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第38話 Home, Sweet Home
そうして、飛行機の予定時刻まで、ふたりはラウンジでゆっくりと会話を楽しむことにした。テーブルには、それぞれ好きなものをビュッフェから持ってきており、音川は一口サイズのケーキをいくつか、泉は数種類のコールドサラダに牛肉の煮込みと、アメリカンなセレクトだった。
音川は泉の帰国便を自分と同じフライトに変更し、イーサンには「彼を連れて帰る」とだけメールで知らせておいた。
彼が社に対して行ったことと同じような通達のみになるが、泉が残っても、イーサンに利用されるだけであると判断した。
そもそも、本来の研修内容はすでに修了しており、会社間において実害は何もなければ、文句を言われる筋合いも無かった。
「かわいいね」
音川は塊肉をもぐもぐと頬張る恋人を見つめながら、そう呟いた。
「リスみたいで、ですか」
「ううん。きみが。可愛くてたまらない」
「んぐ」
泉は急いで水を飲み、むせそうになった呼吸を整える。
「どうしたんです?急に……」
「もう口をつぐんでおく必要がないのであれば、言いたい時に言う」
「……それ、僕も同じことしていいですか?」
音川はそう返され、視線を合わせたまま微かに首を傾げた。
「俺に可愛い要素があるならな」
「眼の前に甘いものを並べてニコニコしている音川さん、可愛い要素しかないです」
今度は音川が声に詰まる番だった。
「……ただの甘党です」
泉がクスクスと笑い、「音川さんはかっこよくて可愛いです」とまっすぐに目を見つめたまま言うと、音川は小さく唸り声を上げて、後頭部に手をやった。
その照れる様子がめずらしく、泉は目を細める。
まもなくして、搭乗ゲートが開いたとアナウンスがあった。
「そうだ」
並んで機上の人となって幾時間も経たずに、音川は思いついたように、自分の左手首から腕時計を外すと、「俺だと思って持ってて」と泉の手首に巻き付けた。
ブレスレットの留め具を抑える衝撃に少し顔をしかめたためか「ごめん、痛かった?」と囁く声に、泉は首を横に降った。
「似合うよ。控えめだけど存在感があって……まるできみみたいだ」
泉としては、音川の愛用品を身につけることに喜びを感じてはいたが、気がかりの方が大きかった。
「嬉しいです……でも、高級品なのでは……?無くしたら大変」
父親から譲られたものだから正確な値段を知らないというのもあり、音川はそれに答えずウィスキーのグラスを口に運び「その時はその時で」などと言っている。
泉は手首を目前に掲げて、角度を変えながらまじまじと見た。
ステンレススティールのブレスレットとつるりとしたベゼルは無駄のない流麗なラインを描き、海の深淵に潜むかのような静謐な青の文字盤に、細長いインデックスが美麗に映える。
音川はまるで泉だと言ったが、泉はどうしてもその落ち着きと気品さを兼ね揃えた姿は、音川そのものに思えてならなかった。
「この時計、いつまでお借りしてていいんでしょうか」
「んー……?」
機内サービスのドリンクリストから音川は目を話さず、低く返事をしただけだった。
ほどなくして機内限定の日本酒を選び、「今日は飲むぞ」と顔を上げてニッコリと微笑んだ。
「いつまでがいい?」
「できれば、音川さんが必要になるまで……とか、駄目ですか?」
金属なのに尖ったところなど皆無で、手首にしっとりと纏わりつくのがとても心地が良く、すでに気に入ってしまっていた。
「ん。泉が飽きるまで持っててよ」
「それだと音川さんが不便では?」
「他にもあるから全然問題ない。それに心拍数が測れるスマートウォッチにしようかと思うんだ」
「では僕のを初期化して、音川さんに預けます。価値の釣り合いは取れないと思いますが、交換ということで……」
「それは嬉しいな」
「じゃ、今すぐ」
泉は貴重品を入れてあるミニバッグからスマートウォッチをいそいそと取り出し、すぐに工場出荷時に戻すと、「一旦これで……」とバンド部分を広げ、そのまま受け取ろうとしていた音川の左手首にくるりと巻いた。
「付けさせてください」
「いいけど……いいの?」
「いいのって……音川さんだって僕に……」そこまで言ってから、泉は目元がカッと熱くなるのを感じた。
——『結婚指輪があるんだから、婚約指輪は止めてペアウォッチにした』と——当時、姉が誇らしげにキラリと光る高級腕時計を見せてきたのを思い出したからだ。
「……ペアウォッチならよかったのに」
「あのー泉くん……そんなこと言われたら、俺、もうこれ外せないよ」
二人が照れて、うつむき加減にそっと目線を合わせていると、「失礼します」と客室乗務員がトレイを手にやってくる。
「ん……?」
二人の間にあるテーブルに、華奢なグラスに入ったシャンパンと、箱詰めの焼き菓子を置かれ、客室乗務員はニッコリと極上の笑みを浮かべた。
「サービスです」
「……ありがとう」
偶然にも少し離れたところから二人を目撃したこの客室乗務員は、あまりに幸せそうな様子からピンとくるものがあり、ギャレーでファーストクラス用のギフトを手早く調達したのだ。
何度かビジネスクラスに乗った事がある音川には、これが通常のサービスでないことは明確だったが、泉は「飛行機ってサービスいいですね」としきりに感心している。
「そうだね」と音川は目を細めて、恋人を見つめた。
これから、泉が新しい発見をしたり、初めての経験に遭遇するところを目撃するだろう。そして、共にいることでしか得られない機会もあるだろう。今まさに起こったような——
喜びに、音川の胸がじんわりと温まる。
「ところで、チケット見た?この便の」
「あ、はい。ちらっとですが」
「どう思う?来てくれるかな」
「……え?どういう……成田から音川さんちに直行ってことです?」
音川は、テーブルに伏せられている泉のスマートフォンを指さした。
「到着地が成田だと思っているなら、確認した方がいい」
「ちょっと待ってください!そんな」
大慌てで泉は航空会社のアプリを開き、チケットを表示させ……息を呑んだ。
「関西……?」
「うん。俺は休暇中だから、ついでに実家に寄る計画だったんだ。だから、俺のフライトに合わせて泉もそうなったんだけど……いいかな?まあ、自分でも先走ってしまった自覚はあるが……駄目だったらそのまま羽田まで国内便に乗り換え……」
「い、行きます!」
音川が言い終わる前に泉は勢いよく返事をした。
「ピエロギ教えてもらう約束です!絶対に行きますから!!」
音川は破顔し、届いた日本酒に口を付けて「美味い」と唸っておいて、続けた。
「ありがとう。嬉しいよ」
途端に、泉が眉を下げた。
「僕、歓迎してもらえるでしょうか……」
音川の母親はこの数カ月間、いつピエロギを習いに来るのかと鬼電の如く息子をせっついていた。
「逆だ、逆。きみがうちの家族を気に入るかどうかだ。……じゃあ、泉が来てくれると、今から母に連絡するよ?」
恋人がしっかりと頷いたのを見て、スマホから母親に短いメッセージを送った。
すぐに返信が届き、眉をひそめながら何往復かやりとりをして、ポケットに端末をしまう。
「1泊することを約束させられた。すまん」
「どうして謝るんですか。泊めてもらえるなんて嬉しいですよ」
音川の母はテキストだけの往来でさえ伝わってくるほどに興奮しており、当日の様子が慮られる。泉が引いてしまわないか既に心配だった。
「……俺が恋人を連れて行くのなんて初めてだから、まるで近所に紅白饅頭でも配りそうな勢いだ。面倒かもしれないけど、ま、付き合ってやって」
「初めて……なんですね。僕ももちろん初めてですが……でも、音川さんほどの人なら、過去に結婚していてもおかしくないなって……」
泉は、手元に目線を落とした。恋人の過去が気になるというより、音川のような仕事もできるいい男が、独りでいる背景に興味があった。
「そういうもんかねぇ」
軽く受流され、泉は音川から答えを聞き出すのは難しそうだと感じた。
まあいい。今でなくとも、これからゆっくりお互いを知っていけばいいだけだ。
◆ ◆ ◆
関西国際空港からリムジンバスで梅田駅に到着し、私鉄に乗り換え音川の実家へと向かう。土地勘のまったくない泉は、駅名を聞いても東西南北すら分からないが、ここが『キタ』と呼ばれるエリアなことは音川から聞いて知った。
しかし何と比較して北なのか、どうしてカタカナで表現されるのかは分からない。
「遠いんですか?」
何気なくそう尋ねた泉に音川は目を細めた。
「大阪は平野が狭いから、遠い場所なんて無いんだよ」
まるで無知な子供に言い聞かせるような口調に、泉は少しむくれる。
音川はその顔をとても好きだと思ったが、からかうのは控えめにしないと本気で怒らせたら大変だと肝に銘じる。
音川自身は泉にからかわれるのを大変楽しく感じているが。
最寄り駅から実家まではやや距離があるため、待機していたタクシーに乗り込む。
音川が実家の住所を告げると、「ああ、あそこでっか」と運転手はすぐに反応した。
泉は大阪に到着してから、あらゆるものが大阪弁であることにいちいち驚きを隠せなかった。
電車のアナウンスも、駅を行き交う人々の会話も、接客スタッフも、ポスターのキャッチコピーも、警察の標語まで、なにもかもだ。
「本当にみんな大阪弁なんですね」と感心するが音川は無自覚のようで、何を言っているのかと言わんばかりに奇妙な顔をされてしまった。
タクシーはなだらかな登坂をゆっくり進む。
車窓から見えるのは高い塀や生け垣、または敷地へ繋がる私道で、住宅街であるはずなのに家屋はほんの少ししか見えない。
音川の口ぶりでは、古い喫茶がすぐ近くにあるような下町の……
「話が違う」
車を降りて、目の前に佇む大きな純和風の門の前に立ち、泉は音川をキッと睨んだ。
とは言え、そもそもお互いの家族や実家について詳しく知らないため、話もなにもあったものではないが、それにしても想像と違いすぎる景色に泉は唖然とした。
焼き鳥とハイボールと喫茶店のモーニングという、音川に対して持っていた下町のイメージがガラガラと音を立てて崩れていく。
音川がインターホンを押すと、自動で門が左右に開き、石畳が現れる。
左右に生い茂る木々の厚い葉や丈夫な幹、岩に生えた苔が歴史を感じさせる。かすかな水音が聞こえるのは、池があるのだろう。
太陽光が反射して銀色に輝く石畳を一歩踏み出したところで、向こうに見える家屋の大きな引き戸がガラリと勢いよく開けられ、「んまあまあまあ!いらっしゃい!!」と着物姿の背の高い女性が飛び出してきた。
あまりに優美な統一感に一見気が付かないが、よく見ると確かに白人女性だ。
「ようこそ音川家へ!」
泉は猛烈な勢いで抱きしめられ、左右の頬にキスを受ける。
そうして「オーマイ……ソーキュートやん」とまた抱きしめられる。
「息子は無視ですか」
「さ、入って入って。暑かったやろ?麦茶淹れたるな。ビールがええか?」
どんどん背中を押されて玄関を通り、庭に面した客間へ通された。
純和風ではあるが、建具はどことなくモダンさも感じさせる。直線的ですっきりとした木造の、立派な邸宅だ。
泉は、ラタンの応接セットに腰掛ける前に、一度あらたまった。
「青木泉です。音川さんと同じ部署の、後輩で……イズミと呼んでください」
「母親のヘンリエッタです。よろしゅうにね。私もう泉君に会えるのが楽しみで楽しみで。今夜の夕食、一緒にこさえよな?材料いーっぱい買ってあるから」
「わかったわかった。とりあえず何か冷たいもの持ってきて」
音川はそのまま会話を続けそうな母親を追い立てて、泉に向き直る。
「騒がしくてごめん」
「とんでもないです。ご実家……僕、勝手にもっと下町を想像していて」
「俺の雰囲気がそっちってことだろ」
「まあそれは……。でも来て良かった。お母様も優しそうで」
「お、お母様やて……!」と感極まる声を出したのは、麦茶を乗せた盆を両手に持った音川の母だ。
「お母様もいいけど、ヘンリエッタって呼んで。この子にもそう呼ばせてるから」
「父さんは?」
「ゴルフ。夕方には帰るって」
「部屋はいつもの客間?あと風呂とかいろいろ教えて」
「せやせや、リフォームしてん。どこもかしこも古いやろ?ちょうどお風呂場とトイレと全とっかえしたところよ。これも虫の知らせっちゅうやつやな。ちょっと自慢のお風呂になったから見てちょうだい。なんとドイツ製」
音川の母は着物の裾を優美に押さえて立ち上がり、まずお風呂は……と長い廊下を先導する。庭を囲う形で回廊になっているようだ。
「浴衣出しておいたから、一緒に汗流しておいで」
そう明るく言って振り返った母を、「ヘンリエッタ」と音川がじろりと睨む。
「なによ。あんたら一緒に住んでるんやろ?」
二人は全く同じタイミングで顔を見合わせた。
その時、音川の脳裏に、あのカフェバーで高屋が見せた気骨のある姿が蘇る。
(大切な人の不安を取り除くためなら——)
しかし、小首を傾げた泉の瞳がほんの少しだけ揺れたように見えたとしても、音川はここで返せる正確な言葉を持っていなかった。
息子とその客人が無言のままで見つめ合っているのをなんと捉えたものかと、ヘンリエッタは双眸を少しだけ開き、にっこりと笑ってみせた。
息子の恋愛事情に首を突っ込むつもりはさらさら無いが、泉は、今まで浮いた話一つも寄越さなかった三十路の長男がようやく連れてきた貴重な人物であり、母親の手料理を学びたいとわざわざ足を運んでくれたことに間違いはない。
「ま、どっちにしろお部屋は一緒にしてあるから、それは譲れません。ほなまた後でな、夕方までのんびりしといて」
母が廊下を曲がり見えなくなると、音川は泉の顔を覗き込んだ。
「まだ、一緒に住んではいないよな?」
「……ですよね。すぐ出向になりましたから……」
先に風呂は譲り、音川は庭に面した縁側で、ラタンのアームチェアに体を預けてのんびりと木々を眺める。
帰省の際は、ほとんどの時間をこうして庭を眺めながら考え事をする。静かにゆったりと流れる時間に思考を乗せて、それが突飛であれ非常識であれ、行き詰まるまで頭を解放するのだ。
帰省する度に緑は濃ゆく、石の灯籠を覆う苔は深くなるが、今年は手入れが行き届いている。きっと、初めて息子が連れて来る人物を思って、ヘンリエッタが庭師を呼んだのだろう。
暦の上ではもう秋だが残暑が厳しく、しつこく夏が居座っている。どこからか蚊取り線香の匂いがするから、庭でも秋の虫よりも蚊が粘っているのだろう。
明治時代に建てられたこの家は、改築を重ねてもまだまだ古く、あちこちに隙間があるから蚊はいるし蜘蛛も出る。
廊下の隅で蚊取り線香がたかれ、縁側で風鈴がそよぎ、井戸ではいつでもスイカが冷やされていて……
ポーランドで暮らしていた中高生時分は、新学期が開始するギリギリまで、毎年長い夏季休暇を日本で過ごしていた。いつも音川が思い出す夏はここで過ごした夏だけだ。
しかしここ数年の酷暑を思えば、少し時期をずらした今頃の方が遥かに過ごしやすい。
廊下が軋むかすかな音に続いて「開けていいですか」と丁寧な声がかかり、引き戸が開かれた。
「そう気を使うな。ふたりの部屋なんだから——浴衣、似合うね」
麻無地の濃紺の浴衣に、光沢のある灰色の帯が泉の明るい髪色によく映えていていた。
記憶に間違いがなければ、音川が20代の頃に母が仕立てた浴衣だ。
母は自分で着るだけでなく仕立てが趣味で毎年増えていったが……結局今は実家に何着あるのかは把握できない。
「帯の結び方知ってたの?」
「剣道部だったので……この結びしかできないけど」
ああ、と音川は納得の声を出す。「通りで。意外としっかりした体つきだと思ったんだよな、昨日」
脱がした時に、と続けそうになって慌てて口をつぐんだ。
「久しぶりに着ました」
少し頬を染めた泉は、涼を求めて胸の袷を少し開いた。失言は口に出さなくても、伝わってしまえば同じことだった。
「その姿をヘンリエッタが見たら、持って帰るように言われるだろうな。いや、より似合う生地を選んで仕立てると言うかも。覚悟しろよ、毎年浴衣が送られてくるぞ」
「願ったりですよ。機会がないだけで和装は好きです。ね、音川さん。お庭見てきていいですか?」
「いいけど、蚊に噛まれるぞ」
「カニ、カニカマ……?」と呟きながら泉は部屋のテーブルに置いてあったうちわを手に、縁側のガラス戸を開けて庭に降りた。
「東の人間は”刺される”と言うんだったな」と西洋顔の男は笑い、ラタンの椅子にもたれかかったまま、陽の光で深緑や若草色などさまざまに色を返す草木の中に入っていく泉を眺める。
みごとな枝ぶりのもみじの大木があるが、紅葉にはまだほど遠いようだ。。
ふと、深緑の中に佇んでいた泉が振り返って、視線が合わさった。
音川に見られていたことに照れたのか気まずさか、曖昧にふわりと破顔するが、すぐに何か覚悟したように目元に力を込めると、しっかりと見つめ返してくる。
これから、こんな瞬間が幾度も訪れてくるのだろう。
「音川さん」
ハッとするほど優しい声でよばれ、顔を上げた。
「僕、気が付いたんですが、音川さんの緑の目は、この庭なんですね……ここにある木々も、池に反射する光も、苔石が持つ歴史も落ち着きも、すべて音川さんの瞳そのものです。まるで眼球がこの庭からポンと生まれたような」
音川は、一瞬言葉を失った。
なにかに執着することのない自分に唯一の拠り所があるとすれば、この庭だからだ。
どんなに忙しくても毎年帰省し、ここで夏の匂いを吸収し、冬の静けさに寄り添う。
それが自分の中に、いや、自分自身だと泉から言われたようで。
「気に入った?」
「すごく。音川さんの目の中に入り込めたみたいで、嬉しい」
「それは……とっくにそうだよ」
「どういうことですか?」
「俺は、もうずっときみしか見ていない」
泉の双眸が驚きに開かれ、じんわりと濡れていく。
音川は今度こそ目をそらさずに、ゆっくりと微笑んだ。
「そろそろ父親が帰ってきているはずだから、居間へ戻ろうか。ヘンリエッタも料理をしたくて待ち構えていると思うよ」
時折きしむ回廊を渡り、音川と泉が揃って居間のガラスの引き戸を開けるやいなや、父は母に負けず劣らずの大歓迎ぶりで泉を迎え入れた。
案の定、ヘンリエッタは泉の浴衣姿を褒めに褒め、後で採寸させる約束を取り付けた。
母親似だと音川本人は言っていたが、両親揃って見てみると間違いなく父の要素も十分に認めることができる。目鼻立ちのはっきりした、上背のある快活な男性だ。
なによりも声が音川に似て低く、バリトンの艶があった。
「よう来てくれたね。早速で悪いねんけど、泉君。うちの息子をどうぞよろしく」
隣でそう宣言する夫にヘンリエッタは満面の笑みを向けた。「私からも。くれぐれもよろしくね」
「僕の方こそ音川さんにお世話になりっぱなしです。今日も押しかけて来てしまって」
「まさか!こいつの我儘に付き合って来てくれたっちゅうキミの行動が、ボクらは何よりも嬉しいんや」
「ありがとうございます。音川さんに相応しくあるよう努力していきます。仕事もそうだし、あと料理も」
「そんなん、あんまり気ぃ張らんでな。仕事は泉君、自分のためだけに頑張ったらええねん。ただ、もし傍におってくれるんなら、こいつの健康面だけ見張っててもらえるとありがたい。今でこそこんなんやけど、ちょっと前までは骸骨みたいに痩せててな。角砂糖齧って生き延びてたらしいから」
「あれはラムネ。角砂糖じゃねえよ」
「おんなじや」とヘンリエッタが鋭く言い睨みつけた。「ほんなら泉君、そろそろお料理始めよか?」
「じゃ俺も風呂入ってくる」
「お父さんも入ってきたら?」
「やめとく。こいつの腹筋と比べられると惨めになるだけやしな」
家族の会話を聞きながらヘンリエッタの後について行く泉の顔には、無意識の微笑みが浮かんでいた。
音川の底抜けの優しさの根源は、この両親にあるに違いなかった。
どこの馬の骨ともわからない自分を、何の詮索も疑いもせず、温かく歓迎する。
なんという信頼と、愛情だろう。
広いアイランドキッチンには、以前家電量販店で音川が言っていたとおり、スタンドミキサーが置いてあった。
「これでピエロギを作るって聞いてます。おふくろの味なんだって」
「まあ。食には一切興味がないと思ってたけど、ちゃんと分かってくれてたんやねえ」
「店で見かけて、作ってくれるか?って。初めて知る料理だけど美味しそうだったし、チャレンジしてみたくて……」
「ほんならまずはご馳走してあげるのが本筋ちゃいまんの、なあ?」
「ポーランド料理のお店が地元に無いみたいですよ」
「うーん、それとはまた違うんちゃうかなぁ。どれでも良ければ、レシピなんてネットに無限にあるわけ。そうじゃなくて、一番大切なのは、泉君が来てくれたこと」
「あ……それは……。美味しく作れるようになったら、音川さんに好かれるかな、と思って……ご家族にこんなこと言うのは、おかしいですよね」
尻すぼみにそう言った泉を見てヘンリエッタは目を細めた。慈愛に満ちた目元は音川と瓜二つだ。
「おふくろの味を作ってくれなんてリクエストをする時点で、結婚してくれって言うてるようなもんちゃう?知らんけど」
百貨店で新婚だと勘違いされたことを思い出し、カッと体温が上がった。
『誤解されたままでいい』と言ってくれた時、音川は今ヘンリエッタが言ったことを気付いていたのだろうか……
「僕も、ご実家へ習いに行くかと誘われた時、ちょっと思った。びっくりしたけど音川さんはたぶん何も考えてなさそうで……」
「どやろ。ともかくレシピを聞かれたのも、私らに会わせてくれたのも泉君が初めてなんよ。泉君に作ってもらいたいと思ったのは間違いあらへん」
「え、あ……じゃ、じゃあ、僕が最初で最後になるように……」
「もう!ほんまかあいらしいこと」
「たぶん、今までそれなりに相手は居たと思います。会社の噂では音川さんが歩いた後はペンペン草ひとつ残らないって」
「そら、顔は私に似たからな」ヘンリエッタはバッチリウィンクしてから続けた。
「小学生の時は毎年バレンタインデーになると家まで女の子たちがチョコレート持って来てな。ポーランド行ってからは、朝起こしに行ったら誰かおったことは何回もある。向こうの子は積極的やし、それに自分の欲しいもんをよー分かってる」
「ポーランドは長く居たんですか?」
「何にも話してへんのかいな。ちょうど20年前ね、私の母が体調崩して、一人娘やからどうしても帰りとうなって。でも子供たちを置いていくわけにはいかん。お姉ちゃんはもう高校生で、お父さんはちょうど単身赴任で日本におれへん、困った困った言うてたら、『ポーランドの高校行ってみてもええけどな』て言うてくれて。結局向こうの水が合ったかしらんけど大学までおったな」
泉は流れるような関西弁で話す母に向けて微笑んだ。
「たくさん喋るときの音川さんそっくり」
「ほんまに?あの子、会社で喋るんかいな」
「口数は多くないですが、時々、急にたくさん喋る。きっと、頭の中ではヘンリエッタみたいにずっと喋ってるんだろうな。音川さんは、いつも優しい言葉を選ぶんです。ぶっきらぼうなところもあるけど、失言なんて絶対にしない。みんなに平等で、特に後輩からは絶大な人気がある。でも……最初から、僕の前では失言もたまに。それが面白くて、嬉しかった」
「一目惚れちゃう?何を話していいか分からんなってもうて、いらんこと言うんやろ。しかし、うちの子も見る目ある。私、泉君大好きになったわ。素直で、かあいらしくて」
音川の母は、ほんのり赤くなった泉の頬に、大げさな音を立ててキスをした。
伝授された料理はどれもが大変に美味しく、泉は初めて食べるポーランド料理なのにどこか馴染みを感じていた。
音川が以前に生姜焼き定食を指して、こういうものが作れるか、と聞いたのも納得で、ロールキャベツやとんかつに非常に似ている。ピエロギは醤油をかければごはんのおかずにもなり得ると思いながら、泉のナイフとフォークは止まらない。
「なんだか、ポーランドにお嫁にきた気分です」
食事中にもあれこれとポーランドの暮らしや音川の高校時代について教えてもらえるのが楽しく、何気なくそういった泉を沈黙が囲った。
(しまった!)と気付き大急ぎで「ち、違っ、ホームステイの間違いです」と言い直したがすでに遅しで……
助けを求めて音川を見れば両手で顔を覆って俯いており、両親はナイフとフォークを手にしたまま固まっている。
「僕、変なこと言って……すみません」
そこでぶわっとヘンリエッタの瞳に大きな輝きが生じた。
「クバ、私らはあんたの人生に口出しする気はあらへん。でもな、これだけは言わして。モノゴトの優先順位はバシッと決めなアカン。自分よりも大切なものに出会ったら、何が何でも捕まえて欲しい。ほんで泉君。私らはそのつもりで来てもらってるんよ。ふふ、絶対逃さへんでぇ」
まだ顔を覆ったままの音川が「俺もうアカンかも……前にも百貨店で新婚に間違われて……」と低いくぐもった声を出した。
「そらそやろ。あんたの顔にな、そうはっきり書いてあんねん」
「照れてるクバ君初めて見た」と言いながら父は席を立ち、「シャンパンを開けよう」とダイニングから出ていった。
そうして、照れて使い物にならない息子を置き去りにし、夕食の場はちょっとしたパーティのようになった。
泉の口が滑らかなのは美味しい料理とシャンパンのせいだけではなく、音川の両親が泉をまるで新しく出来た息子のように親密に扱うせいでもあった。
音川の父はフットワークの軽い人で、食事中も飲み物やおかわりを自ら進んで配膳し、特にボトルが空になるとすぐに次のワインをセラーへ取りに急ぐ姿は、周囲への細やかな気遣いを感じさせる。
その姿はどこか、会社で後輩たちの面倒を見る音川の立ち振舞に共通するような気がしていた。
両親の良いところを余す所なく受け継いだのだと、泉は年上の恋人を分析する。
夕食の片付けを申し出た泉を全力で引き止め、それは自分の役目だと当然のように食器を片しながら席を立った。
テーブルに残ったヘンリエッタが、「こっちはのんびりおしゃべりの続きしよ」とグラスを両手に持って流れるような所作で廊下へ出て、それを浴衣姿の泉が若猫のようなしなやかさで追従する。
父と同様に片付け担当の音川は同時に席を立ち、泉の背を目線で追う。
すっかり打ち解けてくれた様子だ。
リビングの片隅にちょっとしたBarコーナーが設えてあり、こちらはどっしりとしたソファセットに真鍮の支柱を持つサイドテーブルが置かれて、背の高いフロアランプがぼんやりとオレンジ色に床を照らしている。
ここだけは西洋の赴きにしつらえてあるが、和装のヘンリエッタがソファに座る姿はまるで雛飾りのようにも写り、なんとも言えない不思議な調和があった。
「喫茶にいる時の音川さんより絵になる」
思わず泉は呟いていた。
「あらそう?」
「よく行く喫茶店に、アンティークのコーヒーミルやカップを並べた飾り棚があって、それを背景とした音川さんはすごく素敵なんですよ。いつか描いてみたいと思ってましたが……今ここにいるヘンリエッタの方が、創作意欲を掻き立てられます。写真、撮りますね」
泉は返事を待たずに帯の間に挟んでいたスマホを取り出してさっと撮影すると、「CGが趣味なんです。あ、最近まで本職もデザイナーでしたが。描けたら貰ってください」と有無を言わさない口調で告げる。
その断定的な態度に、ヘンリエッタは腑に落ちるものがあったらしく、「ええコンビ、いやカップルか」と泉にニンマリと笑いかけて続ける。
「いつも夕食後にここで……?」
「先にのんびりさせてもらうのは、父さんがおるときだけやな」とヘンリエッタは夫をそう呼んだ。「クバもやけど、作った人が片付けをしないっていうのがうちの父親の方針やねん。片付けや洗濯は進んでやるから、お買い得でっしゃろ」
「音川さんの部屋が片付いているのは、猫のためだと思っていました」
「それもあるやろけど、身の回りのことは自分で出来て当たり前やろ?ま、料理はそうはいかんかったけど。なんせ食べることにあんまり興味のない子で」
「もったいない。ヘンリエッタの料理、すごく美味しいのに」
「んまあ、おおきに。どう?帰って一人で作れそう?」
「はい、動画も撮らせてもらいましたし、なにより味が分かったから大丈夫かな」
「せやね。もし必要ならいつでも連絡してね」
「そうします。まずはピエロギの練習」
「健気やなぁ」
「そんなことはないです。元々音川さんに好かれたくて始めたことですし、それに、今日食べてみて本当に美味しかったから。もう自分のためだけに作るつもり」
「そうそう。なんでも自分のためにやってみるのがよろしいわ。人のためとなると、どうしても見返りや評価が気になるものよ。せっかく苦労して生地からピエロギ作ったところで、うちの子が微妙な顔してみ。けったくそ悪いわな。あの子に食べさせるのは、泉君が作りたい時のついででよろしいわ」
「ご実家もそうなんですか?」
「そうね。母は夕食担当で献立も考えるけど、私や父のリクエストがなければ自分が食べたいものをこしらえてはったな。そして片付けやら……朝食は父の役割」
「朝食も?」
「せやで。朝早うに近所のパン屋さんに行ってな、コーヒーを淹れて、寝室にいる母に持っていくの。毎朝コーヒーとパンのいい香りで母を目覚めさせることが彼のこだわりでな、絶対に譲らへん」
「それは素敵な習慣ですね」
「クバは10代の大半を私の実家で暮らしてるから、そんな父の姿をよう見とるはずよ」
「……そんな話どころか、帰国子女だってことも知ったばかりです」
「口数が多い方ではないからなぁ。朝食はどうしてるの?」
「喫茶店のモーニングです。元から音川さんが通っているお店で……配属されてすぐに連れて行ってもらって、それから毎朝……ごちそうしてもらっています」
それを聞いたヘンリエッタが一瞬大きな瞳をさらに広げて「ええこと教えたろ」と泉の傍に顔を寄せ、やや声を落とした。
「まだ大学生の頃。サークルのみんなを連れてポーランドに帰省してね、ほんで日本に帰国した次の日の朝、当時はボーイフレンドの一人やったあの人が私のアパートに来て『近くにパン屋が無いからモーニングでええかな』言うて喫茶に連れて行ってくれたの。私、その時初めて日本の純喫茶に行ってな……年季の入った調度品と静かにショパンを聴きながらコーヒーを飲んでいるお客さんたち、なんて成熟した文化のある国なんやろと感動したわ。ほんで運ばれてきたものすごい厚切りのトーストがまた香ばしい匂いでなあ。あの人は私がコーヒーカップに口をつけるまで、自分は水すら飲まんとじっと待ってはって。なんとなぁく、この人と結婚するんやろなぁと思ったんよ。それから毎朝、誘いに来てくれるようになって。思い出すわぁ。モーニングは二人きりなんやろ?他にも会社の人がおるんやったら、話は変わってくるけども」
「二人です」
「な?この話はあの子も耳にタコができるほど聞かされてるから、そうそう簡単に誰彼を連れて行かへんと思うよ」
「確かに最初はあんまり乗り気じゃないような感じでしたが、そんな理由があったなんて」
「毎朝なんやろ」
「はい、毎日おいでと言って貰えて……東京に出向になったのでしばらく行けていないですが、ママがとてもいい人で」
「さっきちらっと聞いたけど、一緒には住んでへんのん?あの子のとこ、ふたりでも余裕あるんちゃうの」
「あ、それは……たぶん、これから。でも少し難しいかもしれません」
「どうして?」
「会社に転居届を出すと同居がバレるかもしれません。音川さんはきっとそれを良しとしないから。彼は、特定の部下と仲良くしないんです。なので、社内恋愛なんて天地がひっくり返っても起こり得ない……はずで」
「でも、起こったんやんな」
「はい……じ、実は、昨日のことなんです……付き合い始めたの……」
「いやんホンマに!?」
ヘンリエッタはグラスをサイドテーブルにコトリと置いた。
「僕は入社してからずっと好きだったので、2年以上片思いでした」
「あの子もアホやな!2年も気が付かへんなんてもったいないことを!」
「僕も、アピールすることなんてまず考えられなかったので……本当に職場での音川さんは真面目で堅物と評判で……告白なんてしたら嫌われちゃうと思って」
「まあ、自分の息子ながら複雑怪奇な思考しとるクバのことやから、一筋縄じゃいかんのかもしれんけども。なあ泉君、覚えといて欲しいのは、私はこれからずっとあなたの味方よ。私は私で、新しい息子や思てお付き合いさせてもらいますよってに」
ヘンリエッタは、照れたような笑顔でくしゃりと破顔する泉に「来年は着物でクリスマスマーケット行こな、約束」とシャンパングラスを掲げた。
そうしてリビングの片隅で新しい友情が芽生えている間、台所に残された音川と父は、粛々と後片付けを進めていた。
「クバ君、あの腕時計……やねんけど」
父は隣でフライパンを洗っている息子をチラリと見て、ぽそりと呟くように問うた。
「ああ……うん」
「そういうことやと思っといてええんやな?」
息子に視線をやり、硬い口調で確認する。
音川が泉に預けた腕時計は、前述のように父親から譲り受けたが、もとを辿ればヘンリエッタの父、音川の祖父が購入したものだった。
というのも、日本に嫁に行くことになった娘に「こんなに距離があっては何もしてあげられない」と嫁入り道具代わりに持たせたのだ。
一人娘を国外に手放すことに寂しさ無いわけではなかったが、当の本人が日本文化に傾倒し、大学では高い倍率を勝ち抜いて日本学科に通っていたから、いずれこうなるだろうとは薄々思っていたため抵抗はなかった。
そして嫁ぎ先である音川家は見事な日本家屋で、新居を構えるための資金も不要となり、結局「万が一の時にお金に変えなさい」と腕時計が選ばれた。
「彼は、時計を貰ってくれたんやな?」
「いや……預けてあるだけ。単純に俺の時計だと思ってる。どういう時計かなんて、言えるかよ」
「……クバ君、きみねぇ」
「泉は俺の8つも下だ。そんなプレッシャーを与えるなんてことできねぇよ」
「でも渡したってことは、きみは彼と……結婚を考えてるっちゅうことやろ」
「ん、まあ……。泉以外、ありえないのはもう自分で分かってるから」
「よかったわ。キミは学生の頃からめちゃくちゃにモテたと聞いてます。でも自分から誰かを好きになった経験が無いんちゃうかと、お父さんは少し心配してた。で、いつプロポーズすんの?」
「どうして父親にそんな話をしないといけないんだよ。その前に、片付けなきゃいけない問題がある。俺は入社して以来、フェアで透明性の高い職場環境を目指して来たんだ。その当人が、同性の部下に惚れて、しかも相手を実績もなく昇進させた、なんて亀毛兎角もいいところだ」
父親の目に、苦渋を砂のように噛んだ息子の姿が映る。
しかし先程、泉の発言を受けて大いに照れていたのは、間違いなく咄嗟の反応で、どちらが本心かは明白だった。
「難儀やなぁ」と父はため息混じりでつぶやいて続ける。「キミの仕事に対する信念は立派やし、父さんは誇らしく思うよ。でもな、理想と現実は、時に幸せと相容れないことがあんねん」
「どう相容れない?」
「その職務に対する理想は素晴らしいけども、実現したことで、キミは幸せを感じたか?」
「そういう風に考えたことがない」
「じゃあ、いまの状況は……どうや?ありえない、ときっぱり言うが、実際今ここでその惚れた部下がキミのお下がりの浴衣を着て寛いでくれとる。母から手料理をキミのために習い……お嫁に来たみたい、て言うてしもうて真っ赤っかになって、可愛らしかったなあ?」
「あれは、言葉のあやだろ」
「まだ照れてんのかいな」
「……プロポーズはするよ。仕事は辞めるかも知れない。副業の方で見通しが立ちつつあるし、泉が優秀でね、俺の後釜として十分過ぎるくらいなんだ」
「そうかいな。まあ、辞める前に、ちょっと試してもおもろいかもな」
「何を?」
「現実を理想に近づける試みを、や。ま、何にせよ、しっかり向き合うんやな。そんで幸せの前にもし障害があれば、その時は戦いなさい。たとえ敵が己自身であっても」
「分かった」
「仲良うにな。朴念仁の真面目さもええけど、大概にせな、この人退屈や言うて捨てられるで」
台所の片付けが終わり、父と息子がリビングへやってくると、ヘンリエッタと泉はすでに上機嫌で笑いあっていた。どうやら母親によって音川の昔話が披露されたらしく、「本人の前では言われへん」と打ち切られてしまった。
「なんだよ」
「音川さんの学生時代の話です」よほどの笑い話があったらしく泉は目尻に溜めた涙を指先で拭った。
「余計なこと言ってねぇだろうな」母親をチラリと睨むと、「おおこわ」と大げさに肩をすくめて見せ、「身に覚えがあるんかいな」と反撃されてしまう。
「泉にあまり勧めんなよ。多少は飲めるが、俺たちみたいにザルじゃないから」紅潮した泉の頬を横目で見ながら音川は母をたしなめた。
「はいはい。心配性なこと。ほな、私そろそろお風呂いただいて寝るとします。あんたらも飲むならどうぞ。片付けはいらんから、そのままにしといて」
ヘンリエッタが自分のグラスだけを持って立ち去り、Barコーナーには男だけが残された。父親が「一杯だけ」と提言して、3人で飲み直す。
「ボクは息子とあまり時間を共有できていなくて、そんなおもろいエピソードは無いねんけど」
「要らん要らん」そう息子に素気無く断られ、父は大げさなアクションで肩を落としてみせる。ヘンリエッタと似たような仕草で、大阪の人間特有の動きだ、と泉は密かに感心した。ポーランド出身の彼女でさえそうなっているのに、生まれが大阪の音川にはそれが見られないのが残念だった。
「そうや泉君、こいつの写真見るか?子供の頃はもう少しボクに似て繊細で可愛かった。こんなに大きく逞しくなるなんて想像できひんで」
音川の父は息子の制止を無視して、リビングに置かれたアンティークのキャビネットから分厚いアルバムを出して来ると、ソファセットに腰掛けた。
「こっちおいで、泉君」
「絶対見せてもらおうと思ってたんです」
「そない興味ある?」
「ありますよ!全部見たい。映像もあれば」
「あるがなあるがな。でも、それは次回にとっておこ。今日は小学校まで」
「楽しみができました」
「そう言ってくれる人がいて、親としては嬉しい限り」そう父は息子へ向けて言い、アルバムの表紙を開いた。途端に泉から「かわいい!!」と大声が発せられ、音川親子は驚いて仰け反る。そこにはぷりぷりとマシュマロのような手足を四方に伸ばし鮮やかなグリーンの大きな瞳を煌めかせた、まさに玉のような赤子が写っている。
「……あ、やっぱり蒙古斑が薄いんですね」
「泉君は着眼点が変わってるな。クバもお姉ちゃんもほとんどなかったけど、姉の子には出てたな。モンゴリアンスポットなんて言葉、その時に初めて知ったよ」
「僕の写真には蒙古斑がすごく濃く写っていて。だから赤ちゃんを見るとまずそこに目がいっちゃう」
意外にも、「へぇ」と音川が片眉を上げて反応した。まだBarコーナーでちびちびとラムを舐めていて、父と泉のアルバム鑑賞会には照れくさくて入れていないのだが。
「まだあんの?」
「あるわけないじゃないですか」
「クバ君、そういうことはボクが居なくなってから確認させてもらいなさい」
しまった、と言わんばかりの顔をして眉間にシワを寄せている息子を見て父が微笑み、さらのその様子を伺っていた泉が満面の笑みを向けた。
「時々こうなるんです。会社では本当にしっかりしていて失言なんてまずしないのに、何故か不意に、僕には言わないほうが良いことを言っちゃうみたいで。今のなんて僕が女性社員だったらセクハラ発言だと捉えられ兼ねないでしょう。びっくりする」
「泉君には?」
「僕が知る限りは」
「待て。今は休暇中でここは俺の実家であって、オフィスじゃない。泉は部下として来ているの?そうなら態度を改めますが」
泉が反論しようと口を開きかけると、音川の父がスッと立ち上がって「そろそろ寝るわ。明日、早起きしてみんなでモーニング行こ。ほなおやすみ」と言い残して、息子たちの返事も聞かずにリビングを後にした。
「逃げられた」と口を尖らせたのは泉だった。「せっかく味方が付いたと思ったのに」
「失言は謝る。だめだな、ここへ来ると気が緩む。ガサツでみっともなくて、何もできない人間になる」
「実家でそうなれるのは素敵なことだと思いますよ」
「まあ、そうかもな。俺は部屋へ戻るよ。これ以上飲むと、さらに失態を晒しそうだから」
僕も、と泉は小さく返事をしておいて、ついと顔を上げた。
「音川さん。失態なんて言わないでください。僕は素の音川さんが良いんです。だから……できれば、いつも、周りに誰がいても、僕には本音で接して貰えますか?」
「ん?ああ、まあ、泉がそう言うのなら……うん。そうだね。約束する」
連れ立って客間に戻り、音川は引き戸をスッと開けて固まった。
布団が2組、ぴったりとくっつけて延べられている。
「ヘンリエッタめ……」
何事かと、泉は音川の大きな体躯を押し除けるようにして前に出て一歩踏み入れた。
「こ、これは……。少し、離した方がいいですよね……?」
絨毯敷きの床に膝をつき振り向いて見上げてくる姿に、音川は一瞬眩暈を感じて片手で目を覆った。
浴衣の襟から覗く朱に染まった首から鎖骨にかけての美しさ。
それがどれほど音川を煽っているのか本人は微塵も知らないのだろう。泉を強引に引き寄せて首筋を吸い、今すぐ布団に組み敷いてしまいたい欲を捩じ伏せる。
「任せるよ」
「あ、ずるい」
ハァ、と大きくため息を吐いて、音川は布団を通り越し、縁側にあるラタンのチェアにどっかりと腰を下ろした。
「来いよ。そんなのはどうでもいいから」
突っ立ったままの泉に向け、縁側に座れと促す。
不満げな顔のまま素直に従い、チェアにおいてあったクッションを敷いて、縁側の縁に腰掛け、片膝を立てる。その仕草は泉にしては珍しい男らしさで、音川を少しどきりとさせる。
「俺は、この庭がとても好きでね。毎年2回は帰省するかな。夏と冬」
音川は静かに目を閉じて大気を深く吸い込んだ。
秋夜の湿度が体内に浸透し、次第に自分の肉体と大気との境目が曖昧になってくる。
直ぐ傍らにいる泉の存在感が、さらに静けさを冗長させ、ぐいぐいと髪の毛や皮膚が、木々に誘われてそちらへと吸収されていくようだ。その感覚に身を飲まれるままにし、この庭と一つになっていく。
しばらくそうしていると、頭の中に透明な緑のそよ風が吹き込んだ。
思考がみるみるクリアになり、神経が研ぎ澄まされる。
「泉」
音川は静かに名を呼んだ。
泉が小首を傾げて見上げてくる。
「きみが好きだよ」
「音川さん……」
怒涛の如く愛おしさが押し寄せ、音川は泉の身体を強く抱きしめた。
「これからどんな努力だってする。だから、生涯、きみのそばに居させてくれないか」
泉の瞳が輝きであふれる。
音川はそのダイヤモンドの雫をそっと唇で吸い取り、「キスしてもいい?」と耳元に囁いた。
「許可なんていらない」と首筋や耳を赤くしながら頷く泉にさらに愛しさを覚え、髪の毛に手を差し込み強く引き寄せた。
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