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第27話 But We Keep Walkin' On
毎週土曜日の午前中、部屋のチャイムが鳴るのを待ちかねているのは、何もマックスだけではなかった。
玄関のドアを開くと、遠慮をしているのか開き直っているのかさっぱり分からない曖昧な笑みを浮かべて、泉が立っている。
音川から預かっている合鍵を使うことはせず、毎週末、こうしてきちんとチャイムを鳴らして、来訪を知らせる。
「いらっしゃい」
努めて事務的に迎え入れると、丁寧に靴を揃え終えた泉が、足元にまとわりつくマックスを抱き上げて額に口元を寄せる。音川の愛猫はこのパターンを記憶したようで、土曜の午前中は彼が来るまで部屋中をそわそわと歩き回るのだ。
「音川さん、先日はありがとうございました。おいしかった」
「ああ、保木からの……もう、何も心配しなくていいから」
「詳しく聞いても?」
「うん、そうだね」
泉をリビングのソファへ誘うと、音川はカフェテーブルに腰掛けて向き合う形で落ち着いた。
そうして、保木との会話をかいつまんで泉に伝える。
自分を囮にして再び襲われたところを警察へ駆け込むしかないと想定していた泉にとって、音川が選んだ手段はあまりにもスマートで、眩しささえ感じた。
仕事でも折衝案件において音川はいつでも賢明で巧妙だ。それがプライベートでもいかんなく……自分のために……発揮されたと思うと、泉は音川への気持ちがさらに高まるのを止められなかった。
これまでも、音川から特別な扱いを受けているという自覚はあった。
そこに熱い情があると知ったのは、音川から抱擁と口づけを受けたときだった。
猛烈に登り上がった喜び。
思い出すと、未だに身体の芯がカッと燃えて全身が総毛立つ。
しかし、あの夜——
歓喜し、暴走した泉の気持ちと欲は、賢明な音川によって絡め取られ、すべて音川の責任だとすり替えられた。
もしも強引に音川を誘い——泉の欲のままに関係を持っていたら、音川は自制心を失った己を許せず後悔の海に沈み、泉にその片棒を担がせてしまったことをいつまでも深く悲しむ羽目になっただろう。
泉は音川による拒否の後、居た堪れずに自室へと逃げ帰り、新品のベッドに倒れ込んで激しく嗚咽した。
音川の上司としての立場を一番に理解せねばならないと知っていたのに、身勝手で酷いことをしてしまった自責の念と、とめどない悲しみと悔しさが押し寄せ、もう二度と顔を合わせては貰えまいと覚悟までした。
しかし、翌週の月曜日に音川は全てを水に流したかのように的確な業務指示を泉に与えて、わざわざ個別相談のためにオンラインミーティングを設定した。
そこで、朝のモーニングに泉が顔を出さなかったことで、副業の話ができなかったのを残念がってみせたのだ。
エンジニアとしての繋がりを、決して途切らせないという彼の強い意志を感じた泉は、どんな苦労をしてでも、音川の片腕を脱却して一人前になってやろうと誓ったのだった。
音川と肩を並べることができたなら、もう誰にも邪魔はできまい。音川本人を筆頭に、技術責任者である音川に見合うのは泉しかいないと周囲から認知されれば、音川のモラルという見えない鎖を解くことができるはずだ。
もしその時再び——立場上の倫理観など言い訳にできない状況においてさえ、泉を拒否するのであれば、気持ちを生涯封印する。
年々遅くなる秋の訪れを象徴するかのように、リビングから覗く空には入道雲が湧いている。
それでも、真夏に比べると空は高く、湿度は落ち着いて来始めた。まだ半袖は手放せないが、暑すぎることはない。いい季節だ。
音川はテーブルに腰掛けると両肘を膝において、手を組んだ。向かいでソファに座る泉との距離が少し縮まるが、目を合わせられずに軽く俯いた。
「それで、俺からもきみに何かお祝いを贈ろうかな、と」
「なんのですか?」
「無事に解決できたし、それにあんなスナックじゃあ、怪我の痛さと釣り合わないから」
「いや、僕が音川さんにお礼をするのなら分かりますが……」
「それは不要だ。俺が自ら首を突っ込んだだけのことだから」
ですが、と泉はさらに続けたかった否定の言葉を飲み込んだ。道理が通らないが、音川がこの一件落着を喜んでいるのは間違いない。いつもの週末に繰り広げられる通夜のような副業の作業と違い、今日の音川は少し嬉しそうで。
それを打ち消すのはどうしてもできなかった。
「本当に、いいんですか?」
「うん。なにか欲しいものがあれば、遠慮なく言って。なんでも」
「なんでも?」
「うん」
「では……まだ無効でないのなら……ピエロギを習いに行きたい」
弾かれたように、音川が顔を上げる。胸が跳ね、動悸が上がった。
「それは……」
「僕は何も変わっていません」
音川は両手を白くなるほどキツく握りしめた。そうでもしなければ、ここで抱きしめてしまいそうだった。
一度も使われていないスタンドミキサーは、まるで幸せの象徴のようにキッチンカウンターの上で存在を主張し、音川に、あのこそばゆい嬉しさで満ちていた——新婚のようだった——日を思い出させてくれている。
速水と高屋の体調を慮ってインドの件の後始末を買って出たため、二人共いまだに夏季休暇を取れず仕舞いで、まだ5日間そのまま休暇を残してあった。
猫がいるため外泊は限度があるが、どこかで土日と合わせて1週間の休暇を作ろうと話し合う。
そして、副業の方で勧めているカウンセリングアプリは、泉を迎えてから開発速度に拍車が掛かり、いよいよ最終フェーズに突入しつつある。1週間没頭できるなら、完成までかなり近づくだろう。
技術責任者である二人が揃って休暇を取るには、多少の調整が伴うが、そこには少しの運があった。
開発環境のデータベースリフレッシュが実施されるため、1週間のダウンタイムが計画されている。音川と泉はそこに携わっておらず、異常事態に連絡さえつけばよかった。
いそいでそれぞれ社用PCを持ち出して、揃って休暇申請を行った。
「ありがとう」と音川が低くぽそりと呟いた。
母親からは鬼電の如く、いつ連れてくるのかと急かされていたが、あんなふうに拒否をした後でどうして誘うことができただろうか。
「でも、これじゃ、プレゼントとは言えないよ」
「そんなことはないです。早く連れて行ってほしかったから。約束していたし……」
「そうだ、ね」
「ケーキを食べに行く約束も、覚えてくれていますよね。その絞った身体は、たぶんあの日に言っていたことを……」
「まあ、うん。否定はしない。でも俺は……それが終われば……きみとの約束が無くなってしまうから」
「音川さん。あの、もう一つ、僕の願いを言ってもいいですか?」
「あ、ああ」
「今は、正直……とても辛いです。でも、前に進むことはできると思う。だからこうして……約束を一つずつ叶えていきませんか?そして、次の約束を結びましょう。僕は……僕は、絶対に……」
語尾が震え、ぽたりと泉の双眸から涙が床に落ちた。
「音川さんを諦めない」
きっと上げた眼差しが、音川の心臓をずぶりと刺す。
きみを愛している———
喉元までせり上がる言葉の代わりに、音川の瞳から一筋の涙となって流れ落ちた。
泉は、その新緑の瞳が濡れていく様子に見惚れた。この世で一番美しい造形。
どんな葛藤も、苦悩も、全て受け止めてしまいたかった。
別れ際の時のように差し出された音川の手のひらに、頬を擦り寄せた。
親指で目の下をそっとなぞり、涙を拭ってくれる。
週末の度に触れてくる優しい手と瞳は、物言わぬ音川に代わっていつも雄弁だった。
去らないでと伝えてくる。
その数秒の交流だけをかけがえとして日々を過ごしている泉にとって、音川が約束を叶えてくれることは、何よりもの褒美だ。
同じように片手を伸ばし、音川の削がれた頬に触れた。
濡れた瞳を覗き込み、まだ好きでいてもいいですかと、目だけで問うと——
音川は少し顔を傾け、手のひらに微かな口づけをくれた。
そうしておいて、泉の好きな自嘲気味な微笑みを浮かべながら、横目で見つめてくる音川には恐ろしいほどの色気が漂い、身震いするほど魅惑的だった。
いつかの二の舞いだけは避けるべく、二人はその場を離れ、仕事へと意識を切り替える。
アプリケーションの開発は佳境に入っている。
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