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第20話 この夜に、きみと

音川は自宅マンションのエントランスでカードキーを取り出そうとして、泉に渡したんだったと思い出した。 スマートフォンのアプリでも解錠できるが、わざわざ起動してパスワードを入力するのが面倒で、普段から物理的なカードキーを持ち歩いている。そのあたりアナログだが、エントランスと部屋の玄関ドアとで2度起動して2度パスワードを入れなければならないため面倒が先に立つ。室内に泉が居るはずだが、オートロックの呼出を押したところで応えるとは思えなかった。 そうして部屋まで戻ると、「おかえりなさい!」とマックスを抱いた泉が小走りで玄関までやってくる。その明るい笑顔とはずんだ声は、音川の帰宅を待ちわびていたことをありありと表していた。 辛い状況にあるはずなのに、いつも絶えない笑顔。 (俺を信用して頼ってくれているはずだが……理由や動機はまだ話してはもらえない……) 速水に胸中を告げたことにより、音川は嫌でも自分の想いを自覚させられた。気持ちが加速したかのように胸が燃える。 表面上の静けさからは想像もつかないだろうが、音川は狂おしいほどに泉の心の奥に触れたかった。ただの上司としてでなく——しかし今の社会的な関係性を保ったままで、それを叶える方法が分からない。 音川は自分が自嘲していることに気が付かないまま、「ただいま」と泉を見つめた。 束の間、泉は呆けたように突っ立って、「お、おつかれさまです」と猫脱走防止柵を中から開ける。 「意外と早かったんですね。今、買い出しに行こうかと」 「何か作ってくれるつもりだった?」 「はい、手持ち無沙汰だったので……」 「そりゃ嬉しいが、そんなに気を遣わないでいいよ。出前にしようぜ、俺もう腹減ってるけど、泉は?」 音川は仕事部屋から宅配メニューが入ったクリアファイルごと持ち出してきて渡し「俺のも頼んどいて」と告げると浴室に消えた。 速水に指摘されたような怒りや暗さ、それに己の内側から生じる黒い欲望をまだ纏っているかもしれず、それを泉が居る場所に持ち込むのが我慢ならなかった。早く気分を洗い流して、マックスと三人で穏やかな夕餉のひとときを過ごしたい。 「スムージーでいいですかー?」と風呂場のドア越しに言ってくる泉に、「なわけねーだろ。ビールも頼んどいて」とリクエストするが、「ビールは駄目です」とピシャリと撥ね付けられた。音川は想像通りの反応に苦笑いをしつつ、シャワーのコックをひねる。 たとえ空きっ腹にスムージーを流し込むことになったとしても、気分は回復するに違いない。 「手持ち無沙汰、というのは聞き捨てならないな」 リビングでピザをつまみながら、音川が切り出す。 ビールが無いことについて泉を横目で睨んでおいたが、腹をつままれてやりかえされた。しかし実際はつまめる肉はなく、泉の神経質そうな指先が空振って終わってしまう。その悔しがる様が大変に可愛らしかったので良しとし、音川は一人納得して炭酸水で我慢する。 「此処には難しい本しか無いんですもん。自分のPCでストリーミングは観られますけど、PCに向かうと仕事が気になる」 「なるほど」音川はピザソースの付いた指先を拭いて立ち上がり、「ついてきて」と言いながらおもむろにリビングを出る。 「テレビは寝室なんだ。壁のスイッチで……」 備付けのパネルを操作すると、微かな機械音を伴って壁一面に設置されていた扉が引き戸のように左右に開かれ、中から大型のテレビが現れた。 「クローゼットかと思ってた!」と泉が感嘆する。テレビの横にはちょっとした書き物ができるようなスペースと大きな鏡がはめ込まれ、足元には収納式の椅子と引き出しが設えられている。まるでホテルさながらの作りだ。 「言われてみれば、元はクローゼットだったのかもしれないな。俺が越してきた時にはもうこの状態だったから……部屋の広さの割に収納があれだけなのは少ないと思っていたんだよな」と音川はもう一方の壁にある扉を指す。そこは泉も服を借りる際に出入りする正真正銘のウォーキングクローゼットだ。 「スッキリしていいですね。ケーブル類もごちゃつかないし。いつも、寝室でテレビを観てるんですか?」 「いや、もうしばらく電源すら入れてない。そうだ、リモコンがあったはず」 音川はナイトテーブルの引き出しを開け、ごそごそと手探りでリモコンを探り当てた。ほら、と泉に手渡しておいて自分はスタスタと仕事部屋へ行ってしまった。 とりあえずリモコンの電池はまだ残っていたようで、テレビの電源は問題無く入り、地上波を受信することを確認した。 鏡の下には左右に小さな引き出しがあり、瀟洒な取手がきちんとしたドレッサーらしさを演出している。泉は何気なくその取手に指を掛けて、はたと気付いて離した。 化粧品でも出てきたりしたら、平静でいられないかもしれない……過去の物であったとしても。 泉は軽く頭を振って、いままで居なかったはずのない存在の想像を振り切り、リモコンを握り直して番組表をスクロールする。 元から地上波を見る習慣はないが、実家暮らしのため居間ではテレビが付いて居ることが多い。ガヤガヤとした音声は、音川の無機質な寝室に一気に生活感を生じさせた。しかしそれはあまりに異質で、泉はすぐにリモコンのホームボタンを見つけて、アプリケーション一覧に切り替えた。 音川の部屋と暮らしぶりは、静かで、落ち着いていて、とても心地が良い。 泉はふと首を曲げて自分自身の体を見下ろし、自分はここでどんな存在なんだろうと少し不安を抱いた。家の主に確かめたところで、優しい返答が想像できるから聞きはしないが。 まもなくして音川が仕事部屋から小さな無線キーボードを携えてきたと思ったらすぐにテレビとペアリングする。「この部屋もテレビも好きに使っていいから。観たいサービスがあれば契約するよ。で、何か面白そうなコンテンツがあったら誘ってよ」と言って再び部屋を去った。すぐにリビングから、「ピザ、冷めるぞ」と声が掛かるので、泉は自分が契約しているストリーミングサービスへのログインは後回しにして急いで戻る。 「まさか、本棚にも仕掛けがあって、裏に小部屋が……なんて」 「怖いこと言うなよ。この部屋は、売りに出される前はどこかの外資企業がゲストルームとして持ってたらしいよ。家具付きだったんだが、使われた形跡が無かったから恐らく税金対策だろうな。だからキッチンもそうだし、あのテレビセットもどことなく外国の物件風だろ」 一度も海外に出たことのない泉には、映画やドラマでしか知り得ない世界だったが、確かに家具類のデザインからして海外仕様だ。音川の生活感の無さを上長させているのはそのせいかもしれない。 「ねえ、音川さん。後で何か観ませんか?食べ終わったらすぐシャワー浴びてきますから」 「……それより、今からピザを持って寝室に移動してもいいけど」 瞬時に、風呂上がりの泉と寝室のベッドに居る状況を(まずい)と判断できた音川がそう提案したが「僕、外着のままベッドに上がれないんです」と即却下されてしまう。 泉は全く意に介していない様子なのが救いであり、若干の落胆でもあるが—— 速水から、聖人だの仙人だのとからかわれていたのが嘘のように思える。今こそ、その聖人パワーを発揮すべき時だが、自信がない。 ……泉が人間だと思うからいけないんだ。ぬいぐるみか、猫だと思えば……? 尊敬する先輩エンジニアが自分に対してそんな欲望を持っているとは……それどころか、それを押さえつけるためにくだらないこと考えているとはつゆ知らず、泉は続けて「よく海外の映画で、靴のままベッドに寝転ぶシーンがありますよね。カバーをしているとは言え、あれ本当に意味が分からない」と潔癖さを主張していた。 「ああ、確かに……」と音川は一応同意したが、心頭滅却するため完全に上の空だった。 泉は食事を終えるとピザの箱を折って捨て、カフェテーブルをサッと拭くとすぐに浴室へ向かった。音川は当然のように部屋を綺麗に保つ泉のことを、常に細かく気を遣ってくれているのかと思っていたが、先ほどの言動からしてどうやらそういう性分のようだ。ややするとガサツになる音川だ。今は2週間に1回の頻度で契約しているクリーンサービスを週1回に増やした方がいいかもしれない。見かねた泉が「僕がやります」と言い出す前に。 いや、待てよ。と音川はスマホのカレンダーを操作する指をふと止めた。 クリーンサービスが来るのは来週だが、それまで家に泉がいるとは限らない。保木の問題が片付いたら、もうここに居る理由がなくなる。そして念願の一人暮らしにむけて物件探しを始めるだろう。 ——正しい成り行きのはずなのに妙に神経がささくれるのを自覚し、音川は大きめのため息を付いて思考を切り替える。 まだ訪れていない未来に影響されて、現在をおろそかにするなど愚の骨頂だ。 今は泉がいて、ちゃんと暮らして、目下の映画鑑賞の予定も提案してくれている。 上手く切り替えができたようで、音川はすっきりとした笑顔になった。 この暮らしにおいて、自分の欲など二の次どころか取るに足らない。ただ、泉がここにいる時間を大切にすればいい——と悟ったのだ。 しかし—— 風呂上がりの泉が、そっと寝室の扉を開きながら、「先に行ってるね」と音川を振り向いてにっこりと微笑んだため、悟りは瞬時に無に返ってしまった。マックスに対する声掛けだったかもしれないが。 「それはあかんて……」 音川は突然自分が発した大阪言葉に驚きつつ、髪をぐちゃぐちゃとかき回してから立ち上がった。そして「ホラーかドキュメンタリーが観たい」と色気とは結びつかなそうなジャンルを提案しながら寝室へ向かう。 泉が選択した映画は、誰もが知る有名なホラーサスペンスだった。 音川は10代の頃にポーランドのケーブルテレビで放映されていたのを視聴したことがある程度で、細部のストーリは忘れてしまっていた。主人公の男性がドアの隙間から顔を出しているサムネイルはあまりに有名だ。 「こんな有名作品を今までよく観ずに生きて来られたな」 「さすがにタイトルは知ってます。ただ機会が無かっただけで……たぶん、きっと今夜のためですよ」 泉は「ホラーですから」と部屋の照明を落として、声とマットレスを弾ませながら、ベッドの足元から四つん這いで登ってくる。その何気ない動作は音川の胸にこそばゆい感覚を生じさせた。 そのまま泉が自分の体の上に這い上がってくれば、抱きしめて朝まで眠って——— またも泉をそういう対象に見てしまう自分に辟易しながら、急いでくだらない想像を打ち消した。10代の子供じゃあるまいし、ただの映画鑑賞を、ロマンティックなムービーナイトだと取り違えてどうする。 ベッドボードを背に足を投げ出してテレビに向かう二人を、猫の好奇心丸出しでなんだなんだと興味深げにマックスが覗きに来る。映画が始まると、人間たちはしばらく動かないと踏んで、もぞもぞと音川と泉の間に割り込んでいく。 その背に軽く手を置いて撫でていると、マックスは一度大きく伸びをしてから音川の膝の上に登り、丸くなった。 映画がエンドロールを迎えたのは、丁度深夜に差し掛かった頃だ。 「女優さんの顔がホラーでしたね」と泉は失礼な感想を述べていたが楽しんだ様子で、お気に入りとしてチェックを入れていた。 睡眠時間の短い音川にとって0時頃と言えばまだまだ宵の口だ。一杯飲みたいが、いかんせんマックスがすっかり膝の上で落ち着いてしまっている。 「今夜はパパの膝の上がいいの?」泉は、丸くなっているマックスの背中を撫でながら声を掛けた。ここ数日は就寝時も泉にべったりだった音川の愛猫は、心地よさそうにのんびりと伸びをする。 「パパ?」 「そう呼ばれませんか。獣医さんとか、他の飼い主さんから」 「いや、気が付かなかったが……俺がパパなら泉はさしずめ……弟かな。マックスのやつ、妙に先輩風吹かせてるところがあるんだよな。寝かしつけようとするところなんて特に」 「それだと、自動的に僕のパパも音川さんってことになりますが……」 「ああ、確かに。来いよ、膝枕してやる」 あははと笑って全身で冗談だと表現している音川に、泉は「それでは」と真顔でマックスを持ち上げた。丸くなった体勢のまま微動だにせず、泉の隣へ移動させられても置物のようにおとなしい。軽く目を開けて見せたが、よほど眠いのか知らんぷりだ。 泉はやや身体を斜めに仰向け、空席になった音川の膝に頭を乗せた。 「お、おい」 「しばらく、こうしていてもいいですか」 「そりゃ、構わないが……」音川の返答は建前100%だったが、かと言って断る理由は見当たらなかった。 泉は、音川の膝上の筋肉の盛り上がりをつまんだり、さらに手を伸ばしてふくらはぎの質感を確かめたりと好き勝手しているうちに、音川の身体が弛緩していくのが分かった。この体勢を受け入れてくれたようだ。 「どういう風の吹き回し?」 「映画を観ている間、マックスが羨ましかったから……少し甘えたくなった」 「ああ、そう」音川は言葉が続かず、一旦手のひらを泉の頭に置いて「いい?」と短く許可を取ってから髪に指を差し込んだ。ふわりとした感触はマックスの毛より長く、心地よくまとわりついてくる。地肌を指先で撫でると、泉は目を瞑って微笑んだ。 「やっと起きてる時に撫でてもらえた」 「んー?あれっきり触れてないよ……。ねえ、ちょうど話したいことがあるんだ。このままで聞いてくれる?」 「なんです?ちょっと怖い、な」 「その首のケガ……のことなんだけどね」 そう切り出した途端に、泉の双眸がふっと開かれた。音川はそれを真上から見下ろして、できる限り優しく問うた。 「もしかして、保木さんから暴力を受けたんじゃないか?」 泉の喉仏が軽くが上下するのが見て取れる。 「……そうです」 「いつ?」 「木曜の夜です」 「詳しく聞いてもいい?」 「はい。本当はもっと早く、話すべきでした」 「それは違う。きみが話したい時で良かったんだ。でも、今日ちょっと気懸かりな噂を聞いてね」 「阿部さん、ですよね」 音川は隠さずに頷いた。 「雰囲気的に、たぶんそうじゃないかと……。実は、少し前に保木部長を見かけたことがあって、自分なりに警戒しているつもりでした。でも……木曜の仕事帰りに駅の近くで捕まって……なんとか逃げましたが、家に帰ることはできずで……。その夜は、このマンションの近くのホテルに泊まりました」 「ここの?」会社や自宅の最寄り駅でないのが気になった。もしくは近くに友人でもいるのかもしれないが。しかし泉の返答は想像と違った。 「はい。あの時、音川さんが頭に浮かんで。そうしたら、少し落ち着いた気がして……勝手にすみません」 「いや、謝るようなことじゃ……」 音川は自分の胸の痛みで、声を詰まらせた。不安と痛みの最中で、泉が思い浮かべたのが自分だなんて。 「個人的なことならそっとしておこうと考えていたんだ。でも、保木が絡んでくるとなると、会社の人間として放って置くわけにはいかない」 「しかし、保木さんはもう解雇されているから、会社は関係ないはずです。それに、僕があの新人の子を庇っていたのは学校の後輩だからで、個人的な理由でした。それが原因で保木さんは僕を恨んでいるのですから、会社の人である音川さんを巻き込むわけにはいかない」 「あくまで個人的な問題だと言うのか」 「そうです」 「さっき阿部にね、会社の周りで保木の目撃情報があることは、泉にはまだ言うなと口止めされたんだ。確かにきみは、個人的な問題だとして誰にも相談していないんだろう?でも、俺を頼った。違うかい?」 「それは……あんなケガのままでモーニングに行くのは憚られたのですが、どうしても、音川さんに逢いたかったからで……」 「だったら、手伝わせてくれないか?個人的な問題だと言うのなら、俺も個人として関わりたい。二人の問題として、考えることはできないだろうか」 「音川さんと僕の……」 「そうだ」 「僕は独りで取り掛かるつもりでした。そうするべきだと思った」 「うん。辛かっただろう?ごめんな、あの日、出社してやれなくて」 「そんなことないです。僕が隠したので……」 音川は、泉の額から後頭部までを全ての指先でゆっくりとストロークした。愛でる、というのはこういうことかと初めて理解しながら、何度も繰り返していると、泉の表情がじんわりと和らぐのが見て取れた。心地よさげに目を閉じて、微かに微笑んでいる。 「なあ、『どんなに酸っぱいレモンからでもレモネードは作れる』って言葉を聞いたことがあるか?方法を間違えなければ、今回の事も、きっと泉の糧になるよ。頼むから、俺にその手伝いをさせてくれ」 「音川さん……」泉は鼻の奥がツンとして目頭が熱くなるのを感じた。この家に来てから、音川の優しさに、何度も泣かされる。 「俺は、きみの問題に介入したくて仕方ないんだと思う。辛い思いをしているのなら、全て引き取りたい。泉は俺を頼ってくれた。俺も、会社の人間としてではなく、完全に個人的な気持ちで……え、何?」 泉は身体をねじって横臥すると、両手を音川の背中に回して抱きつくようにし、顔を腹に押し付けた。 「個人的にも、副業で僕が必要だからですか」 くぐもった泉の声が直接腹に響き、薄いTシャツ越しに息を肌に感じる。 音川は腹に力を入れて腹筋を硬くすることで、バリケードを張った。効果のほどは不明だがそれしか方法が思いつかない。 「ああ、まあ。そう、だね。その……開発中のアプリもそうだ。俺は優秀なエンジニアを守ることを考えていて……」 「分かっています。でも今は、もう少し甘えさせてください」 泉の両腕に力が込められ、さらに音川の腹に額をこすりつけるようにすり寄る。そのくすぐったい刺激に音川もますます身体に力を入れるが……今回は効き目がないようで、下半身に血液が集まるのを止められなかった。泉が身じろぐ度に、音川の下腹部に熱が籠もる。 たかがこれだけの刺激で、動揺してしまうなど音川にはありえないことだった。 泉は音川の状況などお構い無しで、よほど硬い腹が気に入ったのかもぞもぞとすり寄って来たり、小さくあくびをしながら全身で伸びをしたりとくつろいでいる。 「本当に猫みたいなやつ。マックス、弟ができたよ」なるだけ気をそらそうとマックスに話しかけてみる。 「やめてください。上司ってだけでハードル高いのに、パパの称号まで付けないで。どんどん遠くなる」 「んー?なら弟から昇格すれば?」 「何に?兄とか?」 泉は声を上げて笑ったかと思うと、ふあ、と再びあくびをする。 「……音川さんの体温と、このいい匂い……眠気を誘われますね……もう少しだけ」 「いいけど」 「……長男はマックスさんですよ、僕は、もっと対等な……」 言い終わるまでに、こっくりと泉の首から力が抜けた。膝上にある身体は弛緩し温かい重みに変わる。すぐに規則的な寝息が聞こえてきた。 「もう1人のパパとか?」 思いついたまま発言しているのは、頭が回ってない証拠だった。直前に、寝入り込んでくれて助かったと内心胸を撫で下ろす。 音川は膝に預けられた泉に目線を落とし、「どうすんのこれ」と悲痛な独り言を漏らしたが、手に感じる柔らかな感触が心地よく、それからしばらく泉の髪の毛をそっと梳くように撫で続けた。マックスを撫でる時と寸分違わぬやり方だったが、それが良かったのか2,3度名前を呼んで肩を揺すっても起きる気配がないほど熟睡している様子で、音川は頃合いを見て身体をそろりと抜き出し、ベッドから降りた。 自分の身体があった位置には代わりに枕を差し込んでおき、うつ伏せ状態の泉に「おやすみ」と小さく声を掛け、寝室を去る。 自分用に客間に布団を敷きながら、頭の中では呆然と、(甘えさせてください)という泉の発言が無限にリフレインされていた。 ——堪らなく愛おしかった。内臓がまるでトーストの上に乗せたバターのようにじわじわと溶けていくような、熱くて、甘美で。 それなのにとても苦しく、痛みにも似た感覚。 泉相手だと、抑えろと自分に言い聞かせなければならないほど気持ちが高揚する。 音川はリビングに移動すると、大きなため息と共にソファにどさりと座り込んだ。泉が無防備に甘えてくるのは警戒心がない証拠だ。音川が自分にとって危険な存在などと思ってもいないはずだ。 その証拠に、音川を頼って、ここに滞在しているのだから—— 泉からの信頼を裏切るような想像ばかりしてしまう自分が無様に思える。

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