16 / 24
第16話 エリシアン
性質的に統一感を好む音川は、調理器具からカトラリーまですべて同じブランドで揃えることができたことに非常に満足しながら支払いを終えると、当然のように重い方の袋を持った。そしてさらに「もう一個持てるよ」と泉の手から紙袋を奪う。
2人につきっきりで接客をした調理器具売り場の女性店員たちは、その紳士ぶりと、食器やフライパンの入った重い紙袋を難なく持つ強靭な両腕のコンビネーションに感嘆のため息をつき、「目の保養になった」と興奮冷めやらぬ様子だ。
そんなことはつゆ知らずの音川は、合計3つの紙袋を両手にぶら下げたまま、エレベーターのある方向へ歩き出し、ふと、途中にある寝具売り場で立ち止まる。
「どうしたんですか」
「いや、枕のオーダーメイドなんてあるんだな、と」
「ほんとですね。でも僕たち、今、寝具の前で立ち止まるのはどうかと」先程の店員たちからまだ送られている熱い視線を察知して、泉は音川の腕を軽く引いた。
「いいだろ。新婚なんだから寝具くらい見たって」
ぐ、と泉が言葉を飲み込んだ。こそばゆい嬉しさと同時に、複雑な悲しさ。平気でこんな冗談を言えるほど、音川にとっての自分は、無意味な存在なんだろう。
「そんな冗談を言っていると本当の婚期を逃しますよ」
「もう逃してるって言っただろ。これからもねぇよ」
音川の即答は言葉の持つ自虐性とは全く裏腹に、朗らかな調子で発せられた。
こういう一般的な予測と反する言動が、音川の本心を読ませないのだ。しかもそれが意図的なのかどうかさえも判別できない。
「……良い旦那さんになりそうなのに」
「まさか」音川は鼻で笑い飛ばした。
しかし、泉でなくても、会社の人間であれば誰もが、音川が未だに独身である理由を説明できないだろう。後輩への気配りも仕事も社内一でき、顧客からの信頼も厚い。33歳の若さですでに技術責任者で、実力のある技術者だ。
そして音川が、健康的かつ熟練した明朗な精神の持ち主であることは、会話をすればすぐに分かる。なにより穏やかで優しく、傍にいる人間に安心感を与えることができる男だ。下世話な話だが自宅マンションは持ち家のようだし、外見は言わずもがなだ。
確かに鉄壁な公私の分別により、プライベートを想像させるような発言は職場で聞かない。そのため私生活が壊滅的かもしれないという邪推ができなくもない。社内の噂によれば1階のショールームにいるアシスタント女性を全員抱いただの、音川に振られて辞めた社員がいるなど耳に挟むが、信じている者がいるかどうか妖しいところだ。
現に、少し音川のプライベートを知った今、それらは根も葉もない噂だと言い切れるし、私生活も非常に安定している。
それを端的に口にする泉を音川はちらりと横目で見た。
「前にも言ったけど、性格に難アリなんじゃねえの」と今度は無機質に言うから、また自虐な冗談とも本気とも判別できない。
「いや、それなんですよ。もしかして性格が良すぎる?とか。優しすぎるのかも」
「俺が?」
「はい」
「信じがたいな。よく冷たいとは言われるけど。ほら、前に速水からも言われただろ。人情味が薄いらしい。まあ自覚が無いこともないが」
「僕の意見は真逆です。だって職場の後輩でしかない僕を、理由も聞かず置いてくれて、隣で楽しませてくれたり。そこに合理的な理由や、音川さんにとってのメリットが何かあるとは思えない」
「合理的な理由とメリット、か……」
音川は、相変わらずオーダーメイド枕の広告に目をやったままだった。
行動する都度そこに理由を求めるのが当然だった自分が、泉の隣にいると木っ端微塵に消えてなくなってしまう。そうなっている事態に気が付かず、脊髄反射で行動してしまうのだ。後付で理由を探すことが答え合わせのようで興味深かったが、もはやそれすら意味を見失っている。
「きっと音川さんは、困っている人を放っておけないんだ。部下の僕でなくても」
そう呟く泉に目線をやると、少しうつむいている。
相手が泉でなくとも……同じように私的な交流を持っただろうかと自問してみても、答えは霧に包まれたように見えない。
「俺が良き夫のように見える?」
「見えますね」
「だとしたら、きみとの結婚に向いてるってことなのかもね。俺は、誰にでも優しいわけじゃないよ」
今まで散々、友人や家族にすら『結婚に向いていない』と言われてきた音川は、すぐ隣にいる泉に視線を移すと、口角を上げた。
「そ、そういう『悪質な冗談』を気軽に言うと誤解しますよ!」
そのまま音川の腕を引っ張って寝具売り場から引き剥がし、エレベーターへと足早に向かった。まともに顔を見れず、早く人目のない所へ移動したくてしようがなかった。
そんな泉に引かれるまま、階下行きのエレベーターに乗り込み、音川は不思議と、眼の前の薄い膜が切り開かれるような、暗い部屋でカーテンが開けられたような、明るい心地よさを感じていた。
幾度か結婚式に出席してきたが、『喜ばしいイベント』であることは理解するものの、どこか別次元の出来事のように感じていた。若い時は自分が適齢期でないだけだと収めていたが、30に近付いてくるとそう言ってもいられず……音川は、結婚という文化制度と自分の間にある奇妙な溝について向き合ってみたことがある。
結論としては、結婚という制度に完全に賛同できていないせいだと考え至った。
たとえば言語や思想のように、自然発生的に生まれたものであれば受け入れていただろうが、結婚制度はどうも人工的過ぎる。しかも基礎の大部分を、宗教という不可解なものと結びつきがあり、自分が加わるのがどうにも納得できないのだった。
自分についても色々と理解が深まり、他人と結婚を前提とした深い付き合いはできないのだろうと自覚した。
それゆえ、同じようにカジュアルな関係しか求めていない相手と何度か付き合ったが、いずれもどの道、誰かと結婚するために自分から離れて行く。披露宴に呼ばれるほどきれいな別れ方をしているのは幸いだが、離別により音川が考えを変えることはなく、あっさりと離れて何も残らない。
その音川を、泉はたった一言で変えてしまった。『良い夫になりそう』だなんて自分に向けられたことのない種類の賛辞だ。
もし、今ここで感じている浮き立つ心や、泉が音川の好物を作りたいと言ってくれたことへのこそばゆい期待。
これが新婚生活と言われるものであれば……悪くない。
むしろ、隠しきれないほどの大きい喜びが胸中にせり出してくる。
納得できないだの、現代社会にはそぐわない制度だの、宗教だの、そんな自我めいた思想なんてもうどうでもよくなってくる。
ただこの時間を、泉と過ごす喜びで埋めていたい。
地下駐車場まで無言だった音川は、大きな紙袋4つをしまい込んでトランクを閉じ、すでに助手席側のドア前に立っている泉についと視線をやった。
「俺は、誤解されたままでいいかな」
ドアを開けようとハンドルに手をやっていた泉は、そのまま硬直した。
音川が何を言い出したのか、まともに理解ができず、呼吸すら止まったのか声も出せない。
音川は、少しバツが悪そうな、やや困惑した微笑を口元に浮かべ、固まったままの泉を少しの間見ていたが、「この際だから、電子レンジと炊飯器もついでに買う」と言って運転席に乗り込んだ。
大慌てでドアを開け助手席に滑り込み、泉はハンドルを持つ音川の手元を見ながら、「僕も……」と呟いた。
顔なんて見れるわけなく、また赤くなっているであろう自分の顔も見せられるわけなく、しかしどこか音川の身体の一部でいいから見て、伝えたかった。
「音川さんがいいなら、僕も、いいです」
「そうか」
泉の返事は、音川の胸のあたりに未知のくすぐったさを生じさせた。まるで蝶が羽ばたくような繊細で優雅な揺れ。心地よく、少し恥ずかしさもある。
泉が助手席でシートベルトを締めながら頬を染めているように見えるのは気の所為でないと思いたい。
どうしようもなく触れたくなり、今だけ自分を許し、ハンドルを握っていた左手を泉の右膝にそっと置いた。
初めて触れる泉の身体は、硬く温かく、鹿のようだ。
それはほんの一瞬だったが、取り返しがつかなくなる前に自身の手に理性を取り戻させ、ギアを握った。
上司と部下という曲げようのない事実が重く音川の頭に伸し掛かったまま、車は地下駐車場から地上へと滑るように走り出る。
***
家電量販店に降り立つと、音川は大げさに意を決した様子で「買うぞ」と宣言した。隣で泉が「なんか嫌な予感がしますが」と眉を寄せる。
調理家電売り場にて、またも「お姉さんが今欲しい調理家電、教えて」と年配の女性店員を捕まえて女性目線を手に入れ、そのひとつひとつにおいて泉の意見を伺った。
「あ、これ実家にある」と音川が自ら目を止めたものは、泉には使いこなせそうにない大型のスタンドミキサーで、「まだ早い」と泉は却下したが、それに続いた音川の言葉に少し心を動かされた。
「母親が、これで生地を捏ねて、ピエロギを作るんだ」
泉がポケットから携帯電話を取り出して検索すると、ポーランドの代表料理だと表示された。「もしかして、おふくろの味ってやつですか」
「そう、なるか……今気づいたけど、俺、家で和食を食べたことがない可能性がある」
「なるほど、お母さんが外国人だとそうなるのか……」泉は値札を指さした。値段をよく見て慎重に考えてください、という意図だ。
「おふくろの味か。ね、レシピがあったら、作ってくれる?」
「たぶん練習すればできます」
「決まり。じゃ、母親に作り方を聞いておくよ」
スタンドミキサーの注文カードを手に取り、再び音川はぶらぶらと店内を歩き始め、今度は、「スムージー……」とブレンダーの前で足を止めた。すぐ後ろを付いて行っていた泉は音川の肩に頭を軽くぶつけてしまい、「うわぷ」と変な声を上げた。
「ごめんごめん。これ欲しかったんだ。スムージーはトレーナーからレシピ貰ってんだよな。野菜食わねえならこれくらいは作れって」
「いいじゃないですか。昼とか、在宅だと毎日のお昼ご飯大変でしょ」
「うん」と音川は素直に答えてブレンダーの注文カードも手に取った。
それ以外に購入したものはオーブンレンジや炊飯器と言った一般家庭にあるもので、言い換えれば今まで無くても不便がなかったのかと、一層音川の食生活を心配させる。
今日の音川は通常よりかよく笑い、買い物中もずっと冗談ばかり言っているし、とにかく上機嫌に見える。しかし調子良く何でもホイホイ買っていいというわけではないので、「予算大丈夫ですか」と釘を刺すことを忘れなかった。
音川のマンションに戻った2人は、部屋と駐車場を数回往復して、まるで引っ越しのような量の荷物を部屋に運び入れ、どんどん開封していった。
ハードウェアが揃ったところで、さて、と音川と泉は顔を見合わせた。
2人とも、PCはもとよりガジェットが好きなIT系男子だ。何でも、新しいものはすぐ使ってみたい。
検討した結果、『普通のカレーライス』を作ることになった。
鍋1つと炊飯器だけで出来上がったカレーライスを真新しい皿に盛り「本物だ!」と唸る音川に対して、泉は「カレーはね、誰でも作れるように箱に全部書いてあるんですよ」と冷静だったが、目元は満足気に緩んでいた。
音川は、食器を洗おうとする泉を浴室に追いやってから、デスクとチェアですっかり部屋らしくなった元客間で、クローゼットから泉のためにゲスト用の布団を出した。『今夜は絶対にベッドで寝てください』ときつく言われたからだった。
布団を敷く場所について少しだけ悩み、たぶん寝室では無い、と思い至ってそのまま客間で敷きながら、リビング、さらに首を伸ばしてキッチンの方を伺うと、買い揃えた調理道具、家電、食器がきっちりと収納されている。
その風景は新鮮な生活感で、今まで音川に欠けていたものに違いなかった。
「合宿みたい」
風呂から上がった泉が頭にタオルを被り、敷かれた布団を見て笑った。部屋に微かに残るカレーのにおいが一層そう思わせる。
「やっぱり音川さんもここに布団敷きます?そうしたら、本当に合宿になる。きっと楽しいだろうな」
手のひらに、泉の太ももの弾力のある硬さと温度が蘇り、音川は急いで強く拳を握りしめた。思い出したり、追いかけたりしていい感覚ではない。
その拳を床に付いて身体を起こすと立ち上がり、「俺も、風呂」と端的に告げた。そして客間を去り際に、「おやすみ」と声を掛けておく。
まだ寝るには早い時間だが、風呂から上がれば仕事部屋から出ないつもりだった。副業の方でもやりたいことは山程あるし、明日は泉に開発中のアルゴリズムを説明したい。
これ以上風呂上がりの泉と布団がある部屋に居てしまうと、そんな建前が崩壊してしまいそうで、恐ろしかった。
ともだちにシェアしよう!