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第40話 これから
それは、泉の出向が正式に終了した日だった。
東京から音川の元へ『帰宅』した泉は、音川同様に取りそこねていた夏季休暇を申請し、その期間に引越しを計画した。ついでに数ヶ月も不在にしていた実家に戻り、幾日かを親孝行に費やすことにした。
音川はそんな泉に実家まで送ると申し出ておいて、まるでついでのように1通の封筒を差し出した。
そこに「退職願」と書かれているのを見て、泉は青ざめた。
「……どうして……」
「理由は、個人的事情による退職。俺は、上司であり、管理職であり、君より年上だ。道理は明白だろう?君には、事後報告のほうがよかったかもしれないが……こういうことは、けじめとして、きちんと伝えるべきだと思った」
音川の声は至極冷静で、当然のことのように述べる。
反対に泉は震えそうになるのを押し殺しながら、両の拳を握りしめた。
「でも、交際が社内規定に反するわけじゃない。上層部に言われたんですか? 」
「いや。誰にも咎められていない。俺の倫理の問題だ。――俺は君の才能に惚れ込み、次のリーダーとして名指しした。その決断に私情は一切無いと言い切れる。しかし、恋愛関係にあることが知れれば、職務上の優遇や贔屓があったのではと誤解されてしまうかもしれない。そうなれば、きみの努力や才能が歪めて見られる。それだけはどうしても避けたいんだ」
「そうやって、全部自分だけで決めて、自分だけ傷ついて、何でも一人で完結させようとするの、やめてくださいよ……」
音川は伏せていた目を見開いた。思わぬ反発だった。自分が去ることは、どう考えても理にかなっているはずだ。
泉の瞳は堅い意思を宿し、音川を静かに見つめていた。
「僕たちが付き合ってることは、たしかに簡単なことじゃない。でも、だからってどちらかが犠牲になるのが当然なんて、おかしいです。――馬鹿げている」
「……犠牲、というつもりはなかった。ただ……きみを守りたい。それだけだ」
「守るなら、一緒に残ってください。変えましょうよ、こんな『どちらかがいなくなるしかない』みたいな環境。僕は、そんなの間違ってると思う」
「泉は、強いな……」
「音川さんが、いつも誰より先に傷ついて、自分の心を差し出してしまうだけです。僕はね、音川さんにさえ認めて貰えれば、他はどうだっていいんです。いい加減分かってください」
音川は目を細め、ゆっくりと息を吐いた。
「……俺が残ることが、君の足を引っ張ることにならないなら……一緒にやってみようか」
泉は笑みを浮かべながら、音川の手を力強く握りしめた。
「そもそも、みんな在宅勤務なんだから、誰も気にしませんよ。万が一何かあったら、その時に考えればいい」
泉の心構えに、音川は自分の心がふいに軽くなるのを感じた。
「確かに、な……。手始めに、高屋さんたちには言っておくか……」
「人事部長に言っておくのも手だと思います。ねえ、音川さんがくれた『生涯僕の傍にいる』っていう言葉があれば、僕は何だってできる気がする。どこでだって、あなたとなら幸せになるだろうな」
素直な言葉にあてられ、音川は低く唸り声をあげた。
愛しさに駆られて泉を引き寄せ、強く抱きしめる。
「早く帰っておいで」
泉はこくりと頷いて、「家族に話して来ますね」と囁いた。
「ああ、迎えに行くよ。その時に……きちんと挨拶をさせてくれ」
音川は泉の髪に鼻先をうずめて、その柔らかさを存分に楽しんでから身体を離し、愛車のキーを手に取った。
◆ ◆ ◆
泉の休暇が明けてからほどなくして、人事により泉の配属が正式に公表された。
当人と音川は出社し人事部長と会議室で対面していたが、社員の大半は在宅勤務のため、公表はオンラインで執り行われた。
当初、異例の抜擢にざわつくことが想定されていたが、蓋を開けてみれば満場一致で、エンジニア達は賛同の意を表してくれていた。
すでにインドの件で泉の実力は評価されており、カメラ越しに納得の配属に頷いたり、またはイイネやハートの絵文字をチャットに投げたりと、全体的に温かな歓迎ムードであった。
それは、音川という技術責任者が後輩に与えてきた信頼が大きい証でもある。
また、隣に並ぶ泉の瞳は異動当初よりも更に知性に輝き、厳しい環境を乗り越えた者だけが得られる、ある種のオーラとなってまとわりついている。
誰もが、音川による人選に感心と同意を表した。
オンラインによる発表が終わった後、音川たちは、人事部長と会議室に残り、子会社のデザイン部の管理を、本社で行うことを提案した。
デザイン部は阿部を統括に据える大掛かりな組織再形成だ。
開発を請け負う子会社に力がありすぎる——奔放すぎる——のはある意味自由でよかったが、それは先頭で音川のような誠実な堅物が舵取りをすることで正しい方向へ進む。
お山の大将が好き勝手できてしまえば、保木の例にあるように、良いことは一つもないだろう。
なによりも、元デザイン部だった泉が開発部に異動し技術責任補佐となったことで、2つの部署に明瞭な橋が掛かったことが大きい。
今以上に想像力を持ってお互いの品質と納期を尊重し、それが顧客への付加価値となれば理想的だ。
音川はこれから泉が作り上げていくアプリケーションの未来を想像すると、期待に武者震いしそうだった。
固い話を終えた音川は、解放された気持ちで窓辺に視線をやった。未来の明るさを予告するかのように、会議室のブラインドから秋の日差しが差し込む。
「このフロアの会議室も、2部署間で自由に使えるように改変しよう。大会議室はゲーム機や快適なソファを置いてリビングルームのように。小会議室は2名程度の共同作業ができるミニオフィスとして解放すれば、気分転換に出社してくる連中が増えるかもな」
音川は席を立ち、いかにも会議室然としたベージュのブラインドをサッと上げた。突然パァッと明るくなった室内で、部長は少しまぶしげだ。
そしてその光は、音川の左手の薬指で屈折し、そこにあるプラチナの指輪をきらりと輝かせる。
もしその場にアクセサリーに詳しい人物がいたなら、デスクの上に何気なく置かれている泉の手に光るものと、ペアリングであることを見抜いただろう。
話は、大阪へと戻る。
音川は泉と気持ちを確認し合えたことを、人生で一番の喜びだと言った。大げさだと泉には窘められたが、俯いていても照れた様子は隠せていなかった。
梅田で電車を乗り換える前に立ち寄ったホテルのティールームで、音川は「子供の頃から何も変わっていない」と満足そうにショートケーキを2つも食べた後、「そうだ、頼みがある」と泉を近くの百貨店へいざなった。
宝飾品やブティックの並ぶフロアでエレベータを降りたため、「時計ですか?」と尋ねると、「まあそんなようなもの。案内板によればこのフロアだったんだが」と人気のまばらな通路をブラブラ歩き始める。すでに買うものが決まっているようだ。
「あった」
時計がディスプレイされているショウケースに向かうとばかり思っていたが、音川は店舗に入るやいなや向かってきた店員に向けて微笑み、「シンプルなリングを、自分用に」と言うから泉は耳を疑った。
「自分用って?」
「言葉の通り。きみが選んでくれる?」
「それなら、僕にも選んでください」
知恵の輪みたいな道具を取り出して「サイズをお測りしますね」と音川の手を取っていた店員が、「差し出がましいかもしれませんが、最近はペアリングとしてお買い求めに来られる方も多くて」と泉に視線を向けた。
「そうしましょうよ。僕のサイズも測ってもらえますか?」
泉は手をショウケースの上に置くと、右手の人差し指で左手の薬指を指さした。
「自分だけなんてずるいですよ」
「いいの?じゃあ、お言葉に甘えて。そうしたら……どちらもプラチナで、今日受け取れるものを」
終始にこやかに接客してくれた女性は、泉の感覚では信じられないほどに喋った。店を出た後で音川が、「よー喋る店員やったな」と大阪弁に戻ったほどだ。
「女性からすれば、彼氏のいる男性に惚れることほど無駄なことはないですから、ぜひ指輪はしといてくださいね」と熱弁する様子に泉が微笑むと、「冗談ちゃいますよ」とまあまあ真剣な眼差しを向けられて身が引き締まった。大阪人は本気と冗談の区別が難しい。
「早速、つけてもいいですか?」
泉は座席に座るやいなやテーブルを下げ、そこに小さな紙袋を置いた。
全く同じ紙袋だったが、音川の箱には緑色が、泉の方には白いリボンがそれぞれかけられており、混同しないよう配慮がなされていた。店員がわざわざ名指ししながら手渡したものだから間違いようは無いが。
「もちろん。俺もそうする」
律儀にリボンの結び目を解こうとする泉の隣で、音川は海外の子供がプレゼントを開けるかのように力付くで包装紙やリボンを剥ぎ取り、おもむろ開けたところで、「あれ?」と手を止める。
「どうしました?」
「いや……」
器用にリボンを解き終わった泉も、カパリと蓋を開けて「あれ?」と手を止める。
「逆、ですね?」
「だよな……ああ、そうか……しかし新幹線の中とは彼女も思わなかったのかもな」
ボソボソと独り呟く音川に顔を向けて、泉が小首をかしげる。
「ええと、こんなところでなんですが」
音川はケースから輝く指輪をつまみ上げ、「本当にこの指でいいのかな」とまた確認しながら、泉の左手の薬指にそっと嵌めた。すっと伸びた細い指に、瀟洒な輝きがとても良く似合っている。
「これからも、よろしく」
「あ……嬉しい、です。じゃあ、僕も」と泉は迷いなく、「トレーニング中に抜けないよう気をつけてくださいね」と耳まで真っ赤に染めて早口気味で音川の左手の薬指に押し込むように嵌めた。
「好きです、ずっと前から」
そうして二人はしばらく各々の眼の前に手をかざして、新たな存在を見つめた。
「音川さんと指輪ってあまり結びつかなかったけど、とてもよく似合いますね」
「きみもね。でも、あまり束縛するようなことはしたくないんだが」
「束縛とは?」
「リング、ネックレス、ブレスレット、アンクレット……全て『輪』だろう。これは『枷』なんだ。とくに指輪は、ゼウスがプロメテウスに与えた罰が起源だと言う。立場が上の者が下の者へ忠誠を強制するための印だ。だから俺は、結婚指輪なんておぞましい習慣だと思うね。婚約指輪の方がえげつないか……とは言え、同じような枷であるにも関わらず、俺はすでに……自分の腕時計をつけさせてしまっているんだけどね」
「あ……これ、もしかしてそういう……?」
「……まあ、そう受け取って貰ってもいい。父から譲り受けたものだ」
泉は当初冗談のつもりで言ったが、音川の真面目な返答に一瞬言葉を失い、喉仏を上下させた。
「……嬉しすぎて、なんて言えば……」
「つけててよ、気が済むまで」
「もちろんです!一生手放しません。大切にします」
泉は右手の手のひらで、 吸い付くように左手首にまとわりついているその腕時計をそっと撫でた。
「でも、どうしてそんなに嫌う指輪を……?」
「ああ、それは……まず、俺の年齢で未婚は面倒事が多い。今どき『ご結婚は?』なんて会話は社会人として避けられるから、左手の薬指に指輪があれば勝手に解釈されて都合がいいだろうなと常々思っていたんだ。特に俺なんて、よほど無責任に遊んでいると思われがちだしね。それに客先で偉そうな発言をしてしまっても『あの人、ああ見えて家に帰ればは愛してくれる人がいるんだな、存外まともな人かもしれない』と思って貰える。でも家に誰もいないのに——愛猫はいるが、薬指用のリングを買うなんて虚しすぎるだろ」
「なるほど。フェイク結婚指輪のようなものですか」
「まともじゃないやつらが結婚して指輪なんてするんだと思っていたけどね」
「相変わらずですね。通りで結婚できなかったわけだ。——僕は、この指輪が目に入るたびに昨日のことを思い出せるから、外さずにいようと思っています。束縛とか全く感じません」
「そう思ってもらえて嬉しいよ。実は、俺も同じなんだ。指輪は契約ではなく幸せの象徴でもあるんだな。少しずつ、世の恋愛というものを理解し始めていると思う」
音川は泉の手をそっと握ると口元によせて、自分が選んだプラチナの指輪が華麗に輝く指に軽く口付けた。
「やっぱり。さっきの説明は、建前でしょう?」
「……まあね。きみに生涯を捧げると決めた土地で、きみの好みに合うものを選んで貰えたらと……恋人である印として」
「ねえ音川さん、いつか……僕からも贈りたい。本当の薬指用のを……」
泉は、ひとけの無いグリーン車で、隣に座る恋人の肩口に額を当てた。甘い花のような匂いで深呼吸をする。
「ん。きみさえ良ければお互いに贈り合おうか。で、イーサンに見せびらかしに行こうぜ」
にんまりと笑ってみせる恋人に、泉は照れてつい軽口を返す。
「音川さんがそういうことするタイプだとは思いませんでした」
「そう?じゃあ覚悟しといて。俺にも所有欲くらいありますよ」
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