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第19話 きみを守ってみせるというエゴ

「はい、レシピ本とスパイスね」 本社の会議室で、速水は紙袋をひょいと泉に手渡した。泉は目を輝かせて「見ていいですか?」と早速デスクに袋の中身を並べ始めた。 「2冊もある。スパイスは……これ高屋さんが書いてくれたんですか?」 いくつもの小瓶にラベルが貼られ、スパイス名が几帳面なカタカナで書かれてあった。 「おれじゃないんだ。味見しながら書いて貰った」 「まさかインドで?」と速水が高屋に尋ねると、「いや、ヒューゴに」と泉の知らない名前が聞こえ、高屋の頬にさっと赤みが走ったが、泉は本の写真と小瓶に夢中で気が付かなかった。まるで薬剤師になった気分だ。 それからインドの土産話が始まり、最初はあちらのベンダーの様子や内情など仕事にまつわる話だったが、そのうちに雑談になり、高屋の口説かれ話へと流れていった。 「シラフで聞いてらんねえ」と大笑いの音川を、「次、インドに呼び出されたら音川さんたちに行ってもらうからね」と高屋が目を光らせた。 「うそだろ」 戦々恐々の様子の音川を指差し、「おれより絶対にモテる」と高屋が更に脅す。 「それはヤバいな」と速水が口を挟んだ。「こいつ、来るもの拒まず去る者追わずでさ、音川が歩いた後にはペンペン草一本も残らないと言われている。次は音川が原因でボイコットが起こるぞ」 「そんなに!?」と高屋が大げさに反応すると、「信じるなよ」と音川は泉に鋭く忠告した。音川にまつわるコッチ系の噂は、こうして速水によって作られてきたんだろうと思い当たって泉は心底面白げに笑った。 「あっ、泉くんだけ?おれは信じていいの?」そう目ざとくつっこむ高屋を音川は一瞥しただけで、速水が調達してきたレシピ本を手に取る。 泉は本やスパイスの代金を支払おうとしたが先輩2人には固辞されてしまい、その代わりに何か作った際には持ってきますと約束した。 隣で『Fresh India』とタイトルにあるレシピ本をぱらぱらと捲っていた音川に、「何か食べたいものあります?」と尋ねると、パタリと本を閉じて「とりあえず全部だね」と厳しいことを言うから、「頑張ります」と即答した。 その会話を聞いていた速水が、「おい」と音川に鋭く呼びかけた。「どういうこと?」 「どーもこーも」との適当な返事に、速水はメガネの奥の目を光らせる。 「音川さん、インド料理好きって言ってたもんね」と高屋が柔らかに口を挟んだが、恐らく場を和ませるためだったその助け舟は、鋭く「音川」と名指しする速水によって無駄となった。 「わかってるよ」 普段なら職場で決して見せない雑な返事で、音川がいかに速水に気を許しているかが見て取れる。 「どうせお前には今日説明するつもりだったから」 音川は会議室のモニターから伸びているケーブルを自分のノートPCに挿し、「これ見てみろよ」と泉が今回コーディングしたソースを映し出した。 「今回のサーバー用のプログラムだろ。これがどうかしたか?」 「俺が見えているものが、俺にしか見えないことは百も承知だ。それでも、このコードが持つ見事な秩序は分かるだろ?突き抜けて端正で、美麗で、おれはこんなものは今まで見たことがない」 泉は、隣にいる音川が自分のPCモニターの上で、まるで愛でるように、何か立体的なものに長い指を滑らせていることに気が付いた。あたかもその空間に存在しているかのように。 「まあ、たしかにずば抜け洗練されているし、無駄もないが……それがどうしたっていうのかを聞いてるんだよ」 「良く見ろ。俺にも、お前にも、誰にも……こんなもの、書けないんだよ」 「そりゃあ書き手が変わればスタイルも変わるよ。しかし、音川にも無理だというのは信じられないね」 「そうじゃない。そりゃ同じ機能なら作れるさ。でもな、俺たちがやっていることは、機械に対する命令なんだよ。論理的で規則に従っていれば良いだけの。しかし、泉のコーディングは——完全な調和なんだ。美しくて精密な塔を土台から建てようと、まるで機会と人間がお互いの可能性を丁寧に確かめながら、良いところを引き出していくことができている。このテクニックは模倣できるものではないし、学べるものでもない。 分かるか?俺らはどうあがいても秀才までにしかなれないが、泉は違う。だれも到達できなかったことをやり遂げる才があるんだ。そして、業界全体がこの恩恵を受けるときが必ず来る」 「……お前が哲学出身だったのを思い出したよ」と速水はため息交じりに呟いた。 「じゃあ具体的に言う。来月から泉は、正式に俺の直属になる。プロジェクト全てに串刺しで関わってくるから、速水、高屋さん、これからどんどん泉に情報を入れてくれ。泉は俺と同職、立場も同じだ。違うのは勤続年数だけ。それから——泉は俺の副業も手伝うことになった。週末は俺のマンションに通ってくれるらしいから、仕事以外でも共有する時間が増えるだろう。これで説明できたか?」 速水は音川を暫くの間無言でじっと見据え、頷いた。 「……それで、社内は大丈夫なのか。お前の崇拝者たちは、まだ会ったこともないような新人に飛び越えられるわけだろう?」 「俺が全て責任を取る。泉に対する不当な非難が……まあ無いだろうけどね、万が一でもあれば、それは俺に向けられたものと見なすから」 「音川さん、見つけたんだ……」 今まで黙って聞いていた高屋が突然呟いた。少しため息交じりで、それは感嘆であり称賛の声に聞こえ、音川はハッとしたように高屋に顔を向けた。日焼けした顔で、目尻を下げてふんわりと優しい微笑みを投げかけてくる高屋と目が合う。 その落ち着いた様子から、恐らくだが、同じような経験をしたことがあるのかもしれない。誰か、または何か、特別なものを見つけた経験が…… 「俺は……」 今、いちばん大切なものは何かと聞かれれば、泉だと即答するだろう。そしてきっと、この先もそれは変わることがない——と音川は頭のどこかで確信していた。 なにをしていても可愛くて、見ているだけで胸に温かさがじんわり広がり、常に傍にいて関わりたいと熱望させる。なりふりかまわず、抱きしめてしまいたくなる。 こんなに感情を揺さぶられることは今までになかった。そしてそれを押し潰さなければならないことも。 「うん。そうなんだ」 音川は、にこにこと微笑みかけている高屋に向け、きっぱりと宣言した。 4人それぞれが物思いにふけった様子で束の間沈黙する会議室に、コンコンコン、と鋭いノックの音が響いた。 返事をする前にドアは開かれ、隙間から「音川君、ちょっといい?」と本社のデザイナーである阿部が顔を覗かせる。 「なんだよ」 「ちょっと出てこれる?第2会議室にいるから」 その有無を言わせぬ様子に、音川は速水と顔を見合わせた。今朝挨拶をした時には変わった様子は無かったから、恐らく緊急だろう。「ご指名ですよ」と速水がからかい、「何もしてねえぞ」と音川はしぶしぶ席を立った。 「泉、先に帰るなら鍵渡すけど」 「待ってます。まだ5時前だし」 「お、おい、まさかお前ら……」 速水が言い終わる前に音川は逃げ出すように部屋を出て、阿部が指定した会議室へ足早に向かう。背後で、「実は……」と泉の声が聞こえたから、説明は任せることにした。 ノックはせずに会議室へ入ると、阿部が神妙な顔で「さっき下で聞いたんだけど」と切り出した。この建物で『下』と言えば1階にテナントとして入っているショールームで、アシスタントの女性数名が常勤している。社交的であり姉御肌タイプの阿部は2〜3年で異動となる彼女たちとすぐに打ち解けるようで、また速水は配偶者が元ショールーム勤務であり、出会いの少ない開発部内では「勝ち組」と呼ばれていた。一方音川は、あまねく全てのアシスタントと付き合っただの告白されただの、毎年のように新入社員間で噂になるが、本人から事実が述べられたことは一度も無い。 「どうしたんだよ、血相変えて」阿部の真向かいに座り、音川は身を乗り出した。 「それが……保木さんがね、夜間にこの辺りをうろついているらしいの」 「ハァ!?」音川が柄になく素っ頓狂な声を出した。 「阿部も見たのか?」 「私はまだ見てないし、社内からも聞いていない。でもショールームの子たちは全員が見ているって。うちは在宅か自由出勤だからタイミングが合ってないのか、本社は出社組が多いけど見て見ぬふりをしているのかもしれないけど」 「まあそうだろうな」 「解雇された会社の周りをうろついて……何がしたいのかさっぱりよ。まだ音川君にしか言ってないから、どうするかは、判断して」 「他社からの目撃情報だけでは難しいよな……時間は分かるか?」 「だいたい19時から19時半までの間。場所は駅前か、駅までの道中で、特に繁華街の方で見かけた人が多い」 「退社時か……本社でも、特に女性は当面リモートワークにしてくれ。こっちもそうするから。人事部長には、頃合いを見て俺から話すよ」 「助かる。あと、デザイン部や泉くんに知らせるのなら慎重になってほしい。きっと責任感じたりするだろうから……」 「うん。そうだな」 「それじゃ、私は帰るわ。何かあったら知らせる」 「ああ」 阿部が去った後、独り会議室に残った音川の表情が一変する。阿部の前ではなんとか温和な態度で対応できたが…… 泉の胸元についていた傷……首周りの締め痕…… 音川は、思わぬ勢いで力強くデスクに肘をつき、頭を抱えた。ギリギリと無意識に奥歯を噛み締めており、微かな血の味が口内に広がる。 冷静になれ、怒りに飲み込まれるなと自分に何度も言い聞かせる。 泉はしきりに俺を出社させようと誘っていた。それなのに、俺は面倒だと断って——— まだ、できることはあるはずだ。必ず。 一方で会議室に残された速水は、どちらかと言えば言葉少なめな音川からは引き出せないようなあれこれを泉から聞き出そうという魂胆でいた。 「しばらく音川の家にいるの?」 「今のところ、今週はお世話になる予定です」 「一人暮らし?」 「いえ、実家です」と泉は最寄りの駅名に続けて「家の問題ではなくて、あくまで僕の個人的な事情なんです」とだけ告げた。その泉の断定的な言い方が少し気になったが、速水は追求を止めた。 個人的な事情と言うが、音川が介入したからには仕事に影響があるからではないか。速水が知る限り、音川は進んで自分から部下のプライベートに関わる人間ではない。当の音川は詳細を語る前に会議室を出た。それを、ここぞとばかりに泉に言わせるのは酷だろうし、それに泉には、音川の真意が把握できていないかもしれない。 「泉くん、尽くすタイプなんだね」高屋がにっこりと微笑む。 「どういう意味ですか」 「スパイス料理のレシピ本。音川さんのためでしょ」 「あ、いや、元々興味があったのと……、近々一人暮らしを始める予定なので、自炊の練習をしているんです。音川さんの家で作業させてもらうなら、食事の用意くらいはと思いまして」 赤くなった泉の耳に気付いて、高屋は更に目を細め、優しく見つめた。 「あのね、おれにも、美味しい料理を作ってくれる人がいるよ」 泉は、その慈愛に溢れた高屋の瞳を見てすぐに、高屋が今その人を思い浮かべているだろうと気が付いた。仕事では見せたことがない、濡れたような柔らかい光をたたえた瞳はとてもきれいで—— 恋をしている人の瞳とはこういうものかもしれない。 真摯でいたくなり、「はい。音川さんの好物を作れるようになりたい、です」と素直に言い直すと、高屋の笑顔がさらに強くなった。 音川を想う自分の瞳も、同じように濡れていればいいのに。 泉と高屋がニコニコと微笑み合っていると、レシピ本を捲っていた速水が、「ん?」と訝しんだ。「料理するっつっても、あいつの家、食器すらないだろ」 「音川さんが『投資だ』と言って調理器具や食器を全部揃えてくれたんです。なので、作れるようになりたいというか、ならなきゃな、と」 「自分では使わないのに?」 「それは、僕が一人暮らしする時に持って行くようにと言ってくださって……」 「へー…。あいつ、ちゃんと暮らせてるのか。泉君の世話もできてる?」 「家は整理整頓されていてきれいです。マックスさんが長毛だから床掃除は頻繁にしていて、お風呂も洗ってくれて、布団も敷いてくれます……食事は、朝はモーニングで、昼はデリバリーとか、夜は飲みに連れて行ってくれます。今日もそうですが、服も音川さんのを……」 「お、おお、そうか。で、仕事環境は?音川の直属なら今後はフルリモートだよね」 「僕用のデスクとチェアを、音川さんが買ってくれて。副業用だと思いますが。あ、あの……どうかしましたか?」 とうとう速水のメガネの奥の瞳はかっぴろげられ、高屋もまんまるの目になっていた。 「おれ、間違ってた。音川さんが尽くすタイプだ」 「俺の知らない音川だ……」 速水は思いっきり首を傾げた。 音川が部下のために一人暮らし用のあれこれを買ってやるなんて、意味が分からない。デスクなどは副業を加味するとまだ理解できるが、さすがに調理器具は私用も私用だ。 泉が能動的に『音川の常識』を突破して仕事に限定しない関係を築いたのか、それとも……これまで部下に対して一定の距離を置いていた反動で? いや、先ほど、泉が書いたソースコードを眺めている時の音川は、陶酔したような目でPCの画面をそっと、まるで飴細工のような儚いものに触れる時のような繊細な手つきでなぞっていた。あれは、尋常な様子では無い。 音川が一方的に泉の才能に惚れたか——とうとう、公私の区別もつかなくなるほど。 ガチャリとドアが勢いよく開けられ音川が会議室に戻ってきた。 ここからもう少し突っ込んだ話が聞けそうだという感触があったのを邪魔され、速水と高屋は若干消化不足だ。 「阿部ちゃん、大丈夫そう?」 音川は心配気に尋ねてくる高屋を「問題ないよ。ちょっとした野暮用」と軽くいなしてから、「そうだ。木曜に、泉と俺とでT製薬に行ってくる」と話題を変えた。 「なんかあったの?」 「課長からヘルプ要請」 「T製薬だったら、新しいDX担当者がおれの前の職場からの引き抜きで」高屋は何かを思い出すように天井付近に視線をやる。「優秀な人だよ。彼女に変わってから、デジタル部門のコンサルがやりやすくなったと聞いてる」 「そのDX担当者ですら手を焼いているベテランが社内にいるらしい」 「彼女からの呼び出し?」 「いや、俺はプロジェクトのリーダーと話しただけだが……メールでやりとりした感じでは、システムサイドからの強い意見が欲しいようだった。そのDX担当者が後ろ盾として今回の新システムの導入を支えてはいるが、問題のベテラン社員からすれば単なる小娘の扱いで話しにならないんだと。まあ、古い会社だから社風もあるんだろう。俺なら突破口として最適だという課長命令だ」 「ああ、T製薬は特にそうだね……ベテランの意見には思考停止して従う風潮でさ、何をするにもお伺いを立ててやんなきゃいけないらしいよ」 高屋の元職場は外資系システムコンサルタントの日本法人だ。スタッフには帰国子女や外国人が多く、合理的にどんどん進めることが正義だった。そのため時折、大手の日本企業が持つ独特の『見えないルール』にぶつかる。意思疎通ができない、と困惑する。そこで駆り出されるのが高屋のような日本人スタッフだが、社内外との板挟みであり気苦労が絶えない激務だ。 高屋は、T製薬と現在のDX担当ついて知る限りのことを音川と泉にインプットしながら、懐かしさに軽く微笑んでいた。前職を懐かしく思えるのは、今の職場が自分に合っているからだろう。完全に過去のものと割り切って考えることができる。いい糧になったと言える。 「これくらいかな、おれが知っていることは」と締めくくる高屋に、「ついでに」と音川は東京にあるというイスラム横丁について聞き出した。高屋は待ってましたとばかりに雑居ビルに入っている食堂を紙に地図を書いて教えた。 「この店は住所も何もネットには載ってなくて、おれは前の職場のパキスタン人から教えてもらったんだ。日本語は通じるけど音川さんならまず英語で接客されると思う」 中華だろうかカレーだろうがタイ料理だろうがコンビニだろうが、外国人の店員には常に英語で接客される音川には慣れたことだった。 「おすすめは断然パニプリ。出張は日帰り?」 「そ。新幹線の時間があるからテイクアウトしようという泉の提案だ。高屋さん、情報提供のリワードとして何か買ってこようか?」と音川がニヤリと笑うと、「やめてくれ!当面カレーは見たくない!」と高屋は血相を変えて首を横に振った。 音川と泉は声を上げて笑い、階下にある自社へと戻って行った。定時まではまだ時間があるが、技術責任者などリーダー格は勤務時間の枠を外れるため、恐らくもう帰宅するのだろう。 「分かってんのかね」 それまで黙って高屋と音川のやりとりを聞いていた速水はドアが閉まるのを待ちかねたようにそう呟いた。 「なにが?」 「音川。自分がやってることの意味をさ」 高屋は立ち上がり、ケーブルなどを所定の位置に戻しながら、少し無言でいた。 音川の好物を作りたいと言った泉の素直さが胸に刺さっていた。恐らく、彼もまたかつて自分がヒューゴに抱いていたような……同性への、憧れを超えた感情を抱いている。 身に覚えがあるからこそ、泉にも、その気持ちを大切にして欲しいと思う。 だが——本社でも音川のモラルの高さは有名だ。いつでも気さくでフェアな態度だから好感度は非常に高いが、中身はガチガチの堅物である。 それだからこそ、泉は慎重にならなくてはならない。社内恋愛に失敗は許されない—— 泉の心境を想像すると、震えるほど怖い。 「おれは音川さんのことをまだよく知らないからなんとも言えないけど、泉くんへの優しさが一時的なものじゃないといいなと思うよ」 「でもさ、泉は飼い猫じゃなく1人の人間だ。自分の家もある。いくら世話を焼いても、猫みたいに慕ってずっと傍にいてくれるわけじゃないってこと」 「ああ、なるほど。速水君は音川さんの方が傷つくんじゃないかと心配してるんだね。それなら大丈夫じゃないかなあ」 「あんなに……誰かに入れ込む音川は初めて見るよ。その相手がたまたま部下でさ、立場上、突き放さなくてはならないとなったら……正解が分からねえよな」 「おれ泉くん擁護派ね」 「俺も。じゃあ音川には1人で戦ってもらいましょうかねえ」 「えっ速水君も?」 高屋は、速水の意外な主張に吹き出した。音川に負けず劣らず、速水も掴み所がない男だ。しきりに心配していたように見えたが。 自社に戻った音川は早々に「帰るぞ」と泉に声を掛け、その場でタクシーを手配した。阿部から聞いた状況では19時前後を外せば問題ないように思われたが、用心に越したことはない。 「さっき、速水たちに言ったことは本当だから。来月には俺の直属として待遇が変わる。一人暮らしの家賃なんて余裕で賄えるようになるよ」 「僕、昇給するんですか」 「そこそこの技術手当が付く。詳しくは部長との面談で確認して」 「嬉しいです」 「こちらこそ。きみが開発に来てくれて、心底ありがたいと思ってる。最初は少し苦労するかもしれない。だから、どんな些細なことでも俺に話してくれ」 「はい!」と泉は元気よく返事をした。 「一人暮らしの物件は、まだ決めてないんだろ。新しい額面を見てから探し始めてもいいと思う……あ、タクシー来たって」 「タクシー?どこか行くんですか?」 「いや、悪いけど先に帰ってくれるか。これ、かざすだけだから」 音川は泉の手にカードキーを握らせ、あたかもボディガードのように肩に手を添えて社屋のエントランスまで付き添い、そのままタクシーに押し込んだ。 運転手に行き先を告げ、泉には「必ず家で待ってて。遅くならないから」と念を押す。終始戸惑った様子だが、ここまで強引な音川は珍しく、泉は大人しく従うことにした。 その足で音川は本社があるフロアへと足早に戻り、速水を捕まえた。阿部からははっきりと聞いていないが、本社がどこまで保木のことを把握しているのか確かめたかった。 「保木さんのことだけど」休憩室に自分たち以外の姿が無いことを確認してから音川が切り出す。 「阿部の話、それだったんだろ」と速水は即答した。昔から、速水のこの打てば響くような応答に頼もしさを感じる。 「知ってたのか」 「奥さん伝てでな。先週、たまたまショールームに差し入れに来た時に聞いたらしい」 「そんなに話題になってんの?」 「保木さんはショールームでもナンパで有名だったから」 「阿部が、本社の社員からはまだ目撃情報は上がっていないと」 「俺達も帰国したばかりだからな」 「うーん」と音川は両手を頭の後ろで組んだ。「見つけるのは容易そうだな」 「見つけてどうすんの?」 音川の脳裏には泉の首の傷がありありと浮かんでいた。 「泉が、保木に遭遇した可能性がある」 「まさか……例の被害者じゃなくて、泉を狙ってうろついてんの?」 「両者じゃないかな。もし彼女だけを探しているとしても、泉を見かければ居場所を問い詰めるだろうし、同じことだ」 「それが起こったと?」 「たぶんね。先週末に……泉がケガをしていて。本人からの説明はまだ無いままだが、実家には心配をかけたくないから帰れないと言っていた。保木に付きまとわれているんだとしたら、合点がいく」 「おまえが泉を泊めている理由はそれか」 音川は頷いた。「泉はここが地元だから、たとえば家族とか友達とか恋人とか、そういう個人的な事情だと思っていたが……。保木が絡んでいるとなると話は変わってくる」 「家に帰れないほど警戒するなんて、よっぽどだぞ」 「泉の首には内出血の後が強く残っていた。保木に、どんな目に遭わされたのか……」 そう低く伝える音川の双眸を見て、速水は悪寒に震えた。 これまで事務的な口調での応対で気が付かなかったが、音川の眼底がギラリと光り、瞳は透明なガラス玉のようで感情の欠片も映されていない。 怒りならまだ分かる。しかし、これは遥かに怒りを超えている。 もしこの状態の音川が、保木を捕まえたら…… 「帰りに繁華街を見ておくから、音川はもう帰れ」 「それなら俺が……」 「焦るな。まだそうと決まった訳じゃない。鏡を見てみろよ。獲物を前にした吸血鬼みたいな顔してんぞ。それに本当に保木が原因なら、泉はなぜおまえに相談しない?」 返事代わりに舌打ちし、顔に庇をつくるように片手を額にかざした音川に向けて速水は続けた。 「部下にそこまで入れ込んで……良いのか?」 「良いわけがない」 「ならどうして……」 「あいつが何よりも大切なんだ」 迷いなく音川はそう告げ、本社の会議室を後にした。 初めて口に出した言葉だった。 そうすることで、初めて自覚をした。 駅までの道を足早に急ぎながら状況を整理する。 泉の怪我が保木によるものだと仮定しても、音川は本人から事情を説明されていない。それは恐らく、知られたくないという泉の意志だ。幸い保木は泉が開発に異動したことを知らず、音川と泉の接点に気が付かないはずだ。 保木による迷惑行為があれば警察沙汰にできるだろうが、まず被害が起こるのを待つことは絶対にできない。泉には二度と遭遇させてはいけない。 となれば、解雇に直接関与していない開発部の速水や音川なら、保木と接触しても相手の警戒心が薄いと考えられる。 泉の怪我が保木によるものであれば、と願ってしまう。上司として、正々堂々と保木に立ち向かう大義名分ができるからだ。 速水に指摘されるまでもない。何度も自問している。 泉はなぜ、俺に話してくれないのだろう。 もっと強いつながりを求めているのに、何一つ方法がわからない。 ——しかし今だけは、泉を守ることでこの気持ちを満たすしかない。 駅のホームに電車が滑り込む。その轟音と風圧の助けを借りて、音川は黒い感情を吹き飛ばした。 泉が待つ自宅に持ち帰るべきではないから。

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