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第25話 とめどない想いに立ちすくむ
「僕と同じだ」
そう呟く泉の手の甲を、音川は指先でなぞった。華奢に見える割にゴツゴツとした骨と骨の間で、意外にも太い血管が動く。プログラミングをやってきた人間独特の長く硬い感触。音川も恐らく似たようなものではあるが、泉の皮膚の方が滑らかなのは間違いない。
「それは……どうかな。俺は傷ついた状態のきみを強引に家へ連れてきた。それに、上司であり副業のパートナーであり、若い世代の自立を手伝うのは当然で……だから淋しいと思ったのは……一時的な、単なる離別感だろう。拾ってきた猫だって、3日も経てば情が湧く」
そう言いながら、音川は自身の腕をまだ掴んでいる泉の手を持ち上げておいて、自分の方へ力強く引いた。そのままバランスを崩し倒れ掛かる身体を、そっと抱き締める。
その時、音川の頭の中に <カチリ> と幻聴が響き渡った。
それはちょうど手に持ったジグソーパズルのピースがそこに合致した時に得る幸運のような、頭の中で組み上げたロジックが一発でコンパイルに成功した時の爽快感のような、飛び抜けた正確性にぶち当たった時に生まれる快感だった。
両腕を狭めると、さらに密着する身体から身体へと流れる温度と、吐息の湿度。すべてがぴたりと寄り添い、こうあるべきだと全身が訴えてくるかのようだ。
泉は、音川の言葉とは裏腹なこの行動に、ただなすがままだった。
触れ合った胸から伝わる鼓動、背中に置かれた手のひらの熱さ、髪に差し込まれた指先の優しさ。
自分より大きな骨格を持つ男からの抱擁は、寛容をもたらし、情熱に油を注いでくる。それなのに。
「直ぐに忘れるさ」
広い鎖骨に顔をうずめた泉の耳に囁かれた、冷たい言葉が胸をえぐる。
「……わかりました」
泉はくるりと素早く向きを変えて、矛盾しかないこの男の胸を離れ浴室に向かった。まだ服を脱ぎ終わらないうちに、大急ぎでシャワーのコックをひねる。
そうしておけば、みるみるうちに両目に溜まってくる涙が頬に流れ落ちる前に洗い流せる。こらえきれない嗚咽も、水音で掻き消すことができるはずだ。
どんなに冷たくされても、音川に対するこの慕情を諦めるつもりは毛頭無かった。思いやりを勘違いして期待してしまうのをやめない限り、傷付くことは避けられないのは分かっている。
それでも、さっきのように抱きしめられたら……
時折、音川が泉に表す優しい言動は、旧知の速水や阿部に対するそれとは異なる特別さを感じることがある。しかし冷たく突き放されるのも、知っている限り自分だけだと泉は自覚していた。
どちらが本心なのか見せてくれない男を恋しく思う辛さに、再びツンと鼻の奥に痛みが走り涙が勝手に出てしまう。
すぐに忘れると音川は言ったが、たった1階分の距離だ。忘れる隙を与えないための手立てはあるはずだ。
もっと強くなれ、と泉は自分を叱咤しながら、熱い湯を頭からかぶった。
リビングに残された音川は、注いだばかりだったラムを流しに捨てた。
今しがた自分が放った嘘は、口内に苦々しさを及ぼし、酒を飲む気を消滅させた。
これまでの人生で覚えている限り、意図的に嘘をついたのは初めてだった。
それを、最も大切に思う相手に行わなくてはならなかったことが、悔しくて、悲しかった。抱きしめたのは、衝動が止められなかったからだ。口ではなんとでも言えても、身体は言うことを聞かなかった。
窓辺に立ち、夜景を眺めても映像は頭に届かない。
常に泉の存在を感じながら過ごしたこの2ヶ月あまりの期間は、音川にとってかけがえのないものだ。8歳年下の部下は、無機質だった音川の生活に、丁寧な温かさをもたらしてくれた。
生涯、忘れるわけがない。
音川は知らずうちに自分の両手を眺めていた。今しがたまで胸に抱いていた泉の堅くて温かい身体を思い出そうとしても、そこにはなにもない。離れたのは泉だったが、そうさせたのは音川がわざと冷たく伝えた言葉だった。
無理やりに皮膚を剥がされたような痛みと、あるべきものを不本意に奪われた違和感。
非常に、不快だった。
「おまえも淋しいか」マックスを抱き上げると、短く鋭い鳴き声で返されてしまい、まるで避難されている気になる。
「でもな、マックス。こうするしかないんだよ」小首を傾げる愛猫に向けて音川は続けた。「俺の発言には強制力が伴うんだ。俺達の関係に少し似ているのかもしれないね。お前のために何でもしてやるが、お前は俺からしかメシを貰えないだろ。この……立場の違い、わかるか」
言葉が通じない愛猫は、ふわふわの頭を力強く音川の顎下にぶつけておいてから胸を思いっきり蹴って飛び降り、廊下へと駆けていった。
入浴中の様子を見に行くのはいつものことだったが、今夜は何かを訴えかけるように大きめの鳴き声を上げている。
それがしばらく続いているものだから、不審に思った音川が廊下へ出てみると、バスルームの扉自体が閉まっていて、マックスはその前でまるで犬の遠吠えかのように室内に向かって『開けろ』と要求していた。普段からマックスのために少しだけ隙間が開けてあるはずだから、いつもと違うことを不審に思っているのだろう。
しかしマックスだって慣れなければいけない。
今夜を最後に、泉がこの浴室を使うことはないだろうから。
可哀想だが今は放って置くしかないと音川がリビングへ戻りかけた時、「ごめん、もう少し待って」と中から泉がマックスに返事をするのが聞こえた。
それは、いつものハキハキと小気味よい話し声ではなく、少し鼻にかかったような、くぐもった声で。
音川は咄嗟に振り返った。
浴室の扉は、泉によって意図的に閉められていた。マックスに鳴かれるのは承知で、この醜態を音川に気取られたくない一心での封鎖だ。
少し冷たい言葉を投げかけられたくらいで涙が出てしまうなど、上司からすれば扱いにくい部下以外何でもない。その烙印を押されることなど耐えられない。
それなのに、湯で流してもタオルで拭いても涙はとどまることなく両目に溜まってくる。
遠吠えのように続いていたマックスの鳴き声が、ニャ、と途中で途切れたその時、「開けるぞ」と外から音川の硬い声が掛かり、バスルームの引き戸が大きく開けられた。
思わず振り返った拍子に、熱い雫が顎からぽたりと落ちてしまった。
「……泉」
耳元で名を呼ばれ、ようやく泉は自分の身体が、再び音川に抱きしめられていることに気が付いた。
「どうしてきみが泣くんだ」
音川の低く滑らかな声は耳から背中へと甘い痺れを引き起こし、何か発しようと口を開くが言葉が出てこなかった。
その代わりに、音川の背中へ両腕を回してしがみつく。
再び名を呼ばれ、こそばゆさに身を捩ると、少し高い位置にある音川の唇が額に触れる。
音川は泉のおとがいをつまみ顔を上げさせ、両目をじっと見つめてくる。質問の答えを待っている様子はなく、ただ、何か苦痛を堪えているように泉にぶつけられるグリーンの瞳は、いつもより少しくすんで見えた。
違う、こんな色ではないはずだ。泉がいつも見惚れてしまう音川の瞳は、新緑のようにもっと鮮やかで、眼底まで透けそうなほど澄んでいて——
「ッ……いず、み……?」
なぜ泣くのかなんて無粋な問へ、返す言葉など無い。
泉は、音川の薄い唇をついばんだ。
自分がこういった行為に不慣れなのは分かっているが、今はこれ以上自分の気持ちを正確に伝えられる手段が思いつかなかった。
そのままなすすべなく触れ合わせたままでいると、全くの無抵抗の音川に気付き、急激に自分の無我夢中の行いを恥じて後悔の念が湧いてきた。
急いで唇を外すと、ふいに、音川の指がおとがいを強く押してきた。下顎が引かれ、強制的に唇が開かされる。
こうして唇を薄く開かされているのは、音川なりの優しい拒否なのだろうか。強い力で顎が固定されて泉は発言をすることも、身体を離すこともできない。
音川が下す判断を待つしかない不安な状況で、しかし音川は無言のまま、じっと泉の瞳を覗き込んでくるだけで。
どうしようもない不安に苛まれ、泉は両腕に力を込め、音川の広い背中を強く抱きしめた。この不安を拭えるのはここにいる男だけだ。自分でどれだけ強がっても、音川の一言動だけで無にされてしまうのだから。
先ほど音川の胸から逃れたのは、情けない姿を見せて失望させたくない一心からだった。涙を見られ、唇まで触れてしまった今は、もう何も取り繕う必要は無い。
離したくなかった。離してほしくなかった。
腰に回る音川の腕から伝わる熱が、さらに上がったように感じた時、耳に微かに吐息が吹き込まれた。
「こんなに心地よい抱擁は知らない。何もかも全てを正しいと感じさせる」
微動だにせず、音川が囁いた。
吐息は耳をかすめ、唇にも流れてくる。その刺激だけで下半身にぞくりと快楽の振動が走る。
気づかれても構わないと覚悟を決めて、泉は半裸の両足を少し開いて、音川に下半身を寄り添わせた。
唇に触れて欲しいと、喋れるものならなりふり構わず懇願していただろう。
「なのに……俺は」
音川の手が髪の毛に差し込まれ、頭ごとぐいと強く引き寄せられた。
合わせられた唇は、熱く——
信じられないほど恍惚感に全身が弛緩してゆくのを感じながら、さらに小さな水音を立てながら何度も角度を変えて深く合わせられる唇に、頭の芯までもしびれていく。
「お、とかわさん」
「ん……ごめんね」
口づけの合間に囁かれる謝罪の言葉に不安を募らせ、泉は自ら進んで唇を開き、音川の歯列に舌で触れた。勇気を振り絞って差し出した舌は、音川によって絡め取られて口内へと連れて行かれ、そのまま舐められ、吸われ、くすぐられる。
快感にいよいよ立っていられず、洗面台の縁に両手を置いて身体を支えると、音川の抱擁が解かれた。名残惜しく今すぐに縋りつきたいが、支えている手を離せばこのままずるりと床にへたり込みそうだった。
見られていると自覚すると、全身を薄っすらと汗が覆い、微かな震えは止められず、下半身は形を変えてさらに主張してくる。そこは音川の熱く鋭い視線を受けると、ひくりと反応してしまう。
「綺麗だ」
眼前の男は恍惚の目を向けてきながら賛辞の言葉を口にした。鋭い視線は、泉の身体を刺し貫くようにそこに貼りつける。
「触って、くれないんですか……」
あまりに扇情的な言葉を投げかける泉にあてられ、音川は一瞬くらりと目眩がした。
「……もし僕が職場の後輩でなかったら……今夜限りの相手だったなら……抱いてくれましたか。音川さん、そういうの慣れていそうですもんね」
(こいつは——)
音川は泉を更に睨みつけた。
その鹿のようにすっきりと伸びた両足を開かせ、音川がそこに何をしたいのか——
この耐え難き欲望を、奥歯に血の味を錯覚するほど顎を食いしばり、ギリギリのラインで理性を保っている男が目の前に居ることを分かっているのか。
「おまえね、酔ってそんなことを言うんじゃない。男に抱かれ慣れている風には、到底見えないよ」
自身の欲望を押さえつけ苦々しさを表情に残しながら、音川は努めて優しく諭す。
「酔っていません。確かに、経験はありません。でも、音川さんはキスを返してくれたから。だから僕は、音川さんも……もしかしたら……」
「……うん、ごめんね」
「どうして謝るんですか。僕は揶揄われたんですか?」
「そういうのじゃないよ……でも、冗談の方が良かったかもしれないね。俺が無神経だった。これまでずっと堪えてこられたのに、もうあんなことはしないから、心配しないで」
「何を言って……」
「職場の上司からのキスなんて、相当に不快だっただろう。力で押さえつけるようにして……きみが逃げないように。二度としないと約束するが、人事に申し入れるならそうしてくれ。ただ一点だけ訂正。俺はワンナイトなんて、無責任な性欲は持っていませんよ」
「音川さん……どうして責任を自分になすりつけるんです?僕は……あなたが考える上司としての倫理観も、モラルも、社会的立場も、全部クソ喰らえです。そんなありふれた優しさはいらない。ぐちゃぐちゃに壊してやりたい」
強い泉の言葉を受けた音川は胸を上下させ、大きく息を呑んだ。が、獲物を前にした豹のように微動だにしない。
愛していると伝えることができたなら、どれほど救われるか。
しかし、部下を愛することは——音川にとって、どうしようもなく禁忌だった。
それは泉を大切に想うほどに強く、音川を抑止する。
職場で悪く言われるのは、いつだって立場の弱い方だ。泉を守ろうとすればするほど、妬みは加速する。
ただでさえ音川の片腕として異例の出世だ。あることないことが噂され、細刃のように泉を傷つけるだろう。
どれほどの実力があろうとも、企業でのソフトウェアの開発は独りではできない。
孤高と孤立は、ずいぶんと違う。
「聞かなかったことにするよ。俺は……部下に手を出すような人間じゃない。きみは、誰よりもそれを知っていなければいけないんだ」
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