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第20話 ムービーナイト

音川は自宅マンションのエントランスでカードキーを取り出そうとして、泉に渡したんだったと思い出した。スマートフォンに入れているアプリで解錠できるが、わざわざ起動してパスワードを入力するのが面倒で、普段から物理的なカードキーを持ち歩くことが多い。部屋の玄関ドアも同じだから、アプリなら2度起動して2度パスワードを入れなければならない。 そうして部屋まで戻ると、「おかえりなさい!」とマックスを抱いた泉が小走りで玄関までやってくる。その明るい笑顔とはずんだ声は、音川の帰宅を待ちわびていたことをありありと表していた。 辛い状況にあるはずなのに、いつもこの笑顔を向けてくれる。 俺は、8つも年下の後輩に精神的な無理をさせているのだろうか。 間違いなく泉はここに留まることを喜んでくれているはずだが、それは身の安全のためだけであって、気苦労とはまた別なのかもしれない。配属されて間もない部署の上司の家、だ。いくらデスクやチェアや調理器具などの物質的な環境を整えたところで、心底気が休まるかは疑問だ。もし四六時中だと気を遣うというのなら数日俺が出ていけばいいし、足りない物があればすぐに用意してあげたい。 遠慮などせず、どうしてほしいのか伝えてくれれば——何でもするのに。 音川は自分が自嘲していることに気が付かないまま、「ただいま」と泉を見つめた。 束の間、泉は呆けたように突っ立って、「お、おつかれさまです」と猫脱走防止柵を中から開ける。 「意外と早かったんですね。今、買い出しに行こうかと」 「何か作ってくれるつもりだった?」 「はい、手持ち無沙汰だったので……」 「そりゃ嬉しいが、そんなに気を遣わないでいいよ。出前にしようぜ、俺もう腹減ってるけど、泉は?」 音川は仕事部屋から宅配メニューが入ったクリアファイルごと持ち出してきて渡し「俺のも頼んどいて」と告げると浴室に消えた。 速水に指摘されたような怒りや暗さをまだ纏っているかもしれず、それを家に持ち込むのが我慢ならなかった。早く気分を洗い流して、泉との夕餉のひとときを過ごしたい。 「スムージーでいいですかー?」と風呂場のドア越しに言ってくる泉に、「なわけねーだろ。寿司かピザか弁当か中華。ビールも付けて」とリクエストするが、「ビールは駄目です」とピシャリと撥ね付けられた。音川は泉の想像通りの反応に苦笑いをしつつ、シャワーのコックをひねる。 たとえ空きっ腹にスムージーを流し込むことになったとしても、気分は回復するに違いない。 「手持ち無沙汰、というのは聞き捨てならないな」 リビングのソファでピザをつまみながら、音川が切り出す。 ピザを頼んで置いてビールが無いことについては泉を横目で睨んでおいたが、腹をつままれてやりかえされた。しかし実際はつまめる肉はなく、泉の神経質そうな指先が空振って終わってしまい、悔しがる様が大変に可愛らしかったから、ビールが無いことで得をした気分になった。 「ここには難しい本しか無いんですもん。そりゃ自分のPCでストリーミングは観られますけど、PCに向かうと仕事が気になる」 「なるほど」音川は立ち上がり、「ついてきて」と言いながらリビングを出て寝室に向かう。 「テレビはこの部屋にあるんだ。壁のスイッチで……」 音川が備え付けのパネルを操作すると、微かな機械音を伴って壁一面に設置されていた扉が引き戸のように左右に開かれ、中から大型のテレビが現れた。 「クローゼットかと思ってた!」と泉が感嘆する。壁がくり抜かれ、そこにテーブルや大きな鏡がはめ込まれている。まるでホテルさながらの作りだ。 「言われてみれば、元はクローゼットだったのかもしれないな。俺が越してきた時にはもうこの状態だったから……」 「今気がついたんですか?」 「うん。部屋の広さの割に収納が少ない気がしてたんだよな」と音川はもう一方の壁にある扉を指す。そこは泉も服を借りる際に出入りする正真正銘のウォーキングクローゼットだ。 「テレビが隠せるとスッキリしていいですね。ケーブル類もごちゃつかないし。いつも、寝室でテレビを観てるんですか?」 「いや、もう何年も電源すら入れてない……そうだ、リモコンがあったはず」 音川はナイトテーブルの引き出しを開け、ごそごそと手探りでリモコンを探り当てた。ほら、と泉に手渡し、「電池あるかな」と言い残して自分はスタスタと仕事部屋へ行ってしまった。 とりあえずリモコンの電池はまだ残っていたようで、テレビの電源は問題無く入り、地上波を受信することを確認した。 扉の内側なだけあってホコリは積もっておらず、端のほうに備え付けられた鏡の部分はテーブルのように足元が空いており、椅子を持ってくればドレッサーとして機能するようになっている。左右にある引き出しは他と違って幅が狭く、より鏡台らしい。泉は何気なくその引き出しの窪みに指を掛けて、はたと気付いて手を離した。 化粧品でも出てきたりしたら、平静でいられないかもしれない。それが古いものであっても……泉は軽く頭を振って、いままで居なかったはずのない存在の想像を振り切り、リモコンを握り直して番組表をスクロールする。 元から地上波を見る習慣ではないが、実家暮らしのため居間ではテレビが付いて居ることが多い。ガヤガヤとした音声は、音川の無機質な寝室に一気に生活感を生じさせた。しかしそれはあまりに異質で、泉はすぐにリモコンのホームボタンを見つけて、アプリケーション一覧に切り替えた。 音川の無機質な部屋と暮らしぶりは、静かで、落ち着いていて、とても心地が良い。泉はふと首を曲げて自分自身の体を見下ろし、自分も異物なのだろうかと少し不安を抱いた。本人に確かめたところで、優しい上司の返答は想像できるから聞きはしないが。 まもなくして音川が仕事部屋から小さな無線キーボードを携えてきたと思ったらすぐにテレビとペアリングし、ストリーミングサービスの画面を表示した。「これしか契約していないけど、この部屋もテレビも好きに使っていいから。何か面白そうなのがあったら誘ってよ」と言って再び部屋を去った。すぐにリビングから、「ピザ、冷めるぞ」と声が掛かるので、ログインは後回しにして急いで戻る。 「まさか、本棚にも仕掛けがあって、裏に小部屋が……なんて」 「怖いこと言うなよ。この部屋は、売りに出される前はどこかの外資企業がゲストルームとして持ってたらしいよ。家具付きだったんだが、使われた形跡が無かったから恐らく税金対策だろうな。だから壁一面の本棚や寝室のテレビセットも、どことなく外国の物件風なの。納得だろ」 一度も海外に出たことのない泉には、映画やドラマでしか知り得ない世界だったが、確かに家具類のデザインからして海外仕様だ。生活感の無さを上長させているのはそのせいか。 「ねえ、音川さん。後で何か観ませんか?食べ終わったらすぐシャワー浴びてきますから」 「俺そんなに神経質じゃないから、別にこのピザを持って寝室に移動してもいいけど」 「僕が嫌なんです」と泉はやや潔癖症の片鱗を見せ、「よく海外の映画で、靴のままベッドに寝転ぶシーンがありますよね。カバーをしているとは言え、あれ本当に意味が分からない」 泉は食事を終えるとピザの箱を捨て、カフェテーブルをサッと拭くとすぐに浴室へ向かった。思えば、泉が使った後の風呂はいつも水滴が拭われている。細かく気を遣ってくれているのかと思っていたが……先ほどの言動からして、どうやらそういう性分のようだ。 ややするとガサツになる音川だ。今は2週間に1回の頻度で契約しているクリーンサービスを週1回に増やした方がいいかもしれない。でないと、見かねた泉が「僕がやります」と言い出しかねない…… いや、待てよ。 クリーンサービスが来るのは来週だが、それまで泉がいるとは限らないのか。保木の問題が片付いたら、泉がここに居る理由がなくなる。そして念願の一人暮らしにむけて物件探しを始めるだろう。 当たり前のことなのに、妙に神経がささくれる。 音川は大きめのため息を付いて、気分を切り替えた。先のことを考えて今から落ち込んでどうする。今は泉がいて、ちゃんと食って、目下の予定も提案してくれている。 ただこの時間を大切にすればいい。 その夜、泉が選択した映画は誰もが知る有名なホラーサスペンスだった。 音川は高校生くらいの頃にポーランドの祖父母宅でたまたま放映されていたのを1度だけ視聴したが、細部のストーリは忘れてしまっていた。主人公の男性がドアの隙間から顔を出しているサムネイルはあまりに有名だ。 「こんな有名作品を、今までよく観ずに生きて来られたな」 「きっと今夜、音川さんと観るためですよ」 泉は声とマットレスを弾ませながら、足元から四つん這いでベッドに上がって来る。その何気なく発せられたであろう言葉は音川の胸にこそばゆい感覚を生じさせた。 そのまま泉が自分の体の上に這い上がってくれば、少し楽しいことをして、抱きしめて朝まで眠って———— 泉をそういう対象に見てしまう自分に辟易しながら、急いでくだらない想像を打ち消した。 10代の子供じゃあるまいし、ただの映画鑑賞を、ロマンティックなムービーナイトだと取り違えてどうする。 照明を落として、ベッドボードを背に足を投げ出してテレビに向かう2人を、猫の好奇心丸出しでなんだなんだと興味深げにマックスが覗きに来る。映画が始まると、人間たちはしばらく動かないと踏んで、もぞもぞと音川と泉の間に割り込んでいく。 その背に軽く手を置いて撫でていると、マックスは一度大きく伸びをしてから音川の膝の上に登り、丸くなった。 映画は丁度深夜に差し掛かったところで終わった。 「顔がホラーでしたね」と泉は失礼な感想を述べていたが楽しんだ様子で、お気に入りとしてチェックを入れていた。 睡眠時間の短い音川にとって0時はまだ宵の口だ。一杯飲みたいが、いかんせんマックスがすっかり膝の上で落ち着いてしまっている。 「今夜はパパの膝の上がいいの?」泉は、丸くなっているマックスの背中を撫でながら声を掛けた。ここ数日は泉にべったりだったから、少しだけ寂しい。 「パパ?」 「獣医さんに行くとそう呼ばれませんか。マックス君のパパって」 「いや、気が付かなかったが……俺がパパなら泉はさしずめ……弟かな。マックスのやつ、妙に先輩風吹かせてるところがあるんだよな。寝かしつけようとするところなんて特に」 「それだと、僕のパパも音川さんってことになりますが……」 「ああ、確かに。来いよ、膝枕してやる」 あははと笑って全身で冗談だと表現している音川に、泉は「それでは」とあえて真に受けて、マックスを持ち上げた。 丸くなった体勢のまま微動だにせず、泉の隣へ移動させられても置物のようにおとなしい。軽く目を開けて見せたが、よほど眠いのか知らんぷりだ。 泉はやや身体を斜めに仰向け、空席になった音川の膝に頭を乗せた。 「お、おい」 「しばらく、こうしていてもいいですか。少し甘えたくなった」 膝上の筋肉の盛り上がりを指先でつまんだり、さらに手を伸ばしてふくらはぎの質感を確かめていると、次第に音川の身体が弛緩していく。この体勢を受け入れてくれたようだ。 「甘えたくなったなんて、どういう風の吹き回し?」 「言葉通りです。映画を観ている間、マックスが羨ましかったから」 「ああ、そう」音川は言葉が続かず、一旦手のひらを泉の頭に置いて「いい?」と短く許可を取ってから泉の髪に指を差し込んだ。ふわりとした感触はマックスの毛より長く、心地よくまとわりついてくる。地肌を指先で撫でると、泉は目を瞑って微笑んだ。 「やっと起きてる時に撫でてもらえた」 「んー?あれっきり触れてないよ……。ねえ、ちょうど話したいことがあるんだ。このままで聞いてくれる?」 「なんです?ちょっと怖い、な」 「その首のケガ……のことなんだけどね」 そう切り出した途端に、泉の双眸がふっと開かれた。音川はそれを真上から見下ろして、できる限り優しく問うた。 「もしかして、保木さんから暴力を受けたんじゃないか?」 泉の喉仏が軽くが上下するのが見て取れる。 「……そうです」 「いつ?」 「木曜の夜です」 「詳しく聞いてもいい?」 「はい。本当はもっと早く、話すべきでした」 「それは違う。きみが話したい時で良かったんだ。でも、今日ちょっと気懸かりな噂を聞いてね」 「阿部さん、ですよね。たぶんそうじゃないかと……。実は、少し前に保木部長を見かけたこともあり、警戒しているつもりでした。木曜の仕事帰りに駅の近くで捕まって……なんとか逃げましたが、家に帰ることはできず……。その夜は、このマンションの近くのホテルに泊まりました」 「そうだったのか……」 音川は自分の胸の痛みで、声を詰まらせた。不安と痛みの最中で、泉が思い浮かべたのは。 「個人的なことならそっとしておこうと考えていたんだ。でも、保木が絡んでくるとなると、会社の人間として放って置くわけにはいかない」 「しかし、保木さんはもう解雇されているから、会社は関係ないはずです。それに、僕があの新人の子を庇っていたのは学校の後輩だからで、個人的な理由でした。それが原因で保木さんは僕を恨んでいるのですから、会社の人である音川さんを巻き込むわけにはいかない」 「あくまで個人的な問題だと言うのか」 「そうです」 「さっき阿部にね、会社の周りで保木の目撃情報があることは、泉にはまだ言うなと口止めされたんだ。きみは、誰にも相談していないんだろう?でも、俺を頼った。違うかい?」 「それは……とっさに音川さんが頭に浮かんで……そうしたら震えていた手も足も落ち着いて、気持ちが冷静になったんです。翌朝、あんなケガのままでモーニングに行くのは憚られたのですが、どうしても、音川さんに逢いたかった」 「だったら……手伝わせてくれないか?個人的な問題だと言うのなら、俺個人としてきみに関わりたい。二人の問題として、考えることはできないだろうか」 「音川さんと僕の……」 「そうだ」 「僕は独りで取り掛かるつもりでした。そうするべきだと思った」 「うん。独りで戦うのは辛かっただろう?ごめんな、あの日、出社してやれなくて」 「そんなことないです。僕が隠したので……」 音川は、泉の額から後頭部までを全ての指先でゆっくりとストロークした。愛でる、というのはこういうことかと初めて理解しながら、何度も繰り返していると、泉の表情がじんわりと和らぐのが見て取れた。心地よさげに目を閉じて、微かに微笑んでいる。 「なあ、『酸っぱいレモンでも甘いレモネードになる』って言葉を聞いたことがあるか?方法を間違えなければ、今回の事も、きっと泉の糧になるよ。頼むから、俺にその手伝いをさせてくれ」 「音川さん……」泉は鼻の奥がツンとして目頭が熱くなるのを感じた。この家に来てから、音川の優しさに、何度も泣かされる。 「俺は、きみの問題に介入したくて仕方ないんだと思う。辛い思いをしているのなら、全て引き取りたい。泉は俺を頼ってくれた。俺も、会社の人間としてではなく、完全に個人的な気持ちで……え、何?」 泉は身体をねじって横臥すると、両手を背中に回して抱きつくようにし、音川の腹に顔を押し付けた。 「個人的にも、僕のプログラミング能力が大切だからですか」 くぐもった泉の声が直接腹に響き、薄いTシャツ越しに息を肌に感じる。 音川は腹に力を入れて腹筋を硬くすることで、バリケードを張った。効果のほどは不明だがそれしか方法が思いつかない。 「ああ、まあ。そう、だね。その……開発中のアプリもそうだ。俺は優秀なエンジニアを守ることを考えていて……」 「分かっています。でも今は、もう少し甘えさせてください」 泉の両腕に力が込められ、さらに音川の腹に額をこすりつけるようにすり寄る。そのくすぐったい刺激に音川もますます身体に力を入れるが……今回は効き目がないようで、下半身に血液が集まるのを止められなかった。泉が身じろぐ度に、音川の下腹部に熱が籠もる。 たかがこれだけの刺激で、勃起してしまうなど音川にはありえないことだった。 泉は音川の状況などお構い無しで、よほどそこが気に入ったのかもぞもぞとすり寄って来たり、小さくあくびをしながら全身で伸びをしたりとくつろいでいる。 「本当に猫みたいなやつ。マックス、弟ができたよ」なるだけ気をそらそうとマックスに話しかけてみる。 「やめてください。上司ってだけでハードル高いのに、パパの称号まで付けないで。どんどん遠くなる」 「弟から昇格すれば?」 「何に?兄とか?」 「いや、もっと対等な……もう1人のパパとか?」 思いついたまま発言しているのは、頭が回ってない証拠だった。 泉は「いいですね、それ」と声を上げて笑ったかと思うと、ふあ、と再びあくびをする。「僕、このまま寝るかも……音川さんの体温と、このいい匂いで眠気を誘われたみたいで……あの、背中も撫でてくださ……」 言い終わる頃には、こっくりと泉の首から力が抜けた。本当に寝入ってしまったようだ。膝上にある身体は弛緩し温かい重みに変わる。すぐに規則的な寝息が聞こえてきた。 音川は天井を仰いで、「もう1人のパパって……俺、なに考えてんの」と悲痛な独り言を漏らした。

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