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第18話 しらないふりをした夜に

副業の開発において、まず泉は膨大な知識を吸収する必要がある。 音川が開発したオリジナルAIの挙動や思考パターンを理解するだけでも数週間は要するだろうし、そこから派生するAIカウンセラーは患者データの数に比例して増えていくわけで…… 泉は自分が即戦力にならないことを重々理解しており、しかも、会社の仕事より遥かに挑戦することが多く、やりがいを感じずにいられない。 こんなにも胸が踊るような時間を過ごせる上に賃金を受け取るなんて都合が良すぎると主張したが、音川は「大した額じゃないし勉強にも金は掛かる」と無給にはしてくれなかった。 そこで泉は、せめてもの礼として食事の用意をさせてくれと申し出た。 音川には「料理の練習台が欲しいだけだろ」と揶揄われたが、実際、自分たちで選んだ調理器具や食器だけで構成されたキッチンの使い勝手の良さは、実家とは比べ物にならない。それに、作業後すぐに解散とならず、料理をして一緒に食べて後片付けをする、という余分な時間が増えることを期待しているのは否定できない。 音川が所有するワークステーションに接続して作業を行うのだから、副業の日は必ず彼の元を訪れることになる。 泉は、現在の保護されているという環境が一時的であることを分かっていた。何としても音川との私的な繋がりを保ちつつ、仕事で成果が出せるようになるまでに他のことで役に立ちたかった——したたかな計画というよりかは、少しでもフェアな存在になることを目指したいという思いが強い。 職場において、音川と泉の関係は上司と部下であり先輩後輩。どうあってもこの関係が崩れることはない。しかしプライベートならば——社会的な差は適用外なはずだ。関係性の差を縮める機会はきっとある。 その日、音川は仕事部屋に籠るかと思いきや、リビングでノートPCを開き、じっと何かを熱心に読み込んでいた。 泉も客間で自分のデスクを使い、メモを取りながらAIが記述した自身の設計書を読み進める。英語なのがやっかいだが、やり甲斐はある。 各々自分の作業に集中し、腹が減れば残り物で闇鍋的スムージーを作ってみたり、音川が手当たり次第コンビニで買ってきていたインスタント食品で済ませ、一歩も外に出ないまま日暮れとなったが、退屈とは程遠く、知識を吸収していく快感があった。 そうして静かに過ごす時間は、とても居心地が良かった。泉は無言でいる音川から、そっと見守ってくれているような優しいオーラを感じ続け、自然と顔が綻んでいた。 「明日は出社ですね。速水さんたちに会えるのが楽しみです」 日が暮れるまで後小一時間ほどになると、泉はノートPCを閉じて目頭を軽く揉みながら、音川に声をかけた。今日の勉強はここまでだ。 「ああ、金曜に無事帰国したって」 「音川さんの家でお世話になっていること、言わない方がいいのかな」 「どっちでもいいよ。それに、世話ってほどじゃねえよ」 音川はそう言いながら、この状況が一時的なものであることを完全に忘れてしまっていたことに驚いていた。 まるでジェットコースターのような感情の流れに翻弄され、現実の時間に鈍くなっているようだ。泉は昔からここにいたのだ、居て当たり前なんだと、自分の脳が錯覚を仕掛けてきている気さえする。 こんな矛盾に、少し前の自分ならどのような説明を見つけ出しただろうか。 ——今の音川は、この浮き立つような心と、しかし肌なじみの良い温かい繭に包まれたような時間を終わらせたくないという気持ちだけで充満している。 論理という分厚い殻がひび割れ始めたことへの恐怖はあるのに、それが心地良い。 思考に没頭しかけたが持ち直し、凝り固まった首をぐるりと回して、「散歩がてら何か食いに行くか」と、あくびを噛み殺して目尻に涙をためている泉に声を掛けながら立ち上がった。 食材は昨日と今日の昼で使い切ってしまい、泉が料理をしたいと言えば別だが、疲れているところに料理をさせる気は無い。 その時、音川の携帯電話が鳴った。 着信画面には母親の名前が表示されており、珍しさに何事かと焦りながら、仕事部屋まで移動して通話ボタンを押す。日頃、連絡不精である息子としては、家族からの急な電話は心臓に悪い。 「連れてきなさい」 回線が繋がるなり、母親はポーランド語で切り出した。 「待てよ、何の話?」咄嗟に日本語で尋ねると、「言葉」と短く母に注意されて、仕方なくポーランド語で言い直した。 「ピエロギよ!クバ、あなたが自分で作るとは思えない。誰かに作ってくれと頼んだんでしょう?違っているならそう言って」 「……違わない」 「やっぱり。それなら私が教えるから連れて帰ってきて、と言ってるの。もうすぐ夏季休暇でしょう?」 「はあ?」と非難と困惑が混ざったトーンで返すも、音川が母親にレシピを尋ねるメールを送ったせいなのは明確だった。 「夏季休暇は取れないかもしれない。それ以前に、部下を実家に連れて帰る上司がいるかよ」 「部下に母親のピエロギを作らせようとしている上司が普通だとでも言うの?久しぶりにメールをよこしたと思ったら、レシピをくれの一言で」 「……部下というか、後輩だよ」 「部下だろうが後輩だろうが、あなたがそう頼んだ人には、私から直接教えます」 自分でも気がついていなかった行動に、音川は愕然とし、ぐうの音も出なかった。 「急やなほんで……あんた、まさかもう一緒に暮らしてるんか?」唐突に日本語、しかも大阪弁に切り替えられ問われた音川は、またその母センサーに慄いた。 音川の母は、子供たちに真剣な話をする時は徹底してポーランド語を使っていた。母語を使うことで、本音で子供と向き合っていると示すためだと。そして子供たちには可能な範囲でそれを求めた。しかし今のように敢えて大阪弁で話し始めたということは……もう真面目な話は終わったということだ 「暮らしてへんわ」母の大阪弁に釣られ、つい大きめの声で否定してしまう。 泊まりに来ているというほどカジュアルなものではないが一緒に暮らしているわけではない。一時預かり中、というのが最も近い。 「家電の買い物中にあのミキサーを見て……思い出しただけや」 「ほんで食べたくなったんかいな」 「そういうことやろな。聞いたら、作ってくれるって言うし……」 「ほんでもネットで適当にレシピ探せばいいものを……あんたは、私に聞いてきたんやね」 返事代わりに言葉にならない唸り声を発した息子に、母は畳み掛けた。 「だいたいのことは分かったわ。近い内に、絶対連れてくるように」 「なんでやねん。わざわざそこまで……」 その時、ノックの音と同時に、仕事部屋の半開きだったドアから泉が遠慮顔をのぞかせた。思ったより大きな声になっていたのか、音川の不穏な応対が漏れ聞こえたのだろう。 「大丈夫ですか?」 ジェスチャーで泉に電話中であることを伝えていると、「……ははーん。今いてはんの?」と電話越しにニヤけ声が聞こえる。完全に面白がっている様子だ 「うん。もう切るで」 「楽しみにしてます。その子にあんたの好物、全部伝授したるさかいに」 「分かったって。ほんなら」 耳から離しても聞こえるほど興奮した母親の声に、音川は懐かしさと迷惑が入り交じる苦笑いをし、通話を終えた。 携帯をデスクにおいてドアを振り返ると、泉がニコニコ顔でまだそこに立っていた。 「ようやく音川さんの関西弁が聞けた。印象がガラッと変わるのが面白い」 音川は軽く深呼吸をして居住まいを正した。 「……母が相手だとどうしてもね。日本語はコテコテの大阪弁しか話せないから」 「ご実家からでしたか。邪魔してすみません」 「いや、助かったよ……」束の間音川は口ごもった。「あのさ、泉さえよければ……」 泉は小首を傾げ、「なんですか?」と大きな双眸をさらに広げた。 「ピエロギ、習いに行く?」 音川が整った眉毛をハの字に下げて、心底困ったような顔をして問いかけてくる様子に泉は「ぷはっ」と吹き出し、「料理教室とか?」と質問で返した途端、固まった。 「まさか……」 音川は、笑顔をみるみる真顔に変えていく泉の目をじっと見てから、頷いた。 「えっと……、これって、僕が断った方がいいやつ?」 「いや、来てくれるとありがたいが……キミの意思で決めてくれ」 「では、お会いできるのを楽しみにしていると、お母様にお伝えください」 昔の人口音声のような抑揚の無さで泉は一方的に宣言すると、仕事部屋のドアを閉めた。それを見ながら、そう言えば泉は呼ばれない限りこの部屋に足を踏み入れてこないことに気が付いた。音川のテリトリーだと思っているのか。 「ほんとに猫みたいなやつだな」 泉は、その呟きを廊下でうずくまった状態で聞いていた。 (母親から『おふくろの味』を習うか、なんて……こんなの……) 都合の良い方向に激しく誤解しそうだった。 (いや待て、堅物にみせかけた朴念仁かもしれない音川が、そんな比喩的なロマンティックな発言を仕掛けてくるわけがない) 冷静になれと自分に言い聞かせ、大きく深呼吸をしてようやく立ち上がるとリビングに移動した。 インドの件の後始末を引き受けたため、お盆休みは当分延期だと聞いている。スタンドミキサーを見て一度おふくろの味を思い出してしまったからには、食べたくなったに違いない。そこに都合よく、料理を練習中である自分が居るだけだ。 夏の長い夕暮れは遠くへ行き、一番星が輝いている。徐々に夜に染まる町並みを眺めながら、大阪はどの方角だろうかとつい探してしまう。頬を両手で押さえつけていないと、ついにやけそうになる。 「泉」と後ろから呼ばれてハッと振り返った。窓ガラスにニヤけ顔が映っていなかっただろうかと気にしながら返事をする。 「おいで」 音川は短く言うとすぐに廊下に消えた。急いで後を追うと、マックスは自分が呼ばれたと思ったのかトコトコと付いてくる。いつもながら猫らしくない立派な足音だ。 音川は、仕事部屋で回転チェアに座り、ドア前にいる泉に手招きをした。 「失礼します」 「職員室じゃないんだから」と音川は吹き出した。「好きな時に入って来て良いからね。俺の外出中でも気兼ねするな。ソファも技術書もあるし」 「これがAI開発用のマシンですか」 泉はすぐさま、壁際のラックに収納されている2台の中型のタワー型ワークステーションを指さした。真っ黒で角が鋭利な、いかにも堅牢そうな構えだ。 「うん。俺、こういう角張った少し古いタイプのタワーケースが好きなんだ。中身は最新のGPUが入ってる」 「かっこいいすね」 「だよな」 窓際にある一人掛けのソファはリビングにあるものと同じデザインだから、元はセットだったに違いない。 景色は悪くないし、出窓になっていて床板部分にマックス用のブランケットが敷かれてある。隅には本やコーヒーカップが置かれたままになっていて、この部屋には生活感があった。 「居心地が良い部屋ですね」 「ほとんどの時間をここで過ごすからね。さ、遅くなる前に行こう」 音川がチェアから立ち上がると、入れ替わりにマックスが座面に飛び乗った。 「行ってくるからね」と泉が声を掛けると小さくナーンと鳴いて返事をする。俺にはついぞそんな愛想をしたことがないのにな、と音川は飼い猫をチラリと見て、同じように「行ってくるよ」と声を掛けてみると、いつも通りのあくびが返ってきた。 音川が行きつけにしている居酒屋のうちの一軒は夜も定食を出す。適当な軽食だけで済ませることが多いが、時折まともな夕飯を食べたくなると重宝する店だ。 泉も気に入ったようで、「美味しい店ばかり知ってるのに、食事に興味ないなんて不憫です」と冗談をいいながらまたスマホにメモをしていた。音川はそれを横目に見ながら、誰と来るためのメモだろうかとやや複雑な心境になり、軽く頭を振る。 店を出ると、生暖かい風が髪を揺らした。気温は熱帯夜を予感させるが蒸し暑さは少ない。凝り固まった四肢が可動を喜んでいるかのようだ。 「少し散歩しないか」 誘ってみると、泉はややはしゃいだ声で「飲みながら、どうですか」と目の前にあるコンビニを指さした。2人で缶入りのハイボール買い求め、遠回りをしながらマンションの方面に向かうことにした。 「ずいぶん懐かれたね」 「マックスさんですか」 「うん」 「おもてなししてくれてるのかな」 「動物的勘で単純に好きっぽいよ。初対面の瞬間から」 「それなら嬉しい……音川さんの家族にも、好かれるといいな」 「逆だ。泉がうちの家族をどう思うか不安で仕方がない。でも、本当にいいの?」 「もちろんです。音川さんが食べたいものを作れるようになりたいって言いましたよね。あれ、本心なんです。先輩で上司だからといった媚は一切ありません」 「そうか……そりゃありがたい。でも、迷惑ならすぐに言ってくれ。さっきの電話の様子じゃ、何品か無理矢理教えてくると思うから」 「願ったりですよ」と泉はにんまりと口角を上げた。元々は自炊のために始めた練習だったが、『音川の胃袋を掴む』という具体的な目標ができたおかげで、モチベーションが段違いに上がった。正直、節約のための自炊というだけじゃ面倒臭いが先に出る。 「こういうこと、よくあるんですか?」 「なにが?」 「実家のお母さんが料理を教えることです」 泉の問いかけがいまいち把握できず、「俺は習ってない」と見当はずれな応答をした。 今回が——泉が初めてであることは、部屋に調理器具が一つも無かったことや、母親の驚きようからして、音川にとっては当然すぎることだったからだ。 無論、実家に誰かを連れて行ったことなどない。 「あの……いままでの、恋人とか」 突然、ドッと生暖かい強風が背後から吹きつけ、泉は思わず立ち止まった。 声は掻き消され、一歩先にいた音川が、「どうした?」と振り返る。 泉は視界に映っていた全てに、デジャヴのような奇妙な感覚に包まれていた。 音川の低い滑らかな声や、瞳の優しさがじんわりと外気に溶けて、流線がこちらに向かってスルスルと伸びるように流れ込んでくる。 知っているし、これからも知り続けるような、無限の映像。 (もしかしたら、僕はこの先、ずっとこの人と……) 少しの間立ち止まっていた泉に、音川の手がすっと差し伸べられた。 長い指が、ちょいちょいと動いて、おいでと言っているかのようだ。泉が空いた手でそれを握ると、ぐい、と力強く引き寄せられる。 「隣にいてよ」 低い囁きが、前を向いたままの音川から聞こえた。 音川の手はすぐに離されて、泉はそれを追うようにきゅっと指先を握り直した。 そして、当初聞きたかったことは風と共に吹き飛ばされたままにして、恋い焦がれる男の隣に並んで歩き始めた。 掴んだ指先は、まだ振りほどかれない。その事実が信じられず、泉は歓喜に身を震わせた。触れた皮膚からビリビリと電流が流れる。 傍で感じる音川の体温は高く、今夜のような熱帯夜の夜風よりも熱いのに心地が良い。そして泉の好きな甘い香りが熱と相まって、ふんわり包みこむように香ってくる。 いつまでも、どこまでも並んで歩いていたいのに、とうとう夜道の向こうに、マンションのエントランスの灯りが見え始めてしまう。あと1ブロックで到着だ。 ここまで、音川は特に何の文句も言わず、泉に指先を握らせたままだった。わがままに付き合って貰えたことに、心の中だけで感謝の言葉を述べ、もう片方の手に持ったハイボールの缶を飲み干してから、音川の手を解放した。 そして先にマンションのエントランスに小走りで駆け込む。振り返って音川の顔を見る勇気は無く、エレベーターの呼び出しボタンを押す。 音川は自分の手を顔前に掲げ、先程まで泉が触れていた指先をじっと見ていた。 (なぜ?)の一言を発することすら怖く、また握り返すこともできず、なすがままにさせておいた指先。 数歩先に居る泉には知られようがないことを確認して、そっと反対の手で触れてみる。硬くて温かい、鹿を思わせるようなしなやかな泉の感触が離れていき、急な物足りなさを感じる。 また欲しくなり、エレベーターが階下に来るまでの間に再び横並びになったが、自分から近寄ることはできなかった。 ポン、と軽快な音が鳴り扉が開くと、音川は先に乗り込んで、指を1本伸ばして最上階のボタンを押した。泉の後ろ姿は、自分にとって、あまりに無防備だから。 自室に到着するなり、「出社面倒くせえなあ」と思考を切り替えた。 そうでもしないと、離れてしまった泉の体温を追いかけてしまいそうだった。 「……ですねぇ」と出迎えに来たマックスを抱え上げながら泉が同調する。「でも、独りじゃないから」 「そうだな。速水たちもいるし、土産話が楽しみだよな。風呂、先入ってよ」 音川は猫用のブラシを手にして、泉からマックスを受け取ると玄関でブラッシングを開始した。 長毛種であるため日々のブラッシングは欠かせない。油断するとすぐ毛玉になってしまう。夏はショートヘアにしてあげた方が良い気もしないでもないが、猫のトリミングは聞いたことがないし、こういう時に本人の意見を聞けないのが非常に不便だ。 泉は素直に浴室に向かい、Tシャツを脱ぎ、鏡に映る身体をじっくり見た。 首周りのアザはもうほとんど消えたようだ。明日の出社時には絆創膏を剥がして行けるだろう。出張の用意もあるし、帰りに実家に寄ることができればいいが—— まだ完全には不安を拭い切れていない。 念の為実家に連絡しておくかと思い立ち、上半身裸のままで浴室から出る。 猫用ブラシを持ってギョッとした様子の音川に、「あ……ちょっと僕も実家に電話を」と声をかけてから、客間のデスクに置いていたスマホで母親に連絡した。 案の定、姉の世話で息子の存在などすっかり忘れていた様子だったが、「出来ることがあれば呼んで」と協力する気があることは知らせておく。こういう時、自分が男なのが便利だと心底思う。外泊をいくらしようが放っておいてもらえるからだ。ただし母には、「音川さんて方にご迷惑でないのね?」と何度も確認された上だが。 通話を終えて廊下に出ると、ブラッシング後でやや興奮したマックスがリビングに走り込んでき、音川は両手をタオルで拭きながら浴室から出てきたところだった。 「どうだった?」 「音川さんに迷惑かけていないかって」 「ないよ。俺がきみをここに連れてきたんだから」と、音川は自虐的に微笑んだ。 一緒に過ごし始めて気が付いたが、音川はこんなふうに自嘲することがよくあり、泉はそれを見るのが好きだった。その知性を含んだ狡猾さは生々しく、妙に男らしさもあり、音川にとても似合っている。 しばし見とれている間、「傷、消えてきたんだな」と、音川は真正面に立つ泉の裸の上半身に目線を走らせていた。 するどい視線に、サッと泉の皮膚に朱が差した。単に傷の具合を確かめるためであるのに、止めようのない反応だった。 「も、もう数日すれば、鬱血も消えそうです」 「安心したよ」 「あの……傷は治ったけど……」 そう呟いた泉と目を合わせた音川は、今度は優しく微笑んだ。 「うん。心配いらない。言っただろ。通勤も、今週の出張も、ここから出て、ここに帰ってくるんだよ」 「よかった」 ストレートな泉の視線を真っ向から受けて、音川は暫し口籠った。 その脇をすり抜けるように、泉は鼻歌でも歌う調子でリビングを出て浴室へ向かう。 泉に握られていた指先が、再びじんじんと熱を持つ。 そのまま溶けてくっついてしまえばいいと思うほど、愛おしい時間だったのに、音川は握り返すことも、泉の意図を尋ねることもできずに、ただ握られていただけだった。 店で新婚の扱いを受け、母からも誤解され、音川はここ数日の自分が地に足が付いていない状態だと自覚している。 昨日、泉から偶然にも漏れ聞こえたか細く官能的な吐息。忘れようと必死なのに脳に焼き付いて消えない。その上、今夜は泉が手を握ってくるなど—— 「俺、どうかしてしまいそうだよ」 音川は浴室のドアに向かって、独り呟いた。 すぐにシャワーの音が聞こえはじめ、その声は泉には届いていないようだった。

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