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第23話 片思い

『本日19時、現地集合』 金曜日、速水は飲み会のメンバー全員にリマインドを送った。 子会社側の音川と泉は間違いなくリモート勤務で、本社で出社をしているのは速水と高屋だけだ。阿部は毎週金曜日は在宅だから恐らく集合時間より前に出向き、あの美貌の北欧騎士を鑑賞する可能性は高いと速水は踏んでいた。 出社組がヒューゴの店に到着するとほぼ同時に、音川と泉を乗せたタクシーが公園脇に横付けされる。 「こんな洋館が近くにあったんだな」音川が感心したように建物を見上げて言った。 祖父母が住んでいるクラコウを彷彿とさせるほど、本格的にヨーロッパ風の建築だ。 会社とその最寄り駅の中間地点ほどにあるこの公園は、いつか高屋のマンションへ所用で向かった際に通りがかったが、音川のマンションからほど近い街道でつながっているため車のほうが断然移動距離が短い。電車ならアルファベットのDの湾曲した線をなぞる長さとなり、しかも駅から徒歩は少々時間がかかる。 「おれも見つけた時は感動したよ。まだこっちに越してきたばかりで……公園の景色と合わさって、異国情緒たっぷりだよね」そう言いながら高屋が重厚なドアを開こうとノブに手を掛けると、速水が「待て」と眼鏡をクイと直して皆の前に立ちはだかった。 「このドアの向こうには脅威の美貌の男がいる。弊社の音川も、俺達は見慣れているがそれなりに顔が良い。この外国産イケメン2人の衝突によりビッグバンみたいなものが誕生し、俺たち全員が異次元に飛ばされてしまうかもしれない。覚悟はいいか?」 「それなりか?」と音川が不平を漏らしたのを聞き逃さなかった泉が「自分で言うんだ」とつっこみをいれ、そして「ヒューゴと同じ次元なら別にいいけど」と高屋が平然と応える。 それぞれが好き勝手なことを言っているのを後ろに聞きながら、幹事の速水が重厚なドアを引くと、コロンと小気味よい鐘の音。 「こんばんわ、みなさん。ようこそ」 速水の懸念は無駄となり、脅威の美貌であるオーナーのヒューゴは極上の笑みで一行を迎え入れた。その恋人からの視線をにっこりと受け入れた高屋だが、そこで一瞬、彼の視線が自分の背後にぶれたことに気が付いた。しかしすぐに立て直したようで、ヒューゴは一行を予約席へと誘導する。速水の予想通り、阿部は先に来ていて一杯やっていたようで挨拶代わりに華奢なグラスを掲げて上機嫌だ。 流れるような動作で水やおしぼりを出し、最初のドリンクのオーダーを聞くとそそくさとカウンターへ戻って行くヒューゴに、阿部が小首を傾げる。 「ヒューゴさん、さっきまでハミングしながら接客していてとても素敵だったんだけど……あんたたちが来たら急にシリアスな顔つきになっちゃった」 「そりゃグループ客が来たら忙しくなるし、気を引き締めたんじゃ?」速水は副業として時々アルバイトに入っている高屋に確認する。 「そうかも。今夜はしこたま飲むって宣言してあるから。さ、ドリンクメニュー回して回して!」 明るくそう言った高屋だが、阿部の話が気になっていた。先程ヒューゴの視線がぶれたのは気の所為でない。だが、今夜は待ちに待ったインド案件の打ち上げだ。私事に気を取られるのは後回しで、まずは皆と自分を労うべきだと高屋はすぐに思考を切り替えた。 それに、ヒューゴとはこの後朝まで二人きりの時間を過ごすことになっている。恋人としての週末を。 (気になる方はぜひ前作『おいしいじかん』へ) テーブルの上には前菜にしては豪華なフィンガーフードがずらりと並び、最初の一杯が終わりつつある頃、ヒューゴがタイミングよくお代わりのリクエストを聞きに来る。 そして全員の2杯目を聞き終わりテーブルを去る前に、ふと高屋の傍らでかがみ込んだ。 「透、ちょっといい?」そう囁いて、空いたグラスと高屋を連れてカウンター奥の厨房へと消えた。それを見ていた速水が、訝しげに眉をひそめる。 「時々たかやんと2人で飲みに来るんだけどさ、ああやって連れて行くのは初めてだな」 「へーえ」と顎に手を置いて何かを考証するように顎に手を添え、返事をしたのは阿部だった。しかし彼女の目線は、目前で忙しなく動く音川の手に注がれていた。 向かいに座っている速水、高屋、音川の三人並びよりも、阿部と泉の二人並びの方のテーブルにスペースがある関係で、泉の近くには氷の入ったペールやらワインのボトルが置かれている。音川はどうやらそれが気になっている様子で、向かいに座っている泉の前にあるトングの向きを変えたり……ワインボトルは肘が当たらない位置に……わざわざ配置換えをしている。 小さい子供がいる阿部には心当たりがありすぎる行動だが、音川は独身で子どもは居ないからそんな習慣はないはずで、それに泉は25歳の立派な成人男性だ。 「音川君って、年が離れた弟とか妹がいたっけ?」 「いないよ。姪がいるけどしばらく会っていないし、もう小学生だ。なんだよ急に」 「ずいぶん気が回るな、と思って」阿部は今まさに泉の小皿を少し自分の方へ引き寄せている音川の手の甲を指さしながら言った。 「ああ、これ」泉がふわりと顔を綻ばせる。「音川さんとご飯に行くと、必ずやってくれるんですよ」 そう言われた本人は若干のけぞり気味に小さな唸り声を上げ、「完全に無意識だった」と目を剥く。 「気が付いたらグラスが取りやすい位置にあったり、僕の前にスペースを作ってくれるんです。無意識だったんですか?」 「うん。クセなんだろうか」 「少なくとも私は知らなかったけど……」 ドリンクメニューに目を走らせていた速水がしばしの後、「あっ!」と声を上げた。「お前の猫だよ、音川。テーブルの上から物を落とすんじゃないか?」 「それだ……」阿部と音川は脱力しながら、納得の感嘆符を漏らす。 「気遣いが優しいなと思って気に入っていたのに……。音川さん。僕、猫じゃないんで、コップをテーブルからわざと落としたりしません」 音川は向かいで唇を尖らせて拗ねる泉を見つめながら、(この顔が特にかわいいんだよな)と内心ほくそ笑んでいた。やや頬を膨らませ、照れているようにも見えるし、楽しげにも見える。 ただ、内心ほくそ笑んでいると思っているのは音川本人だけだった。その柔らかく細められた目元は、人が子猫や子犬を見る時の笑顔にも似ているが……とにかく何か可愛くてたまらないものを眼の前にした人間の顔だ。泉の隣に座る阿部は、同期の堅物男が一度も見せたことのないその惚けた表情に、まるで見てはいけないものを見てしまった気になった。しかし貴重な瞬間なのは間違いないので、なにか言って音川が普段通りの仏頂面に戻るような野暮だけはすまいと、黙ってグラスを傾け続ける。 一方ヒューゴに連れて行かれた高屋はパントリーの奥へ押し込められ、にじり寄ってくるヒューゴを少々不安げに見上げていた。薄っすらと眉間にシワを寄せた顔は深刻で、何かトラブルかと高屋は身構えた。 「突然どうしたの?」 「透クン、あのガイジンは誰ですか?」 「ガイジンなんて居な……あ、もしかして音川さん?おれの隣に座ってる人?」 「そう」 「お母さんがポーランド人らしいよ。どことなく日本人の要素もあるだろ」 「なるほど。それで……彼とは仲が良いの?」 「これまではプロジェクトが別だったから、あまり交流は無かったけど。音川さんがどうかした?」 「あのね、透クン」ヒューゴは高屋の両肩をぐっと掴んだ。「あんなフェロモンだだ漏れ男が職場に居るなんて、どうして言ってくれなかったの」 「なんだよそれ。音川さんは他の同僚となんら変わらないし……まあ、確かにかっこいい人だけど……。ヒューゴ、もしかして妬いてるの?」高屋はニヤリと笑って見せたが、ヒューゴは真剣な瞳を崩していなかった。 「当然だ。彼を見た瞬間、ゾッとしたよ。透が僕を選んでくれたのが奇跡なんだと、今とても実感している」 「おれが外見だけで誰でもホイホイ好きになるように見えてんのなら、目玉くり抜いてやる」 「ごめん。そういう意味じゃない。ただ、彼のようなタイプは……特にヨーロッパだとみんな恋に落ちる。たぶん透が想像する以上に脅威だよ」 「みんなって、ヒューゴも?」 「からかうなよ。僕が13年間キミに片思いしていたのは知ってるでしょ」 「知ってる」高屋は、まだ不安げな表情を消せずにいるヒューゴの肩に、額をこつんと当てた。 「僕はただの白人なのに、彼は外見だけですら、どこかミステリアスな知的さがあって……しかも日本語が普通に話せるんだろ。あんなのがライバルだったら相当困難な戦いになるから……」 「待ってろ」 高屋は短くそう言うと、ヒューゴを残してパントリーから出た。 和やかに談笑が沸き立っているテーブルにいる音川をあらためて見ると、確かに、濃い眉とまつげに縁取られたグリーンの瞳は、日本人ではありえない色のはずなのに、不思議と和の静寂を持ってみずみずしく光っている。その透明な輝きは、彼の知性から発せられるものに他ならない。 音川は間違いなく美形である。しかし、高屋にとっては頼もしいエンジニアだというだけだ。 「音川さん、ちょっと」 「えっ、あ、ハイ」 高屋の有無を言わせぬ気迫に押されて音川は自動的に腰を上げていた。今度は音川か、と速水は訝しみ、阿部の考証は新展開を迎える。 「おい、良いのかよ」 音川は躊躇を顕にした。従業員以外立入禁止の場所に、なぜ自分が連れて行かれているのか。 しかし高屋はお構いなしで厨房の奥にある木製の簡素なドアを開き、「こっち」と招き入れる。そこには先程のウェイターが苦笑いで立っていた。音川の予想では、彼は高屋の…… 「ヒューゴ、こちら音川さん。開発部の非常に優秀なエンジニアで、最高技術責任者だ。仕事だけでなく、今回の長期出張ではマンションの管理会社に連絡してくれたりと、いろいろ世話になったんだ」 そして高屋は音川に向き直った。 「音川さん、こちらヒューゴ。この店のオーナーで、おれの最も大切な人だ。インド出張中にさ、連絡出来なくて困ってた相手だよ」 「そうだろうと思った」と音川は高屋に笑顔を見せてからヒューゴに向き直り、「クバだ。よろしく」と名前で自己紹介する。 「クバ……ポーランド名だが確かに日本でも通用しそうだな。僕はスウェーデン出身だ」 長身の二人がにこやかに挨拶の握手をしっかり交わしていると、音川が突然ドイツ語で「インド出張中の高屋さんがどんな様子だったか聞きたい?」とニッと笑った。ヒューゴの高純度なゲルマン人の外見と併せて、日本語にドイツ語話者独特の抑揚がほんの微かに聞き取れたからだ。 「全部聞かせてくれ。近いうちに。ところで、僕がドイツ系だと見破れたということは、EU圏に住んでいたのか?」 「クラコウのギムナジウムへ通った間だけね。当然ドイツ語が必修で。まあその前にドイツ系ユダヤ系の祖父と、ポーランド系ユダヤ人の祖母から教え込まれてはいるが」 「なるほどな……。僕にはポーランド語の文法は難しすぎるよ。でも、クラコウはスキーで何度か訪れたことがある。とても美しい場所だ」 「確かに2人の場合は日本語じゃないほうが自然に見えるけど、せめて英語にしてくれ」高屋が日本語で割り込む。 「後で教えてあげる」とヒューゴは高屋の腰に腕を回して引き寄せ、こめかみに軽く口付けた。 「んで、高屋さん。彼にヤキモチ焼かれたの?」 「そう。あのガイジンは誰だって泣きそうになってたから、来てもらった」 「必要ないのに。俺、人畜無害だから」音川は両者に向けて言ったが、「本当に人畜無害のヤツはそんなこと言わない」とヒューゴに一蹴されてしまい、音川は外国人のように肩をすくめて見せた。 高屋はそれを見て軽く小首を傾げた。どことなく、ヒューゴと話す音川の印象が変わったからだ。今まで高屋が見知っている堅物で社会人の鏡みたいな様子とは異なり、ある意味で緩く、それが意外にも外見とマッチしていて自然だった。自分たちが知っている音川は、彼が演出している日本のサラリーマンに過ぎないのかもしれない。そうすることで、周囲に溶け込むことができるように…… 「ヒューゴの外見を褒めるとね、いつも『僕なんて普通だ』って言い返されるんだ。そんなわけ無いと思っているんだけど……こいつの反応を見る限り本当みたいだ。よほど音川さんは外国でウケるんだろうな。ポーランドではどうだったの?」 「聞き取れてんじゃねぇかよ」 「クラコウとギムナジウムの2単語だけ分かれば予想できるでしょ」 「抜け目ねぇな」 「クバの外見からは、まず系統が分からない」答えたのはヒューゴだった。「間違いなく白人の扱いを受けるだろうけど、どことなくオリエンタルな要素も確実にある。それは僕達からすれば、とても神秘的で魅力的なんだ。無い物ねだりに近いんだろうね」 「まあ、当時は子供だったのもあるが……よく家に忍び込んで来られたよ。男も女も。目が覚めたら腕枕させられていたり、時には女の子が上に跨ってたこともあったんじゃねえかな」 「ビールに何か混ぜられたら朝まで目が覚めないなんてこともある。とは言え、クリスチャンでかなり保守的な家庭もある」ヒューゴが補足的な説明をすると、「積極的だなあ」と高屋が純粋な驚きを表した。 「ヒューゴは気が付いていると思うが……俺も性別なんて些細なことは気にしないタイプでね。高屋さんも、隠してるわけじゃないんだよな?まあインドでの様子を知っているし、店に入って彼を見た瞬間にピンと来たが。予想の答え合わせができて爽快な気分だよ」 「うん。隠すようなことじゃないし、それに……」と高屋はスッと視線を音川に向けた。 透明な光が射るように音川を見つめ、しかしそれは冷たさとは無縁の柔らかな陽の光のようで……(きれいな男だったんだな)と音川は同僚の新たな一面を知る。 「おれは、大切な人の不安を取り除くためなら、ここがどこだろうが、どんな場面だろうが、関係を公言することを躊躇しない」 きっぱりと言い切った高屋に、音川は合わせていた双眸を大きく開いた。 「それにね、音川さん。おれはいつも何かを決断する時に、『人生は一度きり』という考えに基づいて行動するんだ。そして時間は有限で、絶対に止まることはない。戻せもしない」 「確かに、どちらも無情な事実だな」 「インドでヒューゴに連絡できなかった期間はもう永遠のように感じられた。不安で、焦って……不義理なことをしているおれをヒューゴが見切って、誰か他の飲み友達を見つけてしまったら、とか考えちゃってさ。そうしたら泉くんが……」 「ああ、高屋さんに向かって、『それは友達じゃない』って言ったやつか」 「そう。図星だった。友達よりもっとずっと……ヒューゴをどれだけ大切に思っているかを伝える時間も、限られているって気が付いた」 音川はヒューゴが思い切り破顔するのを目の当たりにした。足から崩れそうなほど高屋に骨抜きに惚れているようだ。 「愛されてるね」 音川がヒューゴに向けてそう言うと、「だろ」と得意顔が返ってきた。 「時間、か……。高屋さん、話してくれてありがとう」 音川はパントリーのドアへ向かって足を踏み出し、ふいに立ち止まると厨房の方を指差して「さっきちらりと見えたんだけど、そこにあるのはクヌードルか?」とヒューゴに尋ねた。 「Yes。今夜のメインに添えるつもり。あ、そうだ!透はヨーロッパの料理が好きで、毎晩食べに来るんだ。クバもおいでよ、リクエスト大歓迎だ」 「それは良いことを聞いた。泉と来るよ」 「ええと……ハヤミ、アベ、」とヒューゴは思い出すように呟き、「ああ、一番若い彼か」と思い当たる。「後輩かい?」 そう問われた音川は肯定の言葉を出すために開いた口を一度閉じた。 そして口の端を上げて笑みを作りヒューゴと視線を合わせると、ゆっくりと頷いてから、敢えてわざわざ英語で「彼はとても……かわいいんだ」と低く呟いた。 ヒューゴは「プリティ」という単語を使用した音川の眼底を覗き込むようにして、ゆっくり頷いた。 「……なるほど。それを聞いて安心した」 「どういうこと?そりゃ泉君の見た目はかわいい系だけどさ。それに音川さんが誰かの容姿を褒めるような発言をするなんて……」まるで暗黙の了解のようなヒューゴと音川のやり取りに、高屋は首を傾げる。 「あのね、この場合、クバは泉クンを……」 音川はヒューゴの解説が核心に届く前に退散すべく扉に向かう足を早める。去り際の置き土産としてヒューゴに向かって、「俺もう戻るけど……ここ、カギ掛けといてやろうか?」とにんまり笑って見せた。 「うーん、必要ないかな。残念ながら、まだキスしかさせてもらっていないんだよね」 「そういうことは言わなくていい!」 高屋の照れた怒りを後ろに、パントリーの扉を閉めた。 初対面でも伝わってくるほどにヒューゴという男は全身から誠実さが溢れている。だからこそ、あの2人の関係に自分が一切関心がないことを素早く明確に証明したかった。そのためには、自分の関心は他にあることを伝えるのが最も効果があると思われたが……高屋に解説されるとなると、少し照れがある。 着席するやいなや「何だったの?」と早速阿部から質問が飛んでくる。 「オーナーを紹介されただけ。なあ泉、厨房に美味そうな肉があったぞ」 泉は「うわぁ」と目を輝かせる。クヌードルの横にはスープのような液体に浸された豚肉がトレイに並べられて、見るからに柔らかそうだった。名前を失念しているが、ポーランドで食べたことがあるのは確かだ。 「それにしても、酒も料理も美味い店だな。どうして今まで教えてくれなかったんだ」 「何年か前に誘いました。駅と逆方向だから嫌だって断ったのは音川君でしょ」と阿部が軽く頬をふくらませる。「ま、夜も食事ができるのは高屋さんから聞くまで知らなかったけど」 「これから常連になってくれるみたいですよ」 頭上から、海の底のように低い声が降り注いでいたため、阿部は思わず肩をすくめた。心臓に響くようなヒューゴの深い重低音は、いつ聞いても心地よい。 共に自席に戻ってきた高屋が、「そろそろメインに進んでもらおうか」と皆の同意を取ると、ヒューゴは「今夜はお腹がいっぱいになるまで誰も帰しません」と極上の笑みを浮かべ、新しいグラスを並べて颯爽と去っていく。 その後姿に向けて、泉が「すご……」と呆けたように呟いた。「噂以上の美形ですね」と斜め向かいに座る高屋に言う。 「あんまり見るな」 しかし高屋が返事をするよりも先に、音川が鋭く制止の言葉を出した。 隣を向くと、苦虫を噛み潰したような顔をしてグラスを口に運んでいる音川と目があった。つい先ほどヒューゴから『クバがあの時プリティという表現を使ったのは、恋愛対象として魅かれているってこと』と聞かされていたものだから、高屋は緩む頬を必死に堪えて取り繕った。 「音川さん、ヒューゴと一瞬で打ち解けていたのは驚いたよ。あれドイツ語だよね」 「うん。どう見てもドイツ系だし、日本語の話し方に微かな抑揚があるだろ。久々に喋ったが、まだいけるな」 「抑揚?おれには全くわからないけど」首を傾げた高屋に、阿部や泉も同調する。 「俺だって確信があったわけじゃねえよ。ほんの微かな訛りだから……よほどのことがないと見破れない」 「ちょっと待って。というと、音川さんもヒューゴみたいに数カ国語喋るんじゃ……」 「高屋さん、今度からこいつに通訳頼んでいいよ」と速水が音川を指さした。「今まで隠してた罰として、これからの海外との打ち合わせは問答無用で呼ぼうぜ」 「隠していたわけじゃない。公表してなかっただけ」 「そんなの同じだろうよ。どうせ英語だってできるんだろ」そう見透かした速水に向けて、泉が深く同意の頷きを送る。 「取引中のドイツの会社ね、英語が苦手な人がいて……ドイツ語できなくてごめんってこっちが申し訳なく思ってしまうのって、なんなんだろうね」 「日本人らしいな。相手に合わせてあげるのが前提で、それが自然とできるのは素晴らしいと俺は思うけどね」 「ヒューゴさんってどれくらい喋るの?」と阿部が高屋に尋ねた。単純な興味からだ。 「確か、子供の頃から話していて流暢なのは日本語、英語、スウェーデン語、ドイツ語かな。でもコミュニケーションできる程度には北と中央ヨーロッパの言葉は理解できるって。オランダやノルウェーも似ているらしい。ただしフィランドとスラブ系は難しいって」 「俺ら英語だけでヒーヒー言ってるのに」 「音川君は?ドイツ語と英語とポーランド語?」 「言わないよ。あんなサラサラのブロンドをなびかせた光の戦士みたいな男と比べられるなんてたまったもんじゃねえ」 ヒューゴと同様に相手を褒めるようなことを言っているが、音川の口調は本意にも冗談にも聞こえる。 「僕、知ってます。音川さんは……んグ」 泉が開けた口は、音川によってパンを詰め込まれてしまい文字通り言葉に詰まった。 「わかったわかった。これからは高屋さんに呼ばれたら馳せ参じますよ。実は近々申し出ようと思っていたんだよね。今回のことがきっかけで、高屋さんの仕事に興味が湧いてきたんだ。コアな部分は無理だけど、できることは引き受けるから言ってよ」 高屋はその言葉を受けて満面の笑みになり、それを横目で見ていた速水が、「それにしても」と口火を切った。 「音川、お前は本当にミスター・パーフェクトを地で行く男だな」 「ほんとよ。私達はもう何とも思わないけど、確かに外見も良いし、要職についているし、性格だって穏やかで……文句の付け所が見当たらない」 「なのに、な?」と速水と阿部の既婚者組は顔を見合わせた。 「お前、付き合ってる相手も居ないんだろ」 「居ないねえ」音川はのほほんと答えてグラスを空け、先ほど厨房で目に入った肉のことを思い出しながら3杯目は赤ワインにしようと考えていた。 「ヒューゴも居なかったんだよ、もう何年もフリーだった」高屋が口を挟んだ。そんなばかな、と阿部や速水が否定するが、高屋は首を振って、「外から見ていると分からないもんだよね」と余裕の笑みだ。 「そうは言うがな、速水。俺にも欠けているものはたくさんあるよ」 「例えば?」 「家事が苦手。クリーンサービスに頼り切ってる」 「それは金で解決できんじゃん。そういうんじゃなくて、もっとお前個人の……」 音川は腕を組み、天井を仰いだ。 「確かに……大きい欠陥があったな」 「それ、聞いていいやつ?」高屋が心配そうな声色で確認する。 「いいよ」 一同は固唾を呑んで音川の言葉を待った。 「ちゃんと、誰かを好きになったことが無かった……と、思う」 シンと一瞬の沈黙が流れ、「なんだよ。聞きたくなかったとは言わせねえぞ」と音川が自嘲気味に言う。 「なんかごめん」速水が少しだけふざけた様子で謝り「リアルすぎる。本当に猫だけなのか」と呟くと、「違うわ」と阿部が鋭く切り込んだ。「音川君は過去形を使った。ということは……」 「うん。今は、一緒に居たいなあと思う人はいるよ。でもこの歳でそういうのが分かるなんてなぁ、俺の情の幼さというかさ、たぶん性欲の無さじゃねえのかな。笑えねぇし、諦めている」 「え、うそ。片思いなの?」阿部が素っ頓狂な声を上げた。「あんたが?」 「うん。たぶんそう」 「え、うそ。童貞なの?」速水が阿部の口調を真似てふざけるのを「できることなら戻りてぇよ」と音川は真顔で受け流した。 「10年の付き合いになるけど、初めて音川君が人間に見える……」阿部は驚きに目を見開いているが、そこには確実に喜びがあった。「あんたの恋バナが聞ける日がくるなんて」 「話も何も、始まることはねぇよ」 高屋はだんまりを決め込み、黙々とテーブルに残された前菜に手を伸ばしたりグラスを傾けたりしていたが、会話が途切れた拍子にチラと斜め向かいに座っている泉を盗み見た。 (何だ、両思いなんじゃないか)と一瞬ほっとしたが…… 泉の耳の下では顎の骨が浮き上がり、グッと噛み締められたのが分かる。自分が音川に想われているなんて夢にも思っていない新人は、始まってもいない恋に失恋したかのような気持ちだろう。 高屋は、両者の気持ちを知りつつあるが、お節介をしようとは思わなかった。気持ちが通じ合う日がくるのを草葉の陰から祈るのみだ。 それに、音川の断定的な言い方がひっかかる。始まらない、と決めつけているのは何故だ。 しかし……、心が浮き立つような、ざわめくような、恋をしている期間にだけ与えられる喜び。それだけは失ってほしくないように思い、まず音川に話題を振った。 「ね、もし音川さんの恋が実ったと仮定して……恋人と過ごす時に、どんなことしたい?たとえば、おれだったらのんびりドライブとかしたいな。この辺は海も近いし」 「そんなの考えたところで……仮定のままで終わるだけだ」 「現実的になんなよ。好きな人ができたら、いろいろ考えるものでしょ」と、今まである程度の丁寧さを持って音川と接していた高屋の口調が砕ける。 「わかったよ……そんなの聞いてまたドン引きされたら俺、立ち直れねぇぞ」 「引かない引かない」と阿部がニヤニヤ顔を隠そうともせず、話を促す。音川の恋バナによほど興味があるらしい。 「……二人で有給を取って、ちょっと良いホテルのケーキバイキングに行きたい。日本中の。俺の持論だが、日本のケーキが世界一美味いからな」 「おっ、と……」と速水が何か言いかけて急いで口を閉じる。「引かないって約束だったな。お前それ、相手が甘党じゃなかったらどうすんの」 「いいの、仮定の話だから」高屋が助け舟を出し、「じゃあ速水くんは?独身の頃、どんなデートしてたの?」と話を振る。 「俺んとこは、奥さんが酒豪でさ、子供ができるまではデートと言えば飲み歩いてばかりだったな。公園にピクニックに行くにもワインを詰めた水筒と、バックパックにチーズを入れて」 「あ、それいい!」と同じく酒豪の類に入る阿部がすかさず同意する。「今年の社員旅行の幹事なんだよね。ピクニック飲み、いいね」 「じゃあ、泉くんは?」 「僕は……恋人がいたら……そうですね。深夜に、部屋で飲みながら映画を観たいです。ホラー映画とか。そのまま膝枕してもらって、朝まで寝られたら……最高かな」 「憧れるわぁ。私そういう甘酸っぱい経験がなくて、すぐ結婚しちゃったし」と阿部が頬杖をついてため息を吐いた。高屋も、「ムービーナイトってロマンティックだよね」と同調している。 一方音川は、最近どこかで聞いたことあるような話だなと思い切り首を傾げていた。どこだったか…… 「あっ!」 音川は声を上げ、向かいに居る泉をまっすぐに見た。しかし、いま述べられたようなムービーナイトを共にした後輩は俯き、ことさら小さな声で「そんな週末が、過ごせたら……」と呟いただけで。 (それも、俺は練習台だったのかよ……) 音川は両手で頭を抱えて、店の照明でオリーブ色に輝いている豊かな黒髪をくしゃくしゃとかき回す。 そのせいで、高屋が「ケーキバイキングの後でムービーナイト、いいじゃん」と早口で呟いたのを聞き逃す。 「クバ、どうしたの」 ヒューゴの低い声がかかり全員が振り返ると、シルバーのトレーを手にして立っていたオーナーは皆の視線を受け少し背筋を伸ばす。 「おまたせ。本日のメインはシュヴァインブラーテンとクヌードル。お替りもたくさんある。あと、バゲットとチーズも食べ放題だから、遠慮しないでどんどん言って」 皆の前に皿が並び、高屋は初めて食べるこの料理に舌鼓を打った。豚肉のソテーが、柔らかく舌の上でとろけるほどで、感動にそのまま目を閉じて天井を仰いでいると…… 「ラム、ボトルでお願い。会計別で」「コーラいる?」「いや、そのままで……美味いやつ」「わかった」と音川とヒューゴの短いやり取りが聞こえた。 「音川さん、ここで一番良いラムがいくらか知ってる?」と高屋がアラートを鳴らす。コレクションとして置いてあるビンテージものは別としても、気軽に下ろせる値段ではないはずだ。 「知らん。今夜はもう飲むって決めたの、俺」 「こちらはどう?」さすがのヒューゴは、きちんとボトルを持って見せに来る。「27年のキルデヴィル」 「言う事ナシ!」 ヒューゴはカウンターに戻ると音川専用の伝票を用意し銘柄を書きこんだ。しかし少し悩んでから、くしゃりと握りつぶしてダストボックスへ投げ入れる。 インド出張中に透が世話になったと言うし、それにこれからも長い付き合いになるような予感がしている。誠実で聡明で信頼の置けそうな人間との出会いは貴重だ。これくらい、安いもんだ。 メインの食事が終わり、各々が満腹を感じながらもデザートを待つ間、音川は目線を泉に向けてぼそりと言った。 「このメンツなら、話題にしても問題ないと思うんだが。保木さんの件、どうかな?」 泉に異論は無かった。 『任せてくれ』と音川に言われてそれに合意したのもあるが、それよりも、音川と過ごすうちに、泉の中にあった恐れや怒りは解けつつあった。独りで解決しなければと意気込んでいたが、今では、阿部と高屋の知恵が借りられるのならありがたいと思える。 「ちょっと音川君、泉くんにはまだ……」 「いいんです阿部さん。僕が、音川さんを巻き込んでしまって……」 そう切り出した泉を、音川は軽く手を挙げて制止する。そして阿部に対して少し眉毛を下げて申し訳無さ気な顔を見せてから、説明を引き継いだ。 「阿部から目撃情報を聞いた時点では、まだ泉との接触が確定していなかったんだ。あの日の夜、」 (ムービーナイトの代役をしながら)と続けそうになり、音川は急いで口をつぐみ、同時に記憶に蓋をした。あの時、甘えてくる泉を膝に乗せて感じた陶酔感、愛おしさ、胸の痛み—— すべて錯覚でしかなかったのだ。 音川は、軽く咳払いをして続ける。 「阿部に聞いた目撃情報を元に、しばらく駅前で張っていようと思う。まあ、向こうも盆休みは把握しているだろうから、本格的に探すのは再来週くらいからだろう。まだ諦めていなければ」 「見つけて、どうすんの?」と速水が軽い口調で尋ねる。先日の音川の怒りを通り越した冷酷な目を知っているからこそ、深刻になることを避けたのだった。 「泉は、どうしたい?」音川は速水からの問をそのまま泉に手渡した。決定権は本人にある。 「僕は……二度と遭遇しなければそれでいい、かな」 「でも怪我させられたんでしょ?」と阿部が心配気に問いかける。 音川は、脳裏に蘇った痛々しい皮膚の裂け目や絞められた痕を、軽く首を振って打ち消した。 「もし再び襲われた時は、その足で警察に行きます。それに怪我が治っていくにつれ、いろいろな感情が薄れてきて、今はもうなんとも思わないです。会いたくない、それだけです」 「ん。わかった」 音川は、うつむき加減でそう呟く後輩に向けて、そっと囁いた。泉が怒りを乗り越えたのなら、音川にもそれは不要だ。怒りは波紋のように広がり、周囲に影響を及ぼしてしまうから。 現時点での結論が出たところで、ちょうどデザートが到着し、話題は高屋と速水のインド出張話へ移った。帰国して数日経つが、在宅勤務が多い中ではまとまった土産話が聞けずにいたし、それに業務中には話せないような出来事もあったはずだ。 「ヒューゴさんって、あのスパイスの名前を書いてくれた方ですよね」泉が両手の人差し指を使って、小さい四角を空中に描いた。高屋から土産で貰ったスパイスの小袋を表しているらしい。 そして同じく土産にもらったレシピ本の中から、初心者にも作れそうなものをピックアップしてトライしていること、それらが大変に美味しかったことを音川たちは披露した。 「仲良くやってんのね、あんたたち」と阿部が目を細めると、泉が「すべて音川さんのおかげです」としおらしいことを言う。 「そう言えば阿部よ、高屋さんが口説かれた話は聞いた?」と速水が切り出した。 阿部は目を見開いて「初耳ですけど?」と身を乗り出す。 「ちょっと声抑えめで」高屋は急いで速水に協力を仰いだ。「ヒューゴは知らないんだよ。これ以上、心配かけられないから」 「なかなか興味深いぞ。二次会で本人から聞けよ」と、音川が阿部を焚きつける。その場で高屋とヒューゴの関係を知っているのは自分だけであることを踏まえ、自分たちは聞いたことのある話だし、それにもっと酒が入った後の方が面白さに拍車がかかること請け合いだ。 「二次会があるんですか?」 「うん。駅の方にスペインバルがあって、開発の飲み会の時は、いつもあそこ」速水は、泉が新人だったことを思い出したかのように説明を加える。「残業残業で出会いのない俺達は、あそこでショールームの方々と交流するのが伝統でね。俺も奥さんと知り合えたことだし、成功率は低くないよ」 「そうなんですか。じゃあ……音川さんも、そういう出会いがあったり?」 音川の色恋沙汰についての噂はいろいろ耳に入る。それらは音川伝説と呼ばれ、まさに都市伝説同様にどれも真に受けるにはバカバカしいものであり、大半が速水による創作だった。しかし……若手の中には信じ込んでいる者もいる。 音川は軽く微笑み、「どのバル?」と速水に投げかけた。「どこに行っても同じくらいモテるから、あまり区別が付いていない」 「音川にしちゃ珍しい言い逃れ方だな」 「事実を言ったまで。ま、結論は出てんだろ。出会いが必要なら焼き鳥屋じゃなくもっと洒落てる店に通ってるよ」 速水と泉を交互に見ながら、音川はそのまま続けた。 「つうわけで俺は二次会はパスだな。良いラム酒もあることだし、つまみも美味いし、しばらくここにいるよ。泉を連れて行くなら、用心してやってくれ」 「音川は移動が面倒なだけだろ。どうする、泉くん」速水が参加の意向を確認する。 「おれも行くから、心配しなくていいよ。今夜は阿部ちゃんも遅くまで大丈夫らしくてさ」 「では僕も参加で。楽しみだな、開発部御用達のバル」 「じゃあ泉、終わったらタクシーに乗って、ここに戻ってきて俺を拾ってよ」 「任せて。タクシーが発車するまで見守っておくから」と阿部が姉貴肌を見せ、いずれにせよ戻って来るつもりだった高屋も便乗すると告げる。 「みんなに心配掛けてしまって恐縮です」と泉は身を縮めて見せたが、すぐに「了解です。もし音川さんが酔って独りで帰ってこられなくなったらどうしようかと思っていたので」と酔っ払った姿をまだ見せてくれない先輩に向けて軽口を叩いてニコリと笑顔を皆に向けた。 この後の予定が決まったところで、一次会はお開きとなった。 泉たちが二次会へ移動した後、音川はヒューゴに呼ばれるままカウンターに移り、約束通りインド出張中の高屋の様子を伝えたり、ラムを使ったカクテルをリクエストしたりと大いに楽しんでいた。 ヒューゴに至っては、そのタイミングでとっととCLOSEDの札を出して、飲む気満々だった。 最後の客がはけると大急ぎてエプロンを外して音川の隣に座り、ウォッカを立て続けに2杯飲むと、労働の疲れを全て吐き出すかのように思い切り深呼吸をしてみせる。 「おつかれさん」 接客中のピンと伸びた姿勢とは打って変わって、スツールに長身を預けるようにだらりと座ったヒューゴからは、打ち解けた雰囲気が流れてくる。それを心地よく傍受しながら、音川がグラスを掲げる。 「完璧なアルカイックスマイルが消えてるぞ」 「あんなの数時間が限界だ」 「初対面の俺に素を見せていいのか」 「とっくに見られてる。透の前で、僕はぐずぐずの豆腐みたいだったでしょ」 「うん、まさに」 「まさかボトルを空けるつもり?」ヒューゴに指摘された音川はポーカーフェイスで、「迎えの時間次第」と答える。 「イズミか」 「うん」 「途中で気が付いたんだが」と3杯目をあおってヒューゴが切り出した。「以前に彼を見かけたことがある」 「ん?この店で?」 「いや、僕がたまにヘルプに入っていたバーが駅の近くにあってね。あまり日本人は来ない店だ」 「ふーん。まあここが地元だから飲みに行くくらい……おい、ちょっと待て。日本人が来ないというと、まさか『あの』店か」 音川は片手で引用符のジェスチャーを伴って言い、ヒューゴは頷いた。 そこはヒューゴの高校時代からの仲であるクリスというイギリス出身の男がマスターをしている健全なブリティッシュパブだが、まるで暗黙の了解のように外国人が集まってくる。ただ、深夜帯になれば外国のバーそのものと化し、裕福そうな身なりの客を狙う輩もやってくるし、ドラッグに手を染めていそうな連中もいる。いくら従業員やヒューゴなど良心的な客が気をつけていても、特にパーティなどイベントの開催時には忙しさもあり、目が届かない。 「そう。あれはハロウィンパーティで……かなり深い時間だったな。若いアジア人の客は相当珍しいからね、僕もクリスも気にかけていた。イズミは気が付いていなかっただろうけど」 「独りだったのか」 「まさか、あの店にソロで入れる日本人の若者は居ないよ。しかし無理やり連れてこられたのか、どうも……捕まった鹿のように不安気なのが目について。帰りたがっていたが連れのセンパイ風の男が許さなかった。クリスが見かねて、どさくさにまぎれて店の裏口から出してタクシーに乗せたはずだ。僕は体質上酔えなくて、記憶力も悪くないから信用していい」 「ま、あいつも普通に若い男だし、付き合いだの色々あんだろ」 「音川さんは見かけたことがないよね」 「夜は出かけないからなあ。とは言え誘われて行ったことはあるよ。確かに酒がべらぼうに美味いが、あの喧騒が苦手で」 「なら、ライブ演奏の日がおすすめだな。行く気があれば声かけてよ。で、僕が何を言いたいかというと」 「気をつけろってことだろ」 「そう。おそらく周囲に、無垢な若鹿の彼をあの店に誘い出すような人間が居るってことを知って欲しかった。アジア社会における職場や学校の上下関係は難しいからね……うかうかしていると……」 「俺は、泉の人間関係に口出しするつもりはねぇよ」 音川の即答に、ヒューゴは片眉を上げ思い切り不審な顔を見せた。 「俺はただの上司。今は事情があって居場所を提供しているだけだ。それに、彼にはすでに心に決めた誰かがいるらしいから、大丈夫なんじゃねぇかな。ああ見えて、芯はかなり強い男だよ」 「なんてこと……日本人のセンスが信じられない!クバのような男が片思いなんて、ヨーロッパじゃまずあり得ないだろ」 「そりゃどうも。日本人は内面をよく見るようで、破綻した人格は外見に勝るらしい。俺は今まできちんと恋愛をしてこなかったから、泉にしても、他の誰かであっても、俺とは精神的な繋がりを作れないんじゃないかと思っていて。恋愛対象にすらならないってこと。そもそも俺自身が……特別に想う人とどう関係を構築すれば良いのかわかってねえし。ワン・ダイレクションでいいんだ」 「そんなの、気持ちを伝えればいいんじゃないの?」 「職場の人間だからそれはできない」 「どうしてそうなる?振られたら振られたで分かりやすいのに」 「ああそうですか残念です、とならないんだよ日本の会社は。そもそも、職場の人間にそういう声を掛けることがハラスメントじゃねぇかな」 「厳しいな」 「許されるとしたら、職場の外である程度の関係を構築しておいて、ハラスメントにならない状態まで準備してからだろ」 「なるほどね……。で、イズミたちはそれが可能な場所へ行ったと。あのバルは会社から近いよね」 ぐ、と音川の喉が鳴った。どうやら痛いところを突かれたらしい。 「高屋さんもだろ」とジャブを打ち返しても、「効かないよ。透はここに帰ってくる」とヒューゴは余裕だった。 「泉だって俺を拾いに来る」 「そう仕向けたくせに」 ニヤリと悪巧みするような顔ですら高貴な騎士に見える男は、目にかかる長さの前髪をさらりと掻き上げて続ける。 「僕くらいの年齢でもね、客商売だとある程度の顔色は読めるようになるんだ。ポーカーフェイスの奥に、心配で仕方がないって顔が出てる。彼の意思を尊重する気持ちから、二次会へ行くなとは言えず。かといって付いて行くのは過保護で、鬱陶しがられないとも限らない」 音川は黙って聞いていた。どうせ図星だから反論の余地は無い。 「透がその役目を買って出たのは、さすが僕の恋人って感じでよかったな」 「急に惚気けてんじゃねえよ」 「いいでしょ。予定では透も今頃ここにいるはずだったんだから。それとも代役として不満が?」 「本人よりずっといい。お礼にほら、ラム、もう一本あるなら開けていいから」ヒューゴはそもそも金を取るつもりがなかったが、音川はまだそれを知らない。 「クバのそういうところ、危うい。1本10万円の酒を平気で開ける経済力と、その顔と、鍛えた体だけで十分なのに、手が届かない恋をしている男がもつ独特のアンニュイな雰囲気。ああ、いまここがクリスの店だったら、クバの後ろに行列が出来てしまうね」 「なんとでも言え。この美味いラムとつまみがあれば、どんな言葉も天使の囁きに聞こえるよ」 「本音を当ててやろう。バーテンダー占いだ。クバはね、イズミを誰にも渡すつもりなんてない。嫉妬や、不安や、独占欲にまみれた自分を見たくないんだよね」 「……よく当たる占いだ」 「とまあ、クバが素直になったところで、からかうのはこれくらいにておこうか。僕も、透には気持ちを伝えるつもりがなかったから、気持ちは分かる。僕の場合は、友達としての彼を失うことができなくて」 ぽつりぽつりとヒューゴからなれそめを聞きながら飲みはじめ、そう時間が経たずに、店の窓をヘッドライトが照らし、軽くブレーキ音が鳴った。 「戻ったか」 ヒューゴが立ち上がり、店のドアの施錠を解く。コロンと小さなベルの音が鳴って開かれた扉から、高屋の陽気な声が聞こえた。 「音川さん!泉くん車に残してるから早く行ってあげて。ちょっと飲ませすぎちゃったかも」 二人に礼を述べ、店のポーチから道路へと続く階段を大股で降りると、タクシーの窓から泉の顔がこちらを覗いている。紅潮した頬と、うっすら笑っているようなまぶたは間違いなく酔っている者の顔だ。 隣に乗り込み、運転手に行き先を告げる。 「だいぶ酔ったか」 「酔ってません」 酔っ払いの即答だ。音川は口元をほころばせる。 「どうだった?」 「楽しかった、です」 「ならよかった」 「……音川さんが居ないのが、少しさみしかったくらいで」 「はは、お世辞が言えるんなら、本当に酔ってないのかもな」

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