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第24話 存在の意味
デスクとチェアを二人がかりで搬入し終わると、泉は「これで全部ですね」と両手をパンパンと叩きながら言った。
物件所有者で同じ職場である音川が保証人を名乗り出てくれたおかげか、泉の念願であった一人暮らしは予定よりずいぶん早く叶えられることとなった。
引越し業者を頼むほどの荷物でないというので、それならばと手伝いを申し出た音川だったが、搬入したのは音川が泉のために用意したチェアとデスクのみだった。それもそのはずで、実家の部屋は物置として使われるから、私物はそのまま置いて来たとのことだ。必要なものがあれば適宜取りに帰るつもりらしい。
その他の家具はコーヒーテーブルとベッドで、これらは新品を購入したため業者によって搬入と組み立てが完了していた。
「おい、まだキッチンが終わっていないぞ」
「それは……」軍手を外しながら泉は少し言い淀む。
「自炊は断念した?」
音川は泉を見つめたままで、緩いウェーブのかかった前髪をかきあげた。その仕草はどことなく色気を増幅させ、泉の胸をくすぐる。
「僕の部屋は単身者用なので、やっぱりこれからもこっちのキッチンを使わせて欲しいです。二人分作って一緒に食べた方が、片付けだって効率が良いし」
「そうか。俺はまだ自炊の練習台を続けるつもりでいたから、もう道具は要らないのかと、少し驚いたよ。それに、まだピエロギを作ってもらっていないし」
「そ、そうですよ!ねえ、早速ですが、お昼はお蕎麦を作ってもいいですか?」
「うん。でも俺の部屋で作って食べるとなると、引っ越し蕎麦の意味がないような」
「では今回だけ僕の部屋へ持って降りましょう」
材料の買い出しに付いてきた音川が、いっそ蕎麦屋のテイクアウトでいいんじゃないかと横槍を入れてくるが、泉の胸には安堵感が広がっていた。
ファミリー向け物件である音川のキッチンが広いのは事実で、泉には音川の部屋を頻繁に訪ねるための理由が必要だった。引越し当日からテイクアウトにしてしまっては初手が弱い。
半ば強引ではあったが、意外にもあっさり許可が降りてひとまず胸を撫で下ろす。
一人暮らしを始めるということは今の共同生活の終わりを意味する。
この変化が、これからどのように影響していくのか泉にはまだ分からなかった。
今の居候状態よりは物理的な距離が拓くのは避けられない。きっと寂しさをもたらすだろうが、それと引き換えに、いつ解除されるともわからない不安定な居候状態から、確実に傍にいられるご近所さんとなったわけだ。
このとびきりの事実を持ってして想い人の身近に居つづけることで、いつか彼の中に自分の居場所を見つけることができるかもしれない。
買い物を終えて帰宅するやいなや、泉は湯を沸かしたり具材を用意し始める。
音川はキッチンカウンター越しに棒立ちになり、その様子をただ眺めていた。乾麺を茹でてつゆを温めるだけだから見ていても退屈ですよ、と泉に言われるが、ネギを切る手元や、惣菜の海老天を温めたりとくるくると舞うように動く姿を見ていると、温かい液体が広がっていくかのように胸がじんわりとする。
それは、泉の行動の目的が自分たちのためであるからこそのものだと、音川は気が付いていた。買い物の時点にすでにあり、もっと言えば、引っ越し蕎麦を作ろうと泉が思い立った時から始まっている。
——泉が、自身と音川二人のために考えて、行動してくれている——
それを実感すると、とてつもない喜びで体中が満たされていくのだ。
しかし、そのうち、この行動に自分が含まれなくなる日がくる。
泉はいずれ、手料理を振る舞う相手を一人暮らしの部屋に呼ぶこともあるだろう。音川のキッチンで作った料理を、音川が知らないその誰かのために、自室へ運ぶのだろうか。
想像だけで、先程広がっていた甘く温かい液体がとたんに酸味を帯びてくるようだった。
「これはどういう感情なんだろう」
「え?何がですか?」脈略のない音川の問いかけに、泉が手を止める。
「……俺のキッチンで、好きな人のために料理をしている泉を見ている時の俺の感情。それから調理を終えて、その人が待つ自分の部屋へ戻る泉を玄関で見送る時。全然想像できない」
「……どういう状況ですか、それ」
「な?わかんねぇよな」
「な?じゃ無いですよ。そんな状況はありえない」
好きな人のために料理をする姿を何度も見せている泉にとって、音川の問いかけは少し残酷だった。今、何の感情も持ち合わせていないということではないか。
「今はそうかもしれないけど、いずれは……」
「ありえません」
「どうして言い切れるの?好きな人に料理を振る舞いたいって言うからには、居るんだろ?」
「居ます。でも、音川さんが第三者視点でそれを見ることは無いです。幽体離脱でもしない限り」
「俺には見えないとなると……そうか。この部屋の鍵を渡したままだったね。俺の留守中にキッチンを使ってもいいが……」
「音川さんねぇ」と泉は大げさなため息をついて、独り納得している音川を睨む。「留守中に上がり込んでまで、そんなことしません。そうだ。鍵を返さなきゃ」
「いや、俺の仕事部屋には書籍もあるし、サーバーもあるだろ。好きに使っていいよ」
「じゃあ聞きますけど、音川さんこそ、僕を出入り自由にしておいていいんですか?誰か……あの時に言ってましたよね。ケーキバイキングに一緒に行きたい相手をここに呼びたいんじゃないんですか?」
「これまでキミがうちに居た期間にも、来客なんて無かっただろ。業者ならまだしも」
「今まで僕が居たから呼んでないだけでは?」
「やけに突っかかってくるじゃねえか。ほら、湯が湧いてるぞ」
指摘され、泉はぐらぐらと沸騰している鍋に蕎麦を入れた。
音川がこうして話を逸らすのはもう何回か経験済みだが、引っ越しの当日で、同居を解除して物理的な距離が生まれた日である今日は、いつものように冗談として流すのが難しい。
——いつか想いが通じるかもしれないという淡い期待が、突風で吹き飛ばされたかのようにパッと散ってしまう。
ハァ、と泉は大きめのため息をついた。
「こんなに暑いのなら、ざるそばにすればよかった」
「だから途中にあった蕎麦屋で買えばいいとあれほど……」
「最初が肝心って言うじゃないですか」
「まあ、俺はキッチンにいる泉を見ているのが好きだからいいんだけどね。ただ、暑くて大変そうだなあと」
「そ……それが音川さんの今の感情ってことですか?」
「うん?そうだね。見ていてちっとも飽きないよ」
「それ、忘れないでくださいね」
「忘れるもなにも、これからも作りに来るんだろ。少なくとも、ピエロギを食べさせてもらうまでは通ってもらうからな」
「音川さんのおふくろの味、ですもんね。そうだ、大阪のご実家へはいつ?」
「来月かなあ。まだ暑くてそんな気になれないんだ。部屋のマシン熱で余計に暑いせいもあるけど」
「必ず行きますから、決まったら教えてください。さて、そろそろ仕上げにしますね。時間的に夕飯になりますが……今夜は、出かけませんよね?」
「うん。土日はさすがに居ねぇだろうよ」
盆休みが明けてからの音川は、平日の在宅勤務を19時までに切り上げて、保木の目撃情報があった会社の最寄り駅周辺へと出向いている。
1ヶ月間経過しても見つからなければ、目撃情報を整理し直して探し方を変えるつもりだった。年内に何も無ければ、一旦捜索は取りやめるつもりでいた。安心はできないが、それ以上の闇雲な行動は無益に思える。
しかし、必ずどこかで決着をつけなければ、泉はこれからの人生を不安と共に過ごすこととなる。
才能のある若者であり、将来、表舞台に出てくる可能性が十分ある逸材だ。保木がその足かせになることは絶対に避けねばならない。万が一だが、音川の目が届かない場所で泉に再度接触しようものなら、どんな手を使っても解決すると音川は覚悟している。
「くれぐれも気をつけてくださいね。感謝していますが、心配で」
泉は出来上がった蕎麦を丼に移し、1階分下にある自分の部屋までにこぼさず移動させるためにラップを丁寧に被せる。
「襲いかかってくるわけでもないし、大丈夫だよ。逆にビビんのはあっちだろうよ。俺や速水は元から忌避されていたからな。じゃ、マックスさん、すぐ戻るよ」
二人は会話を続けたままで音川の部屋を出ると、エレベーターで泉の部屋へ向かった。蕎麦は音川が預かり、ボタン操作やドアの開閉は泉が請負い、スムースな役割分担だ。
「何をやれば保木さんに避けられるのか、デザイン部に居た頃に聞いておけばよかったです」
「いいか、保木がきみを狙ったのは、それだけあいつの中で重要だったってことだ。箸にも棒にも掛からない奴なら逆恨みの対象にはならないし、存在を思い出すこともないだろ」
「じゃあ僕も実質的には避けられていたんですかね」
「避けたくて仕方なかったと思うよ。でも彼女に近づくには他に方法がなかったから。デザインのみんなも、分かってたんじゃないかな。他の誰かでは、保木の抑止力にならないことを。だから、泉独りに彼女のボディガードを任せていた」
「それは、気が付きませんでした」
「キミはもう少し自分の価値を知ったほうがいいね」
「あ、ありがとうございます……」さっと頬を赤らめた泉を見て、この若者は、上司に褒められてこなかったのではないかと勘ぐる。部署が違う音川には想像しかできないが、当時のデザイン部門でのさばっていた保木は陰湿を専売特許のように使う男だ。現在も残っているデザイナー達も、なんらかの悪影響で、本来の力が発揮できていない可能性がある。音川は、彼らの状態を確認すべきだな、と心に書き留める。
泉の新居は1LDKで、音川が数年前まで住んでいた部屋と同じ間取りだった。分譲賃貸であるから元々の構造がしっかりしていて天井が高く、ベランダや浴室も広めだ。それでも、小さい冷蔵庫しか置けないキッチンや、シングルベッドが置かれた部屋は、いかにも単身者向けだ。
音川は懐かしさと同時に、微かな神経のひりつきを感じていた。それは、この間取りに触発されたものかもしれないし、全く異なるものかもしれなかった。
まるで、ここには音川の居場所がない。
リビングにポツンと置かれたコーヒーテーブルに丼を置き、二人で床にあぐらを組んで座り込む。
「家具類は、どうするの?」部屋をぐるりと見回して音川が問う。コーヒーテーブルとベッドの他には、音川が贈ったデスクとチェアがあるだけだった。無論テレビは無く、ソファも無い。
「当面はいらないかな。どうせPCデスクの前から動かないだろうし」
それはかつて若いプログラマーだった音川にも十分すぎるほど経験がある。食事も、連絡も、情報収集も、勉強も、たまの娯楽となる映画鑑賞も、すべてPCの前で完結してしまうからだ。時には睡眠でさえも。
「腰痛には気をつけろよ」
蕎麦を食べ終えると、音川は二人分の丼をトレイにのせて、自室へ戻ろうと立ち上がった。
泉にはもう、彼だけの生活があるわけで、食器を片すためだけに同行させるわけにはいかないと判断したからだった。
しかし、玄関先まで出てきた泉はそのまま音川に続いて部屋を出ると、ドアに鍵をかけた。
「ん?来るの?」
「はい。まだ……消耗品とか無いので。明日には届くはずです」
「ああそうか」
再びエレベーターで最上階へ戻り、泉はこれからも持ち続けることが決定した合鍵を使いドアを開ける。
「一人暮らしは、明日からでもいいですか?」
「うん。泊まるの?」
「そのつもりです。音川さんも家にいるし、早く夕飯も終わったので……何か観ましょうよ」
泉は出迎えに来たマックスを抱き上げると、額に軽く唇を当てた。長毛種の柔らかい額が鼻先をくすぐるのを感じながら、リビングへと入る。音川は食器を置くやいなや、早速酒を注ぐためのグラスを出していた。
「いいよ。最後の夜だ。朝まででも付き合うよ」
「最後って……」音川の返答に、泉は弾かれたように顔を上げた。
「そうだろ。明日からキミは自分の部屋で寝るわけで。ま、これまでも別室ではあったけど」
「最後……ですか?そんなの、僕は淋しい」
「たかだか1階分の距離だ。それに、一人暮らしをすると決めたのは泉だろ」
「音川さんは、淋しくないんですか?」
音川はほんの一瞬間を置いて、少しだけ下にある泉の双眸を見つめた。普段より大きく開かれていて、答えを待っている。
「俺よりも、マックスが淋しがるだろうね」
音川は泉の頭にふわりと手を置いてからすぐに離すと、そのまま泉に抱かれているマックスの頭を撫でた。
そうしておいて、ソファの方へと向かう音川の腕を、泉がぐっと掴んで引き止める。
「今日は、ごまかさないで。そんなことを言うとマックスさんを僕の部屋に連れていきますよ」
「人質か」
「そうです。答えを聞ければ解放します」
音川はため息を付くと、掴んでくる泉の手に、自分の手をそっと重ねた。
「昼間にリビングで会ったり、夜中にかすかな物音がしたり……泉の存在感がここから無くなるのは、淋しいよ。耐えられないかもな」
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