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第16話 新婚さんいらっしゃい

音川は性質的に統一感を好む傾向があり、百貨店で調理器具からカトラリーまですべて同じブランドで揃えることができたことに非常に満足しながら支払いを終えた。 そして当然のように重量がある方の買い物袋を持ち、さらに「寄越せよ」と泉の手から食器類が入った紙袋を奪う。 ホームファニシングフロアの女性店員たちはいつの間にか全員集合しており、多層構造の鍋類がいくつも入った重い紙袋を難なく持つ強靭な両腕と、紳士的な態度のコンビネーションに感嘆のため息をついていた。 そんなことはつゆ知らずの音川は、合計3つの紙袋を両手にぶら下げたまま、エレベーターのある方向へ歩き出し、ふと、途中で立ち止まった。 「どうしたんですか」 「いや、枕のオーダーメイドなんてあるんだな、と」 「ほんとですね。でも僕たち、誤解されたままだし……今、寝具の前で立ち止まるのはどうかと」先程の店員たちからまだ送られている熱い視線を察知して、泉は音川の腕を軽く引いた。 「俺が良い旦那になりそうだって言っていただろ」 「はい」 「寝具も揃える?」 「……音川さんが考える良い旦那さん像はそれですか。荷物、重いでしょ?早く降りますよ」 泉は音川の腕を引っ張って寝具売り場から引き剥がし、エレベーターへと足早に向かった。まともに顔を見れず、早く人目のない所へ移動したくてしようがなかった。 そんな泉に引かれるまま、階下行きのエレベーターに乗り込み、音川は不思議と、眼の前の薄い膜が切り開かれるような、暗い部屋でカーテンが開けられたような、明るい心地よさを感じていた。 これまで幾度か結婚式に出席してきたが、『喜ばしいイベント』であることは理解するものの、どこか別次元の出来事のように感じていた。若い時は自分が適齢期でないだけだと収めていたが、30に近付いてくるとそう言ってもいられず……音川は、結婚という文化制度と自分の間にある奇妙な溝について向き合ってみた結果、結婚という制度に完全に賛同できていないせいだと考え至った。 たとえば言語や思想のように、自然発生的に生まれたものであれば受け入れていただろうが、結婚制度はどうも人工的過ぎる。しかも基礎の大部分を、宗教という不可解なものと結びつきがあり、自分が加わるのがどうにも納得できないのだった。 自分についても色々と理解が深まり、他人と結婚を前提とした深い付き合いはできないのだろうと自覚した。 その音川を、泉はたった一言で変えてしまった。『良い旦那になりそう』だなんて自分に向けられたことのない種類の賛辞だ。 もし、今ここで感じている浮き立つ心や、泉が音川の好物を作りたいと言ってくれたことへのこそばゆい期待。 これが新婚生活と言われるものであれば……悪くない。 むしろ、隠しきれないほどの大きい喜びが胸中にせり出してくる。 納得できないだの、現代社会にはそぐわない制度だの、宗教だの、そんな自我めいた思想なんてもうどうでもよくなってくる。 今だけは、ただこの時間を、泉と過ごす喜びで埋めていたい。 地下駐車場まで無言だった音川は、大きな紙袋をトランクにしまい込んでから、助手席側のドア前に立っている泉についと視線をやった。 「きみに見る目があるのか無いのか分からんが……」 「なんですか……それ」泉はきょとんと小首を傾げた。 「もしも俺が泉にとって『そういう立場』であれば、なんでもしてあげようと思うよ」 ドアを開けようとハンドルに手をやっていた泉は、そのまま硬直した。そこに音川がやってきて、「どうぞ」とまた中に促す。 『そういう立場』が何を指しているかを理解した瞬間、呼吸すら止まったのか声も出せなかった。 音川は少しバツが悪そうな、やや困惑した微笑を口元に浮かべ、「この場合、どっちが夫?ああ、どっちもか」と独り言のように呟いた。それが、泉の身体を更に熱くさせる。 そんな泉を少しの間見ていた音川は、「ほら乗って」と硬直した後輩エンジニアの身体を押し込むように助手席に座らせてから、自分は運転席に回り込んだ。 泉はハンドルを持つ音川の手元を見ながら、「僕……無意識に……」と呟いた。 顔なんて見れるわけなく、また赤くなっているであろう自分の顔も見せられるわけなく、しかしどこか音川の身体の一部でいいから見て、伝えたかった。 「け、結婚相手だったらって、想像した、かも……」 泉の反応は、音川の胸のあたりに未知のくすぐったさを生じさせた。まるで蝶が羽ばたくような繊細で優雅な揺れ。心地よく、少し恥ずかしさもある。 泉が助手席でシートベルトを締めながら頬を染めているように見えるのは気の所為でないと思いたい。 音川は、どうしようもなく泉に口付けたくなった。こんな衝動は初めてだが—— どのユニバースであっても許されることではない—— その代わりに、音川はハンドルを握っていた左手を泉の右膝にそっと置いた。先ほど店内で泉にからかわれながら触れられた場所よりかずっと下方であり、健全さは保っているだろう。 初めて触れる泉の身体は、硬く温かく、鹿のように滑らかだった。 それはほんの一瞬だったが、取り返しがつかなくなる前に自身の手に理性を取り戻させ、ギアを握った。 上司と部下という曲げようのない事実が重くのしかかりそうになるのを払い、音川は家電量販店へ車を走らせた。 もう少しだけ、この暖かな時間を長引かせるために。 *** 調理家電のフロアに到着すると、音川は大げさに意を決した様子で「買うぞ」と宣言した。隣で泉が「本当に何も持ってなかったんですね」と眉を下げる。どんなに荒れた食生活だったとしても、音川の見た目ではわからない。明らかに不健康そうなら周囲から心配の声が上がりそうだが、それが無かったのだろう。 そんな泉をよそに、音川はまたも「お姉さんが今欲しい調理家電、教えて」と年配の女性店員を捕まえて女性目線を手に入れていた。 炊飯器とオーブンレンジを同メーカーで揃え、「朝はモーニングに行くから、とりあえずトースターは要らないな」と所狭しと並ぶ調理家電の通路をブラブラと歩く。 「あ、コレ……」 音川が自ら足を止めたものは大型のスタンドミキサーで、こんがり焼けたバゲットやブルーベリータルトの写真が宣伝用に貼られている。 「さすがにパンやケーキはまだ無理ですよ」と泉は却下したが、それに続いた音川の言葉に少し心を動かされた。 「いや、まあ確かにお菓子にも使っていたと思うが、それより、母がこれでよくピエロギを作るんだ」 聴き慣れない単語だったため、泉は素早く検索した。ピエロギとはポーランドの代表料理だと画像付きで表示された。 「餃子に似ている気がします」 「ジャンルは同じかもな。美味いんだよ。久しぶりに食べたくなってきた」 「そういえばポーランド料理って見かけませんね?」 「都心にはあったが、こういうのは家庭の味であって……店で食うのとは違うんだよな」 「おふくろの味ってやつですか」 「そう、なるか……。ねぇ、泉。レシピがあったら、作ってくれる?」 「ぜひ。たぶん練習すればできます」 「決まり。じゃ、母親に作り方を聞いておくよ」 スタンドミキサーの注文カードを手に取り、再び音川はぶらぶらと店内を歩き始め、今度は、「スムージー……」とブレンダーの前で再び足を止めた。 すぐ後ろを付いて行っていた泉は音川の肩に頭を軽くぶつけてしまい、「うわぷ」と変な声を上げる。 「ごめんごめん。これ欲しかったんだ。スムージーはトレーナーからレシピ貰ってんだよな。これくらいは作れって」 「いいじゃないですか。在宅だと毎日のお昼ご飯大変でしょ」 「うん」と音川は素直に答えてブレンダーの注文カードも手に取った。 他に必要なものが思い浮かばず、今日の買い物はそこで打ち止めとなった。 音川は再び黒一色に統一できたことに満足していた。 泉から見ても、今日の音川は通常よりかよく笑い、とにかく上機嫌に見える。しかしすでに調理器具でもそれなりの金額を遣わせてしまっているため、「予算大丈夫ですか」と釘を刺すことを忘れなかった。 今日買ったものはいずれ泉に譲るようなことを言っていたが、さすがにそうなったら買い取るつもりでいるため、あまりに高額だと大変だという個人的な事情もあった。 それでも、「これまでの食費に比べりゃ余裕」と音川は意に介さない。 「もしかして酒代が高額なんじゃ……?」 「いいや、プロテイン代だね」 「プロテイン入りアルコール飲料があればの話でしょ」と泉は一蹴し、それは不味そうだと二人で笑いあった。 マンションに戻った二人は、部屋と駐車場を数回往復して、まるで引っ越しのような量の荷物を部屋に運び入れ、どんどん開封していった。 ハードウェアが揃ったところで、さて、と顔を見合わせた。 どちらもPCはもとよりガジェットが好きなIT系男子だ。何でも、新しいものはすぐ使ってみたい。 検討した結果、『普通のカレーライス』を作ることになった。 鍋1つと炊飯器だけで出来上がったカレーライスを真新しい皿に盛り「本物だ!」と唸る音川に対して、泉は「カレーはね、誰でも作れるように箱に全部書いてあるんですよ」と冷静だったが、目元は満足気に緩んでいた。 音川は、食器を洗おうとする泉を慌てて止めて風呂へ追いやり、手早く洗い物をすませると客間のクローゼットからゲスト用の布団を出した。『今夜は絶対にベッドで寝てください』と泉からきつく言われたからだった。 無論、そこに『一緒に』という甘い一言は無く、泉が客間で寝るという意思表示だ。 翻るカバーに狩猟本能を掻き立てられ、爪を立てて絡んでくるマックスに「破るなよ」と声をかけ、黙々と泉の寝床をこしらえながら首を伸ばしてキッチンの方を伺うと、買い揃えた調理道具、家電、食器がきっちりと収納されている。 ここには今、『泉との暮らし』がある。 しかし、そんな音川のささやかな妄想は、「合宿みたい」と風呂上がりの泉に言われてふっとんでしまった。 「微かに残ってるカレーのにおいが一層……音川さんもここに布団敷いて、プログラミング合宿します?朝までに何かアプリのアイデアを出したり」 手のひらに泉の太ももの弾力のある硬さと温度が蘇り、音川は急いで強く拳を握りしめた。思い出したり、追いかけたりしていい感覚ではない。 「Party is overだな。今日は楽しかったよ」 音川はその拳を床に付いて身体を起こすと立ち上がり、「おやすみ」と声を掛けて客間を去った。 まだ寝るには早い時間だが、今夜はもう仕事部屋から出ないつもりだった。明日、泉に副業の説明をするためにはいくつか準備が必要だ。 これ以上風呂上がりの泉と布団が並んでいる場所に居てしまうと、そんな建前の用事などかなぐり捨てて、自分自身の空想の奴隷になってしまいそうでとても恐ろしかった。

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