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第35話 それぞれの夜

 「ふーん。悶々としてるのは、格好つけて帰ってきたからか」 ヒューゴは目を細め、カウンター越しにからかうような声を投げかけた。 「うるさい」 音川はラムのボトルをおろして、カウンターの端でヒューゴ相手に飲んでいた。 高屋から誘われてヒューゴの店に夕飯がてら飲みに来てみたら、根堀葉掘りとあれこれ聞かれ、週末に東京へ足を運んだことや、泉との心の交流について洗いざらい吐かされてしまった。 ヒューゴが寡黙なバーテンダーでいられるのは、どうやら一般客に対してだけらしい。元々はかなりの話好きで、水商売の聞き上手も兼ね備えている。 音川はポーランドの大学に居た頃に知り合ったスウェーデン人たちを思い出していた。周辺国と比べると北欧人らしさは薄いが、物事の捉え方や価値観の傾向については、ドイツやフランスといった中央の人々よりヨーロッパ的思考の持ち主が多い印象だ。論理や理屈を重視し、平等と透明性を尊重する音川にとって、彼らとの付き合いは心地の良いものだった。 しかし、個人よりも周囲との調和を保とうとする日本人としては、時に行き過ぎた個人主義に出会うと疑問を抱くこともあった。それでも、同調圧力に屈するより遥かにマシだが。 その点、ヒューゴは日本育ちのためか協調性と個人主義のちょうどよいバランスを保っており、同じくどちらも理解できる音川は、彼との会話に並々ならぬ気安さを感じていた。 「あのね、クバ。君みたいな顔なら、これまでは誰かを口説く必要なんてなかったんだろうけど……今の状況を考えるとね」 「分かってるよ。泉が部下じゃなければ……あの場で抱いてる」 「いいねぇ。そうやって苦悩しながら独りで飲んでくれていると、クバ目当ての客が増える一方だ。最高のロックフォーゲルとしてチップを渡さなければいけないな」 「『サクラ』っつーんだよ日本語では。君ら狩猟民族と違ってこっちは情緒があるだろ」 「50%だけのくせに、言うね」 音川は向かいでグラスを拭いている北欧貴族のようなバーテンダーに目をやり、薄く笑った。礼儀正しい日本人相手では出てこないジョークだ。 「俺もお前も、心は100%日本人だよ」 ヒューゴは満足気に頷き、厨房で皿を片付けている恋人に声を掛けた。 「透、もう上がっていいよ。クバに話があるって言ってただろ」 「なんだよ話って」 真っ白いシャツにブラックのジレとロングエプロンに身を包んだ高屋は、昼の仕事をしている姿より若干大人びて見える。 「ちょっと待って、着替えてくるから」 高屋は急ぎ口調でそう言うと、奥にあるパントリーへ引っ込んだ。更衣室になっているのだろう。同僚の阿部からは、アルバイトが何人かいるらしいと聞いてはいるが、音川は未だにヒューゴと高屋以外に会ったことはない。 「おまたせ。音川さん、こっちへ」高屋は有無を言わさない速度で音川の傍に立つと、袖を引っ張るようにして窓際へ移動する。 それを追いかけてヒューゴがそれぞれのグラスも運んでくれ、「ごゆっくり」と去って行った。 「なにも移動しなくても」 「他の客がいると、おれが落ち着かないから」 「あ、そ。ところで何の話だよ」 「単刀直入に言う。泉君、ニューヨークへ行くんだって?」 音川は飲みかけたラムをこぼしそうになり、急いでグラスをテーブルに置いた。 「ハァ!?」 「やっぱり知らなかったか。おれ、たまたま人事部長と休憩室で一緒になってさ。コーヒーを飲みながら泉君をえらく褒めていて。まあそれは当然なんだけど、会話中に『アメリカ本社での研修が』ってワードがさらっと出てさ。まだ内示だけかもしれないから、あの場では聞いて無かったかのように流したけど……」 「聞いてねぇよ。出向者に本社研修?それにしても急な話だな……いつから?」 「3ヶ月目の第1週目から、10日間だ。これはB社に居る同期に問い合わせた」 「泉は何て言ってる?」 「それを確認するのはおれじゃない。だから、音川さんに話してるんだよ」 高屋はモスコミュールを一気に煽るとグラスを掲げて、ヒューゴにお代わりの合図を送った。 「これで、イーサンは彼を正社員として迎え入れるつもりだということがはっきりした。うちには通達という形で連絡のみだったのは、断られるリスクを避けたと考えられるね。もちろんイーサンも同行する」 音川は再びグラスを持ち上げて、口内を潤す。 「泉が同意しているのであれば、俺には何も言うことはないよ」 「同意も何も 、イーサンは泉の出向が決まった時点で本社研修の申請をしていた」 「お前の元の職場、怖ぇな」 「あそこで働いているエリート階級のアメリカ人は凄まじいよ。週に80時間以上働きながら、常に周囲を出し抜くことを考えている。意思決定のスピード、強引さ、少しでも引け目を感じたら終わりだ」 「そんな環境でよく働いてたな、高屋さん」 「壊れる人は多い。おれはそうなる前に逃げ出せたってわけ」 「運命に導かれて……か」音川はカウンターの方向へ軽く頭を傾けた。 「そういうこと。ヒューゴに出会えないままの人生があったかもしれないなんて……ちょっと想像するだけでも恐ろしいよ。音川さん、おれね……こう考えるんだ。行動の一つ一つが、偶然を必然に変え、運命を作り出すんじゃないかと。東京まで泉君に会いに行ったのは……職場恋愛をタブーとする音川さんにとって、大きな変化でしょ?」 「……そうだな。以前の俺だったら、ありえない。しかしNYは……会いに行けって話なら、無理だよ。それに、部下だろうが恋人だろうが自分の子供だろうが、出張にこっそりついていくってのも……な?過保護過ぎるだろう」 「僕は、次また透がインドへ出張となれば絶対についていくけどね」 高屋の2杯目と、自分用のショットグラスを手に、ヒューゴが高屋の隣に滑り込むようにして割り込んできた。最後の客がはけたようで、ロングエプロンを外した姿だ。 「……ちゃんと連絡が取れるなら、そうはならないだろ」 音川の冷静な返しを受けてヒューゴはゆっくりと首を振った。 「クバ、いいかい。彼がイーサンみたいなマッキンゼーユンガーに、NYの夜景が見えるホテルのBarで、はちゃめちゃに口説かれているところを想像してみて」 「……はちゃ……どういうことだ」 答えたのは高屋だ。 「泉君が非常に優秀なのは事実だ。音川さんも右腕として据えることにしたんだからそれは分かるだろ。でも泉君は、それだけじゃない。彼の持つ不思議な魅力—— 静けさと意志の強さと謙虚さを持ち合わせ、これと決めた相手——音川さんだね——には徹底して尊敬の眼差しを向けて疑わない。そんな部下、誰だって欲しいよ。 アメリカ本社とNYの街は彼のテリトリーだ。イーサンがそこへ獲物を連れて行く理由は……ひとつ」 ヒューゴが受け継いで話す。 「言葉や文化の壁もある厳しい職場だ。逃げ場も助けも無い状況で窮地となるだろう泉に、イーサンは自分がヒーローであるかのように見せ、頼れるものは自分しかいないと錯覚させることができる。それは、泉が慕うクバという存在から遠く離れていればいるほど、都合がいい」 それについては、音川にも心当たりがある。暗号化プロトコルの不正使用の記事を泉に見せた件だ。 「ずいぶんと戦略的だな」 「マッキンゼータイプは戦略的思考と目標に対する貪欲さが売りだから」高屋もヒューゴと同じく、イーサンに対して皮肉な表現を使った。同じ職場に居た人間が言うほうが辛辣だ。 音川はテーブルに置かれたティーキャンドルに目を落とした。 グラスの中の氷はとっくに溶け、ラムの上に層を作っている。 「それでも……俺は泉の意思を尊重したい。もし君らの言うようにイーサンが泉を部下として欲しがっているとして……その部下がイーサンを選ぶ可能性もある」 「音川さん、それは……」 「泉はまだ25歳で、新卒で入った今の会社しか知らない。外の世界には、俺よりもっと優れた人間がたくさんいる。そういう出会いをしていないだけで、俺を……特別な存在だと思い込んでいるのかもしれないだろう?彼にとってより良い未来の可能性を、俺が閉じてしまうことは……できないよ」 「誰にも渡したくないと願っていてもか」 ヒューゴから発せられたストレートな問いは、音川の顎のラインを浮き彫りにする。 「……いいか、ここだけの話だ」音川は低くそう言うと、ぬるくなったラムを一気に飲み干して続ける。 「俺はな、くだらねぇ肩書きや社会人としてのモラルなんて、今すぐぶち壊したいほどに泉を欲している。こんな強い感情を持ったことはこれまで一度も無い。泉の指先ひとつまで全て埋め尽くして、俺だけ見て生きていけばいいとさえ思ってる。でも——それでも、自分の感情よりも、泉個人の幸せを願う。そこに俺が居なくてもな」 ヒューゴは、それを肯定するようにゆっくりと瞬きをした。 「それがクバの愛のカタチなんだね。しかし、万が一の場合に『傍に居られなかった』ことを後悔して欲しくない。僕が伝えたいのはそれだけだ」 「ありがとうヒューゴ、高屋さん。懸念が大いにある状況だとよく分かった。俺はそういうことに鈍感な傾向があるから、助かったよ」 なんでもないというように高屋は首を振り、「B社には同期がまだ何人か居るんだ。協力できることがあれば何でも言って」と付け加えた。 「とにかく、その件は俺は知らないことにしておくよ。どうせ部長は内示をうっかり高屋さんに漏らしたんだろう」 高屋はそれに頷いたが、同時に疑問を口にせずにはいられなかった。 「泉君は……どうして音川さんに出張のことを言ってないんだろう」 高屋は、弊社に通達があったくらいだから当然泉には知らせれているだろうと疑っていなかった。音川においても同じだ。 「なんか理由があんだろ」 音川はその場では適当に受け流し、会話を終わらせると、帰宅の意思を表した。 それは、音川も高屋から聞いた瞬間からずっと疑問に思っていることだったが、泉のことは誰よりも信頼している。なにか事情があるに違いないと言い切れるが——引っかかりは否めない。 タクシーを呼ぶためポケットからスマホを取り出すと、時刻は0時近い。 そして、泉からメッセージが届いていた。 東京へ会いに行って以降、泉は毎晩日付が変わる頃に『おやすみなさい』と一言メッセージをくれるようになり、音川はそれを、自分が彼にとって只の上司ではないという証であると感じて……毎夜楽しみにしていたが—— その夜は少し異なっていた。 『おやすみなさい……今夜、夢で逢うなら音川さんがいい』 その一言は音川の胸をじんと熱くさせたが、ここ数週間でこのような一言が添えられたのは初めてだった。そして、突然で脈略が無いのに、その限定的な言い方が気になった。 音川は帰宅後に、『ヒューゴの店にいた。おやすみ』と返信したものの、出張の話と相まってか、奇妙な違和感は拭えなかった。 ◆ ◆ ◆ 泉は迷っていた。 勇み足でイーサンを訪れ、手応はあったものの…… まさか自分が彼にとって『そういう対象』として捉えられていたことに、ただ呆然自失だった。 イーサンが自分をB社に呼び寄せたのは——能力面への評価ではなかったのだろうか。 もし、恋愛や性欲の対象としてだったのであれば、泉はイーサンに対する人物評価や態度を180度変える必要がある。仕事を共にする中で、彼のプロフェッショナルぶりには感銘すら覚えているというのに。 しかし—— 泉ははたと思い至った。 ほとんどの時間を仕事に宛てているイーサンにとって、仕事もプライベートも区切りがないとしたら。そして、そのどちらもに共通するパートナーを欲しているのだとしたら——非常に合理的だと考えることもできる。 以前、音川の曖昧な態度を『泉を利用するため』として批判しただけあって、イーサンは、直接的でオープンだった。泉への欲望を隠す気すらない態度だった。 (音川さんに相談……) 当然のように、自分が心を寄せる相手が浮かんだが、それが正しい行動かどうか、いまいち判断がつかない。 イーサンに言われなくても、実際に二人の間には、『信頼という名前の絆』しか無いのだ。 唇にはしてもらえなかったあのキス—— 彼が欲しいと告げた時に、静かな無言の約束をくれたのは確かだ。 しかしそれも——同情や、部下への気遣いで無いとどうして言い切れよう—— 恋愛感情を抱いているのは自分だけであれば、こんな相談じみたことを伝えたとて、音川には関係のない話だと言われる可能性だって十分ある。 仮に、音川が誰かから誘いを受けたとして、それを泉に相談するだろうか? そう置き換えて考えてみれば、それはリアリティを持って否定された。 彼のような大人は、自分で綺麗に片付けるはずだ。 泉は自室のソファに突伏し、クッションに顔を埋めたまま想い人の名を呟いた。 音川に傍に居て欲しかった。 他のことは何も考えられなくなるほど、彼に自分の全てを埋め尽くして欲しかった。 そして、何よりも——音川から『言葉』で伝えて欲しかった。 笑った時の目元の優しさ、ロジックを説明する時の低い声。微塵の無駄のない美しい身体。雄々しく堂々とした彼の中心部分。 それら泉しか知らない表情を思い出すと、胸の奥がきゅっと痛む。 確証が欲しいなんて言える立場じゃないのに——確かめたくてたまらない。 それがどんなに欲深い感情なのか、泉は自分でよくわかっていた。それでも、今日だけは見過ごせなかった。 弱くて、みっともなくて、ひどく恋しい。 だけど――音川には、そんな自分を知って欲しいと思った。 ◆ ◆ ◆ 同じ夜。 イーサンはホテルの自室で、泉が去った扉を少しの間見つめていた。 戻って来る気配を期待していたのではない。 泉が突きつけてきた事実に対し、少し考えを巡らせていた。 「この情報をどう使うか——」 イーサンは冷静で合理主義であるが、決して性根が悪い人間ではない。 しかし、この業界にいる他のエリート同様に個人主義で利己的な本質を持ち合わせている。そうでなければ、勝てないからだ。 ここでは正しさは時に弱点となる。 誰が得をしているのかを探りあて、揺さぶり、自分がそこに収まる—— イーサンが欲しいのは真実ではなかった。 優位と、主導権。 何が何でもNYの本社に戻り、調査を進める必要がある。 幸いにも泉の研修を計画していたことに、イーサンは虫の知らせのようなものを感じた。 彼に現場を歩かせ、研修と称して深部へと触れさせる。 陶器のような肌に無垢な瞳を持った美しいアジア人青年は、本人の意図とは関係なく周囲を惑わし、連中を油断させるだろう。 イーサンの顔には、無意識の笑みが浮かんでいた。 (イズミ……キミは本当にいい子だ。無自覚に俺の欲を刺激してくれる)

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