようで、とても、甘そうなのだ。
無言でぽかんとしている泉にようやく気がついた音川は、「……俺いま何つった?」と双眸を見開いた。
「失言だったかもしれない。ケーキが似合いそうだから?かな」
泉はぶんぶんと首を振った。
「どっちでもいいですから、絶対行きましょうね!他のスイートな人と行ったりしないでくださいね?」
「他の……いないけどね。うん。約束するよ」
音川と泉は少しの間無言で、微かに笑い合った。音川は未来の約束への期待に、泉は棚ぼた的に音川が自分を表現した言葉の甘さに。
「で、本題だが」と音川は話題を立て直した。このままでは、失言を重ねかねない。「さっき通りがかりに洋食屋があっただろ。ショーケースにさ、サンプルがいろいろ」
「美味しそうでしたね」
「ああいった料理は作れる?」
「まだ難しいと思います。レシピがあっても時間がかかりそう。でも、音川さんが食べたいものを作れるようになりたい、から……」
「ああ、そう?……じゃあ、あんなのを作るためにどの道具が必要か、を店員さんに聞いてみるか」
音川は泉の発言に引き摺られそうになるのを耐えた。
泉の礼儀正しさから考えると、後輩としての気遣い由来のリップサービスだ。それを間に受けて喜んだりしてはいけない。
「例えば、どの料理が一番魅力的でした?」
「そうだなぁ。ロールキャベツかな。あとビーフシチューもいいよな」
「ではその作戦で。あと本屋でレシピ本も見たい」
「了解」と音川は快活に応え、残りのパンケーキを平らげた。
「ほとんど空気じゃねえかよ」と口悪く感想を言いながらそれはそれで美味しかったようで、「また来よう」とアイスコーヒーはブラックのままで飲み干した。
支払いは泉が買って出た。『それで気が楽になるのなら』と音川は素直に奢られる。
再び階下のキッチン用品売り場へ戻って売り場に一歩踏み込むと、間髪入れず、「なにかお探しでしょうか」と背後から女性店員が柔らかに声を掛けてきた。
音川は渡りに船とばかりににっこりと微笑み、負けず劣らずの柔和なトーンで「例えば、ロールキャベツを作るにはどういう道具が必要ですか」と先ほどの泉との打ち合わせ通りに尋ね、「僕たち、料理は初心者で。まず道具から揃えないと家には何もないんです」と穏やかに説明し、ここで全て購入するつもりであると付け加えた。
「もし、お姉さんが買うとしたら、どれを選びます?」
音川にそう尋ねられた店員は途端にパッと明るく微笑んで、「そうね、一から全部揃えるとなると……」と一気に距離感が近く、親身になって選び始めた。
泉は、自分の母親よりも年上に見える店員さんを『お姉さん』と呼んだその一言だけで雰囲気をがらりと変えた音川に関心した。まるで、夜の仕事か飲食業のような人馴れした様子に、相手の気構えが消える。
「本当に全部揃えるの?」と店員はずいぶん砕けた口調で再び音川に確認した。
「うん。できれば同じメーカーで揃えたくて、カトラリーも、なにもかも」
「いいわねえ。男の人は道具から入るっていうし、うちの主人もね、定年後は自炊するんだって私の社員割引でフライパンから何から全部買って、結局1回きりよ」
「はは、うちもそうならないようにしないと。ね?」
音川は、隣で重さを確かめるようにフライパンを上下に振っている泉に向かって、極上の笑みを向けると、同意を求めた。
「あら、……新婚さん?」
「えっ!?」泉の手から危うくフライパンが滑り落ちそうになり、慌てて掴み直す。
「いいじゃない、素敵。このメーカーなら今ちょうどフェア期間中で、10万円以上の購入で30%の割引になるから、すごくお得よ」
「なるほど。じゃ、小ぶりなサイズで……ああ、食器も無いんだった。とにかく一式揃えてもらおうか」音川は、再び泉に微笑み掛ける。店員の誤解を加速させるのを知った確信犯のように。
店員は「良いのを選んでくるから、こちらでお待ちくださいね」と張り切った様子で音川と泉を商談スペースへ誘導して座らせ、小走りで別の店員の元に行き「あたし鍋揃えるから、食器類持ってきて!……新婚さんだって!」と小声の早口で伝えていた。しかし抑えようにも興奮した様子だったため、二人の元にもその声が聞こえてしまう。
「し、新婚なんて、どうして否定しなかったんですか」
「肯定もしてないだろ」
「誤解されたじゃないですか」泉は、焼け付くように熱くなってしまった自分の両耳に手を当てる。
「誤解というか早とちりというか。うちの母もあんな感じだなあ」
「うちもですが……まあ誤解なら仕方ないです……でも、このサイズでいいんですか?」泉はつい持ってきてしまったフライパンを掲げて音川に確認する。20cmと記載があり、目玉焼きなら2つ3つが精一杯に見える。
「大きいのは収納が大変だろ。泉が一人暮らしをする時に持っていけばいいんじゃないかなと思ってね」
「そんな、そこまでしてもらうなんて……」
音川は軽く咳払いをし、「仕事道具も調理道具も、きみのために揃えたいと思ったから」と、わざとらしく畏まったトーンで言った。
「あ、ありがとうございます……」
「変なところで急に遠慮するね。それに、素直すぎる」
「そうですか?」
「環境や道具がよければ、結果も良くなると思うんだ。ということは、副業でも自炊の練習台でも、結果を受け取る側である俺が得する。きみのため、なんて言っておきながら、ね」
「あ……」
「そう。結局は俺なんて、自分さえ良ければいいってだけの悪い男ですよ」
音川はにやりと口角を上げてみせた。
2年前、あの休憩室で初めて会った時と同じように。音川は自分を落としてまで、気を使わせまいとしてくれている。
「なあ、一つ聞いていい?」
「何?改まって」
「誤解が嫌なら、否定してこようか?」
隣に座る音川が一層低い声で尋ねてくる。
その声に震えそうな背筋から気をそらすため、泉はフライパンを持ち上げてくるくると回転させた。
「僕は……どっちでも」
「ああそう。じゃ、このままで」
泉は、自分の気持ちの深さに恐怖を感じた。叶わないと分かっているのに——どんどん——底なしに、好きになる。
音川の優しさには中毒性がある。
囚われ、もっと欲しくなり、想いは一層ひどく募るのに——
この人は、隣に居る部下が今、店員からの誤解に舞い上がるほど喜んでいるなんて、考えもしてないだろう。冗談めかして、状況を楽しでいるようにうかがえる音川に、理不尽にも腹立ちを覚える。
泉はガラスでできたテーブルにフライパンをそっと置くと音川へ顔を向け、じっと瞳を見つめた。
そして、音川の太ももに手のひらを滑らせながら、「音川さん、いい旦那さんになりそう」と耳元で囁いた。(僕一人が焦って舞い上がっているなんて、ずるいですよ)と内心で呟きながら。
音川は、苦虫を噛み潰したような顔をしながら添えられた手に視線を落とした。
「なったことがないからなんとも。試してみる?」
「そんな冗談を言っていると、いつか痛い目に遭いますよ」
音川は喉元までせり上がる言葉を飲み込んだ。口にすれば、それこそ本当に痛い目に遭うだろう。このささやかな、甘いひと時を壊したくない。
——きみと居ると、俺は胸が痛いよ。
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