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第22話 一匙の安らぎ
「うう、混んでる……」
東京駅で新幹線の改札を出た途端、泉は項垂れて呟いた。
大きなスーツケースを持った外国人観光客、分厚いビジネスリュックを背負い汗を滲ませているサラリーマン、私鉄へ乗り換える人々、その混雑の中で立ち止まったり座り込んだりしている若者たち。せめてきちんと目的の方向へ流れていればよいが、ここはカオスだった。
「まあまあ、あと一駅だから」と音川は後輩の背中を数回さすって宥めながら、タクシーに乗ればよかったと軽く後悔していた。目的のT製薬の本社ビルまで2キロ程度の距離なのに、学生時代を東京で過ごした音川にとっては細かな電車移動が当然すぎて思い至らなかった。だが、当時よりも人間が増えたのは明らかだ。
ホームに滑り込んできた地下鉄はすでに満員に近いが、更にドドドと人が流れ込む。泉の身体はそのまま流されて行きそうになるすんでのところで、音川に腕を掴まれ引き止められた。
そしてドアに背中を充てるように立たされ、白いシャツを袖捲りした音川の腕によって目の高さで囲われる。車内は隙間など無くぴったりと人が圧着している状態だが、泉には安定した足元と身じろぎする余裕が与えられた。まるで音川によって特別な個室がつくられたようだった。
泉が顔を目前の音川へ向けると、少し上から注がれているグリーンの瞳とぶつかった。
「大丈夫?」と耳元でそっと問いかけられ、ついうっかり、先日抱きしめられたことを思い出してしまった。あれは音川の思想に感動して涙を滲ませたところを、なだめてくれただけのハグであったが、偶然耳に触れた音川の唇は熱くて——
嬉し恥ずかしく、「子供扱いしすぎでは?」と照れ隠しに悪態をついてしまった。
ハハ、と音川に軽く笑いやりすごされ、その笑顔に不用意に見惚れてしまっていると『この先大きく揺れます』と車内アナウンスがあった。
「そうだった」と小さく呟いた音川が両腕の隙間を狭めて泉を全身で抱きしめるようにして固定した瞬間、ガタンと確かに電車は大きく傾いで、バランスを崩した乗客たちがぶつかり合う。
「降りるよ」
揺れの直後に電車は駅に到着し、最初にホームへ出た音川は再び泉の腕を引いて、次々と吐き出されてくる人の群れから遠ざけた。
「のんびり行こうぜ。ここからの徒歩が長い」
音川が言った通り、ホームから目的の製薬会社までは地下道を延々と歩かされた。途中、百貨店の入口があり大勢の人が行き交っているが、不気味なほど静かだ。
しかしその静寂を破るかのように、前方から外国人観光客の群れが列をなしてやってくる。20名ほどの大柄な中年の白人グループで、声が通るからずいぶん賑やかだ。
泉が「近くに観光地があるんですかね?」と何気なく口にすると、「浅草だろ」と先輩エンジニアから端的な答えが返ってきた。
ちょうどその時、当のグループからすれ違いざまにピュイっと呼ぶような口笛が聞こえて、泉は反射的に顔を向けた。何名かの淑女がにっこりと微笑みながら、自分の隣に向かって視線を送っている。
「なるほど」と泉は両方の意味で呟きながら少し目線を上げて隣を見ると、音川は澄ました顔で前方を見据えたまま「歳を重ねると大胆になるのは各国共通だよな」と鼻で笑う。
「外国人にもよくモテるんですね」
「どっちかっつーとそっちにしかモテねえよ」
「それは初耳です。今までの恋人もそうですか」
「ん?気になる?」
「なりません」
「あ、そ。なあ、まだ時間があるから」
地上へ出る直前で、音川は前方に見えるコーヒーショップを指さした。
家からここまでノンストップでの移動で、しかも泉には慣れない超満員電車だ。一呼吸いれた方が精神的に余裕ができるだろう。それに、先方の会社へ乗り込む前に一旦頭の中で段取りの整理をしておきたかった。
アイスコーヒーを買い求め、二人がけのカフェテーブルに腰を下ろす。この建物に付随したオープンなエリアで、パソコンを開いている人もいれば、軽食を取っている人、ただぼうっと座っている人もいる。
泉は、ぐるりと周囲を見回した。
黒い大理石のように反射する壁に、ベージュ色のタイルが敷き詰められた中層ビルだ。洗練されたと言えば聞こえはいいが、ようは無機質で面白みのない、無駄を省いた内装。大きな岩を削ったオブジェがあるが、見ようによってはベンチにも見えるし、ただの造形かもしれないが美大出身の泉にもわからなかった。エスカレーターの下に設置されており、まるで無いもののように扱われている。
あらゆる扉は壁に埋め込まれてフラットであり、ノブのようなものもない。標識はすべてピクトグラムで表されていて文字は一切無かった。上階に映画館があるようで、その宣伝用のポスターがその空間で異質だった。
「この辺りはとても東京らしいですね」
泉は、アイスコーヒーを一口飲んで、ふう、と息を漏らした。
「はじめて?」
「はい。東京自体がライブなどで来たことがある程度です。東京タワーも行ったことがない。ああディズニーは子供の頃に連れて行ってもらった」
「厳密には千葉だ」
「音川さんは詳しそうですね」
「俺、大学こっちだから」
「てっきり関西の方かと……。ちゃんと聞いたことがなかったですが、帰国子女なんですよね?」
「そうなるのかなあ。13歳からあっちのギムナジウムで……22になる直前に日本に帰ってきて大学院へ進学した。だから俺の感覚では帰国子女っていうよりか、ちょっと長めの留学に近いんだよな」
「院から日本?まさか博士なんじゃ」
「まあね。幼稚な日本語しか知らなかった俺には地獄だったから思い出したくないが」
「とても幼稚だとは思いませんが……」と泉はお世辞でなく反論する。しかし、13歳から海外ということは、そこで日本語へ接する機会が断たれるということを意味するのは察することができた。
社内での音川は四角四面の印象だ。それはきっちりとした業務態度からくるものに間違いはないが、確かに、言葉遣いが与える影響は大きいかもしれない。
プライベートでの交流を持つようになって、音川の大雑把さやリラックスした生活を知った今だからこそ、わかることだ。
「運良くこの業界に入れたからよかったが……文学博士なんて良くて教師しかないだろ。それに、哲学とAI開発は、全く異なるジャンルでもないと俺は常に思っていて」
「それ ……少しだけど、分かる気がする。僕も先日……」
泉は自分も独習で開発をしてきた経験から、このゴリゴリの理系の皮を被った思想家が言わんとしていることを読み取ることができた。
「深く……アルゴリズムに囚われる時があって。まるで物理や数学と離れた場所に思考が飛ぶというか……全ての要素が一つに並ぶための規則がうっすらと見えた時、まるで魂があるのならこれだろうと思わせる何かが、そこに生まれるんだ……」
音川は、とつとつと語る泉をじっと見つめていた。
輝く瞳が限界まで透明になり研ぎ澄まされてゆく。軽く伏せられた瞼のまつ毛一本一本は生き生きと上を向き、生命を感じさせる。
泉が指しているものが、音川には手に取るように分かった。
そして、それを魂だと表現した彼に、これまでも何度か抱いた感情よりもずっと強く、激しく込み上げるものがあった。
——過去に一度だけ、プログラミング中に見えたあれは——魂という呼び方が相応しい。生きているはずなのに、そこにあるはずなのに、掴めそうで掴めない——
「いつ、それを見たの?」
「例のサーバー構築をしている時です。それまで自宅で独習していてもあんなに澄んだ思考にはなれなかった」
「そうか」
「どうかしましたか?音川さん笑ってる」
「魂の塔」
「なんですそれ」
「その魂はきみが与えたものだ。俺はそれが美しい塔の姿になって現れたのを見た」
「何かの比喩?」
「いや、全く。ねえ、きみと仕事ができて、俺は幸運だよ」
飛躍する話についていけない泉だったが、しかし楽しげに話す音川を見ているだけで心は浮き立つ。
「それは僕の方ですよ。あの部屋で一緒に開発するのが楽しくて仕方がないんです」
「うん。……もう帰りたくなったな」
「はい。でも、イスラム横丁に行くのもすごく楽しみです。あ、今日の仕事を適当に思っているわけではないですが……」
「俺はすでに仕事そっちのけだ。早く終わるように祈ってて。それが今日のきみの役目」
「一応、高可用性の提案も僕が担当しますが」
「そっちは何も心配していない」
音川は泉のデビュー戦として、ネットワーク設計にまつわる新しい提案資料を用意していた。すでに泉がインドの件で実施したアイデアであり知識に申し分はない。ほんの少し音川の前でプレゼンの練習をしたのみだったが、客先で披露するには十分すぎるほど万全だ。
音川が懸念しているのは、客先からの質疑応答の時間だった。
問題とされているユーザーがどのような質問を投げてこようが、音川が上手く裁けなければ、打ち合わせの枠が切迫されて、こちらからの提案時間がなくなる。せっかくの泉の見せ場が見送りとなるのは避けたかった。
また、直前になって今回の会議案内が先方のDX担当者数名に何の知らせもなく転送されたことも気掛かりだった。想定していなかった参加者がいるかもしれず、彼らからの意見は予測が難しい。
約束の時間5分前に音川と泉が正面玄関に入ると、2名の受付嬢がサッと立ち上がり緊張が張り詰めた。
音川の外見から、これは英語で応対せねばと身構えたに違いない。しかしその心配は無用だと第一声で分かり、花のような可憐な笑顔を向けながら待ち合わせブースへ案内する。
すぐに「お待たせしました!」と若い男性の声。課長に紹介されたプロジェクトの責任者はまだ打ち合わせ中で、代わりに若手が迎えに来てくれたらしい。
簡単に自己紹介をしあい、エレベーターに乗り込む。
「失礼ですが、お名前から日本人だとばかり……顔だけじゃなく背も高くて、最初違う人に声をかけたかと思ってびっくりしちゃいました。すみません」
「よく言われます。これでも半分日本人なんですよ」と音川が穏やかにお決まりのセリフを述べる。
「弊社の人間に会ったことは、ないですよね?みんなも驚くだろうなあ」と青年はまるで自分だけが秘密を知ったかのように嬉しそうにほくそ笑んだ。
最上階の会議室に通され、若者はペットボトルのお茶を出すやいなや担当者を呼びに一旦オフィスに戻った。大企業の応接会議室だけあり、重厚な内装と座り心地のよいチェア。窓の向こうにはガーデンテラスの緑が眩しい。
「音川さんの外見で日本語話者だと、苦労しますね」
「とっくに慣れた。子供の頃は小柄でもっと日本人顔だったんだが……よく女の子に間違われるくらいかわいかったし」
「自分で言うんだ。でもそれ見たい」
「嫌でも見る羽目になるよ。うちの母からのアルバム攻撃は、ポーランドの祖父母が来日した時もひどかったからな」
「音川さんも向こうへ行ったりするんですか?あ、こんどの帰省って大阪ですよね?」
「ポーランドなわけねぇだろ。きみ、ちょくちょくボケてくるよね」
「音川さんにまつわる噂はたくさんありますが、帰国子女というのは初耳でした」
「言ってないからな。ハーフで帰国子女だなんてステレオタイプもいいとこだろ。俺は型にはめられるのが嫌なの」
「自分は僕との関係を型にはめようとするくせに」
「……そんなの、上司と部下以外にねぇだろ」
「別にいいですけど、せめてそこに『副業の仲間』も加えてください」
泉が唇を尖らせ拗ねた顔をした途端、会議室のドアがノックされ「遅くなりました!」と40代半ばほどの女性が顔を出した。
今までメールでしか往来の無かったため日本人顔でない音川を見てハッとしたようだが、それはほんの一瞬だけで、気に止めていない様子を貫いて颯爽と話し始める。今回のプロジェクトの責任者に違いなかった。
音川と泉は立ち上がり名刺交換をしてから、音川は泉を9月から当案件に加わる新メンバーだと紹介した。
今回、対面での打ち合わせを望んだことは正解だった。
状況はこちらに有利なことが肌感で分かったからだ。新システムは概ね好評で誰もが待ち望んでいるのは間違いないらしい。問題になっているベテラン社員はエンドユーザー側の代表的な存在で、役職こそついているものの『古い企業ならではの年功序列です』と責任者の女性は言い切った。
「こんな内部事情で御社を困らせるのも心苦しいのですが、我々だけではどうしてもシステム側からのアプローチが弱く」
「大体のご事情は把握しています。この後のユーザー様との合同ミーティングで、僕たちは開発会社の観点からこのプロジェクトの方針をバックアップさせていただきます」
音川の肩書は最高技術責任者であるが、そんな名刺を見ずとも、会議室に朗々と響く低い滑らかな声は自信に溢れ、筋肉の鎧を纏った長身に稀有な美貌、そのフィジカルだけで既に『こいつには敵わない』と思わせる圧倒的な説得力があった。
音川は会社の最終兵器で、この男を送り込んできたのは、必ず問題を収束させるという開発会社の意思であることは相手に間違いなく伝わる。
プロジェクトリーダーにより、初対面であることから簡単な自己紹介の時間が設けられた。リーダーから始まり反時計回りで各々が名前と役割を述べて行き、最後が泉となる。音川は泉を「弊社で今一番有望なエンジニア」だと紹介してから自分の番を締めくくり、泉はそれに照れたようにはにかんでから、しっかりとした声で挨拶を述べた。
その時、会議室に強めのノックの音が響いた。
「はーい、どうぞ」とプロジェクトリーダーが応答し、すかさず「DX推進から任意で参加がありまして」と音川と泉に向け簡潔に告げる。
「失礼します」と声がかかり、短髪の黒髪で、細身のスーツを着こなした青年と、その後ろから「シツレイシマス」と砕けた調子で長身の白人男性が入室してくる。
どちらもこざっぱりと垢抜け、いかにもエリート然とした態度だった。特に外国人の方は大きな動作と、「ソーリー」と少しおどけた様子で言い、遅れて来たことを悪いとも思っていない様子から察するに、アメリカ人だ。
高屋の前職場から出向しているというコンサルタントに違いない。
音川は思わず前職場での高屋を想像してしまい、内心で同情した。あの穏やかな男は、こんなやつらに囲まれて神経をすり減らしていたんだろうか。それとも同じように、判で押したようなエリートコンサル風を吹かしていたのか。じっくり聞いてみたくなった。
プロジェクトリーダーが、「A社のお二人です」と音川と泉に向けて言い、「ちょうど自己紹介をしていたところ。イーサンたちも、よかったら」と当人たちに促した。
まず日本人担当者が音川たちと名刺交換をし、外国人の方は「イーサン、イーサン コールドウェル」と名乗り力強く音川の手を握り、「はじめまして。正直、ここで他の西洋人に会えるとは思わなかった」 と音川の予想通りアメリカ英語で述べる。
その、見た目と文化的アイデンティティが同じだとナチュラルに考えているかのような発言は、彼の白人=英語を話す人という固定観念が透けさせる。
「実は生まれも育ちも大阪で。でも、ご配慮、どうも」
音川は低く抑えたトーンで、しかし顔には愛想の良い笑みを浮かべてイーサンの手を握り返した。日本語で返答したが、相手の英語を理解しているのは明白だった。しかし言語はここではどうでもよく、音川は日本の企業で働く日本人サラリーマンだ。いくら見た目が西洋人風だからといって『そっち側』へ付く気は毛頭なかった。
イーサンは「それは失礼」と日本語で応え肩を竦めた。ビジネスレベルの日本語は話せるようだ。
いよいよ会議の開始時間となり、新システムの導入プロジェクトとエンドユーザーによる合同ミーティングには、ユーザー側からは例のベテランを含む4名が参加し、プロジェクトチーム側は音川と泉を含む7名となった。その他に将来的にシステムを使用する10名近くのエンドユーザーが傍聴という形でオンライン参加している。
20名収容の会議室が半数埋まり、ちょうど良い、と音川は口角を上げた。経験上、狭すぎる空間では不快感から議論がネガティブになりがちで、広すぎると距離感が生まれて意見が出にくいからだ。
会議の冒頭で音川は、国内外を問わず有名製薬企業の実例をいくつも羅列した。
そして、聴衆が身を乗り出したのを確認すると「どこの企業でも、皆さん他社事例には興味がおありで」と満足そうに微笑んだ。
音川はそれらの会社で現在どの帳票システムが稼働し、どのような問題やカスタマイズが行われているかといった事例をこれでもかとユーザーに口頭だけで提示してみせた。資料には書けない現場の生の声や、恐らく世界で最も曖昧で複雑な手続きを要求される日本当局に対応するための運用テクニックが盛り沢山だ。いつの間にこんなに集めたのか泉には見当もつかない情報量はリアリティがあり、ユーザーだけでなくプロジェクトメンバーも、取り逃がすまいと双眸を広げて音川の情報に聞き入った。
泉が最も関心したのは、音川のプレゼンテーションの構成だった。
ユーザーが疑問を抱いたであろう瞬間に、音川がそれについて言及する。まさに痒いところに手が届く手法で、聞いていて非常に心地良い。こんな先生だったらもっと真面目に授業を受けただろうな、と子供じみたことを考えてしまう。
質疑応答タイムになると、突然「ちょっと画面いただきます」と年配の男性が自分のノートPCをモニターに繋ぎ始めた。初っ端から1人だけ不機嫌を表に出した不遜な態度であったから、課長が懸念していた件のベテラン社員であることは一目瞭然だった。
「これが問題の帳票で、こちらが作成できないのであれば、新システムは意味がないものと考えております」
「拝見します」と音川は礼儀正しい口調で大型モニターに近寄り、表示されている項目をざっと確認すると、ベテランには顔を向けず、プロジェクトメンバーが居る方向だけを見た。
「こちらは当局に提出すべき帳票でしょうか?僕の認識では、この医薬品コードは御社のものではない。他社が製造販売元の医薬品で、承認されてずいぶん経っているのでは」
プロジェクトのメンバーのうち、責任者が顔をあげた。
「ご認識の通り、他社の医薬品の場合、我々に当局報告の義務はありません。そもそも、この帳票を作成する必要がありません」
音川は、きっぱりとした彼女の回答に頷くと「では」とベテランに向き直った。
「不要な帳票ですので、新システムで作成されないことが正となります」
「そういうわけにはいかん!」
エンドユーザーが並ぶ中、ベテラン社員は立ち上がるほどの勢いで声を荒げた。隣の女性を始め他のユーザー勢は沈黙していたが、微かに眉をひそめた様子から隠しきれない不快感が滲に出ている。
「静粛に」
音川の低く抑えられた声が静かに響き、会議室の空気がすっと締まった。
「では、理由を教えてください。念頭に置いていただきたいのは、不要な帳票を作成するとなればシステム設計のコアである正確性に反するため、これまでの開発工程を全て無に返し、一からやり直すことを検討しなければなりません。費用面も実装時期も大幅に見直しが必要となるでしょう。では、どうぞ」
音川は大型モニターの傍を離れてプロジェクトチーム側の席に着いた。
「帳票が要だ不要だと言っているのではない!従来のシステムでは作成できていたものが、新システムに移行した後で作成出来なくなるというのが問題だと言っているです!」
ベテラン社員は静かに怒っているのか興奮か、わなわなと小さく震えている。
「わかりました。声を落としていただけますか。……では、こう考えてみてはいかがでしょうか。従来のシステムでは『作成すべきでない帳票も作成できてしまっていたがゆえ、誤った帳票が当局に提出されるリスク』があった。新システムではリスク回避策が取られ、『不要な帳票はそもそも作成されない』ため、そのリスクが皆無になった、と。誤った帳票を当局に提出した場合、それを取り消すための報告を送信しなければなりませんよね」
「我々ユーザーが意図的に誤った帳票を作成すると言うのか!?」
ひくり、と泉は瞼に痙攣を感じて指先を軽く目に当てた。
年配の男性の怒声は、いやでも保木を連想させる。しかし今はそれよりも、不要な帳票をわざわざ作成してシステム設計の不備を突いてきている本人から発せられた、そのなんとも矛盾した発言が非常に不可解であった。
プロジェクトの責任者も同じだったようで、「しかし、」と口火を切ったが、「黙りなさい!」とベテランにより一蹴された。
泉はふと、もしもこのプロジェクト責任者が男性でベテランと年が変わらなくても同じように恫喝しただろうかと疑問に思った。いずれにせよ、会社で怒鳴るというのはいただけないが。しかし、テレビCMも流しているような日本を代表する大企業の実態がこれか——
泉がポカンとした表情のままで隣に顔を向けると、視線に気がついた音川がこちらへ向いた。何も語らないグリーンの瞳に胸中だけで(困りましたね)と声を掛けて首を傾げると、ふっと音川が口角を上げた。
そして、静かにベテラン社員の名前を呼んでから、ゆっくりと話し始めた。
「人は誰しも間違います。手が滑って操作ミスもする。在宅勤務で小さいお子さんが操作してしまったり、僕の場合はキーボードに猫が飛び乗ってくることもしょっちゅうです」
会議室にかすかな笑いが起こり、音川は静かに話を続けた。
低く、よく通る声だった。
手元のノートパソコンに目線を落としながら語る姿は、冷静で、整っていて、どこまでも理性的だ。
それなのに、泉の胸の奥には、熱のようなものが広がっていた。
音川はいつもそうだ。無駄がなく淡々としているのに、心の何処かに火を灯してくる。
部下としての尊敬——だけでは説明できない熱。
会議室の無機質な蛍光灯の下で、音川の眉の動き、目の動き、時折挟む意図的な笑顔。ひとつひとつに、泉の心は捕らわれる。ひと時も視線を外したくない。
その泉を——
じっと見つめている鳶色の瞳があった。
イーサンだ。
会議室の巨大モニターから発せられるライトが、斜め向かいに座る泉の頬を照らしていた。イーサンは気づかれない程度に視線を滑らせる。
T製薬側の出席者たちが一様にビジネスカジュアルな服装で、無表情でうなづいている中で、その青年だけが、まるで観察者のような眼差しをしていた。
プレゼンターである自社のCTOの言葉を受取るのではなく、解析して、噛み砕いて、冷静に仕分けをしているような目。
その眼差しに、イーサンは惹きつけられた。
T製薬のベテラン社員の反乱など端から興味がなく、システム開発会社である音川達と面通しがしたかったのがこの会議への参加理由だったが、そこに、こんな青年がいるなど予想していなかった。
(……こんなにも熱い目をした誰かを、もう久しく見ていない)
泉の眼差しの先には、まっすぐな『問い』があるように思えた。
音川から、何かを必死に引き出そうとしている。その瞳は明らかに彼だけを見ている。
表情は柔らかく、憧れを含んでいることを隠そうともしていない——そんな熱を帯びた眼差し。
(私にも、この青年のような眼差しをくれる部下がいるだろうか)
あらぬ考えがよぎり、イーサンの喉奥に苦いものが湧いた。
「変化というのは、困難なものです。確かに従来のものは、専門オペレーターによる操作が前提だったため、入力ミスのリスクがほとんど考慮されていませんでした。言い換えれば、自由度が高い。しかし新システムでは、主な入力作業は海外に外注するため、何が起こるかわからない。不要な動作はさせてはいけないんです。——もう、システムは性善説に基づいて設計できないのですよ。悲しいことです」
音川の最後の言葉は、ベテラン社員へ向けたものだった。
開発会社側にもレガシーシステムに対する情がある(ように見せる)ことは重要で、その場の全員への理解を示し、その上で、我々は会社を存続させるためにも新システムへの移行に向け一致団結するべきだ、と改めて方針を明確にした。
そして、音川は「さて」と腕時計を確認する。会議室にいる製薬会社側のメンバーはそんな仕草すら見逃さないと虜になっているようだ。
「残りの時間で、弊社から、今後のネットワーク構成に関するご提案があります。泉、よろしく」
小気味よい返事をして泉が立ち上がり、モニターの前に移動する。
泉はこの提案があくまでアイデアの共有であり、売り込みの意図は無いことを暗示させるような前口上を述べておいてから、本題に移った。
「今回の設計は、冗長性の確保を最優先としました。メイン・ノードは東京、大阪、福岡の三拠点に分散させ、障害発生時にも業務が止まらないよう、即時のフェイルオーバーが可能です」
スライドが切り替わる。
美しく整理された構成図に、細やかな監視と自動切替の設計が描かれている。
泉は、自信過剰でもなく、卑屈にもならず、必要なことだけをきっぱりと話した。
その語り口には、何より『理解している者だけが持つ落ち着き』があった。
「また、データベースはレプリケーション方式を採用していますが、一貫性より可用性を重視した構成に切り替える方針です。これにより、ネットワーク断時でも局所的な処理が継続できる設計となっています」
イーサンは足を組み、やや俯瞰的にその様子を眺めていた。
静かだが、熱がある。
説明の一つひとつが、実務と現場を知っている人間のそれだった。
当初は単なる補佐として勉強がてら連れてこられた新人だと思っていた。プレゼンの中心に立つようなタイプには見えなかったからだ。
だが、いまそこに立つ青年は、確かな言葉で、堂々と自社とT製薬の未来を語っていた。
(……おい、マジかよ)
英語でそうつぶやきそうになるのをイーサンはこらえ、更に泉を凝視する。
横顔に眉間にわずかによった皺。自分の話に全神経を集中させている気迫。技術屋である以上に、『誠実な思想を持つ構築者』であり——そしてなにより美しかった。
日本企業に常駐して退屈な半年が経った今、イーサンは初めて『興味』を抱く対象にであった。人として、プロとして、……それ以上に。
もっと近くで見ていたいと純粋に思った。
そして——
泉が音川に向けていた熱い眼差しにひりつくような嫉妬を自覚する。
(彼の視線の向け先は——それに相応しいのは、誰よりも自分ではないだろうか)
T製薬の立場に経ってみれば、どちらも同じ外注先に変わりはない。しかし、中小企業に分類されるソフトウェアハウスのCTOである音川など、イーサンの敵ではない。
世界有数のコンサルティング会社でアジアエリアを担当し、それなりの成果を挙げてきた。これからも本国に戻り、世界を舞台にさらなる活躍をする自分が手に取るようにわかる。この青年の居場所を用意できるのは、他ならぬ自分に違いなかった。
イーサンの指先が、音を立てずにテーブルをとんとんと叩いた。気づかれない苛立ちが滲む。
やがて泉が「ご意見、ご質問等がございましたら何なりと。ご指摘いただいた内容は全て検討し、改修する準備もできています」と締めの言葉を発した。
完璧だった。
なのに、どこか慎ましさも残している。
(決めた)
その瞬間、イーサンの中では静かに別のプロジェクトが動き出した。
結局、その他に質疑は何もなく、ユーザー側が会議室を出た後は、残ったプロジェクトメンバーと雑談をすることとなった。遅い昼食の誘いを「一旦自社に戻るので」と無理な言い訳で辞退し、頃合いを見て、音川は切り上げた。
音川たちが丁寧に礼を述べた以上に、T製薬からは今日の成果を感謝され、メンバー各自が再訪問への期待を口にしていた。
音川たちが1階エントランスに差し掛かると、「Mr.オトカワ」と背後から声が掛かった。
振り返ると、上質なスーツを着こなしたダークブラウンの髪に白い歯を見せた微笑。まさに理想的な『好ましい隣人』の外見をした、イーサンだ。
音川はとっさの判断で、泉に入館証の返却を依頼し、その場を離れさせる。
イーサンは 「英語を話さないとは言わせませんよ」 と断りを入れて話し始める。
「先ほどのプレゼンでのあなたのご見解、まさに優雅で洗練されていましたね。めったにお目にかかれないものだと、感嘆しましたよ」
「ありがとうございます。光栄です」
音川は一礼しながら、イーサンと一瞬視線をあわせた。愛想のよい笑顔のはずのその目には、灼熱のような鋭さがあった。
「特に、あのユーザーの扱いはまさに猛獣使い。かなりのスキルをお持ちのようですね」
『猛獣』という言葉に、音川はイーサンが持つ支配的な要求を垣間見た。
「私たちの仕事は、そういった『獣』を扱うことの連続ですから」
イーサンの唇の端がほんの僅かに釣り上がるのを音川は見逃さない。
「なるほど。扱い難い生き物を手懐けるのが、よほどお上手なようですね。どうやって、彼らに牙をむかさないようにしているのか、伺いたいものです」
問いというには余分な示唆が含まれていた。発言の外にある、試すような視線。
(来たな)
音川はほんの一瞬、目を細めた。
「時には、手懐けようとせずただ隣を歩くこと」
穏やかなトーンだが、その言葉には確実に牽制が込められている。イーサンは声を出さずに喉奥で軽く笑った。
「お見事です。ああ、それから——あの優秀な若者が、あなたに懸命にすがる姿も、なかなかに興味深いものがありますが」
あえて主語を曖昧にしたイーサンに、音川は微かに眉を動かした。
「泉を評価してくださっているようで」
平静に応える音川の背筋に、わずかに緊張が走った。泉の名を出した瞬間、イーサンの目に、先程の獰猛な熱がちらりと覗いたからだ。
イーサンは応える変わりに音川へ一歩近付いて、声をひそめた。
「非凡な切り口と明晰な論理を兼ね備えている、実に有望な青年だ。音川さん、本物の才能は、それにふさわしい場所で、相応しい手によって磨かれるべきだと思いませんか」
柔和なトーンで発せられたその言葉は、音川の胸中に不穏な影を落とした。
そこへ、入館証を返却し終わった泉が戻ってくると、イーサンは即座にそちらへ身体を向けた。
「さっきの提案、実に良かったよ。……キミなら、もっと大きな舞台でもやっていけそうだ」
泉の瞳が一瞬だけ驚いたように見開かれた。それをイーサンは見逃さなかった。発言内容を少しは理解したのだろう。それとも、全てか。どちらにせよ、驚きと、警戒と、ほんの少しの困惑。
しかしイーサンはここで泉が音川にヘルプを求めなかったことに注目した。
自立しているが、まだ未熟さはある。
日本企業担当の意地で必死に叩き込んだ日本語を活かすのは、なにも仕事においてだけではない。
「キミみたいな人材、私の会社にも必要だ」イーサンは流暢な日本語で話し始め、泉に迷いの隙を与えなかった。
「あ……光栄です。ありがとうございます」
泉は一瞬、自分でも何が光栄か分からないまま、決まり文句で応答した。
好意的な言葉に違いないが、イーサンの声のトーンや表情に、妙な引っかかりを感じたからだ。まるで、自分が商品として品定めされたような、微妙な違和感。
「では我々はそろそろ、新幹線の時間がありますので」
音川はそう切り出してその場は解散となった。別れ際にそれぞれが握手を交わし、イーサンが音川に英語で「後日連絡する」と言ったのは泉にも聞き取ることができた。
T製薬の建物から表へ出た途端、ビルの窓ガラスから跳ね返る強烈な日差しに二人は目が眩む思いだった。音川は特に、一瞬目の前が真っ白になってしまい反射的にギュッと両目を閉じたほどだ。
この辺りは大手製薬会社の本社ビルの他に近代的な商業ビルも多く、どれもこれもガラス張りでギラギラと照り返す。
「早く地下に降りよう」
「さっき、イーサンと何か話をしていましたが」
大股でズカズカと歩き出した先輩の後を泉は急いで追いかけながら、先程入館証を返しながらちらりと目撃した音川の顔が泉は気になっていた。
自分の前では見せない取ってつけたような笑顔だった。
「ああ、泉の提案内容を高く評価していたよ」
それを聞いて泉は一拍遅れて瞬きをした。(そんなに褒められるようなものだったかな)と心の中で呟く。確かによくできた構成で、リスクと対応策も十分に練られているが、それは基本であって特段斬新なことを提示したわけではない。
「普通だったと思いますけど……それだけのためにわざわざ?」と、呟くように返すと、音川は少しだけ微笑んだ。意図した微笑みだった。
泉を褒めている時のイーサンの目は、まるで獲物を前にしたハンターだった。仕留めるまでの過程でさんざんいたぶり、そして皮を剥ぎ解体するところまで想像しているかのような巧妙で、鋭い視線。
——音川には無い、他人への興味と執着を隠そうともしない強さ。
「きみのことを非凡で明晰だと言っていたよ」
「……持ち上げすぎだと思います」
「謙遜するねぇ。今回の提案は突出して目新しいものではないけれど、それを無駄なく、迷いなく、正確に話すのは簡単じゃない。きみはそれを見事にやってのけたのだから、鮮烈に印象に残ったんだろう」
「そうですか……」泉はわずかに視線を逸らした。「音川さんは、どう思いました?」
昼下がりのオフィスビルの地下通路では、行き交う人のだれもが足早に駅を目指す。その中で音川はあえて歩みの速度を落とした。
そして少しだけ間をおいてから、言葉を選ぶように言った。
「彼が評価したのはきみの成果だと思う。提示した数字や構成、発表の伝わりやすさ。確かにそこに非凡さはあったよ」
そして音川は、まっすぐに泉を見た。
「初めての顧客訪問で、よりによってトラブル回避のための難しい場だ。でもきみは、内にあるだろう恐れや緊張を飛び越えて、自分の力を存分に発揮した。……俺が見ていたのは、きみが、俺に向けてくれた信頼だよ」
「もし失敗しても、必ず救ってくれると思っていたからできたことです。音川さんが僕にくれる安心感は、とても大きいんですよ」
「うん。それがきみに伝わったことが嬉しくて……誇らしかった。俺の存在が、少しでも糧になったように思えてね。この感覚は、たぶん、俺たちでしか共有できないんじゃないかと……」
言葉 の終わりに微かな熱が混じったのを、音川自身も気づいていた。
そして泉もまた、ほんの僅かに自分の指先が震えるのを感じていた。
憧れ続けてきた音川からの言葉に、喉が詰まったように締め付けられる。先程、イーサンからおくられた賛辞の言葉が霞む。
泉はうつむき、言葉の変わりに唇を結んだ。
長いまつ毛が陰を落としている。
音川は、その横顔を見つめながら、一つの衝動に駆られた。
それは思いつきではなかった。
ずっと心の底で、気が付かないようにと押し込め蓋をしていた感情の、静かな形。
音川は指先で泉の手の甲をそっと触れ——
泉は顔を上げ、驚いたように音川を見た。
グリーンの瞳と目が合うと、困ったように優しく微笑まれ、胸が震える。
しかしその手はすぐに——泉が握り返すよりも先に——離された。
泉はそっと息を吸い、離された手に残るぬくもりの痕跡をじっと見つめた。そして再び、音川の顔を見る。もうそこには感情の痕跡は無く、いつもと同じ、穏やかな上司の顔。
「さて。過去に類を見ない平和な打ち合わせで、しかも最速記録だ。これからが今回の出張のメインイベントです」
音川は揉み手をして言った。意気込みが打ち合わせ前とは雲泥の差だ。
「また電車を何度か乗り換えるが……タクシーで行くか?」
「いえ、大丈夫です。もし混んでいたら、さっきみたいにまた車内で音川さんの結界を張ってください」
「気に入ったの?」
「……あまりできない経験ですから」
「はは、俺には役得なんだけどね。いいよ。今朝はジムに行けていないからトレーニング代わりになる」
高屋から聞いた店は新宿にほど近いアジア系住民や店舗の多いエリアにあった。
大通りは韓国系の店に群がる人で混み合いっているが、高屋の地図はそこから離れ、入り組んだ路地へと誘っている。
古いアパートやガレージがひしめき、異様に薄暗く、ゴミが散乱している様子はまさしく東南アジアを思わせる。
学生時代に東京で一人暮らしの経験がある音川だが、新宿には映画を観に来る程度で、ここまで足を伸ばしたことがなかった。まあ、その頃にはまだこれほど多くのムスリム系の店は無かっただろうが。
目的の雑居ビルには看板も何もなかったが、外階段を上がるとスパイスの刺激が目と鼻の粘膜を刺激し、いやでも期待値が上がる。
半開きだったドアを音川が大きく開くと、恐らくバングラディシュ人であろう子供が椅子に座って漫画を読んでいた。音川を見るなり部屋の奥に向かって何かを言うと、エプロン姿の男性が無表情で出てくる。
音川は友人の勧めで来たことや持ち帰りで色々注文したいことを告げ、男性はエプロンで手を拭きながら真っ白な白目と濃茶の大きな黒目でジッと音川の話を聞いていたが、最後には笑顔を見せて深く頷くと、店内のテーブル席で待つよう音川と泉に2人に告げた。
漫画を読んでいた子供が冷えた瓶ビールを抱えてきてゴトリとテーブルに載せ、続けて水滴がついているグラスが2つ置かれた。
音川が「ありがとう」と優しく言うと、子供ははにかんだ笑顔で白い歯を見せて答えた。
「いい店だな。高屋さんおすすめのパニプリはここで食べていけって。あとは、ちょっとした親戚の集まりの時に出すようなものを、って頼んだよ」
泉が物珍しさに店内中に視線を走らせたり、立ち上がって商品を置いてある棚を見て回ったりと忙しなくしていると、厨房から皿を持った店主が出てきた。
シュークリームのシューを思わせる丸く膨らんだ小さな揚げ物が、中央におかれた急須に似たものを取り囲んでいる。泉には未知の料理だ。
「パニプリ」と店主は簡潔に告げるとすぐに厨房へ戻る。
小さなシューの中には、角切りの野菜やスパイスが入っていて見た目が大変おもしろい。
それを待ってましたとばかりに音川はいきなり掴みあげ、急須から液体を注いだ。
「そうやって食べる……え、飲む?んですね」
「はじめて?」
「また聞かれた。音川さんといると未経験のことばかりです。ちょっと恥ずかしいな」
「そう?俺はきみの初めてを一緒に体験できて嬉しいけど」
「毎回説明させることになりますが」
「ぜひそうさせて」
高屋のオススメだけあってパニプリは絶品だった。酸味と塩味の均衡がたまらなく、癖になりそうだ。
「高屋さん、こんな美味い店があるのに東京を離れるなんてな」
「以前お話した際に、満員電車が嫌だったと言ってましたよ。僕も今日ので実感しました。無理ですよあんなの。心が荒む。それに、高屋さんには美味しい料理を作ってくれる人がいるらしいですよ。友達か恋人かは分からないですが」
ほーん、と音川は感心の相槌を打った。
「これまでの情報から総合的に判断すると、高屋さんがバイトしてる店にいるんだろ。俺の見立てによれば、例のインドで連絡が取れなくて困っていた相手じゃねえかな……。帰国してからの高屋さんはどこか憑き物が落ちたような明るさがあると思わないか。この機会に、友達から恋人に昇格したという線が一番濃いとみたね」
泉は最後の一つのパニプリを手に取り、呆れ顔を音川に向けたまま器用にスープを啜った。
その間無言でいると、「パコラも頼もうぜ、揚げたてを食べたい」と音川は店員に向かって追加注文を始めていた。
(自分のことには疎いくせに……)
泉は少々恨みがましく思ったが、なにもそれは音川1人の責任ではない。
先輩として、上司として、慕えば慕うほど離れていくロジックを持つ男だと十分に理解しているくせに、やめられないのは泉の方だ。
アツアツのパコラをミントソースに浸しながら食べ、更にビールも追加して、今日の打ち合わせの感想を言い合っているとあっという間に小一時間経過していた。
店内にはスパイスの良い香りが充満し、調理を終えた店主がカウンターでテイクアウト用の容器を手提げ袋にどんどん詰めていく。
店内での飲食はまさに前菜で、食欲に勢いがついてしまった2人は、なるだけ早い新幹線に乗るべく東京駅までタクシーを飛ばした。家まで2時間ほどの我慢だ。
帰宅すると先を争うようにシャワーを浴び、冷めた料理を温めるのもほどほどに、早く早くとグラスに酒を注ぐ。
「明日も飲み会なのに」と呟く泉だが、骨付きの鶏肉が入ったピラフを掬うスプーンは一向に止まらない。
「気にする年齢じゃねえだろ。どんどん食え」
牛肉と野菜の煮込みが入った器を泉の前に置いてから、更に他の料理を温めるために席を立った。
泉がガツガツと米を飲み込んでいる姿は清々しく、見ていて気持ちが良い。見た目が少食そうなだけに、もっと美味いものを食わせてみたくなる。
料理人の心境?親ごころ?そう思い浮かぶがどちらもしっくりこない。
ふと、『好きな人に料理を作りたい』という泉の発言が頭をよぎった。
(そうか——好意を寄せる相手を思いながらの行動自体が、喜びなのか。
泉にはその相手がいて、実践しようとしている。
俺はその練習台なわけで——)
「仕方がないけどね」無意識に声に出てしまい、「何がです?」と泉が振り向く。
「なんでもないよ。それ、旨い?」
「すごく。この肉、めっちゃくちゃ柔らかい」
泉は、薄い頬を膨らませてもぐもぐと美味そうに目を細めている。
「また大きいリスみたいになってるよ」
「リスが可愛いんでしたっけ」
生真面目な顔をする泉に、音川は無言で頷いただけだった。
食べすぎて狸になったとしても、きみはかわいいよ、とは言えずに。
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