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最終話

 三ヶ月後に手術する日が決まった。  その日まで慌ただしく時計の針は進んでいき、新は551のボーカルを辞め、介護についてのノウハウをインプットした。  一日中、直澄の傍を離れず誠心誠意を尽くした。けれど新の行為は虚しく、直澄の記憶は一日ごとに失われていく。  新しい記憶から順々に消えていき、その辛さに耐えた。  直澄が眠った夜、唐突に泣きたくなることが増え、感情なんてなければこんな辛い思いしなくて済むのに、と何度も思った。  でもそのたびに直澄を思い出し、涙を拭いた。  辛くても幸せだと言った。  たった一本線が入るだけで、意味が一八〇度変わる漢字もそうないだろう。  その一本が「好き」の気持ちで変わることを知った。  手術当日。  ストレッチャーに乗せられた直澄の笑顔は弱々しかった。自分がなにをされるのか、きちん理解できていないようだった。  「新さんは来ないの?」  「俺はここで待ってるよ」  直澄は柔和な笑みを浮かべた。もう新のこともわからなくなり、介護用のヒューマロイドとして扱われた。  それでもいい。  傍にいられるなら。  最後に直澄の手を強く握った。  「いってらっしゃい」  「いってきます」  ストレッチャーに乗せられ、直澄は手術室へと入っていった。再び扉が開くまで、新は何度も何度も祈りを捧げた。  槇から手術前に直澄の脳についての説明を受けていた。穴だらけの記憶が戻る可能性は低い。  でも記憶がなくなるのを止められる。  人格が変わってしまうかもしれない。  それでもいい?と訊かれ、当たり前だと頷いた。  どんなことがっても直澄の傍にいると決めたから。今更何を言われても揺るがない。  春の麗らかな陽光を受け、直澄は嬉しそうに笑った。  「暖かくなりましたね」  「そうだな。ずっと寒かったもんな」  ようやく頭の包帯が取れ、直澄は病院内なら自由に行動することを許された。  直澄は中庭で寝転ぶことが日課になり、新の膝に頭を乗せて、突き抜けるような青空と太陽を全身に受けている。  手術が成功しても直澄の記憶は戻らなかった。  虫食いのままの記憶は現状を維持し、頑なに穴を埋めようとしてくれない。  一度心を通わせたいまとなっては少し寂しい。  でも直澄と穏やかな時間を一緒に過ごせるようになった。それだけで充分だと自分を慰めることにも慣れてきた。  「これだけ天気がいいと眠くなります」  「じゃあ寝なよ」  「ではお言葉に甘えて」  ふっと笑ったあと、直澄は目を閉じた。  指通りのよい髪を撫でていると新さん、と呼ばれた。  「子守歌うたってください」  「子供みたいなこと言うな」  「あなたの歌が聴きたくなったんです。ダメですか?」  「ヒューマロイドに拒否権はないよ」  新は直澄のために歌った。どんなことがあっても歌って欲しいと言った直澄のために。心を込めて子守歌をうたう。  歌い終わると直澄は新を見上げていた。  「新さんの歌を初めて聴いたはずなのに、懐かしい気がします。前にも歌ってくれたことはありますか?」  「あるよ。たくさん歌った」  「思い出せないのが残念です。喉まで出かかっているんですが」  直澄は悔しそうに渋面を浮かべた。完全に忘れ去られるより、わずかな残り香を懐かしいと言われる方がいい。  直澄の中に新の存在があると思える。  「あ、直澄。ここ怪我してるじゃん」  「本当ですね。気が付きませんでした」  「たっく。鈍くさいな」  新は小言を吐きながらもポケットから絆創膏を取り出した。ヒューマロイドはもしものことに備えて、様々なものを常備するように命令されている。  「絆創膏貼ってやるから腕出しな」  「ありがとうございます」  新が絆創膏を貼ってやる姿を直澄はじっと観察している。  「これでよし。帰ったらちゃんと消毒しような……直澄?」  直澄の大きな瞳がじっと一点に注がれている。腕に貼った絆創膏。何の変哲もない肌色の絆創膏がそんなに珍しいのか。  もしかしてけっこう痛むのかな。なら早く部屋に戻った方がいい。  主人の体調管理の義務を仰せつかってもヒューマロイドは万能ではない。  やはり最後は人の手に委ねられる。  けれど、直澄の様子は痛みに耐えているようではない。逡巡しているようにみえる。  「どうした?」  不安になって直澄の顔を覗く。直澄の髪が風に煽られふわりと浮いた。  露わになった額には手術後の傷跡があった。  「あのとき、おまえは嫉妬してくれたのか?」  「まさか」  「新」  「直澄……」  涙が込み上げてきて直澄の頬に落ちた。新の涙を指で拭ってくれる。直澄だ。直澄がいる。  嬉しくて涙はどんどん溢れてくる。  新は精一杯の笑顔を浮かべた。 「おかえり、直澄」

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