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第30話 夢ならば醒めないで

「音川さ、ん……」 唇を離すと、泉が名を囁く。 心が通った後のキスは格別で、自他共に認める甘党の音川だが、ここまで甘い口当たりのものは知らなかった。 このままでは抱き締め潰してしまうかもしれないと怖くなり、音川は無造作に立ち上がった。肩に頭をもたせかけてきている後輩を膝に乗せたままで、その予想だにしない行動に驚きの声があがる。 「ほら、ちゃんと掴まってて」 ずんずん部屋に踏み込んだ音川は、膝を突くと上体を倒し、泉の身体を布団へ寝かせた。 首に両腕と腰回りに両足が巻きついたままのため、覆い被さる態勢だ。 「もう落ちないよ」 音川にそう言われて、自分の背中がすでに布団の上であることにようやく気付いた様子で慌てて身体を離す。 そのくせ、音川は微動だにせず、泉を見下ろしていた。長く密着することは危険だと分かっていても、離れ難かった。 しばらくそうしていると身体の下で泉がもぞりと身を捩り、硬い太ももが音川の下半身に触れる。これが限界だと音川はようやく身を引き剥がして隣の布団に仰向けに倒れ込んだ。 『部下に手を出すような人間じゃない』そう言ったのは己でそれは真実だったが、しかし、肉体的にも恐ろしいほどに泉に惹かれているのも事実だ。 しばしの煩悶の後、音川は一際大きいため息をついた。 これまでの自分なら、ここで布団を引き離してさっさと寝てしまっただろう。 ……紳士的な行動と言えなくもないが、今、それは正しい選択肢では無いはずだ。 音川は枕元に置かれたスタンドライトの灯りを落とした。 漆黒の闇が落ちる。 しかし目を閉じても眠れる訳無く、自分の心臓の音に集中していたが、このまま無言で横たわったまま朝を迎えてしまったら心臓がオーバーヒートして燃え尽きるかもしれないと思い、口火を切った。 「……もう高齢で週末にしか開けていないらしい。今回来られてよかったよ」 「音川さん家族が通っていた喫茶ですよね?」 「うん。俺はもう数年ぶりになるかな」 「最初に音川さんからその話を聞いたとき、価格的に下町のタバコ臭い店を想像してしまいました」 「そうだろうな。大人になってから知ったが、このあたりの地主の道楽だってよ。ミックスジュースが絶品なんだ。俺の甘党の始まりは間違いなくそれ」 「楽しみです。早く寝たら早く朝がくるかもしれない」 この話題は、肝心なことから自分の意識を誤魔化すための雑談であったが、泉の思わぬ無邪気な反応に音川は目を細めた。 いつものように自分を誤魔化し続けてきたことが、悪い癖として今後に残っては不味い。 音川は軽く咳払いをして、状況に向き合うことにした。 「俺は、まだ眠りたくないかな。今夜は……どうしたい?」 薄掛けがぱさりと擦れる音がして、泉の身体が音川へと向くのが分かった。 泉が望むことは何でもしてあげたいし、望まないことは何一つしない。 「あの……、手を繋いで寝てもいいですか?」 その控えめな泉のリクエストに、音川はぎゅっと心臓を掴まれたような気がして胸を咄嗟に押さえた。 「……ダメですか?」 「いや、そうじゃないんだ」 音川も身体ごと横に向けて、泉に向き合う。 「ベッドで手を繋いでいる方が……より深くて貴重だと思って」 「何と比べて?」 「それはそのうち」 音川は右手を滑らせて泉の左手に触れると、指を絡めて、優しくなぞった。 「朝が少し怖いな」 「どうして?」 「目が覚めたとき、自宅の自分の寝室だったらどうしようと考えてしまう。そもそも泉がここに来たいと言ってくれた時から……ずっと、俺にとって都合が良すぎる気がしているんだ」 「落語の夢落ちじゃあるまいし」 「若いのに落語を知ってんのか」 「音川さんの本棚にあったから興味を持っただけで、そんなに知らないです」 「あれは元々ヘンリエッタのだ。あんなコテコテの大阪言葉を話すのは、そのせいだろう」 「どことなく上品な感じもしますが」 「本人に言ってやって、喜ぶよ。ちなみにポーランド語で話している時は俺が叱られていると思って」 ふふ、と泉は小さい笑い声を立てた。 「音川さんに好きだと言ってもらえて、夢じゃないかと疑っているのは僕の方です。あの……聞くのは怖いけど……」泉は絡ませた指にぎゅっと力を入れた。 「音川さんは、本当に僕でいいんでしょうか?さっき、『生涯』って……」 「ん。ここは俺の実家だし、両親に誓って本心だよ」音川は身動ぎ、少しだけ距離を詰めた。 「僕は……あの引越しの日……自分勝手に欲望をぶつけたりしたから、もうダメだと思った」 「泣かせたのは俺だ。きみが離れていく悲しさと、離れることが正しいのだと訴えてくる理性とがぐちゃぐちゃに混ざり合って……俺は、あの時たぶんきみに求められていて……何よりも俺自身がきみを欲しているのに、そばにいてくれと言えない自分が、心底嫌になったよ」 「音川さんは、いつから僕を……?」 「んー」と音川が喉を鳴らし、その低い振動が泉の胸をくすぐる。「あのね、最初に2人で会議通話をした日に、きみが少しだけ口を滑らせたの、覚えているかな」 予想だにしなかった問いに泉は小さく唸った。本人にとっては些細なことですぐに思い出せなくて当然だろう。 「きみは少し慌てながら、『画面共有するね?』って、まるで子供かペットにでも話しかけるような柔らかさで俺に言ったんだ」 「思い出しました。すごく恥ずかしかった……」 「その時、大きな波がぶち当たったような……きみに対して可愛いという感情が一気に押し寄せて、俺の意識を全部どこかへ持っていってしまった。危うく、声に出して言ってしまうところだった」 「あの日は本当にすごく緊張していたんです。朝だったからか、ヘッドフォン越しの音川さんの声がとても低くて少しざらついていて……背筋が震えるほど男らしく、かっこよくて。頭が真っ白になったんです。でも、仕事では絶対に認められたいし、もうどうしていいか……」 「俺も泉のやさしい声が好きだよ。気持ちがとても落ち着く」 暗闇でも分かる熱い視線を受け、音川はゆっくりとまばたきをして、続けた。 「俺は、個人的感情を会社の人間に抱いてしまった自分にかなり戸惑った」 「では今まで、社内恋愛は?」 「全くねぇよ。責任ある者が部下に惚れたところで碌なことにならないのは、泉も十分知っているでしょ。まあ、俺はそもそも仕事関係者をそういう対象に見られない……と、確信していたんだが……」 「音川さんが、優しかったり冷たかったりしたのは、それで?」 「だろうな。まるで自分が自分でなくなるような奇妙な感覚が恐ろしかった。そのせいで、俺自身でも気が付かないうちに泉に辛く当たったかもしれない。情けないよなあ」 「そんなことはないですよ。音川さんが少し壊れちゃうのって、僕の前だけってことに気が付いたので。特別な感じがして、もっと好きになった」 「壊れるってなんだよ」音川が愉快そうに言う。「まあ、自覚はあったけど。もうね、きみの何もかもが愛しくなってしまって仕方なかったんだ。部下に……急激に恋に落ちていく自分が受け入れがたくて、でも、それは異常な快感で。なあ泉。いつかきみが、なぜ結婚しないのかって聞いてきたことがあっただろ」 「はい。性格に難があるって音川さんにはぐらかされた」 「あれは、俺自身が正しい答えを持っていなかったんだ。でも、今なら答えられる。俺が愛や恋を完全に理解できていなかったからだと」 「音川さん、『恋に理屈は通用しない』んですよ」 「結局蓋を開けてみればそういうことだったんだ。世の中はすべて正論や理屈で成り立っているわけじゃない。論理が必ずしも幸せや喜びの結果を導くとは限らない。問題は、自分を変えることができない俺にあったんだ」 「今はどんな気分です?」 「泉のその透明な瞳に見つめられると、すべてかなぐり捨ててありのままの自分で居たくなる。きみに関わることができるのなら、論理や理由やモラルさえ、もうどうでもいい」 音川は、繋いだ手を口元に持っていき、そっと口付けた。 「好きだよ、とても」 「……僕も、です。最初は一目惚れだったけど……」 泉は、新入社員研修の合間に、音川と交わした他愛のない会話を再現して見せたが、音川は首をひねった。 「それ、本当に俺だった?」 「間違いないです」 「新入社員の前で来客用のコーヒーを使うとは俺らしくないが……。いや、泉からすれば俺らしいのか——なにか、本能的なものが働いたのかもな」 「あの日、窓辺で夜景を背景に立っている音川さんを何度も頭の中でデッサンしていたんです。目が緑色に輝いて、まるで夜を歩く豹のようで……すごくカッコよかった。完全に、一目惚れです」 音川は、はにかむしかなかった。 泉は、素直さに拍車がかかったようで、まっすぐな言葉で伝えてくる。 社会的な立場に捕らわれて——それは正しい判断ではあったが——行動に移せなかった音川とは正反対だ。 しかし、悩み、葛藤してきた時間こそが泉への気持ちを確固たるものにしたのだ。 有限である時間全てを捧げたいと思うほどに。 「少し自信が付いた。眠ってしまっても、同じ朝を迎えられる気がするよ」 「僕もです」 「ん……おやすみ」 音川は身を起こし、軽く泉の目元に口付けをして囁いた。 「……おやすみなさい」 しっかりと絡ませあった指が朝まで解かれないことを祈り、二人は目を閉じた。 そして音川は、記憶の中に宝石箱を一つ用意して、今夜泉から貰った言葉すべてをそっと仕舞い込んだ。 この恋に、人生をかけようと覚悟した瞬間だった。

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