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第21話 壊したい関係
リクエストされた通り、音川は泉の背中をそっと撫で続けた。
マックスを撫でる時と寸分違わぬやり方だったが、それが良かったのか2,3度名前を呼んで肩を揺すっても起きる気配がないほど寝入り込んだ様子で、音川は自分の身体をそろりと抜き出すようにしてベッドから降りた。
元の位置に枕を差し込んで、うつ伏せ状態の泉に「おやすみ」と小さく声を掛け、寝室を去った。
自分用に客間に布団を敷きながら、頭の中では呆然と、(甘えさせてください)という泉の発言が無限にリフレインされていた。
——初めての感覚だった。
内臓がまるでトーストの上に乗せたバターのようにじわじわと溶けていくような、熱くて、甘美で。それなのにとても苦しく、痛みにも似た感覚。
泉相手だと、抑えろと自分に言い聞かせなければならないほど気持ちが高揚する。
音川は大きなため息と共にソファにどさりと座り込んだ。泉は音川の欲望など知らず、無防備に甘えてくるのは警戒心がない証拠だ。
俺は上司なんだから、と自分に言い聞かせる。
今のところ、それが最も効果のある薬だ。
翌朝、音川はジムへ行き、わざわざモーニングのために出てきた泉と合流した。
喫茶のママは、ここ数日顔を見せなかった2人をにこやかに迎えて、トレーニングウェアの音川にはゆで卵を2つ、後ろ髪を寝癖で跳ねさせている泉にはシャインマスカットを数粒サービスで出すと、そそくさとカウンターへ戻った。
そこから眺める2人は、なんとも絵になった。泉の大きな瞳はよく開かれ、まるで音川の注目を得よう必死に輝く星のようであるし、その瞳にぶつかると音川は照れたような苦笑いを浮かべて、少し視線を逸らす。
そして、お互いにそのことに気が付いていないのが初々しく、もどかしい。
「起きたら音川さんが居なかった」
喫茶のママは聞き耳を立てていたわけではないが、聞こえてくるものはしょうがない。お泊りしたのね、と密かに頷く。
「よく眠れたようで」
「客間で寝たんですか?ソファ?」
「客間。あの布団ちょっと硬いよな」
あらあら、音ちゃん奥手だったのねとママの目は少し驚きに開かれるが、続いた音川の返事に、こりゃ駄目だわ、と静かに首を振った。
「変わってやろうか?泉がベッドを使えばいい」
「独りでは広すぎます」
「兄のマックスがいるだろ」
「それでもまだ余ると思いますよ」
音川の朴念仁ぶりは今更だが、これ以上聞いていると音川を叱り飛ばしかねない。長年の客商売で手に入れた、意識して耳を遠ざける技を発動することにした。
「例の件、独りでどう対応するつもりだったのか教えてくれる?」と音川が切り出した。
「はい。色々調べたんですが、やはり証拠が無いとどうにもならないと言うことが分かったので……動画を撮ろうと思っていました」
「どうやって?」
「通勤用のリュックにカメラを取り付ければ、前方のものは全て撮影できるので」
「そうなるには、また保木に捕まる必要があるだろ」
「どうせまた襲ってくるから」
泉の回答は音川の想定内だった。
警察沙汰にするなら暴力を受けたという証拠は絶対で、自分が囮になるしかない。このなんとも矛盾したシステムは、今まで幾人もの被害者をだしてきており腹立たしいことこの上ないが、これが現実だ。
「泉の気概はとてもよく分かるし、俺でもそうしただろうと思う。だけど、この件は俺と速水に委せてくれないかな」
「しかし、話ができるような状態では……」
「俺と速水は、さほど警戒されていないだろうから突然殴りかかってくるようなことにはならないはずだ。それに会社の初期メンバーとして、何か別のアプローチが可能だと考えている。まあ、彼の言い分を聞いたところで同情はしないが」
「……わかりました」
「誤解しないで。きみ独りで対応できるのは間違いないよ。ただ、リスクを負ってほしくないというおにいさんたちの我儘だと思って。もう二度と怪我をしてほしくない」
「そんな……」
「でね、来週早々から、保木の目撃情報があった場所で待機しようと思うんだ。だから泉は出社を控えてほしい。念の為、独りで出掛ける時は俺の車を使って。とにかく事が片付くまではうちに滞在して欲しい。いいね?なるだけ急ぐが、こればかりは偶然を待つしかなくて……不便だろうけど」
「早く解決したいのは、間違いないんですが……」俯いたため、語尾が消え入りそうに窄んだ。
「どうしたの?」
「解決したら……音川さんと一緒にいる理由が無くなりますね」
「どのみち、一人暮らしするんだろ」
「します。でも——今、とても楽しくて。こんな状況なのに。僕一人だけ楽しいのかもしれませんが」
「そんなことはない」音川は即否定した。しかし、ずっと置いておくわけには——
それに、昨夜のこともある。あんな辛抱が毎晩続けばいつか神経が焼き切れてしまうだろう。
「今は良くてもすぐに嫌になると思うよ、俺ガサツだし」
「男の一人暮らしにしては、ずいぶん綺麗にしてる方じゃないですか?」
「長毛のマックスが居るからそうなってるだけ。物は極力置かない方がサッと掃除できて楽だから。換毛期はすごいぞ」
「面倒臭がりも極めると綺麗好きになる——」
「そういうこと」
少々話し込んだせいで普段のモーニングよりも滞在時間が長くなってしまい、日が高くなる前に帰るぞ、と席を立つ。
泉を先に外で待たせて会計をしていると、ふと、ママが音川の手首を掴んだ。何事かと顔を上げると、鋭い視線が突き刺さる。
「あんな可愛らしい子、離したらアカンよ」
音川は本の少しの間沈黙し、「かなんなあ」とつい釣られて大阪弁になった。ママも関西出身なことは知っていたが、普段は一切出さないから不意を突かれた。どことなく実家の母を思い起こさせるオーラの前で、音川は無力で素直になってしまう。
「俺、そんなに顔に出てる?」
「ぜーんぜん」ママはニヤリと笑って、音川の手首から手を離した。
喫茶の重いドアを後ろ手に閉めると、真夏の朝のギラついた太陽がアスファルトに照り返し、音川は襟に挿していたサングラスを掛けて、マンションへの帰り道を歩き出した。
眩しいのを我慢するよりサングラスを掛ける音川の方が自然だと言い切った1か月前の泉を思い出し、本人の顔を覗き込むと、小首を傾げて微笑みかけてくる。
ランチへ誘うこと、隣で歩くこと、共に食事をしながら話すこと、最初から全てがとても自然だった。
正直、泉が懐いてくれているのは違いないという自信はある。
でもそれはエンジニアとしての尊敬や、現在進行系で滞在していることへの気遣いからくるもので、昨夜突然甘えてきたのだって、泉の状況を考えると理解ができる。
特に心細い時、近くに自分よりも大きい人間がいれば抱きついてもおかしくない。特大のぬいぐるみに抱きつきたくなる感覚に、男女も年齢も関係ないだろう。
それなのに——
傷つき、不安に苛まれ、助けを求めている後輩に欲望を抱くなど許されないことだ。
一定の距離——会社の人間として適切な——を置くべきであるという常識と、泉への執着のような好意がお互いを攻撃し始めているが、音川には打つ手がまだ見つからない。
しかし、どうしても今の距離を手放したくない——
「物件探しはどう?進展あった?」
「いえ、まだネットで見ているくらいで。あ、そうだ。内覧が決まったら一緒に来て欲しいです。一人暮らしの先輩としての意見を聞かせてください」
「そうだねぇ。俺からアドバイスできるとすれば……」特段思い当たらないまま口を開いて、ふと、定期的に投函される管理会社からのお知らせに、販売物件の情報が掲載されていたことを思い出す。
断られたらそこそこショックだろうな、と音川の顔には無意識の自嘲が浮かんでいるが、一歩後ろにいる泉には見えない。
「うちのマンションには分譲貸しも多くて。俺も以前は下の階にある単身者向けの賃貸に住んでたよ」
「そうだったんですね。駅から近い割に静かで、良い場所ですよね」
「もし空き部屋があれば、越してくる?」
そういった途端に泉が音川の前に回り込んできて歩みを止められる。ぶつかりそうになる勢いで向かい合うと、泉はその場で跳ねるように足踏みをした。
「ほ、ほんとに!?もちろんです!音川さんさえ良ければ」
「俺は、」
音川は喉元まで出かけた『近くに居たいよ』という言葉を飲み込み、軽く咳払いをした。
「きみが、社員寮みたいだと思わないのなら」
「音川さん、僕、最初から開発部に配属されなくて良かったと思っていて」
「どうして?」
「完全に音川さんの部下になってしまったら——その時間が長ければ長いほど、もう関係性を壊せないだろうから」
「壊す必要があるの?俺が上司じゃ、物足りないとか」
冗談めかしている音川の両手を、泉はさらに握りしめた。
「茶化さないで」
「しかし、俺は間違いなく上司で……年も上だしね」
「否定はしません。でも、僕は、音川さんが僕たちを『部下と上司』という型に嵌めようとしているように見える。最初は、それに習って適切な距離をとるべきだと思っていましたが、そうじゃない。そうなってしまったら、取り返しがつかなくなる——僕、今ちょっと強気になってますね。すみません」
「いや、いいんだ」
その型を壊せるものなら壊したいのは、音川の方だ。
「社員寮だなんて、思うわけないです。建物全体の視点で言えば、同棲みたいなものです」
泉はそう言うと音川の手を離し、軽快に駆け出す。マンションはすぐそこだ。
「あ、の……泉くん。『同居』の言い間違いでは?」という音川のつっこみは届かないようで、「早速聞いてみましょうよ!」とエントランス前で手招きしている。
オートロックを解除し、ロビーのすぐ左手にある管理人室の呼び鈴を鳴らすと、中から「はいはい」と年配の男性が顔を出した。
どことなく恵比寿様を思わせる管理人は、音川の問い合わせにその場で会社に電話を入れてくれた。
単身者向けとされる1LDKの部屋が2つ空きがあり、どれも今すぐに内覧可能だった。膳は急げという音川の打診はにこやかに受け入れられ、その場ですぐに管理人と連れ立ってエレベーターに乗りこむ。
部屋はどちらも同じ作りで、これと言った差は無かったが、1つは3階でもう1つは6階。
泉は6階の部屋をその場で即決した。階段を使っても、音川の部屋まで3分だ。
「住人の紹介でしたら初期費用が抑えられたはずですよ」と管理人は顔を綻ばせ、ますます恵比須顔になる。
改めて担当者から連絡があるということで、泉と音川はそれぞれの携帯番号を残して管理人室を後にした。
「本当にいいの?」
「当然じゃないですか!音川さんの部屋に入り浸れる上に、一人暮らしも経験できるなんて、これ以上の好条件はありませんよ!」泉は興奮冷めやらぬ様子で、頬を紅潮させている。音川は、先ほどからチラチラと頭によぎっている、この要望に強制力があったのでは、という疑念を捨て去った。
「嬉しそうでなによりだよ。でも単身者向けの部屋は、猫が飼えないよ」
「マックスがいるし、実家にも3匹いるし、十分すぎますよ」
「あ、実家といえば、週末に一度帰ったら?車出すから」
「そうですね。着替えも欲しいし。でも猫たちの顔を見る程度でいいです。母とメッセージのやりとりはしていますし」
「男の子だもんねえ。よっぽどのことが無い限り心配はされないか」
「それに、やっと実家を出るとなれば手放しで喜ばれます」
そう軽やかに言いながら、泉は客間へと入っていった。仕事を開始するつもりらしい。
音川はまずジムでの汗を流すためにシャワーを浴び、すっかり仕事モードに切り替えた。課長から状況のアップデートがあり、明日の出張は手ごわそうだと覚悟する。
「新幹線、予約しましたので」と仕事部屋のドア越しに泉の声が聞こえてハッとなると、もう陽は傾いていた。
その夜も結局近所で外食となった。翌日が出張で、翌々日は飲み会だから食材を買うわけにはいかないから、泉による自炊はお預けだ。
しかし、泉からすれば音川の胃袋を掴む機会は多い方が良いわけだが。
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