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第43話 エピローグ

音川の仕事部屋にコーヒーを持って行った泉は、パソコンに向かう恋人の口元に笑みが浮かんでいるのを見て、(よほど仕事が楽しくて仕方がないんだな)と理解したが、それは思い違いだった。 確かに最近の音川は泉が入手した暗号データの解読に取り憑かれていたが、それはこれが、長年苦しめられてきた自アプリの不正改ざんについてのヒントがそこにあるからだけではない。 この、自分に明るい未来を与えてくれるであろうデータは、泉が身を挺して手に入れたものだからだ。 彼が、右も左も分からない環境で独り、どれほど苦心していたか……どれほど勇気のいることだったか、想像に難くない。 すべて、音川の過去の傷を慮ったためだ。 その——とっくに愛されていたのだという事実が、音川の胸を焦がす。 ゆえに、暗号化解読中の音川には常に微笑が浮かんでいた。 実際、解読作業が楽しいのは間違いない。しかし、さすがにニンマリと笑いながらでは、まるで映画に出てくるハッカーだ。 泉は恋人の集中力の妨げにならぬよう、持ってきたコーヒーは自分で飲むことにして、ソファにどかりと座り出窓にカップを置いた。こうなっている時の音川の集中力は凄まじく、声をかければ返事は帰ってくるが空返事で、後で確認しても会話の内容は何も覚えていないことが多い。 泉自身にも思い当たる節があり、お互い様だから気にもならない。集中している場面であっても存在が邪魔にならない——むしろ、居てくれる方が心地が良いのは、特別なものだと泉は感じていた。 これが音川以外の人間であったなら、例え無言でその場に居るだけでも気が散ってしまうだろう。 コーヒーを一口のみ、ほろ苦さに若干眉をひそめながら本棚に詰められている背表紙を眺める。どれを読もうかと選別してみるものの、結局はいつものように、ひときわ擦り切れた一冊を手に取る。 The code bookと題されたそれは音川が小学校に上がると同時に祖父から贈られたものらしく、裏表紙には著者のサインが入っていた。 初めて見た時、「こんなものを7歳から読んでたんですか」と驚きに目を見開いて音川に尋ねると、「このせいで俺は暗号世界の住人になったんだ」と自嘲気味に笑う。 泉がたまらなく好きな、少しの自虐と、照れが混ざった笑顔。 あれから—— 音川は最高技術責任者として社に残ったが、大半の業務は泉が引き継いだ。重責を半分以上下ろせたことは、個人だけでなく社にとっても非常に大きな前進となった。 音川主導で、セキュリティコンサルティングの新事業が始動したのだ。 ようやく音川はホワイトハッカーとしての能力に特化した役割に没頭でき、かつこれまで片手間でしかできなかった副業のAI開発に割く時間が増え、さらに改ざんされた自分の暗号化プロトコルの謎について調査を進めることができる。 副業とはいえ、技術面では社に大いに還元できるため、音川の不在を窘める風潮はない。社内からはむしろ「なにか面白いネタないですか」とせっつかれるほどだ。 私生活においては、実質的なことは何も変わりがないが—— 二人の距離と関係性に基づき、空気感が確実に『同居から同棲へ』と変貌した。 それは家主である音川において、特に顕著だった。 ある日の内部会議の雑談中—— 既婚者たちが家事について面倒だの難しいだの雑談に花を咲かせている最中、ふいに音川が、「うちは、食事以外は俺の担当だ」とさらりと言ったのだ。 完全に仕事部屋となった元客間で、同会議に参加していた泉は一瞬固まったが、その『うちは』という表現は、音川がこの暮らしを家族のものとして認識している証拠に違いなく、泉に猛烈な幸福感を与えた。 調理担当はそのまま泉だが、フルタイムの忙しさでは決まった時間に食事の用意ができるとは限らない。音川の提案で、作りたい時だけ作ればよいとなったが、音川が毎回感謝と絶賛をするものだから、泉もできる限り自炊を目指している。 そして、これは寝室で素肌を合わせるようになってから気がついたのだが——外食が減って以来、徐々にではあるが、音川の身体が大きくなり始めているのだ。 泉が音川に惹かれた要素に、筋肉質な身体も含まれていたらしい。食事でどのように音川の筋肉が育って行くのかを、当人に内緒で観察するのを楽しんでいた。 これまで衣服を着た状態でしか知らなかった身体を、今は隅々まで観察することが許されている立場として、時にスケッチをしながら。 男らしい身体のライン、筋肉の盛り上がりが作る陰影は、泉が描く度に美しく洗練されてゆく。 その身体は泉を抱く時、背から妖艶なオーラを揺らめかせ——泉を包み込み、終わりのない快楽を—— 「あ、そうだ」 突然発せられた言葉に、泉は思わずパタリと本を閉じてしまった。 つい情事の思い出に惹き込まれ、それがバレてしまったのかと焦る。 「B社からのメール読んだ?」 音川はモニターから目をそらさずに言ったが、泉の存在に気がついていたらしい。 B社からの連絡は会社の人事宛てだったが、泉にも転送されていた。 そして別途、イーサンから個人的な連絡もあった。 「読みました」 「どう?」 メールには、最終決断として泉をヘッドハンティングしたい旨が記載されていた。 「知ってるくせに」 「確信は無い」 ソファから立ち上がって音川の背後に立ち、両肩に手をそっと置く。 「音川さんの元で働くことより良い条件の職場なんて、この世にありません」 「言うねえ」 「それに、性格的に僕には向いていないと思います。あんな厳しい環境は……足の引っ張り合いでしかないように思えて」 「まあ、元B社の高屋さんもそれは否定しないだろうな」 「あと。イーサンから、僕個人に連絡が来ていました」 音川はチェアを軽く軋ませて180度回転させた。向き合った顔は怪訝さに片眉を上げている。 「聞いてねぇぞ」 「ついさっきですよ。その話をしに来たんです」 「まだ絡んで来てんのか。大概しつこい男だな」 「僕がB社からのオファーを断るだろうと分かった上で、サヨナラのメールでした」 「にわかには信じがたいが……」 「端的に言うと、イーサンはかなり出世するそうです。あのマスキングされたデータ……今音川さんが解読しようとしているものですね、相当B社としてはデリケートなモノらしく。流出したことすら認められないんです。イーサンはそれをツールとして、誰かの足を引っ張ったんでしょう」 「なるほど。脅しも実力の内、か」 「東京からシンガポールへ異動となるんですって。その後は本社に帰るだろうと。良ければメール、転送しますよ」 「いらんいらん」音川は急いだ様子で頭を振った。どんなに親密な仲であっても個人宛のメールなど触りたくもない、と言わんばかりだ。 「いつでも遊びに来いと書いてありましたよ。グリーン・アイズの恋人と一緒に、って」 その言葉に、喉の奥だけで相槌を打った音川の表情は途端に和らいだ。 向かいに座る泉を包み込むようにして引き寄せ、自然と、膝の上に乗せる。 「そうだな。その頃には……」 わずかに下方から、透明に輝く緑色の瞳が泉を射抜く。 「この国がどうにもならなかったら、ドイツにでも行って結婚しよう。NYでもいい。どこであれ、ヤツを招待してやる」 「高屋さんたちも」 「当然必須参加者だな。……愛してるよ、泉」 「……僕も、愛してる」 二人は満面の笑みを浮かべ、まるで誓いの口付けのようにそっと互いの唇を合わせた。 その真下では、マックスが前足を左右交代に踏み、ゴロゴロと喉を鳴らしている。 「パパたちの上においで」 唇を離した二人が上体をわずかに離すやいなや、マックスがその隙間に飛び込んですっぽりと収まった。

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