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scene 3. ストレンジャー・イン・パラダイス Ⅰ

 ホテルのコンシェルジュであるというサーラは何度か深呼吸をしてプロの貌に戻ると、重ね重ね大変失礼をいたしましたと謝罪して、ベルトにつけていた小さなトランシーバーでなにやら指示をした。そして次に、ずっと廊下で困ったように立ち尽くしていたポーターに既に降ろしていた荷物を再度運ぶようにと云い、まだ腰を落ち着けることのできていなかったルカたちに向き直った。 「では五階のエグゼクティヴ・スイートにご案内させていただきます。大変お待たせをいたしました」  今度は噛むこともなく、きりっと背筋を伸ばして云ったサーラに、何故かやっぱりおかしくて、テディはぷっと吹きだした。  部屋の準備や確認をする時間を稼ぐためか、サーラは途中、スパ・プールやレストラン、バーなど、ホテル内の案内を挟み、ゆっくりと五階へ向かった。  エントランスホールや廊下などは白を多用したすっきりと明るいインテリアだったが、自分たちを待つようにドアが開かれていたスイートルームは、ダークブラウンの家具やグレイッシュなトーンのカーテンやベッドスローなど、落ち着いた雰囲気だった。壁紙はゴールドがかったベージュのダマスク模様で、モスグリーンの絨毯や、黒地に控えめなパターン柄のベッドエンドスツールと揃いのソファセットなどが、廊下までとはまるで違うシックな空間を演出している。  壁に大きなTVが設えられている広いリビングと、両開きの扉で区切られたベッドルームのどちらからでも出られるバルコニーから外を眺め、「うん、いいね」とルカは満足そうに頷いてみせた。 「ありがとうございます。ご要望は二部屋ということでしたのでもう一部屋、こちらの右隣のお部屋をご用意いたしました。あいにくとそちらのほうはスイートではなく、ダブルのエグゼクティヴルームになっておりますが」 「それでいいよ」  やれやれと伸びをし、ルカはダウンコートを脱いで無雑作にベッドの上へ放った。 「では私はこれで失礼いたします、お寛ぎくださいませ」  と、部屋を出ようとするサーラにルカは「ああ、ちょっと待って」と声をかけた。 「忘れるところだったよ、これ、チップ。世話をかけたね」  先程までのスマートさはどこへやら、はっきりチップと口にし、指で札を挟み手を差しだすルカに、テディは小首を傾げた。サーラは「お心遣い感謝します」と云いながらそれを受けとり――なおもルカが手を引っこめないことに、少し途惑ったように顔をあげた。 「握手、しなくていい?」  ルカの言葉に、えっ、とサーラが顔を紅潮させた。 「え、あ、い……いいんですか!? あ、あ、あ、ありがとうございます! あ、あの私っ、実はっ、ジー・デヴィールの大ファンでっ――」 「へえ、そうなんだ? それはどうも」  素っ惚けながらルカはサーラと握手を交わし、「で、誰がいちばん好きなの?」と尋ねた。 「えっ、そ、そ、そんな誰がいちばんとか、そんなことは……! い、いちばんは音楽ですし、それにみみみみ、みんな好きですっ……! でっ、でもあの、最初にポスターで一目惚れしたのはてっ、てててテ……」  真っ赤になったサーラがまた噛み始める。くっくっと壁に手をついて笑いを堪らえるテディに、ルカは云った。 「おいテディ、笑ってないでこっち来い。おまえのファンだよ、ハグくらいしてあげたら」 「はっ! ぐぅっ……いえいえいえっ、そそそ、そんなっ、結構ですっ! わ、私そんなっ……こ、こうしてお会いできただけでっ……!」 「そう? じゃあ、いちおう握手だけ」  苦笑しつつもテディがすっと右手を差しだすと、サーラは真っ赤に染めた顔を見られまいとするかのように、少し俯いた。 「あ、あ、あのやっぱり……、は、ハグって、してもらっても……いいですか……?」  その消え入りそうな声を聞いて、テディは困ったようにルカを一瞬睨んだ。そしてしょうがないなと肩を竦めてサーラに近づき、背中に両手を回して軽いハグをする。腕のなかでサーラがひゃあぁ、と声にならない声を漏らした。  テディが離れると、サーラは湯気がたちそうなほど赤くなった顔を両手で覆った。ソファに腰掛け、ずっとその様子を見ながらにやにやと笑っていたユーリが立ちあがり、サーラの傍までやってくる。そして「よかったな」と静かに声をかけると――顔をあげたサーラが、ちょっと驚いた表情でユーリを見つめた。 「俺の使う部屋、右隣って云ったっけ?」  あっ、はい、ご案内します……と云ったサーラは、何故か噛みまくっているときよりもぎくしゃくと挙動不審に見えた。  サーラとユーリがスイートルームを出ていくのを見送って、ルカとテディはなんとなく顔を見合わせた。 「せっかく気を利かせてやったのに。女ってのはよくわからないな」 「んー、ユーリって、言葉をかけられたときの感じが見た目とかの印象と全然違って、そこでんだよね」  自然体でおとななところがかっこいいんだよ、と続けたテディに、ルカは「あっそう」と拗ねたように唇を尖らせてみせた。  風は冷たかったが、バルコニーから川沿いの道を眺めると観光客らしき人影が往き交うのが見えた。時刻はまだ三時前で、天候も良くいちばん気温の高い時間帯でもある。ルカは暫くそうやって外を眺めたあと部屋のなかに戻ると、ちょっと街を歩いてこようかと云った。  ソファで煙草を吹かしていたテディもすぐに賛成し、脱いでソファに掛けていたフーデッドコートにまた袖を通した。ルカはベッドに放ってあるダウンコートではなく、着替えたときに紙袋に入れたもともと着ていたジャケットを羽織り、ドレッサーの大きな鏡を見た。 「マフラーももう要らないかな……と思ったけど、要るか。髪とか顔隠すのに」 「大丈夫だと思うけどね」 「うん……、マフラーはして、ニット帽だけやめよう。それなら変じゃないだろ?」  シベリアに行くのかと云われたのを、実はけっこう気にしていたらしい。トレードマークのようになっている、綺麗にうねるソフトブラウンの長い髪をひとつに束ね、ルカはカシミアのマフラーを緩く巻きサングラスをかけた。  フロントにルームキーを預け、来るときに通った道をゆっくり歩いていく。やはりそれほどの寒さは感じなかった。すると、まだ二分も歩かないうちにユーリが「おい、コロナーダならそこだぞ」と、分岐する左の小径を指さした。 「え、もう?」 「へえ、こんなに近かったのか」 「小さな街だからな。この先と、もう少し行ったところにも温泉が飲めるところがある。あと、この道をぐるっと曲がった先の建物んなかにはな、間欠泉があるんだ。噴きあがってるのを見られるぞ」 「建物のなかに間欠泉?」  なんだか興味も沸いたので、とりあえずまずその間欠泉があるという、ヴジーデルニー・コロナーダ( Vřídelní kolonáda )へ行ってみることにする。レストランやブティックの並ぶ坂道をひたすら下り、大きな聖三位一体柱を見上げながら通り過ぎると、テディがきょろきょろしながら呟いた。 「なんだか高そうな店が多いね、宝飾店とか」 「湯治に来た年寄りが買うんだろ」  先程ユーリが云ったとおりに左へカーブした道を進むといきなり視界が開け、川を挟んでずらりと並ぶカラフルな建物と、その背後に山のシルエットが見えた。ずっと向こうのほうまで続いている石畳の舗道にはたくさんの商店が面していて、なにやら屋台のような露店も出ている。 「ねえ、なんか売ってるよ」  テディが足を止め、露店を指してユーリに声をかけた。 「うん? 間欠泉はこっちだぞ……ああ、なんだ。スパ・ワッフル(Lázeňská oplatka)だよ」 「ワッフル?」 「今おまえが思ってるようなワッフルじゃないぞ? 温泉水で練った生地を薄く焼いた、ぱりっとしたウェハースみたいなやつで、中にクリームを挟んであるんだ」 「へえ美味しそう。買おうよ」 「おい――」  そう云って子供のように駆けだすテディに、ユーリは「あっちにも売ってるのに」と呟きながら苦笑し、ルカはしょうがないなあ、と頭を掻いた。 「あいつ、あんなに甘党でよく肥らないよな」 「ロニーが目ぇ吊りあげて羨ましがる体質だな。しかし、相変わらず唐突に動くな。あの癖はもうなおらんか」 「……まあ、黙って消えたりしなくなっただけ、昔よりましかな」 「……そうか。そうだな」  嬉しそうな顔で大きなスパ・ワッフルを手にテディが戻ってくると、三人はヴジーデルニー・コロナーダへ向かった。

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