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第21話 爪を隠したままで

翌朝、喫茶のママはここ数日顔を見せなかった2人をにこやかに迎えて、トレーニングウェアの音川にはゆで卵を2つ、後ろ髪を寝癖で跳ねさせている泉にはシャインマスカットを数粒サービスで出すと、そそくさとカウンターへ戻った。二人の様子を眺めるのに特等席だ。 泉の大きな瞳はよく開かれ、まるで音川の注目を得よう必死に輝く星のようであるし、その瞳にぶつかると音川は照れたような苦笑いを浮かべて、少し視線を逸らす。 そして、恐らく、お互いにそのことに気が付いていないのが初々しくもどかしい。 「起きたら音川さんが居なかった」 喫茶のママは聞き耳を立てていたわけではないが、聞こえてくるものはしょうがない。お泊りしたのね、と密かに頷く。 「よく眠れたようで」 「客間で寝たんですか?ソファ?」 「客間」 あらあら、音ちゃん奥手だったのねとママの目は少し驚きに開かれるが、続いた音川の返事に、こりゃ駄目だわ、と静かに首を振った。 「変わってやろうか?泉が寝室を使えばいい」 「あのベッド、独りでは広すぎます」 「マックスがいるだろ」 「いくら彼が大柄な猫でも、さすがにまだ余りますよ」 一旦、ママは意識的に耳を遠ざけることにした。新地の高級クラブで働いていたころに培った技だ。このまま音川の朴念仁ぶりを聞いてしまうと叱りに行きかねない。 モーニングを大方食べ終わった頃、「仕事モードになる前に」と音川は切り出した。「例の件、独りでどう対応するつもりだったのか教えてくれる?」 「あ……はい」泉はアイスコーヒーのグラスをテーブルに静かに置いて居住いを正した。「調べたところ、やはり証拠が無いとどうにもならないと言うことが分かったので……動画で記録しようと思っていました」 「どうやって?」 「通勤用のバックパックの肩紐にカメラを取り付ければ、前方のものは全て撮影できるので。カメラをオンにしたまま通勤していれば、そのうち……」 やはり、泉は自分を囮にするつもりだった。 確かに警察沙汰には暴力を受けたという証拠が必要なのは事実だ。このなんとも矛盾したシステムは、今まで幾人もの被害者を出しており腹立たしいことこの上ないが、これが現実だ。 「泉の気概はとてもよく分かるし、俺でもそうしただろうと思う。だけど、この件は俺と速水に委ねてくれないか。話し合いで解決できるかもしれない」 「しかし、とても話ができるような状態では……」 「俺たちはさほど警戒されていないだろうから、突然殴りかかってくるような事態にならないはずだ。それに、部署は違えど会社の初期メンバーに変わりはない。何か別のアプローチが可能だと考えている」 「……音川さんがそう言うなら……お任せします」 「誤解しないで。きみ独りで対応できるのは間違いないよ。ただ、再び襲われるようなことになったら俺は自分が許せなくなる。先輩のわがままだと思って、任せてよ」 「そんな……」 「せっかく怪我が治ってきて、それに、一人暮らしの計画も進めたいだろうが……ここは安全だと思うんだ。不便だろうけど、事態が収束するまで傍にいさせてくれないかな」 「不便なんてとんでもないです」 泉は大急ぎで否定した。実際、仕事や生活環境は自宅よりずっと快適だ。 そして音川の傍は異様なほどに居心地が良い。まるで元から、こうであったかのような自然な空気感が充満していて、何日でも——永遠にでも——共に過ごしたい。 「早く解決したいのは、間違いないんですが……」泉は、俯いて呟く。語尾が消え入りそうにかすれた。 「どうしたの?」 「解決したら……音川さんと一緒にいる理由が無くなりますね」 「どのみち、一人暮らしするんだろ」 「します。でも……今、とても楽しくて……音川さんが気を遣ってくれているのかもしれないのに……」 「そんなことはない」今度は音川が即否定する番だった。 (しかし、ずっと置いておくわけには——) 音川は煩悶する。(昨夜のこともある。あんな辛抱が毎晩続くとなれば——神経が焼き切れてしまう) 「今は良くてもすぐに嫌になると思うよ、俺ガサツだし」 「男の一人暮らしにしては、ずいぶん綺麗にしてる方じゃないですか?」 「長毛のマックスが居るからそうなってるだけ。物は極力置かない方がサッと掃除できて楽だから。換毛期や冬はすごいぞ」 「面倒臭がりも極めると綺麗好きになる——」 「そういうこと。だから、俺は気を遣ったり無理に部屋を片付けたりはしていない。普段の暮らしと変わらないんだ。だから、泉も気にせずに好きなように過ごしてよ」 少々話し込んだせいで普段のモーニングよりも滞在時間が長くなってしまい、「日が高くなる前に帰るぞ」と席を立つ。 喫茶の重いドアを後ろ手に閉めると、真夏の朝のギラついた太陽がアスファルトに照り返し、音川は襟に挿していたサングラスを掛けて、マンションへの帰り道を歩き出した。 『眩しいのを我慢するよりサングラスを掛ける方が自然だ』と言い切った泉を思い出し、本人の顔を覗き込むと、小首を傾げて微笑みかけてくる。 初めて対面した日から——全てがとても自然だった。 正直、泉が懐いてくれているのは違いないという自信はある。 でもそれはエンジニアとしての尊敬や、現在進行系で滞在していることへの気遣いからくるもので、昨夜突然甘えてきたのだって、泉の状況を考えると理解ができる。 特に心細い時、近くに自分よりも大きい人間がいれば抱きついてもおかしくない。特大のぬいぐるみに抱きつきたくなる感覚に、男女も年齢も関係ないだろう。 傷つき、不安に苛まれ、助けを求めている後輩に欲望を抱くなど——許されない。 一定の距離——会社の人間として適切な——を置くべきであるという常識と、泉への執着のような好意がお互いを攻撃し始めているが、音川には打つ手がまだ見つからない。しかし、どうしても今の距離を手放したくない—— 「一人暮らしだけど。物件探しはどう?進展あった?」 「いえ、まだネットで見ているくらいで。あ、そうだ。内覧が決まったら一緒に来て欲しいです。一人暮らしの先輩としての意見を聞かせてください」 「そうだねぇ。俺からアドバイスできるとすれば……」防犯面の他に特段思い当たらないまま口を開いて、ふと、定期的に投函される管理会社からのお知らせに物件の情報が掲載されていたことを思い出す。 断られたらそこそこショックだろうな、と音川の顔には無意識の自嘲が浮かんでいるが、真横に並んでいる泉からは見えない。 「うちのマンションには分譲貸しも多くて。俺も以前は下の階にある単身者向けの賃貸に住んでたよ」 「そうだったんですね。駅から近い割に静かで、良い場所ですよね」 「もし……空き部屋があれば、越してくる?」 そういった途端に泉が音川の前に走ってまわり込んできた。 ぶつかりそうになる勢いで向かい合うと、両手をぎゅっと握ってその場で飛び跳ねるようにしてぶんぶんと上下に振る。 「ほ、ほんとに!?もちろんです!音川さんさえ良ければ」 「俺は、」 音川は、(近くに居たいよ) という言葉を飲み込んで軽く咳払いをした。 「きみが、社員寮みたいだと思わないのなら」 「音川さん、僕、最初から開発部に配属されなくて良かったと思っていて」 「どうして?」 「完全に音川さんの部下になってしまったら——その時間が長ければ長いほど、もう関係性を壊せないだろうから」 「壊す必要があるの?俺が上司じゃ、物足りないとか」 冗談に聞こえないトーンで発言する音川の両手を、泉はさらに握りしめた。 「相変わらずですね」 「俺は間違いなく上司で……年も上だしね」 「否定はしません。でも、僕は、音川さんが僕たちを『部下と上司』という型に嵌めようとしているように見える。最初は、それに習って適切な距離をとるべきだと思っていましたが、そうじゃない。そうなってしまったら、取り返しがつかなくなる——僕、今ちょっと強気になってますね。すみません」 「いや、いいんだ」 その型を壊せるものなら壊したいのは、音川の方だ。 立場上叶わない——というのは建前だった。要は、自分のモラル感や、これまでの生き方を否定する勇気がないのだ—— そして、未熟にも音川はこれまで自分から何かを欲した経験がないため、泉に拒否される可能性を想像してしまい、怖くて仕方がないのだ。 「社員寮だなんて、思うわけないです。建物全体の視点で言えば、同棲みたいなものです」 泉はそう言うと音川の手を離し、軽快に駆け出す。マンションはすぐそこだ。 「あ、の……泉くん。『同居』の言い間違いでは?」という音川のつっこみは届かないようで、「早速聞いてみましょうよ!」とエントランス前で手招きしている。 オートロックを解除し、ロビーのすぐ左手にある管理人室の呼び鈴を鳴らすと、中から「はいはい」と年配の男性が顔を出した。 どことなく恵比寿様を思わせる管理人は、音川の問い合わせにその場で会社に電話を入れてくれた。 単身者向けとされる1LDKの部屋に2つ空きがあり、どれも今すぐに内覧可能だった。膳は急げという音川の打診はにこやかに受け入れられ、その場ですぐに管理人と連れ立ってエレベーターに乗りこむ。 部屋はどちらも同じ作りで、これと言った差は無かったが、1つは3階でもう1つは6階。 泉は6階の部屋をその場で即決した。階段を使っても、音川の部屋まで3分だ。 「住人の紹介でしたら初期費用が抑えられたはずですよ」と管理人は顔を綻ばせ、ますます恵比須顔になる。 改めて担当者から連絡があるということで、泉と音川はそれぞれの携帯番号を残して管理人室を後にした。 「本当にいいの?」 「当然じゃないですか!音川さんの部屋に入り浸れる上に、一人暮らしもできるなんて、これ以上の好条件はありませんよ!」泉は興奮冷めやらぬ様子で、頬を紅潮させている。音川は、先ほどからチラチラと頭によぎっている、この要望に強制力があったのでは、という疑念を捨て去った。 「嬉しそうでなによりだよ。でも単身者向けの部屋は、猫が飼えないよ」 「マックスがいるし、実家にも3匹いるし、十分すぎますよ」 「あ、実家といえば、週末に一度帰ったら?車出すから」 「そうですね。着替えも欲しいし。でも猫たちの顔を見る程度でいいです。母とメッセージのやりとりはしていますし」 「男の子だもんねえ。よっぽどのことが無い限り心配はされないか」 「それに、やっと実家を出るとなれば手放しで喜ばれます」 そう軽やかに言いながら、泉は客間へと入っていった。仕事を開始するつもりらしい。 音川はまずジムでの汗を流すためにシャワーを浴び、すっかり仕事モードに切り替えた。 課長から状況のアップデートがあり、明日の東京出張は手ごわそうだと覚悟する。泉もメールの宛先に含まれているため大体の内容は把握しているだろう。彼にとっては、初めての客先訪問となるはずで、音川としても多少緊張する。ここで泉の扱いを間違えてしまえば、今後の客先からの対応で困るのは彼だ。 「新幹線、予約しましたので」と仕事部屋のドア越しに泉の声が聞こえてハッとなると、もう陽は傾いていた。音川は泉を部屋へ呼び込み、「もう終わるから少し待っていて」とソファを指差す。 「僕、保木さんの件について恐怖感があったんです」 泉はソファに腰掛け、本棚に並べられている技術書の背表紙に目を走らせながらそう切り出した。 「うん」 音川の返事はいつもながらに端的だが、声のトーンに穏やかな温もりが乗せられていて、話を促す相槌であった。 「たとえ対峙して被害届が出せたとしても刑務所に入れられるわけじゃないから、いつまでも怯えていなきゃいけないんだろうか、とか。そうなれば転職して、人が多い東京なんかへ引っ越して……なんて」 「実際、ストーカーからは逃げるしか手立てがないからな」 「でも、その恐怖が吹っ飛びました」 「どうして?」 「解決しようがしまいが、このマンションに住むことが叶えば、徒歩3分の距離に音川さんがいる。正直、怒りも無くなりました。もう、どうでもいい」 音川は愉快そうに声を上げて笑った。 「うん、何かあれば駆けつけますよ。ドーベルマンみたいに」 「どちらかというと、音川さんは黒ヒョウです」 窓から差し込む光で逆光となり黒く影になった身体に、しっとりと輝く緑色の瞳。これほど美しい生き物は見たことがないと思った2年前より、更に妖艶さが増し、成熟した雄のオーラを纏っている。 「ヒョウなら尚更早く駆けつけなきゃな」 「来てくれるんですか?」 「はは、そんな事態にならない事を祈るけども」 音川はPCの電源を落とすと席を立った。 「飯、行こうぜ」 その夜は近くの小料理屋で夕飯となり、泉の自炊はお預けとなった。 翌日が出張で、翌々日は速水たちとの飲み会が設定されているため食材を買うわけにはいかないからだ。 「僕が下の階に越しても、こうして一緒に食事したり、仕事したりできますか?」 「当然。毎日でもいいって言っただろ。それは変わらないよ。まあ今日の感じでは99%決まったようなものだろうし、来月早々には引越しになりそうだな。準備を進めるなら手伝うよ」 「助かります。でも、僕の部屋が階下にあるのは、音川さんからすれば近過ぎたりしませんか?さっき、『社員寮みたい』って」 「そう思ったなら、提案していないよ」 「まあ、そうですが。ほら、社交辞令とか」 「俺が?」 泉は向かいで何かの煮物を箸でつまんでいる上司が、あまりにとぼけた顔をして見せるので笑い出した。 「音川さん。徒歩3分は『傍にいる』うちに入りますか」 「何かあった時に一番に駆けつけるのが俺ならね」 すぅっと優しく細められた視線を受けて、泉は頬が熱くなるのを感じた。 「きみは……俺をその立場に据えてくれるの?」 「音川さん……あの、」 「はは、そんなに困った顔すんなよ。気にしないで。さ、明日は出張だし、そろそろ」 音川は会計のため女将を呼んだ。 困り顔などしたつもりのない泉だったが、ドギマギしたのは間違いない。 音川に見つめられると言いたい事がうまく言葉にできず、頭に全身の熱が集まったかのように逆上せてしまう。 そんな状態で下手に話そうとすれば、きっと失敗する。何もかもすっ飛ばして、溜まりに溜まった音川への想いを叫び出しかねない。 泉はなんとか熱を冷まそうとグラスに残った氷をひとつ口に含んでから席を立った。

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