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第17話 唇に残る喜びと後悔
音川が副業で開発しているアプリケーションは、平たく言えば、AIによるカウンセリングツールだ。英語圏であれば似たサービスが確認できるが、音川は日本人のIT従事者をメインターゲットに据えている。
開発を進めるにあたり、大学時代からの友人で心療内科クリニックを運営している藤宮という男からデータ提供という形で協力を得ている。
藤宮とは、ドイツ哲学のゼミで知り合った。職種に似合わず音川は哲学科の出身である。当然のように情報工学の人間だと思われがちだが、元来、根本的なところを掘り下げて論理を丁寧に積み上げていく思考をなによりも楽しむことができる音川にとって、哲学専修以外への進振りは考えられなかった。
藤宮は医学科でドイツ語に触れるうちに興味を持ったとかで、教授の好意による傍聴参加という立場だったが、原書への知識は哲学科の連中に劣ることがなかった。
ポーランドからの帰国子女である音川は在学中に義務課程で6年間ドイツ語を習い、ドイツ系である祖父には毎日ジュブナイル向けの哲学書や詩集を朗読させられていた。その経験から原書を読むだけでなく会話も流暢なため教授に目をつけられ、ゼミにはボランティアの語学教師役として強制参加だった。
なんとなく他の学生から浮いた存在であった二人は気安く話すようになり、最も仲の良い友人となった。
藤宮は、家業であるメンタルクリニックを継がなければならない立場を冷静に受け止めてはいるが、その実、若者のこころの健康について学問を続けたいという夢がある男だった。
同様にして、音川がエンジニアのメンタルヘルスに興味を持ったのは、この業界に就職する前だ。
プログラミングは中学生時分に転入したポーランドのギムナジウムで自ら始めたもので、すぐに熱中した。
そうして10代の頃、音川は若さが持つ情熱をすべて注ぎ混み——
目の前のモニターに映し出されているソースコードの前面に、うっすらとした塔らしき何かを見たのだ。それはとても奇妙な映像で、前面のようにも背面のようにも見え、モニターと自分との空間にある立体物にも見えた。
ただ確かに言えることは、音川にとってその光景は『事実』だった。マシンと自分の精神の狭間にあるその塔は、二者の絶妙な共鳴によって現れ、塔立の状態を保つことができていた。
それが音川に、細い線で区切られているこちらとあちらの世界を、ひょいと飛び越える瞬間が、もうそこまで来ているのではないかと実感させたのだ。
機械語を人間が分かる言語に置き換えたものがプログラミング言語で命令語とも呼ばれるが、その構造からわかるように、2者は永遠の主従関係にある。
音川は、日本とポーランドを行き来していく中で、日本ではその主従関係が薄いと気がついた。擬人化という得意な文化がまるで当然のように日常に溶け込んでいる。
そうして、自分が感じているきっかけは、日本で起こるのではないかという漠然とした予感めいた——期待かもしれない——を強く感じるようになった。
驕った理想だと嗤われるかもしれないが、そこまで入れ込むのには理由がある。
学生時分から、人間の興味とメンタルヘルスの関連性に非常に強い関心を持ち続けているが、実際に社会に出てみると心を崩して現場を離れるエンジニアの多さに驚愕した。特に優秀な技術者ほどピュアで繊細で、それゆえ優秀なのだろうが、彼らは社内にある悪意から攻撃目標にされやすい。他の業務と異なり考え方が『職人』であるがゆえに、頼まれごとを引き受け、プライドを持って全力で応えるが、できて当然とばかりに感謝されることはない。それどころか何か一つでも不具合があれば、ここぞとばかりにマイナス評価されてしまう。
優秀なエンジニアが、誰からも手を差し伸べられずに潰れていく話はごろごろ転がっているほど一般的で、惨たらしい。
仕事で知り合うエンジニアからヒアリングした内容と、友人のクリニックで患者の同意を得て提供されるプロファイリングから、音川はエンジニアの性質や思考回路や嗜好を細かく分析し、無数の人格パターンを形成するためのAIを設計した。
十分に学習した後、次にそのAIは自らを苦悩するエンジニアだと認識し、問題解決のための救い手を求め、自ら最適な解決策を導いてくれる対話型AIを開発する。これが実現すれば、カテゴライズや傾向などに頼らない、エンジニア一人一人の専属カウンセラーが登場することになる。
藤宮は、彼は彼で、カウンセリングを受けるという選択肢が日本ではまだまだ一般的でない現実と、そして長時間労働になりがちなIT従事者はそもそも通院する時間が取れずに症状が重篤化せざるを得ない惨状に常々悩んでいた。
クリニックを訪れる若年層の患者にもIT従事者が多く、彼らの多くは身体が動かなくなり休職を余儀なくされてから、ようやく初診となる。そうなると長期に渡る投薬治療で内臓への負担もさることながら、復職まで時間も掛かる。そして社会のIT化が進むと並行して患者数も増加傾向にあり、懸念も大きくなる一方だった。
そこに、旧知の仲である音川から連絡があり、まさに渡りに船となったのだ。
『AIカウンセラーか。まるで無限に分身するお前みたいだな。後輩の面倒見が良かったのを覚えているよ』と藤宮は笑い、音川はその自分ではたどり着けなかった表現を大層気に入った。
泉が副業に興味を持ってくれたのは幸運だった。プログラミング自体は相当手強くやりがいがあるから、きっと楽しんでくれるだろう。
ただ、音川のほとんど思想的とも言える目的に賛同してくれるかどうかは賭けだ。万が一アプローチを間違え、途方もないことに手を出している夢見がちな人間だと思われてしまっては元も子もない。
慎重に説明し、実現を確信していると証明しなければ。
喉の乾きを感じて仕事部屋から出ると、まだ宵の口という時間だったがリビングからの明かりは皆無で、一層足を忍ばせた。
冷蔵庫の中から冷えたミネラルウォーターのボトルを取り出し、つい、客間の方に目線をやった。真っ暗な部屋に微かに月明かりが差し込み、その部分だけが斜線のように浮き出している。
泉は掛け布団をほとんど蹴飛ばし、片膝を立てた体勢で寝入り込んでいた。膝からつま先までがすっと伸び、艶のある皮膚が月光を跳ね返している。
音川は、その足がとても綺麗だと思った。
思えば、最初に会議通話をした日——すでに、音川は泉の容姿に惹かれたのではなかったか。それを認めてしまわないように、モラルに反すると心の目に蓋をして。
しかし、今は——自分の軸になっているはずのモラルや論理が邪魔に感じる。
———音川の目に映る泉は、どの瞬間でも、ひどく美しく愛らしい。
この感情に相応しい論理的な説明はどこにも見当たらない。
しかし、胸には奇妙な清々しさがある。
7年物の甘いラムをもう一杯注ぎ、音川は「これで眠れる」と軽く自嘲してリビングを離れた。案の定、マックスは追って来なかった。
***
翌日は、2人揃ってモーニングを食べに出かけた。
いつもは喫茶店で合流する2人が、今朝は揃って顔を出したことで、ママは一瞬目を丸くし、思わず「あらやだ」と漏らした。
「今日も食材を買って帰りませんか。夕飯、作りたい」
「いいのか?今日明日は副業の方をみっちり説明するつもりだから、少々堪えるかもよ」
「お手柔らかにお願いします。ハンバーグ作ってあげますから」
「作れるの?でも昨日、ロコモコ食べてなかったか?」
「男の子は毎日ハンバーグでもいいんです」
「まあ、言えてるか……」
2人の会話を聞くでもなく聞いていた喫茶のママは、モーニングを準備しながら、どうしても口元に浮かんでしまう笑みを噛み殺していた。
毎朝独り、鹿爪らしく新聞を隅々まで読むと帰る美丈夫の常連は、日常の中の非日常と言えるほど絵になる。しかし見た目に反して話し好きで、年配者の昔話に心底面白そうに耳を傾ける。そんなだから音川を孫娘と引き合わせたい、と耳打ちしてくるシニア世代の常連客も何人かいたが、音川の耳に入れたことはない。
長年水商売をやってきた勘で、音川はたまに遊びはするが決して他人を自分の人生に入れない人間のタイプだと分析していたからだ。
しかし——泉を連れてきてから、音川に対する理解が180度変わった。
泉の存在感は、古い店内に差し込むフレッシュな朝の光のように明るい。溢れ出る尊敬と情熱を隠そうともせず、キラキラと目を輝かせて、音川の言葉に耳を傾ける。
それは、偽物の恋を何百と見聞きしてきた女にはすぐに分かる——本物の情熱だ。
可愛らしく、儚くて。一瞬で泉の恋を全力で応援することに決めたのだった。
喫茶のママの温かな視線を受けながら、そんなことはつゆ知らずの二人は店を出ると徒歩で駅前近くのスーパーに寄った。昼食にはグリーンスムージーを作る算段もし、それらの材料を買うためだ。スムージーについては音川がジムのトレーナーから提供されたレシピをスキャンして自宅PCに保管していたため、スマホからファイルにアクセスして材料を調べるという手間が掛かったが、新しいガジェットを使ってみたい欲の方が勝った。
「一宿一飯の恩義です」と泉は食材代を支払った。
「賭博師かよ」と音川は笑い、「何泊居てもいいから、ロールケーキも買って」とスーパーの向かいにあるケーキ屋を指差した。
「だめです」
「えっ!?」
まさか拒否されるとは思っておらず、音川は少し後ろにのけぞるほど驚いた。
「昨日、パンケーキ食べましたよね。毎日スイーツは、だめ」
「昨日今日だけだよ、こんな食生活」
「まあ、それは……音川さんの身体を見ればわかりますけど……」先日目撃した裸の上半身が頭に蘇り、やや口ごもる。「でも、今度ケーキバイキング行くんでしょ?それまで我慢しませんか?」
「分かったよ。それまでにカリッカリに絞ってやるから見てろ」
「そこまでしなくても……でも最近、音川さんが普通に思えて来たような……見慣れたのかな」泉は照れから本心と異なる軽口を叩いた。
「なんだよ。なおさらじゃねえか。腹筋は苦手なんだけど、絞るわ」
「音川さん、もしかして……」泉はからかい口調で口角を上げて見せた。「他人からカッコいいと思われたいんですか」
「キミにはね」
今度は泉がのけぞる番だった。「なっ、え?どうして……」
「理由いる?」
音川はあんぐりと口を開けている泉の手から買い物袋を奪い、先頭を切った。
理由はある。少しでも自分を魅力的に見せたいというただのエゴだ。
しかしそれを口に出したところで、再び理由を——エゴの根源を聞かれるのが関の山だ。その答えを持ち合わせていない音川にとって、追求は回避すべきだ。
泉はいつものように論理的な言い訳だか説明だかが提供されなかったことで、どことなく腑に落ちないままではあったが、音川が『早く副業の話をしたい』と急かすので追求はしなかった。
帰宅すると早速、音川は仕事部屋に泉を呼び込んで、窓際の一人掛けソファに座らせた。「ちょっと見てみて」とモニターをそちらへ向ける。
泉はまだモヤモヤと先程のことを考えてはいたが、次々と外部モニターに表示されるフローチャート群を見て、なにもかも吹っ飛んでしまった。
「これって……?」
「人間の思考パターンだ」
「すごい……これ全部、音川さんが?」
「違う。これは俺が開発したAIエンジニアが自ら思考して作っているんだ」
「こんなにも」
「うん。人間は誰一人とて同じじゃないし、悩みは千差万別だ。確かにある程度の分類は可能だろうが、俺は今のエンジニア達はもう多様すぎて従来の分類には嵌まらないんじゃないかと思っていて。それを人間が把握できないのなら、AIに助けてもらうしかない」
音川は、泉に対して、自分の考えていることを平易に、しかし余すところなく話して聞かせた。相槌を打つでもなく、じっと目を見ながら聞いていた泉は、音川が説明を終えると「優しすぎる」とぽつりと呟いた。
「音川さんは、どうしてみんなを救いたいんですか?」
「みんなじゃない。IT従事者だけだよ。それも、業界の発展のために。ね?言っただろ。俺は自分が良ければそれでいいんだって。エンジニアが増えれば、その恩恵は全て業界に与えられる。そうなれば自分を含め、エンジニア皆に返ってくるだろ」
「誤魔化さないで」泉はピシャリと言って除けた。そして毅然とした態度で続ける。「コンピュータ制御されていないものは無いと言える時代です。日本全体でエンジニアが能力を発揮できるようになれば、今よりずっと身近なモノゴトの品質が上がる。待遇も改善され、技術職への流入も増えるでしょう。ようは、世の中の色々なものがもっと分かりやすく、合理的で、便利になる。技術者も、消費者も、だれも損をしない。——音川さん、貴方は、日本を救おうとしているんだ。違いますか?」
真っ直ぐに音川を見つめる少し色素の薄い大きな瞳がぼんやりと潤い、目尻に雫が丸く溜まっていく。
「音川さんほど優しい人を僕は知らない」
音川は腕を伸ばして、とうとう泉の目尻から落ちた雫をそっと指先で受け取った。
そのまま軽く頬に手のひらを当てると、擦り寄るように泉が頭を傾ける。
親指の腹を、滑らかな頬や柔らかいまぶたに何往復かさせると、くすぐったそうに小さく声を上げて笑い、潤んだ瞳をやんわりと細める。
「……嬉しい。この開発に誘って貰えたことを光栄に思います」
「ありがとう」と囁くと、泉はこくりと頷き、音川に近付いてくると肩口に額を擦り付けてきた。熱い雫がシャツを通して音川の皮膚に吸収されていく。
泉は心の底から、音川の理想に関われることを誇りに思った。
この男の優しさは計り知れない。自分に見返りがあるからなんて照れ隠さねば、止めどなく溢れてしまうほど、人間に対する愛を持っている。
音川は、泉に理解されたことへの喜びで熱く燃える胸を自覚しながら、表面上は静かに微笑むだけにとどめていた。
「落ち着いた?」
その低く囁かれた声に、泉はぶるりと背を震わせ、小さな喘ぎを漏らした。
不覚の反応に、音川は脳がぐるりと回転したかと思うほど目眩を感じ、そのまま泉の耳朶に唇を触れさせ、軽くついばんだ。更に泉がか細くするどい喘ぎを漏らすものだから、一瞬だけ頭の芯がしびれるように熱くなる。
このまま口付けて、今自分の胸中を満たしている気持ち全てを包み隠さずに身体で伝えたい衝動に駆られた。
しかし、すぐに本来の自分を取り戻す。
泉に対するこの新しい感情は、こんな導火線に火を付けられて始めるような肉欲ではないはずだ。もっと大切な——敬意と尊重であるべきだ。
音川は泉の両腕をできるだけ優しく掴み、そっと自分を引き剥がした。
「ごめん。続きは、午後からにしようか」
「え、なんで謝って………なんの続き?」
「アルゴリズムの説明」音川はモニターを指差し、泉はその筋張った長い指を上目遣いで睨んだ。
「……そんなことだろうと思った……」
「他に無いだろ」
「いいですよ、音川さんがそのつもりなら」泉は短く深呼吸をして、続けた。
「工数は申告制でいいから、時給と日給どっちにする?」音川の軽口に、泉は口を尖らせる。
「少なくとも完成まで僕は音川さんから離れませんから、日給でも月給でも無給でも。で……完成した後はどうするんです?」
「まあ、俺は今の会社を辞めるだろうね。付きっきりでモニタリングしたいし……」
その時がくれば——
会社の上司という役から降りて、ただの1人の男になったなら、ようやく自分の感情について向き合うことができるかもしれない。
保木のような、欲に狂った男にだけはなってはならない。
音川は、自分にもそのポテンシャルがあるのではと気付き、内心恐怖に慄いていた。泉はなかったかのように振る舞ってくれているが、突き飛ばされでもしていたなら、音川は後悔の念に駆られて、泉の耳に触れた唇を削ぎ落としてしまうだろう。
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