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第25話 交渉の皮を被った狩人

イーサンからの提案は、社内の人事を大いに沸かせた。 なんせ、世界有数のコンサルティング会社であるB社のチーフコンサルタント直々の要望だ。子会社だけに収まらず、事態は本社の人事へとエスカレーションされた。 まず最初に話が行ったのは、前職場がB社である高屋だった。 高屋が出社するやいなや、本社の人事部長直々に声を掛けられ、子会社にいる『イズミ・アオキ』について雑談を装った下調べが入ったのだ。 高屋は慎重だった。 インドのトラブルの立役者は泉であること、エンジニアとしての実力は申し分ないことをしっかり伝えた上で、泉の将来を考えれば、『短期間の出向』は有益だろうと強調した。 無論、音川にも詳しいヒアリングが行われた。 音川は、泉のプレゼンテーションが鮮烈だったことを褒め、また、当日すでにイーサンが泉を称賛していたことも正直に述べた。 隠すようなことでもないし、泉が会社に認められることは音川にとっても誇りだ。 そして高屋と同じく、『期間を限定した出向』ならば賛成の意を表した。 人事からは、泉の立場のためにも、と吹き込まれたのが決定打だった。 まだ開発部での実績はインドの件のみであるにもかかわらず、音川の一存で最高技術責任者補佐となるのは、さすがに社内人事に反発が懸念される。 それを覆すには、他のエンジニアが持っていない実績が効果的であり、今回のオファーはもってこいだと言うのだ。 それは確かだった。泉の類まれな能力は、まだ音川にしか理解できない。何件か案件をこなせば周囲も知ることになるだろうが。 泉を出向させる——数日後には決断が下された。 本社人事部の意向は、そのまま会社命令として泉に伝達された。 契約書の取り交わしのため、わざわざ社へ出向いてきたイーサンを、本社も子会社も歓迎した。 「出向という形であれば、我々としても柔軟に対応できます」 イーサンの言葉が会議室に響く。丁寧な日本語だった。 泉と音川は並んでイーサンの向かいに座り、書面に目を通しながら営業トークともとれるような提案に耳を傾ける。 形式としてはヘッドハンティングではなく、移籍でもない。期間を区切った『共同育成』のような扱い。 海外の大手と協働し、若手を送り込むことは会社の評価にもつながるため、会社は全面的に賛成だった。 それでもイーサンは、念を押すように、泉の将来性に強い関心を抱いたということを何度も口にした。 その姿勢も声もすべてが「この場の主導権は自分にある」と言わんばかりだった。 スーツのボタンを留めることもなく椅子に深く腰を下ろし、両肘をテーブルに乗せてパワーポイントのスライドをクリックする。念の為、と自社の紹介用プレゼンテーションを持参してきたのだ。 その合間、イーサンは相槌を打つ人事部や開発部の役員の目を見ず、うなずきながらも視線は手元のラップトップPCに落とされていた。 相手のリアクションが想定の範囲内かをチェックしているような目。 その態度には明瞭に、面倒な手続きなどすっ飛ばし、『泉をできる限り早く引き入れたい』という意思が顕れている。 泉は、油断すると俯いてしまう自分を叱咤しながら、音川の隣でただ書面の文字を追っていた。 この出向は、非常に不本意だった。 だが、会社に所属する身である以上、出向命令はどうしたって断れる話ではない。 それに、『音川の補佐になるには、他のエンジニアとの差別化が必要だ』と人事に言われてしまっては、もうぐうの音も出なかった。 自分でも、分かっている。 音川に認められた喜びと、最高技術責任者補佐という肩書の重さ。 (一度のまぐれ当たりだけで、本来の自分はその立場に見合っていなかったら——) この出向は、間違いなくそんな不安を取り除く要素になる—— 音川に認められたことを誇りに思っている自分と、その信頼に見合っていないかもしれない不安の間で、気持ちは揺れ続けていた。 そして人事から——音川がこの出向に全面的に賛同していると聞かされて——それは事実とはやや異なる表現ではあったが—— 泉は激しく動揺した。 この場では私情に囚われず、冷静でいられるだけの分別は持ち合わせていたが—— 契約書面に綿密に書かれた英文に目を落としながら、内容など頭に入ってこないのは音川も同じだった。 イーサンが見せる紳士的な微笑の奥にある意図――それに、音川は気づいていた。 (手を伸ばされたのは能力だけではない。泉という“存在”に対する欲望だ) だが、それを表沙汰にするわけにはいかない。そうしたところで否定されるか、開き直られるかで、状況は変わらないだろう。 それに、イーサンの意図に気づいたのは——音川自身が、泉に対して仕事を超えた——感情と想い——があるからに違いなかった。 音川は会社の顔であり、個人の感情など持ち込むべきではない立場にある。 それでも、心の奥では苦味が渦を巻いていた。 泉の肩書は、まだ紙の上だけのものだ。 人事が言うように、確かに、社内からの目もある。 音川の下に突然ついた若手が、何の結果も出さずに権限だけを得ている。そう言われてもおかしくない。 優秀で繊細で、思考の速い彼を、このまま社内にとどめれば、きっと潰れる。根回しも、会議の駆け引きも、政治の論理も、まだそのすべてに対して無防備だった。 もし庇護すれば——守ることで、余計に泉を孤立させるのではないか。守らねばならない、という思いと、(このままでは彼自身の成長を奪ってしまう)という罪悪感。 それらが心の中でせめぎ合う。 ――外に出して、証明させるべきなのかもしれない。 ――そして、戻ってきた時。自他共に実力を認める存在にするために。 「最終的には、本人の希望を尊重したいと思います」 上層部から出たその言葉に、音川はうなずいた。建前だけの言葉。 そして、それがどれだけ非情かも理解していた。 その判断は、泉に託されたふうをして、実際には音川の言葉ひとつで左右される。 音川がどんな顔をしても、どんな言葉を選んでも、泉はそれを『正解』とみなすだろう。だからこそ、音川は自分の私情を必死に押し殺した。 ――『正論』が、人を傷つけることを知っていながら。 イーサンが東京へと帰り、音川たちもそうそうに社を後にした。 二人の表情には疲労の色が濃く現れており、普段ならどちらともなく飲み屋に寄り道するところだが、到底そんな気分になれなかった。 マンションのリビングで、それぞれ缶ビールを少しずつ喉に流し込む。 口火を切ったのは音川だった。 「出向の件だが、俺からも勧めたいと思っている」 泉の瞳が一瞬、揺れる。 「……僕は、ずっと音川さんのそばで、働けると思ってました」 その声は静かで、幼さすら滲んでいた。 音川は拳を握った。喉元まで熱がせり上がる。 泉を離したくないという想いが、いかに個人的で、いかに無力なものか、今更ながら突きつけられる。 (まだ、泉は俺のそばにいる未来しか見ていない) それが嬉しくて、苦しかった。理解しているからこそ、背を向けるしかなかった。 だが、泉がほんの一瞬見せた『そう信じていたのに』という眼差しが、音川の胸に深く突き刺さる。 泉はイーサンの下で、並のエンジニアが経験できない世界を知り、誰にも負けない実力を手にするかもしれない。 だからこそ、その背中を押すのは、自分の役目だと信じ込むしかなかった。 「泉。きみは、もっと遠くに行ける」 それは——手放すことでしか伝えられない愛情だった。

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