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第26話 帰る場所の名を知る夜風

夜更けのことだった。 リビングの奥から低く、静かに名を呼ばれた泉は、天井を見つめていた目をゆっくりと伏せた。 布団に身を沈めたまま、眠りは遠く、まるで目の裏側に朝の気配が訪れることなど決してないかのようだった。 足元で丸まっていたマックスが、気配を察してぐいと背を伸ばし、泉の手に鼻先を寄せる。 「はい。起きてます」 「よかったら、少し飲まないか」 音川の睡眠が浅いことは知っていたが、こんなふうに深夜に声をかけられるのは初めてだった。 「ちょうどよかったです。眠れそうになくて……」 「うん」 リビングに出ると、開け放たれた窓から晩夏の風がふわりと入り込み、カーテンの影を揺らしていた。照明は落とされ、夜の気配だけが部屋を静かに満たしている。 コーヒーテーブルの上、グラスに注がれたラムが、かすかに甘い香りを放っていた。ほのかに曇ったガラス越しに、月光が床に揺れる。 この味も、こうして夜を分け合うことも、音川と過ごすようになってから覚えたものだ。 泉の心の奥に、それはひっそりと沈殿し、名もない情のように澱んでいる。 沈黙を割って、音川が口を開いた。 「出向は、有益だ。……念願だった一人暮らしも、こんな形で叶うとはね」 東京での住まいはB社の用意する法人契約のマンション。期限は三ヶ月、自社からも手当が出る。 割り切ったはずの事実が、音川の声で語られるだけで、泉の胸の奥が不意にきしむ。 「まずは三ヶ月。延長や満了については、前もって双方の合意が必要になる。だから……階下の部屋を借りる予定だったけど、キャンセルしようか」 泉は小さく息を呑んだ。 当然のことだった。けれど、いざ言葉にされると、足元の地面が少しだけ沈んだような気がした。 「延長は……考えたくありません。でも、また業務命令だったら……」 「うちとしても、優秀な人材をそう簡単に手放すつもりはないよ。延長の話があったとしても……きみの意思を、最優先にする。約束する」 「三ヶ月で終われたとしても、その頃には、下の部屋……埋まってますよね」 「——ああ。だから……」 音川は手にしていたグラスを、そっとテーブルに戻した。 そのまま、ほんの少しだけ身を泉に寄せる。微かな動きだったが、それだけで泉の皮膚は熱を帯びた。 「……そのときは、ここに戻ってきてくれないか」 思わず顔を向ける。 夜の静寂の中、音川の表情は硬く、それでいて祈るように澄んでいた。まるで、自分の中の不器用なものすべてと向き合おうとしているようだった。 「……お、とかわさん……?」 「実家があるのに何を言ってるんだ、と思われそうだけど……いや、違う。そういう話じゃない」 音川は言葉を探すように一度口をつぐみ、それから、まっすぐ前を見つめて続けた。 「——俺は、きみが帰ってくる場所になりたい」 その言葉は、泉の胸にひとしずくの水音のように落ちた。 音もなく、しかし確かに、張り詰めた感情の水面を揺らすように。 泉の目尻に熱がにじむ。胸の奥が痛いほどに満ちて、どうにか声を搾り出す。 「……信じても、いいですか」 「信じてほしい」 音川の腕が、そっと泉の肩を抱いた。 その温もりに、泉の心がほどけていく。見えなかった道が、夜の底からゆっくりと浮かび上がるようだった。 「俺は、いつでもきみの味方だ。何かあれば、どこにでも助けに行く。……だから、今は、きみの未来のために、思い切り学んできてほしい」 「もう……駄目なのかと思ってました。音川さんには……もう僕が必要ないのかもしれないって、何度も……」 泉の涙まじりの声に、音川は何も言わず、ただ髪に顔を埋めた。 「俺はまだ、きみにちゃんと伝えられない。でも、帰ってきてほしいなんて——そんな身勝手さが、どうしても、心から消えない」 泉はそっと体をもたせかける。静かに、けれど決して崩れない絆が、確かにそこにあった。 「僕に付けられた『部下という枷』を、早く外したい。音川さんの隣に……相応しいと思われるようになります。だから、……そのときが来たら」 言葉を濁す泉に、音川は頷く。表情に、穏やかな決意を浮かべながら。 それは約束というにはあまりにも静かで、願いというにはあまりに強い。 夏の終わりの風の中、ふたりは肩を寄せ合いながら、言葉にならない未来を確かめ合った。

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