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第34話 警戒と信頼の間で

互いを特別な存在だと認め合った夜—— 泉の希望により、2台のベッドが触れ合う中心で寄り添うようにして横になった。もちろん揃ってきっちりとナイトウェアを着て、だ。 大都会の中心にあるホテルだが——いや、だからこそ、夜は驚くほどに静寂で、夜風に揺らされる木々のざわめきが微かに聞こえる。 先に眠りについたのは泉で、音川はマットレスに肘をついてそちらに身体を向けた。 うっすらと微笑んでいるような寝顔を見つめていると、感情の海に沈んで行くような感覚に陥る。 長い睫毛の微かな震え、少しだけ眉間に寄せられた皺、目の下の薄い皮膚に毛細血管が微かに見え、音川はそれを親指でそっと撫で、髪に顔を寄せる。 音川にとっては、泉の前で自分の全てをさらけ出した夜だった。 抱えていた苦悩を共有することで、泉への愛着が一層強まり——それは所有欲にも似た感情で、音川を戸惑わせる。 保木の問題では、自分に守らせて欲しい、と願っていた。 今では、どの状況下においても——どこにいても、他の誰でもなく自分だけが泉の守護者でありたい——と思う。 その許可を、音川は切実に望んでいた。 それでも、感情や欲望だけで進められない大人の事情がある。 今、突っ走ればいずれ——罪悪感や背徳感で押しつぶされてしまうだろう。 現在の上司と部下という関係は、どう転んでも変えられない—— お互いの精神衛生上いかなるネガティブな要素も抱えたくなく、また、相手に抱えさせるべきではないと考えていた。 早朝、軽く目を覚ました音川は、自分の右腕が微動だにしないことに気がついた。 首を捻ると、そこは泉によってがっちりと抱きかかえられており——しかもよりによって——手の甲が泉の中心に当たっている。 それは柔らかく主張する彼の突起を想像させるのには十分すぎた。 音川は低く唸り声をあげると、右腕は切り捨ててしまったものとして考え、無理矢理に思考の窓を閉じて二度寝についたのだった。 そして、チェックアウト後すぐに泉をマンションまで送り届けた音川は、部屋への誘いを断り、その代わりに、泉に負担のない程度で週末は地元へ帰ってきてはどうかと提案した。 「マックスが会いたがってる」と言うと、「そのセリフ、前にも聞きましたけど、まさか口説く時の常套手段ですか?」とからかわれてしまった。 そのくせ、音川が軽く咳払いをして「俺が会いたいんだ」と言い直すと、顔を少し赤らめて俯く。 本人を眼の前にして『かわいいね』とはまだ言えないまま、音川は東京を離れた。 ◆ ◆ ◆ 翌週から、泉は仕事の合間に本格的な調査を開始した。就業後毎日のように薄暗いオフィスの無機質一角で端末を叩く。 イーサンからの食事の誘いは続いていたが、それはさらりとしたもので断り易かったのが幸いだ。 ——音川の調査はギリシャを最終経由地としたルートで断ち切られていた。 しかし今、泉の眼の前には、その断片が姿を表しつつあった。 調査が予想よりも早く進んだのは、イーサンという手がかりに気がついたからだ。 これまで最も近い位置で仕事を共にしてきた泉は、イーサンの仕事に対する姿勢には好意的な印象を持っていた。彼は、目的を達成するための手段を選ばない強引さと策略家としての面をもつが、根本的にはプロとしての倫理観と誇りを持つ人物である。 そこで思い当たった。 泉に記事の前半部分だけを見せたのは意図的ではなく、彼自身が改変された記事を受け取った可能性も考えられる。記憶する限り、最後のページは途切れた文章ではなく、確かに締めくくられていたはずだ。 B社が所有する巨大なデータベースを使えば、あらゆる情報が引き出せる。各国の主幹となるような企業へサービスを提供している国際コンサルティング企業だからこそ持てる情報だ。 その端末を操作し、泉は再び、あの記事にアクセスした。 記事の後半の内容は音川に同情的なものであったが、それだけだ。そこが引っかかる。不正をした人物やそれを利用している市場の糾弾どころか情報も無く、ルポルタージュとして中途半端な印象を受けた。 ——政府刊行物として、そこになにか『書けない事情』 があったのだとしたら。 記事を精査する価値はあるはずだ。 泉は今度は翻訳に頼らず、1文ごとに慎重に読みほどいていく。 そうして泉は、文中に奇妙な違和感があることに気がついた。声に出して読んでみると、それは一層際立った。 通常、英文では同じ単語の繰り返しを割ける傾向にあるが、この記事には政府刊行物に掲載される文章とは思えないほどに、同じ単語が繰り返し出現している。 ——電子決済市場のピーク、暗号化プロトコル導入企業数のピーク、業界内の評価のピーク、違法トランザクションのピーク、信頼の象徴としてピークの輝きを放っていた技術が一転悪用のピークを迎え…… 一度も単語を変えず登場する。 泉には、生来の美的感覚として、直感による気付きのセンサーがあった。それは絵を描く時の切り口であったり、またはロジックの閃きにも作用するが、英語を本格的に習い始めてからそれが文章にも活かされるようになったらしい。 そのセンサーが、ガンガンと警鐘を鳴らす。文章が美しくない。 ——the peak——頂上や頂点を表す言葉。 まず、『ピーク』のギリシャ語が『Koryfi』に相当することを調べ、その単語をキーワードとして検索プラットフォームに投げると—— (当たった!) 泉は無意識に右手の拳を握りしめていた。 【法人名:Koryfi Solutions Ltd.】 登記国:ギリシャ共和国(ケファロニア島) 登記情報に添えられた衛星写真によれば、住所はケファロニアの小さな民家だ。明らかに法人登記にはそぐわない、農作業小屋のような簡素な外見。 そしてさらに、社名とB社のプロジェクト経費をマッピングさせると、数件ヒットするではないか。仮に個人事業主の事務所だとしても、この資本金規模でB社のような大手にコンサルティングを利用することはありえない。 より詳細な情報を確認するため、財務記録へアクセスすると、確かに経営コンサルティング料としての計上があるが、その業務内容は情報が不自然にマスキングされており、社内権限のある泉でさえアクセスが制限されているようだった。 続いて、バックエンドからデータベース利用者のアカウント情報を引き出す。 やはり—— イーサンと泉のアクセス権限は全く同じものだった。そこに嘘はないようだ。 で、あれば彼もこの情報を知り得ない—— 息を詰めるようにして、泉は目を細めた。 (イーサンを味方につけることができるかもしれない) もしそれが可能なら、調査は大幅に進むはずだ。 彼は自分の望みに真っ正直な人物である。時に、ストレートすぎるほどに、自分の目的の正当性を信じて疑わない。 だからこそ、音川の暗号化プロトコルの不正記事に飛びついた——それは、彼自身がそこに『不愉快さ』を感じたことによるものではないだろうか。 彼にとって衝撃的だったからこそ、泉にも効果的だろうと——音川に失望するに十分な材料だと考えたのだ。 泉は急いで当該の記事の全文を印刷し、念の為ファイルもノートPCに保存してからデータベースからログアウトするとオフィスを後にした。 ビルの前で深く夜の匂いを吸い込み、思いっきり吐き出す。 これは賭けだ。 改ざんされた暗号化プロトコルのソースコードが手に入れば、なんらかの対抗策が講じられるかもしれない。 流通元とソースコード、それさえ手に入れば—— 泉は、オフィスビルの前から縦列駐車をしているタクシーに乗り込み、イーサンが宿泊しているホテル名を告げた。 ◆ ◆ ◆ 夜も深まったホテルの一室。 ミュートにしたBBC Newsの明かりだけが灯る部屋で、イーサンはウィスキーを舐めるように飲んでいた。 日本に来て半年以上経つが、アジア圏担当としてあちこちへ出張するため、法人契約しているホテルを定宿としている。 それは、生活の雑事を避けて仕事に集中できる環境を社員に提供する——という経営陣からの建前だ。とにかく働け、ということだ。 プルル、と控えめな室内電話の呼び出し音に、イーサンは片眉を上げた。 時差を考えればアメリカ本社からの外線もありえる。よほどのことがない限り国際電話が掛かることはないが——。念の為、軽く咳払いをして受話器を上げると、「フロントですが」と男性の声。 「どうしましたか?」訝りながらも、丁寧な日本語で応対する。 「アオキイズミ様とおっしゃるお客様がお見えです。ロビーにてお待ちいただいておりますが、お取次ぎしてよろしいでしょうか?」 イーサンは目を大きく開いた。イズミが……こんな時間に?しかも、滞在先のホテルに直接やってくるなど…… 日中のオフィスでは平気そうな顔をしていたが、内心は違ったのだろう。あの記事が相当効いたか。 「ああ……私が呼び出したんだった。社の人間だから大丈夫。部屋へ通して」 受話器を置くとイーサンはナイトローブを羽織った。上質なコットンとシルクが混紡されたグレーベージュのローブの下は、さりげなく体に沿うブラックのルームウェア。 深夜に部下を呼び出したにしては少々寛ぎすぎているが、ホテルのスタッフに見られるわけではない。 コンコンコン、と3度控えめなノックの音に続き、「泉です」と柔らかく囁くような声が聞こえる。それだけでイーサンは心臓が高鳴るのを感じ、本人すら少々驚く。 部屋に招き入れると、「こんな時間に……突然、すみません」と目を伏せて詫びる姿にさらに目を引かれる——。 この美しい青年は、深夜にもなろうかというプライベートな時間に男を訪ねてはいけないと、これまで誰かに教わらなかったのだろうか。 「まさかキミがここへ来るとは思っていなかった。歓迎するよ」自分にはそぐわしくない動揺を押し殺し、イーサンは努めて丁寧に優しく招き入れた。 室内の落ち着いた照明に二人の影と、微かなウイスキーの香りが漂う。 泉は意を決し、顔を上げ「失礼なことを聞くかもしれません。先に謝ります」と続いてペコリと頭を下げた。 「どうしたんだい?」ソファへ着席するよう促しウィスキーを勧めるが泉はそれを断った。 「音川さんの記事のことです。先日、印刷したものを僕に見せてくれましたよね。イーサン、あの記事が全文だったかどうか、ご存知でしたか?」 「全文のはずだが……内部の調査部から受け取ったからね」 「どうしても気になって原文を調べました。プリントアウトしたものがこれです。明らかに枚数が異なるのがわかりますか。念の為データもあります」 イーサンの眉がわずかに動いた。「見せてくれ」 受け取ったドキュメントは手物に有るものより倍ほどの枚数があった。 素早く目を通す。 「これは……」 「確かに前半はプロトコルの悪用について書かれてあります。けれど、後半には音川さんが著作権を放棄した後も、何度も是正を申し入れていたことや、不正改ざんした者が売買契約をすり抜けるために取った経緯も書かれている。 ……僕は、あなたが受け取った記事には、その部分が欠けていたのではないかと思いました。イーサンは……そんな卑怯なことをする人間ではないはずだから」 泉は、眼の前にいる優秀なコンサルタントをしずかに見つめた。 プライベートな時間でも寸分の隙を感じさせない完璧さ。知性、余裕、美意識が自然に滲み出している。シャワーの後ですらきちんと撫でつけられた明るいブラウンの髪は、無造作に見えて計算された形に整えられている。 ソファに凭れ、ウイスキーを口に含みながらも姿勢には品格があった。足の組み方、グラスを持つ指先の角度、目の動き、静かな声——すべてが完璧だった。 それでいて不思議と窮屈を相手に感じさせず、むしろ親しみやすいと思わせる。 彼は、独りで眠る直前ですら『自分という男の演出』を怠らない—— 凄まじいプロ意識だ、と泉は微かに戦慄する。 イーサンはグラスを持ち上げ、琥珀色の液体を静かにもう一口含む。 「私は、肝心な所を見逃していたことになるな」 「見逃しでは無いと言えます。この記事には2パターンが存在していました。イーサンが持っている前半部分のものは、キュレーテッドエディションとしてB社の名前がクレジットされています。いわば再編集版です。一方、後半を含めた全文は政府刊行物のバックナンバーにしかありません。再編集版へのアクセスは容易すぎて、まるで元文を隠しているかのような印象を受けました。そのことから、後半部分にB社にとって不都合な記述があるのでは、と僕は疑っています」 「目を見張る調査力だ。私ですら出し抜かれたというのに……しかし、一体誰が、何のために内部の者すら騙すような真似を……」 「……それを、僕と一緒に突き止めてくれませんか?」 一瞬、部屋の空気がピタリと固まるが、泉が静寂を破った。「それを伝えたくて、ここに来ました」 イーサンはグラスをテーブルに置くと、ゆっくりと泉に視線を合わせた。 その目に浮かぶのはいつもの余裕ではない。何か沈黙を破られた、微かな狼狽。 「私を信用してくれるのかい?」 「もちろんです」 「その偽物の記事を使って、キミに、オトカワを見捨てる時が来たことを告げたばかりだというのに?」 「それは、また別の話です。それに……何があっても僕は音川さんを信じていますから」 泉はかすかに笑みを浮かべ、「それでは。考えておいてくださいね」と軽く会釈をしてドアに向かった。 「イズミ」短く名を呼ばれ振り返ると、イーサンが追うように泉の真正面に立った。音川とそう変わらない長身で、距離が近いためわずかに顔を上げて目を見る必要がある。 「もう帰るのかい?」そう尋ねる声は低く滑らかだ。 「ええ……遅くにお邪魔してすみませんでした」 イーサンはわずかに距離を詰めた。 「キミは、オトカワをそんなにも信頼しているんだな。疑ってしまいそうになるよ、本当に、上司と部下の関係しか無いのかと」 「僕が……音川さんを信じたいだけです」 「彼は、キミに相応しい愛を捧げたのかい?」 泉は黙り込んだ。 明確な言葉は——無い。 しかし、そこには確固たる絆があった。 「今はまだ、僕は音川さんの部下です。でも約束をくれました。ずっと信頼して良いと言ってくれた」 「キミは純粋だな。信頼を、きちんとキミが期待する形で返してくれる人を信じた方が良いんじゃないかい。沈黙の後ろに隠れているような男ではなく」 その言葉に、ドアノブへ伸ばされていた泉の手が止まる。 イーサンの声はあくまで穏やかだった。けれど、そこには明確な意思があった。 音川ではなく、私を見ろ――そう言っているのだ。 「イズミ……もし私があの男だったら、キミを待たせたりしない。信頼する心を不安にさせたりもしない」 泉は答えなかった。ただ、少し高い位置にある鳶色の目を見つめていた。 イーサンはさらに距離を詰めて、ほとんど身体が触れそうになるほど傍に立った。そこにいることが最初から当然だったかのように。 「イズミ、キミを最初に見た時、私が何を思ったかわかる?」 不意に問いかけられた泉は、視線だけで返した。 「知識や冷静さだけでない、言葉を発さずに部屋の空気を支配していたその佇まいだ。まるで静かな湖のように——美しく、抑制されていて。それでいて深い。 あの男がキミを傍においておきたくなる気持ちが、痛烈に分かったよ」 イーサンの声は低く、よく響いた。酔いのような余韻を泉の耳に残す。 「これがどれほど希少なことか。キミが持つ存在感は教えられて身につくものじゃない。まるで、磁石のように人を惹きつける」 泉はうつむいた。 ストレートな言葉をぶつけられることに慣れていないのだ。 「僕には……そんなものはないですよ」 「なら、私に証明させてくれないか」 その言葉に、泉は再び顔を上げた。 イーサンの瞳はまっすぐだった。情熱を隠さない、自分自身を信じて疑わない男。 「キミがこうして、夜更けにわたしの部屋を訪ねてくるなんてね。正直、期待したよ。あの記事が功を奏して、オトカワを見限って私に乗り換えてくれるのかとね。 しかし実際は、彼のためにここへ乗り込んで来た。そんな彼しか見ていないキミを見て……私はひとつだけ確認したよ。キミを欲しいと思う気持ちは、好奇心でも気まぐれでもない。その強さも、迷いを捨てた心も——すべて私のものにしたい」 泉が一瞬呼吸を飲んだのを見て、イーサンは挑むように微笑んだ。困惑する顔すら愛しく感じる。 「分かっているよ、イズミ。キミは誠実で、揺るぎたくない。でもね、そういう優しい人ほど、たった一度の揺らぎに——飲み込まれてしまう。だから強引に誘うようなことはしない。ただ……心が迷ったときに、そこに私がいることをを覚えておいて。漕ぎ出すための小舟として……キミが選んでくれるのなら、私はいつでもキミを乗せてどこへでも行くよ」 イーサンは手を泉の耳の後ろにそろりと伸ばし、軽く跳ねる髪に指先で触れ、後ろへ撫でつけた。 「おやすみ、イズミ。できれば今夜は、オトカワでなく私の夢を見てくれるといいけど……彼への信頼を少し惚気けられた身として、それくらいは願ってもいいだろう?」 「あ……おやすみなさい……」 「それから。次にまたこんな時間に会いに来たら、もう遠慮しないよ」 泉は、呆然としたままイーサンの部屋を後にした。 扉が静かに閉まる音が、やけに重々しく響く。 この夜が、少し怖いと思った。 そしてその怖さは、イーサンが悪い人間では無いからだった。

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