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第17話 救う人
音川が個人的に開発しているアプリケーションは、平たく言えば、日本人のIT従事者を対象としたAIによるカウンセリングツールだ。
このアイデアを実現するため、心療内科クリニックを運営している大学の友人で、藤宮という男から協力を得ている。
本来、音川は哲学科の出身である。
情報工学の人間だと他人には思われがちだが、プログラミングは中学生時分に転入したポーランドのギムナジウムで自ら始めたもので、ほとんど独学だ。
機械語を人間が分かる言語に置き換えたものがプログラミング言語で命令語とも呼ばれるが、システムの軸はどうしたって人間が考える。それを機械に伝えるために、その構造であるアルゴリズムを考えてプログラミング言語を用いて命令する。
その構造ゆえ、2者は永遠の主従関係にある。
しかし音川は10代の頃、若さが持つ情熱をすべてプログラミンに注ぎ混み——
そこにうっすらとした影のように佇む人らしき何かを見たのだ。
それは奇妙な新事実に思えた。機械と人間、この2者はもはや主従関係ではなく、親子で、双子で、同一人物であるべきではないかと。
この考えは今でも変わっていない。
そして、細い線で区切られているこちらとあちらの世界を、ひょいと飛び越える瞬間が、もうそこまで来ているのではないかと感じていた。
それが起こり得るのは、ここ日本ではないかという漠然とした予感めいた——期待かもしれない——を強く感じている。自分に、この国のエンジニアを守るという使命を与えたのだ。
驕った理想だと嗤われるかもしれないが、そこまで入れ込むのには理由がある。
学生時分から、人間の興味とメンタルヘルスの関連性に非常に強い関心を持ち続けているが、実際に社会に出てみると心を崩して現場を離れるエンジニアの多さに驚愕した。特に優秀な技術者ほどピュアで繊細で、それゆえ優秀なのだろうが、彼らは社内にある悪意から攻撃目標にされやすい。他の業務と異なり考え方が『職人』であるがゆえに、頼まれごとを引き受け、プライドを持って全力で応えるが、できて当然とばかりに感謝されることはない。それどころか何か一つでも不具合があれば、ここぞとばかりにマイナス評価されてしまう。
優秀なエンジニアが、誰からも手を差し伸べられずに潰れていく話はごろごろ転がっているほど一般的で、惨たらしい。
仕事で知り合うエンジニアからヒアリングした内容と、友人のクリニックで患者の同意を得て提供されるプロファイリングから、音川はエンジニアの性質や思考回路や嗜好を細かく分析し、無数の人格パターンを形成するためのAIを設計した。
十分に学習した後、次にそのAIは自らを苦悩するエンジニアだと認識し、問題解決のための救い手を求め、自ら最適な解決策を導いてくれる対話型AIを開発する。これが実現すれば、カテゴライズや傾向などに頼らない、エンジニア一人一人の専属カウンセラーが登場することになる。
藤宮は音川の話を聞いて一も二も無くスポンサーとして名乗り出、また治療の参考に試用したいと積極的に協力を申し出てくれた。
彼は彼で、カウンセリングを受けるという選択肢が日本ではまだまだ一般的でない現実と、そして長時間労働になりがちなIT従事者はそもそも通院する時間が取れずに症状が重篤化せざるを得ない惨状に常々悩んでいたからだ。
クリニックを訪れる若年層の患者にもIT従事者が多く、彼らの多くは身体が動かなくなり休職を余儀なくされてから、ようやく初診となる。そうなると長期に渡る投薬治療で身体への負担もさることながら、復職まで時間も掛かる。そして社会のIT化が進むと並行して患者数も増加傾向にあり、懸念も大きくなる一方だった。
そこに、旧知の仲である音川から連絡があり、まさに渡りに船となったのだ。
『AIカウンセラーか。まるで無限に分身するお前みたいなものだろう』と藤宮は笑い、音川はその自分ではたどり着けなかった表現を大層気に入った。
泉が開発への興味を示してくれたのは幸運だった。プログラミング自体は相当手強くやりがいがあるから、きっと楽しんでくれるだろう。ただ、音川のほとんど思想的とも言える目的に賛同してくれるかどうかは賭けだ。万が一アプローチを間違え、途方もないことに手を出している夢見がちな人間だと思われてしまっては元も子もない。
慎重に説明し、実現可能性を確信していると証明しなければ。
喉の乾きを感じて仕事部屋から出ると、まだ宵の口という時間だったがリビングからの明かりは皆無で、一層足を忍ばせた。
冷蔵庫の中から冷えたミネラルウォーターのボトルを取り出し、つい、客間の方に目線をやった。真っ暗な部屋に微かに月明かりが差し込み、その部分だけが斜線のように浮き出している。
泉は掛け布団をほとんど蹴飛ばし、片膝を立てた体勢で寝入り込んでいた。膝からつま先までがすっと伸び、艶のある皮膚が月光を跳ね返している。
きれいだ、と思った。
ミネラルウォーターを飲んでから、グラスに少しだけ好物のラム酒を注いで、ソファへと移動した。そこで丸まっていたマックスは音川の足を邪魔そうにしながらもすり寄り、頭を撫でてやると客間へトコトコと歩いて行った。泉の傍で寝直すらしい。
正面には夜景、そして少し頭を傾げれば客間が視界に入る。
思えば、最初に会議通話をした日すでに、音川は泉の容姿に惹かれたのではなかったか。それを認めてしまわないように、モラルに反すると心の目に蓋をして。
しかし、今は——自分の軸になっているはずのモラルや論理が邪魔に感じる。
———音川の目に映る泉は、どの瞬間でも、ひどく美しく愛らしい。
感情的のみで論理的な説明はどこにもないのに、胸には奇妙な清々しさがある。
7年物の甘いラムをもう一杯注ぎ、音川は「これで眠れる」と軽く自嘲してリビングを離れた。案の定、マックスは追って来なかった。
***
翌日は、2人揃ってモーニングを食べに出かけた。
いつもは喫茶店で合流する2人が、今朝は揃って顔を出したことで、ママは一瞬目を丸くし、「あらやだお赤飯炊かなきゃ」と浮かれ調子で言った。
「なんか良いことあったんですかね」と首を傾げる泉に、「知らね」と短く返事をして席についた。
「今日も食材を買って帰りませんか。夕飯、作りたい」
「いいのか?今日明日は副業の方をみっちり説明するつもりだから、少々堪えるかもよ」
「お手柔らかにお願いします。ハンバーグ作ってあげますから」
「作れるの?でも昨日、ロコモコ食べてなかったか?」
「男の子は毎日ハンバーグでもいいんです」
「まあ、言えてるか……いつ食っても美味いからな」
2人の会話を聞くでもなく聞いていた喫茶のママは、モーニングを準備しながら、どうしても口元に浮かんでしまう笑みを噛み殺していた。
これまで誰かを連れてきたことなど一度も無く、ただ毎朝モーニングを食べて、鹿爪らしく新聞を隅々まで読むと帰る美丈夫の常連。日常の中の非日常と言えるほど、喫茶にいる音川の姿は絵になり、人目を引く。しかし見た目に反して話し好きで、年配者の昔話に心底面白そうに耳を傾ける。そんなだから音川を孫娘と引き合わせたい、と耳打ちしてくるシニア世代の常連客も何人かいたが、音川の耳に入れたことはない。
長年水商売をやってきた勘で、音川はたまに遊びはするが決して他人を自分の人生に入れない人間のタイプだと分析していたからだ。
しかし、泉を連れてきてから、音川に対する理解が180度変わった。そして、泉から溢れ出る音川への尊敬と情熱。偽物の恋を何百と見聞きしてきた女にはすぐに分かる——
本物の情熱。その必死さが可愛らしく、儚くて。一瞬で泉の恋を全力で応援することに決めたのだった。
昼食は、ブレンダーを使ってみたい音川のリクエストでスムージーとなり、2人は喫茶の帰りにスーパーでグリーンスムージーとハンバーグの材料を買った。
「一宿一飯の恩義です」と泉は食材代を支払い、「賭博師かよ」と音川は笑い、「何泊居てもいいから、ロールケーキも買って」とスーパーの向かいにあるケーキ屋を指差した。
「だめです」
「えっ!?」
まさか拒否されるとは思っておらず、音川は少し後ろにのけぞるほど驚いた。
「昨日、パンケーキ食べましたよね。毎日スイーツは、だめ」
「昨日今日だけだよ、こんな食生活」
「まあ、それは……音川さんの身体を見ればわかりますけど……」裸の上半身が頭に蘇り、やや口ごもる。「でも、今度ケーキバイキング行くんでしょ?それまで我慢しませんか?」
「分かったよ。それまでにカリッカリに絞ってやるから見てろ」
「現状で十分素敵ですよ。でも最近、音川さんが普通に見えてきて……」
「なんだよ。なおさらじゃねえか。腹筋は苦手なんだけど、絞るわ」
「音川さん、もしかして……カッコいいと思われたいんですか」
「きみにはね」
今度は泉がのけぞる番だった。「なっ、え?どうして……」
「理由いる?」
音川はあんぐりと口を開けている泉の手から買い物袋を奪い、先頭を切った。
理由はある。泉に対して自分を魅力的に見せたいというエゴだ。しかしそれを口に出したところで、同じように『どうして?』と聞かれるだろう。
それは非常に困る。
泉はいつものように論理的な言い訳だか説明だかをしなかった音川にどことなく腑に落ちないままではあったが、音川が『早く副業の話をしたい』と急かすので追求はしなかった。
帰宅すると早速、音川は仕事部屋からノートPCとチェアを客間に持ち込み、泉用のデスクに並んだ。副業についてのプレゼンのスタートだ。
まだもやもやと先程のことを考えてはいたが、ぱっと外部モニターに表示されるフローチャート群を見て、なにもかも吹っ飛んでしまった。
「これって……?」
「人間の思考パターンだ」
「すごい……これ全部、音川さんが?」
「違う。これは俺が開発したAIエンジニアが自ら思考して作った人格だ」
「こんなにも」
「うん。人間は誰一人とて同じじゃないし、悩みは千差万別だ。確かに分類は可能だろうが、俺は今のエンジニア達はもう多様すぎて従来の分類には嵌まらないんじゃないかと思っていて。それを人間が把握できないのなら、AIに助けてもらうしかない」
泉に対して、自分の考えていることを平易に、しかし余すところなく話して聞かせた。相槌を打つでもなく、じっと目を見ながら聞いていた泉は、音川が説明を終えると「やっぱり優しすぎる」とぽつりと呟いた。
「どうしてみんなを救いたいんですか?」
「みんなじゃない。IT従事者だけだよ。それも、業界の発展のために。ね?言っただろ。俺は自分が良ければそれでいいんだって。エンジニアが増えれば、その恩恵は全て自分に返ってくるだろ」
「誤魔化さないで」泉はピシャリと言って除けた。そして毅然とした態度で続ける。「コンピュータ制御されていないものは無いと言える時代です。日本全体でエンジニアが能力を発揮できるようになれば、今よりずっと身近なモノゴトの品質が上がる。待遇も改善され、技術職への流入も増えるでしょう。ようは、世の中の色々なものがもっと分かりやすく、合理的で、便利になる。技術者も、消費者も、だれも損をしない。
——音川さん、貴方は、日本を救おうとしているんだ。違いますか?」
真っ直ぐに音川を見つめる少し色素の薄い大きな瞳がぼんやりと潤い、目尻に雫が丸く溜まっていく。
「僕は……嬉しい。音川さんの仕事に関われることが、嬉しいです」
とうとう泉の目尻から落ちた雫を、音川はそっと指先で受け取った。
そのまま軽く頬に手のひらを当てると、擦り寄るように泉が頭を傾ける。
たまらなく愛らしくて、親指の腹を滑らかな頬や柔らかいまぶたに何往復かさせると、くすぐったそうに小さく声を上げて笑い、潤んだ瞳をやんわりと細める。
理解されたことへの、喜びで胸が熱く燃える
泉は心の底から、音川の理想に関われることを誇りに思った。
この男の優しさは計り知れない。自分に見返りがあるからなんて照れ隠さねば、止めどなく溢れてしまうほど、人間に対する愛を持っている。
しばらくそうして泉の頬や耳元を撫でてから、音川は「落ち着いた?」と耳元に唇を付けた。
泉はぶるりと背を震わせ、思わず小さな喘ぎを漏らした。
その艶かしい声に、音川は脳がぐるりと回転したかと思うほど目眩を感じ、思わず抱きしめそうになり、堪えるために腕に力を込めた。
泉の耳朶に触れた唇がしびれるように熱い。このまま口付けて、今自分の胸中を満たしている気持ち全てを包み隠さず伝えたい。
しかし泉に対する感情は、こんな導火線に火を付けられて始めるようなものじゃないはずだ。敬意と尊重を持って接するべきだ。
音川は泉の両肩をできるだけ優しく掴み、そっと自分を引き剥がした。
「続きは、午後からにしようか」
「え、なんの………続き?」
「アルゴリズムの説明」音川はモニターを指差し、泉はその筋張った長い指を上目遣いで睨んだ。
「そんなことだろうと思った……」
「他に無いだろ」
「いいですよ、音川さんがそのつもりなら」泉は短く深呼吸をして、続けた。
「どうせこのプログラムは明日明後日に完成するようなものではないし。少なくとも完成まで、僕は音川さんから離れませんから」
「工数は申告制でいいから、時給と日給どっちにする?」音川の軽口に、泉は口を尖らせる。
「で……完成した後はどうするんです?」
「まあ、俺は今の会社を辞めるだろうね。付きっきりでモニタリングしたいし……」
その時がくれば、ようやく音川は解放される。
会社の上司という役から降りて、ただの1人の男になった時に、もしまだ泉が傍にいたなら、或いは。
自分の感情を受け止めて認めることと、社会的なケジメと線引とは別物だ。
保木のような、欲に狂った男にだけはなってはならない。
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