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第27話 また、ふたりで食べたいね
音川は泉のキャリアと将来性を、私情よりも上位に置いた。
誰よりもそばにいたい、という感情を振り切り、自分を律することで、彼への想いを貫くことが正しいと判断した。
泉を傷つけることになっても、だ。
それでも——分かっていながら、傍に居たいという本心を伝えたかった。
私情を押し殺すことでしか、進めない関係であっても——未来を信じてほしいと願った。
音川と同じマンションに暮らすようになれば、保木の件も心配がいらないと明るく言った彼を思うと胸が痛む。言葉や態度の端々から、音川の存在に安心を抱いてくれていることは分かっていた。
保木の件は、この期間内で必ず解決すべきであった。まさか出向について情報が漏れることはあるまい。泉にしても、東京の雑踏に紛れて生活するほうが、この件を忘れていられるのではないか。
未知の環境で、それも初めての出向業務だ。勝手のわからないことだらけで戸惑いも多いだろうし、なにより、言語のキャッチアップが大変だろう。イーサンの周囲では大半のコミュニケーションが英語で行われるはずだ。
——泉が東京へと立つ日。
音川から大型のスーツケースを拝借し、実家から持ってきた着替えやら、音川のお下がりのあれこれを詰めた泉は、いつもより心なしかよく喋った。
音川はそれを緊張のせいだと受け止め、軽口にも、不安げな独白をも丁寧に拾って応えた。
昨夜、東京まで車で送りたいと申し出た音川だったが、泉には辞されてしまった。
その時に添えられた「離れたくなくなるから」という泉の小さなつぶやきに背筋を震わせた。
泉が東京へと出発する新幹線のホームで、音川は別れ際に握手を求め、こう伝えた。
「向こうでも、きみらしくしていればいい」
泉は口角を上げてにっこりと微笑み、「はい!」と握り返してくる手は、音川に決意をつたえるかのように力強かった。
駅からの帰り道、午後からの業務に向けて頭を切り替えながら愛車のランドクルーザーを自宅へ走らせていると、ふと助手席の背もたれに猫の毛が数本ついていることに気がついた。獣医への訪問時は後部座席にケージを置くため、これまでここに毛がついていたことはない。
泉の衣服から移ったのだろう。
「先が思いやられるな……」
音川はぽそりとそう呟いた。
自宅に戻れば、さらなる跡に気がつくだろう。その度に、泉が部屋にいないことを自覚させられるのだ。
そうして、音川は愛猫マックスとの二人だけの生活に戻った。
しかし変わったのはマックスだった。
これまで平日は音川の仕事部屋の出窓でのんびりと昼寝をしていたが、日がな一日リビングのソファで玄関の方を向いて座るようになった。
毎日毎日、何時間でもそうしている姿を見ると、胸が痛む。猫である彼には言葉が通じないのを承知で、「3ヶ月なんてすぐだよ」と撫でてやるのだが……
間違いなく、それは音川が自分に言い聞かせるためでもあった。
泉からは、時折——数日に1回程度、短いメッセージが送られてくる。返信を必要としないような業務連絡は既読だけで済ませ、質問があれば「メールで詳しく」と誘導するのみに留めている。
彼の居ない寂しさに押しつぶされないためにも、今、音川にできることはただ一つしか残されていなかった。
——平日、音川は保木に接触するために夜ごとに街へと出るようになった。
未だに夕方になっても一向に気温は下がらず、夜の濃縮された湿度と相まって息苦しささえ感じられる。
加えて、飲食店の換気口からの排気と、側溝から上がってくる腐臭が混ざった繁華街独特の不快な大気が重く伸し掛かる。
数か所ある喫煙所を覗いた後は、繁華街に面した雑居ビルの2階にある喫茶店で待機する。窓際に独り用のカウンター席が設けられており、そこから階下を行き交う人々が一望できるため、無駄に歩くより効率が良い。3日も過ぎればウェイトレスとも顔なじみになり、頼まなくてもアイスコーヒーに入れるガムシロップは3つ置かれるようになっていた。
そこで2時間ほど粘り、成果がなければ再度駅前の喫煙所を巡ってから電車で帰宅する。
決して楽な日々ではない。
それどころか、辛ければ辛いほど、良かった。
そろそろ待ち伏せに限界を感じており、再度目撃情報を収集して作戦を練り直す時期だった。
明日あたりに一度出社をして自社の上部に最新情報を尋ね、ショールーム勤務の女性たちからもヒアリングをしようと決め、コーヒーを飲み干して立ち上がったその時。
駅から喫茶店の方角へと向かってくる男の顔に、強く見覚えがあった。印象は異なるが、間違いなく保木だ。
静かに席を離れて支払いをし、素早く建物を出る。数メートル先に、保木の背中をロックして音川は歩き始めた。
久しぶりに見る元デザイン部トップの背中は、どことなく全体的にくすんで、小さく見えた。
数ヶ月でこうも風貌が変わるものか……
自分に自信がある人間は、たとえそれが虚勢であったとしても、態度や雰囲気に出るものだ。かつての保木にあった押し出しの強さは、もう感じられなかった。
「保木さん」
音川はことさらに低い声で、背後から声を掛けた。保木がバッと勢いよく振り向く。
「音川か」
「少し、飲みませんか?」
すぐそこに見えている雑居ビルを顎で示してみせた。地下に広めの英国風パブがあったはずだ。
込み入った話をするのにちょうどいい席を見つけて保木を座らせ、音川は目線を逸らさないままカウンターでビールを注文する。
パイントグラスを両手に持ちテーブルに戻ると保木が唇を曲げて「逃げねえよ」と卑下た笑いを見せる。それを音川は一瞥しただけで、無論乾杯などするわけもなくさっさとグラスを半分ほど空けて、保木の背景に焦点を合わせた状態で微動だにせず佇んだ。
数分が経過し、保木は観念したように大きく息を吸い込むと、思い切り吐き出した。上体が丸まり、より小さく見える。
「俺ぁ最初からお前が気に入らなかった」
「保木さん、話してください。力になれることがあるかもしれない」
「殴りかかってくるかと思ったよ」
「暴力は嫌いです。が、次また泉の前に現れたら容赦はしません」
「お前、『お気に入り』は作らないんじゃなかったのかよ。何年か前だろ、ウイルス騒ぎまで起こしやがってよ」
「そうですね」
「部下を不幸にする呪いでもあんじゃねえか?」そう下品に笑う顔には部長だったころの面影は無い。
「保木さんには負けますよ」
挑発に乗らずニヤリと笑い返した音川に、保木はハハハと声を上げた。
「言うじゃねえか」
「新人の彼女ね、もう日本にはいません。彼女の人生は、二度とあんたとは交わらない。忘れる方が保木さんのためです」
ふん、と保木は鼻で笑い飛ばしたが、音川は更にとつとつと、しかし張りのある低い声で話を続けた。
「入社以来、パワハラはともかく、保木さんの女性に対するセクハラが問題になったのは今回が初めてです。しかも訴訟沙汰にまでなるほど悪質です。なぜですか。業界でも名の通った保木部長が、こんなことになった原因を知りたい」
「知りたきゃ話してやる」保木がテーブルに置いたグラスが音を立てる。「なあ音川、お前まだ独身か」
「ええ」
「遊び放題の独身貴族ってわけか」
「まさか!開発の忙しさ、知ってくれていると思いましたが」
保木が無駄にデザインの差し戻しをするせいで、その後に続く開発ではいつも納期がほとんど与えられていなかったことは言うまでもないはずだ。
「とぼけやがって。お前みたいな外見ならよ、女が放っておかないだろ。あの子だって、相手がお前なら素直に言うことを聞いたんじゃねえかな」
「保木さん、軽蔑しますよ」
「もうしてんだろうがよ」
「哀れみはあります。それがつらい」
「俺は離婚してもう3年、いや4年か。今年、向こうは再婚したよ」
「それが、きっかけですか」
「ああ……まあ、今思えば、な」
「そんな単純な理由でキャリアを棒に振ったなんて納得できない」
保木は強く睨んでくる音川から視線を外した。
逃げ場などないのは、声を掛けられた時すでに予感していた。
大きく息を吐き、グラスを煽る。
「俺は……、あの新入社員な、似てたんだ、元妻の若い頃に。顔のパーツはどれをとっても似ていないのに、なぜか面影が見えた。それからは……恐らく会社から聞いているだろうが、なんとかして手に入れて……もう一度、やり直せるかと思ったんだ。あの女が手に入れば、あの頃に戻れば、俺のデザインもまた……」
音川は一瞬だけ憐憫の視線を保木に投げた。
焦り……その部分についてだけは理解できる。しかしこれは、あまねくすべてのエンジニアに共通するものだ。
「保木さん、それは幻想です。技術や変化についていけなくなる焦りは、常にあるものです。あんたは、それを受け入れることをせず、たまたま配属された新人の女性に、都合よく自分の願望を重ねた。逃げたんですよ、自分から。そのために1人のデザイナーを潰そうとした。許しがたいことです」
「お前にはまだ分からんだけさ。若手に抜かされ、追いつけない惨めさが」
「否定はしません。俺も、誰もが年齢という壁で頭が追いつかなくなる日が必ず来る。しかし、業界には保木さんにしごかれて一人前になったデザイナー達がたくさん活躍している。これは事実でしょう?」
「あいつら……相当、恨んでるだろうな」
保木は再び鼻で笑ったが、すぐに顔を伏せた。まるで自分自身を嘲ったように見え、音川はそこに少し希望を見出す。
「まあ好かれているとは言えないでしょうね。ただ、あんたが与えた仕事は、若手にとって価値があった。彼らに惜しみなく大きな案件を経験させたでしょう?結局、転職でそこを売りにすることができたんですよ。だから感謝1割ってとこじゃないですかね」
「そうか……まあ、それが1%でも、役に立ったのなら、いい」
音川は、保木が急速に毒気が抜けていくような錯覚を覚えた。
すがっていた意地か、張り詰めていた緊張か、なにか気のようなものがスッと剥がれていく。
今眼の前にいるのは、独りの初老の男だ。
「保木さん、あんたには実績がある。人脈もある。それを無駄にしないでくれないか。培ってきたものを最大限に使って、若手を世に送り出す立場になって欲しい。俺からの頼みです。どうか、身を立て直してください」
音川の言葉に偽りはなかった。
保木は軽く居住まいを正して、眼の前のビールを飲み干した。
若くして最高技術責任者である男の真摯な眼差し。これを感じ取れない所までは、堕ちていなかった。
「お前にそこまで言わせる価値が、まだ俺にも残ってんのか」
「その通りです」
「自信家は健在のようだな。なあ、音川。俺が泉に当たってた理由はな、女のことだけじゃない。むしろ、それよりも、あいつの感性——俺がどうあがいても届くもんじゃねえ。自分が凡才だと思い知らされるよ。それなのに、泉は無垢な面して、自分の能力に気がついてもいない。それが腹立たしくて」
保木の声は尻すぼみになり、最後には蚊の鳴くような細い声で、「妬みだ」と絞り出した。
「俺は、泉には行けるところまで行ってほしいと願っている。差し出せるものは全て与える覚悟です。それが上司としての、いや、俺個人の、未来なんだ」
保木は、そう堂々と言い放った音川の顔を一時の間ながめ、「すまなかった」とボソリと呟いた。
「次に会う時は仕事で」
「ああ、何年かかるかわかんねえけどな」
保木は伝票を掴んで立ち上がった。そしてすかさず店員を呼び止め、フィッシュ&チップスとミートパイのテイクアウトを注文し、その伝票に追加するように言い添えた。
「失業保険で奢ってやる。やつれた顔してんぞ」
保木の姿が見えなくなり、音川は目の前の泡の消えたビールに目を落とした。
黒黒とした液体に映る自分の顔が微笑み返している。
上手くことが運んだと我ながら思った。
遺恨を残すやり方の方が手っ取り早いが、それで保木の行動を止められたとしても、泉の不安は拭えない。
保木の救済と、泉の安全。どちらも叶えることができたはずだ。
帰宅して、キッチンカウンターに料理が入った袋を置く。
泉と選んだ調理家電と食器しかない場所。毎晩のように、足元にまとわりつくマックスを器用に避けながら、楽しげに調理の練習をする泉をリビングから眺めるのが好きだった。
泉はよく、音川さんは練習台ではないと否定し——次第に、音川もそれが自分のためかもしれないと理解りかけてきていた。温かい時間。
(帰ってきてくれるのだろうか——)
音川にとってある意味聖域のようなその場所に立ちすくみ、一抹の不安に捕らわれる。
信じたいと言ってくれたのは彼だが——要因の掴めない胸騒ぎがしていた。
音川は大きくため息をつき、服を脱ぎながら浴室へと向かった。
まとわりついた繁華街の淀んだ空気を熱い湯で流しておいてから、冷たい水で気持ちを引き締める。
鏡に写った自分の身体は、まともに食事をしなくなったせいか、極限まで無駄が削ぎ落とされている。筋肉の繊維さえ見えてしまいそうだ。
トレーナーからはフィジークのコンテストに出るよう勧められており、それを「ケーキを食べに行くために絞っただけだ」と冗談めかして断ると激しく呆れられてしまった。
この、いつになるか分からない泉との約束を、音川は宝物のように胸に埋めていた。
反故にしたわけではない。いつでも実行できるが、行動に移さないままにしてあるのだ。
叶ってしまえばそれで終わってしまいそうで手放せないのだった。
未来の約束があるという事実だけが、今の音川を生かし続けているのだから。
音川はスマートフォンで、すっかり冷めてしまった料理を撮影し、泉に送った。
そして一言、「保木元部長からの奢り。もう大丈夫だ」と添える。
出向してから、泉に私用で連絡するのは初めてだった。
保木との一件が、すべてを解決したわけではない。泉を脅かしていた直接の原因を取り除けたとはいえ、それによって彼の未来が保障されたわけでもない。だが、音川は今、確かに何かを掴んだ気がしていた。
人は、誰かを守りたいと思った時、ようやく自分の醜さにも、脆さにも向き合えるようになる。
そして、相手のためにすべてを差し出そうと決意したとき——
それは同時に、自分の再生でもあるのだ。
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