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第22話 満員電車も悪くない
# 満員電車も悪くない
「うう、混んでる……」泉は項垂れて呟いた。
東京で新幹線を降りた音川と泉は、JRの在来線に乗り換えて一駅移動し、そこからさらに乗り換えるために地下鉄のホームへ向かった。通勤のピークは過ぎているはずなのに、人で溢れかえっている。
「まあまあ、あと一駅だから」と音川はうなだれる後輩の背中を数回さすって宥めながら、東京駅からタクシーに乗ればよかったと軽く後悔する。学生時代を東京で過ごした音川だが、明らかに、当時よりも人間が増えたように感じられた。
電車が地下鉄のホームに到着し、すでに満員に近い車内に更にドドドと人が流れ込む。
音川は泉が奥へ流されて行かないように腕を掴んで引き止めると、ドアと自分の間に作った小さな隙間にすっぽりと納めた。
発車すると、泉の顔を挟むように置かれている音川の両腕が周囲の人に押され、それなのに微動だにせず、ぐっと筋肉の筋が深く浮き出る。音川の肩越しに見る車内は隙間など無くぴったりと人が圧着している状態で、自分だけが身じろぎする余裕があることに気が付いた。安定した足元と、誰の体にも触れずにいられる特別な個室を与えられ、まるで守られているかのような扱いを受けている状況で、車内の蒸し暑さとは別に身体がカッと熱くなる。
すぐ目前の音川へ向くと、少し上から注がれているグリーンの瞳とぶつかった。柔らかく細められ、大丈夫?とそっと問いかけてくるような優しい視線が嬉し恥ずかしく、「子供扱いしすぎでは?」と悪態をついてしまった。
ハハ、と音川に軽く笑いやりすごされ、その笑顔に見惚れそうになると、『この先大きく揺れます』と車内アナウンスがあった。
「そうだった」と小さく呟いた音川が両腕の隙間を狭めて泉を全身で抱きしめるようにして固定した瞬間、ガタンと確かに電車は大きく傾いで、バランスを崩した乗客たちがぶつかり合う。
「降りるよ」
揺れの直後に電車は駅に到着し、最初にホームへ出た音川は再び泉の腕を引いて、次々と吐き出されてくる人の群れから遠ざけた。
「のんびり行こうぜ。ここからの徒歩が長いんだ」
音川が言った通り、ホームから目的の製薬会社までは地下道を延々と歩かされた。途中、百貨店の入口があり、大阪の似たような地下街を思い起こされるが、ここは大勢の人が行き交っているにも関わらず不気味なほど静かで、故郷と大違いだ。
「まだ時間に余裕があるから」
目的地は目と鼻の先だが、地上へ出る直前で音川は前方に見えるコーヒーショップを指さした。ここまでノンストップでの移動で、しかも泉には慣れない超満員電車だ。一呼吸いれた方が精神的に余裕ができるだろう。それに、先方の会社へ乗り込む前に一旦頭の中で段取りの整理をしておきたかった。
アイスコーヒーを買い求め、二人がけのカフェテーブルに腰を下ろす。コーヒーショップの座席ではなく、この建物に設置されているもののようだった。すでにパソコンを開いている人もいれば、軽食を取っている人、ただぼうっと座っている人もいる。
黒い大理石のように反射する壁に、大きな岩をベンチの形に削ったようなオブジェ。扉はすべて壁に埋め込まれてどこまでもフラットであり、どこに何があるのか分かりにくい。上階に映画館があるようで、宣伝用のポスターが無機質な空間に浮いている。
「この辺りはとても東京らしいですね」
泉は、アイスコーヒーを一口飲んで、ふう、と息を漏らした。
「はじめて?」
「はい。コンサートなどで来る程度で、ビジネス街はまったく。東京タワーも行ったことがない」
「そうか。まあ、そう遠くないせいか逆に機会が無いよな。今度、観光に来ようか」
「ぜひ!約束ですよ。このあとイスラム横丁に行くのもすごく楽しみです。あ、仕事を適当に思っているわけではないですが……」
「俺はすでに仕事そっちのけだ。早く終わるように祈ってて。それが今日のきみの役目」
約束の時間5分前に音川と泉が正面玄関に入ると、2名の受付嬢がサッと立ち上がり緊張が張り詰めた。
音川の見た目から、これは英語で応対せねばと身構えたに違いない。しかしその心配は無用だと第一声で分かり、花のような可憐な笑顔を向けながら待ち合わせブースへ案内する。
すぐに「お待たせしました!」と若い男性の声。課長に紹介されたプロジェクトの責任者はまだ打ち合わせ中で、代わりに若手が迎えに来てくれたらしい。
簡単に自己紹介をしあい、エレベーターに乗り込む。
「失礼ですが、お名前から日本人だとばかり……顔だけじゃなく背も高くて、最初違う人に声をかけたかと思ってびっくりしちゃいました。すみません」
「よく言われます。これでもハーフなんですよ」と音川が穏やかにお決まりのセリフを述べる。
「弊社の人間に会ったことは、ないですよね?みんなも驚くだろうなあ」と青年はまるで自分だけが秘密を知ったかのように嬉しそうにほくそ笑んだ。
最上階の会議室に通され、若者はペットボトルのお茶を出すやいなや担当者を呼びに一旦オフィスに戻った。大企業の応接会議室だけあり、重厚な内装と座り心地のよいチェア。窓の向こうにはガーデンテラスの緑が眩しい。
「音川さんの外見で日本語話者だと、苦労しますね」
「とっくに慣れた。子供の頃は小柄でもっと日本人顔だったんだが……よく女の子に間違われるくらいかわいかった」
「自分で言うんだ。でもそれ見たい」
「嫌でも見る羽目になるよ。うちの母からのアルバム攻撃は、ポーランドの祖父母が来日した時もひどかったからな」
「音川さんも向こうへ行ったりするんですか?あ、来週の帰省って大阪ですよね?」
「ポーランドなわけねぇだろ。きみ、ちょくちょくボケてくるよね。俺は中高あっちだよ。大学から日本だけど」
えっ、と泉は素っ頓狂な声を上げた。「全然知らなかった。音川さんにまつわる噂はたくさんありますが、帰国子女というのは初耳です」
「噂なんてほとんどが嘘だよ。俺が自分のことを話さないから、代わりに速水があることないこと面白がって言いふらしているだけ。面白いからいいんだけどね。ハーフで帰国子女だなんてステレオタイプもいいとこだろ。俺は型にはめられるのが嫌なの」
「自分は僕との関係を型にはめようとするくせに」
「……そんなの、上司と部下以外にねぇだろ」
「別にいいですけど」
泉が唇を尖らせ拗ねた顔をした途端、会議室のドアがノックされ「遅くなりました!」と40代半ばほどの女性が顔を出した。
今までメールでしか往来の無かったため日本人顔でない音川を見てハッとしたようだが、それはほんの一瞬だけで、気に止めていない様子を貫いて颯爽と話し始める。今回のプロジェクトの責任者に違いなかった。
音川と泉は立ち上がり名刺交換をしてから、音川は泉を9月から当案件に加わる新メンバーだと紹介した。そして数分間のお決まりのスモールトークの後、本題に入る。
今回、対面での打ち合わせを望んだことは正解だった。
状況はこちらに有利なことが肌感で分かったからだ。新システムは概ね好評で誰もが待ち望んでいるのは間違いないらしい。問題になっているベテラン社員はエンドユーザー側の代表的な存在で、役職こそついているものの『古い企業ならではの年功序列です』と責任者の女性は言い切った。
「こんな内部事情で御社を困らせるのも心苦しいのですが、我々だけではどうしてもシステム側からのアプローチが弱く」
「大体のご事情は把握しています。この後のユーザー様との合同ミーティングで、僕たちは開発会社の観点からこのプロジェクトの方針をバックアップさせていただきます」
音川の肩書は最高技術責任者であるが、そんな名刺を見ずとも、会議室に朗々と響く低い滑らかな声は自信に溢れ、筋肉の鎧を纏った長身に稀有な美貌、そのフィジカルだけで既に『こいつには敵わない』と思わせる圧倒的な説得力があった。
音川は会社の最終兵器で、この男を送り込んできたのは、必ず問題を収束させるという開発会社の意思であることは相手に間違いなく伝わる。
新システムの導入プロジェクトとエンドユーザーによる合同ミーティングには、ユーザー側からは例のベテランを含む4名が参加し、プロジェクトチーム側は音川と泉を含む5名となった。その他に10数名の関係者がリモートで参加している。
20名収容の会議室が半数埋まり、ちょうど良い、と音川は口角を上げた。経験上、狭すぎる空間では不快感から議論がネガティブになりがちで、広すぎると距離感が生まれて意見が出にくいからだ。
会議の冒頭で音川は、国内外を問わず有名製薬企業の実例をいくつも羅列した。
そして、聴衆が身を乗り出したのを確認すると「どこの企業でも、皆さん他社事例には興味がおありで」と満足そうに微笑んだ。
音川はそれらの会社で現在どの帳票システムが稼働し、どのような問題やカスタマイズが行われているかといった事例をこれでもかとユーザーに口頭だけで提示してみせた。資料には書けない現場の生の声や、恐らく世界で最も曖昧で複雑な手続きを要求される日本当局に対応するための運用テクニックが盛り沢山だ。いつの間にこんなに集めたのか泉には見当もつかない情報量はリアリティがあり、ユーザーだけでなくプロジェクトメンバーも、取り逃がすまいと双眸を広げて音川の情報に聞き入った。
泉が最も関心したのは、音川のプレゼンテーションの構成だった。
ユーザーが疑問を抱いたであろう瞬間に、音川がそれについて言及する。まさに痒いところに手が届く手法で、聞いていて非常に心地良い。こんな先生だったらもっと真面目に授業を受けただろうな、と子供じみたことを考えてしまう。
最後の質疑応答タイムになると、突然「ちょっと画面いただきます」と年配の男性が自分のノートPCをモニターに繋ぎ始めた。初っ端から1人だけ不機嫌を表に出した不遜な態度であったから、例のベテラン社員であることは一目瞭然だった。
「これが問題の帳票で、こちらが作成できないのであれば、新システムは意味がないものと考えております」
「拝見します」と音川は礼儀正しい口調で大型モニターに近寄り、表示されている項目をざっと確認すると、ベテランには顔を向けず、プロジェクトメンバーが居る方向だけを見た。
「こちらは当局に提出すべき帳票でしょうか?僕の認識では、この医薬品コードは御社のものではない。他社が製造販売元の医薬品で、承認されてずいぶん経っているのでは」
プロジェクトのメンバーのうち、責任者が顔をあげた。
「ご認識の通り、他社の医薬品の場合、我々に当局報告の義務はありません。そもそも、この帳票を作成する必要がありません」
音川は、きっぱりとした彼女の回答に頷くと「では」とベテランに向き直った。
「不要な帳票ですので、新システムで作成されないことが正となります」
「そういうわけにはいかん!」とベテランは立ち上がり、声を荒げた。
同じユーザー側にいた女性社員が肩をビクリと震わせる。
「静粛に」
低くそう言った音川のこめかみに、かすかに血管が浮き出す。音川が最も苦手とするのは、論理が通じず、威嚇するためだけの大声を出す人間だ。
「では、こちらの帳票が、不要であるにも関わらず新システムで作成されるべきとお考えになる理由を教えてください。念頭に置いていただきたいのは、不要な帳票を作成できるようにするというカスタマイズは、システムのコアである正確性に反するため、これまでの開発工程を全て無に返し、一からやり直すことを検討しなければなりません。費用面も実装時期も大幅に見直しが必要となるでしょう。では、どうぞ」
音川は大型モニターの傍を離れてプロジェクトチーム側の席に着いた。
「帳票が要だ不要だと言っているのではない!従来のシステムでは作成できていたものが、新システムに移行した後で作成出来なくなるというのが問題だと言っているです!」
ベテラン社員は静かに怒っているのか、興奮か、わなわなと小さく震えている。
「わかりました。声を落としていただけますか。……では、こう考えてみてはいかがでしょうか。従来のシステムでは『作成すべきでない帳票も作成できてしまっていたがゆえ、誤った帳票が当局に提出されるリスク』があった。新システムではリスク回避策が取られ、『不要な帳票はそもそも作成されない』ため、そのリスクが皆無になった、と。誤った帳票を当局に提出した場合、それを取り消すための報告を送信しなければなりませんよね」
「我々ユーザーが意図的に誤った帳票を作成すると言うのか!?」
怒声など久しぶりに聞いて驚いたのもあるが、泉はそれよりも、不要な帳票をわざわざ作成してシステム設計の不備を突いてきている本人から発せられた、そのなんとも矛盾した発言が非常に不可解であった。
プロジェクトの責任者も同じだったようで、「しかし、」と口火を切ったが、「黙りなさい!」とベテランにより一蹴された。
泉はふと、もしもこのプロジェクト責任者が男性でベテランと年が変わらなくても同じように恫喝しただろうかと疑問に思った。いずれにせよ、会社で怒鳴るというのはいただけない。
しかし、テレビCMも流しているような日本を代表する大企業の実態がこれか———
呆れた泉がポカンとした表情のままで音川に顔を向けると、視線に気がついたのか音川も泉に向き合った。ひととき視線を交わし、そして、ふっと口角を上げて笑った。
この笑顔が出たということは、音川は何かを切り替えようとしているのだと、泉は知っている。
音川は静かにベテラン社員の名前を呼んでから、ゆっくりと話し始めた。
「人は誰しも間違います。手が滑って操作ミスもする。在宅勤務で小さいお子さんが操作してしまったり、僕の場合はキーボードに猫が飛び乗ってくることもしょっちゅうです」
会議室にかすかな笑いが起こり、音川は、低く静かに話を続けた。
「変化というのは、困難なものです。確かに従来のものは、専門オペレーターによる操作が前提だったため、入力ミスのリスクがほとんど考慮されていませんでした。言い換えれば、自由度が高い。しかし新システムでは、主な入力作業は海外に外注するため、何が起こるかわからない。不要な動作はさせてはいけないんです。———もう、システムは性善説に基づいて設計できないのですよ。悲しいことです」
音川の最後の言葉は、ベテラン社員へ向けたものだった。
開発会社側にもレガシーシステムに対する情がある(ように見せる)ことは重要で、その場の全員への理解を示し、その上で、我々は会社を存続させるためにも新システムへの移行に向け一致団結するべきだ、と改めて方針を明確にした。
結局、その他に質疑は何もなく、ユーザー側が会議室を出た後は、残ったプロジェクトメンバーと雑談をすることとなった。昼食の誘いを「一旦自社に戻るので」と無理な言い訳で辞退し、頃合いを見て、音川は切り上げた。
「もう帰っちゃうんですかぁ」と出迎えてくれた青年が名残惜しげに言う。
社交辞令の響きのない素直さで、こういったいかにも古い日本企業でも確実に世代交代が起こっていることを音川は嬉しく思った。
しかし最も大切なのは、若手とベテランを上手くまとめる中間層だ。残念ながら、そこの人材が過去の大不況によりごっそり抜けてしまっているのが口惜しい。
1階の警備員室で入館証を返却し、正面玄関から出るやいなや、音川は大きく伸びをした。
「お疲れ様でした。僕、何も役に立てなくて」
「そんなことはないよ。俺だけじゃ上手く行かなかった。あのオッサン……もといベテラン社員の人さ、怒鳴ってただろ」
「ええ、困りましたね」
「あの時に冷静になって場の雰囲気を変えることができたのは、泉のおかげ。独りだったらもっと理詰めでバチバチに戦い、最終的に論理でねじ伏せていただろう。きみは俺の鎮静剤かもね」
「いくら製薬会社で一仕事終えたとは言え……未知の副作用があるかもしれませんよ。まあでも、役に立ったならよかったです」
「うん。過去に類を見ない平和な打ち合わせで、しかも最速記録だ。さて、これからが今回の出張のメインイベントです」
それが冗談ではない証拠に音川は揉み手をして言った。意気込みが打ち合わせ前とは雲泥の差だ。
「また電車を何度か乗り換えるが……タクシーで行くか?」
「いえ、大丈夫です。もし混んでいたら、さっきみたいにまた車内で音川さんの結界を張ってください」
「気に入ったの?」
「……あまりできない経験ですから」
「はは、俺には役得なんだけどね。いいよ。今朝はジムに行けていないからトレーニング代わりになる」
高屋から聞いた店は新宿にほど近いアジア系住民や店舗の多いエリアにあった。
大通りは韓国系の店に群がる人で混み合いっているが、高屋の地図はそこから離れ、入り組んだ路地へと誘っている。
古いアパートやガレージがひしめき、異様に薄暗く、ゴミが散乱している様子はまさしく東南アジアを思わせる。
学生時代に東京で一人暮らしの経験がある音川だが、新宿には映画を観に来る程度で、ここまで足を伸ばしたことがなかった。まあ、その頃にはまだここまで多くのムスリム系の店は無かっただろうが。
目的の雑居ビルには看板も何もなかったが、外階段を上がるとスパイスの刺激が目と鼻の粘膜を刺激し、いやでも期待値が上がる。
半開きだったドアを音川が大きく開くと、恐らくバングラディシュ人であろう子供が椅子に座って漫画を読んでいた。音川を見るなり部屋の奥に向かって何かを言うと、父親であろうエプロン姿の男性が無表情で出てくる。
音川は友人の勧めで来たことや持ち帰りで色々注文したいことを告げ、男性はエプロンで手を拭きながら真っ白な白目と濃茶の大きな黒目でジッと音川の話を聞いていたが、最後には笑顔を見せて深く頷くと、店内のテーブル席で待つよう音川と泉に2人に告げた。
漫画を読んでいた子供が冷えた瓶ビールを抱えてきてゴトリとテーブルに載せ、続けて水滴がついているグラスが2つ置かれた。
音川が「ありがとう」と優しく言うと、子供ははにかんだ笑顔で白い歯を見せて答えた。
「いい店だな。高屋さんおすすめのパニプリはここで食べていけって。あとは、ちょっとした親戚の集まりの時に出すようなものを、って頼んだよ」
「それにしても現地感がすごいですね。とは言えどこの国か分からないし行ったこともないけど。でも僕、音川さんがそこまで英語が流暢だとは知りませんでした。目を瞑ると日本人だって分からない。英語は人並みだって言ってたのに」
「会社では、俺は見掛け倒しだと言いふらしてあるから。英語ができるってだけで通訳に呼ばれると面倒だろ。そのせいで高屋さんが忙しいのかもしれないけどね」音川は悪びれる様子もなく笑いビールを煽った。
「本当に面倒臭がりだ、この人」
「なんとでも」
「中学と高校がポーランドなんですよね?ということは、現地の言葉も……実際のところ、何カ国語話せるんですか?」
「あまり言わないようにしてるんだが」と消極的な前置きをしてから、「英語、ポーランド語、ドイツ語、日本語。どれも同じくらい話せる。ギリシャ語とラテン語も読める」
「どうやったらそんなに覚えられるんですか?」
「英語は父親から、ポーランド語は母親から、ドイツ語は学校と祖父母……元はドイツから逃れてきたユダヤ系なんだ。父も海外に居るほうが長いし、母も実家によく帰るからね。国を固定せずに暮らせる方が良いだろうという方針で」
「ギリシャ語とラテン語は?」
「俺、哲学出身だから」
「そんなの理由にならないですよ。勉強したんですか」
「いや、勉強というより遊びだ。語学は頭の休憩にちょうどよかったんだ。普段プログラミングしかしてなかったから」
「天才だ……」
「まさか!その言葉、そっくり返すよ。俺はどうあがいても秀才止まり。泉が生み出すような、あの美しいコーディングは俺には書けない。そんなきみと共同で開発できるなんて……もう誰にも渡したくない」
能力を褒めてくれたことは非常に嬉しい。しかし、勘違いを誘発しそうな言葉に、泉は唇を硬く結んで照れ笑いを隠した。さりとて音川に知られなければ、独りで勘違いをして、そっと喜んでおくのもいいかもしれない。
どう答えようかと少し言葉に詰まり、足をぶらつかせていると、厨房から皿を持った店主が出てきた。丸いクッキーのようなものが、中央におかれた急須に似たものを取り囲んでいる。泉には未知の料理だ。
「パニプリ」と店主は簡潔に告げるとすぐに厨房へ戻る。
丸く膨らんだ生地の中には、角切りの野菜やスパイスが入っていて見た目が大変おもしろい。
それを待ってましたとばかりに音川はいきなり掴みあげ、急須から液体を注いだ。
「そうやって食べる……え、飲む?んですね」
「はじめて?」
「また聞かれた。音川さんといると未経験のことばかりです。ちょっと恥ずかしいな」
「そう?俺はきみの初めてを一緒に体験できて嬉しいけど」
「毎回説明することになりますが」
「ぜひそうさせて」
高屋のオススメだけあってパニプリは絶品だった。酸味と塩味の均衡がたまらなく、癖になりそうだ。
「高屋さん、こんな美味い店があるのに東京を離れるなんてな」
「以前お話した際に、満員電車が嫌だったと言ってましたよ。僕も今日ので実感しました。無理ですよあんなの。心が荒む。それに、高屋さんには美味しい料理を作ってくれる人がいるらしいですよ。友達か恋人かは分からないですが」
ほーん、と音川は感心の相槌を打った。
「これまでの情報から総合的に判断すると、高屋さんがバイトしてる店にいるんだろ。俺の見立てによれば、例のインドで連絡が取れなくて困っていた相手じゃねえかな……。帰国してからの高屋さんはどこか憑き物が落ちたような明るさがあると思わないか。この機会に、友達から恋人に昇格したという線が一番濃いとみたね」
泉は最後の一つのパニプリを手に取り、呆れ顔を音川に向けたまま器用にスープを啜った。
その間無言でいると、「パコラも頼もうぜ、揚げたてを食べたい」と音川は店員に向かって追加注文を始めていた。
(自分のことには疎いくせに……)
泉は少々恨みがましく思ったが、なにもそれは音川1人の責任ではない。
先輩として、上司として、慕えば慕うほど離れていくロジックを持つ男だと十分に理解しているくせに、やめられないのは泉の方だ。
アツアツのパコラをミントソースに浸しながら食べ、更にビールも追加して、今日の打ち合わせの感想を言い合っているとあっという間に小一時間経過していた。
店内にはスパイスの良い香りが充満し、調理を終えた店主がカウンターでテイクアウト用の容器を手提げ袋にどんどん詰めていく。
店内での飲食はまさに前菜で、食欲に勢いがついてしまった2人は、なるだけ早い新幹線に乗るべく東京駅までタクシーを飛ばした。家まで2時間ほどの我慢だ。
帰宅すると先を争うようにシャワーを浴び、冷めた料理を温めるのもほどほどに、早く早くとグラスに酒を注ぐ。
「明日も飲み会なのに」と呟く泉だが、骨付きの鶏肉が入ったピラフを掬うスプーンは一向に止まらない。
「気にする年齢じゃねえだろ。どんどん食え」
牛肉と野菜の煮込みが入った器を泉の前に置いてから、更に他の料理を温めるために席を立った。
泉がガツガツと米を飲み込んでいる姿は清々しく、見ていて気持ちが良い。見た目が少食そうなだけに、もっと美味いものを食わせてみたくなる。
料理人の心境?親ごころ?そう思い浮かぶがどちらもしっくりこない。
ふと、『好きな人に料理を作りたい』という泉の発言が頭をよぎった。
そうか——好意を寄せる相手を思いながらの行動自体が、喜びなのか。
泉にはその相手がいて、実践しようとしている。
俺はその練習台なわけで——
この歳になってようやく、誰かを深く想うことを知るとは。
「手遅れか」無意識に声に出てしまい、「何がです?」と泉が振り向く。
「なんでもないよ。それ、旨い?」
「すごく。この肉、めっちゃくちゃ柔らかい」
泉は、薄い頬を膨らませてもぐもぐと美味そうに目を細めている。
「大きいリスみたいだよ」
「良く言われます」
「誰に?」思わず咎めるように響いてしまいバツが悪い。
「家族に。一度に口に入れすぎだって怒られる」
「ああ、そうか。実家だったね」
泉の返答に明らかに安堵した音川は、突然、情けなさに苛まれた。
このまま泉は一人暮らしを始めて成長し、仕事も覚えていくだろう。そして好きな相手に料理を作り、関係を構築して行くに違いない。
何も出来ない俺は、部外者面でそれを見ているだけだ。見守っている素振りを必死に纏って。
本当は指を咥えて物欲しそうにしているくせに。
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